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    エペソ人への手紙3章1〜14節


    こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。・・・こういうわけで、私はひざをかがめて、

    95.09.24. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    獄中のパウロ

     

    我々は聖書を文脈をしっかりとおさえた上で読むよう学ばなければならない。それは、聖書が自己解釈的書物であるためだ。モーセの後の聖書記者たちはみな、それ以前に書かれた箇所を引用したり、言及したり、ほのめかしたりする。ある聖書箇所を別な聖書箇所と比べることによって、我々はその意味を理解することができる。そういう意味では、聖書を理解するということは難しいことではない。特に言葉の検索ができるコンピュータ・プログラムの時代においてはそうである。しかし、確かにほのめかしは微妙なものとなり得るし、我々はまた聖書に慣れてしまって、持つべき疑問を持ち損ねることがしばしばである。獄中のパウロは、そのちょうどよい例であろう。なぜ新約聖書――パウロの書簡だけでなく、使徒行伝すら――は、パウロが捕まり、裁判を受け、投獄されたことについてそれほど多くを語っているのだろうか。なぜパウロはエペソ人たちに自らの投獄によって落胆せぬよう書いているのだろうか(3:13)。

    獄中で

    パウロの投獄の歴史的背景は、第二の問いに答えてくれる。使徒行伝21章で、パウロはエルサレムを訪れるが、それが誤解と憎悪を招き、彼を投獄に至らしめる。モーセの律法の反対者というユダヤ人の間にあったパウロの評判のゆえに、パウロが幾人かの同胞ユダヤ人キリスト者とともにきよめを行なうことが賢明であると考えられた(21:23-24, 26)。ユダヤ人の間で甚だしかったパウロの教えの取り違えに対し、このようにして彼の行ないによってその誤りを示す、というものであった。ところが、その計画は逆効果を及ばしてしまう。エペソが位置するアジア地方から来たユダヤ人がエルサレムに来て、人々の間に騒ぎを起こしたのだ。彼らが言うことには、パウロは公然としかも激しく神聖な事柄のすべて――1) イスラエルの民、2) モーセの律法、そして3) 神殿――に逆らったというのである(21:28)。そのうえ、彼らはパウロが、同伴していたエペソ人トロピモという異邦人を連れて神殿に入ったのを見たと主張した。ユダヤ人たちはこのパウロに対する告発を信じ、騒ぎを起こし、パウロを殺そうとする。このことが複雑な過程を経て、パウロの投獄につながったのである(使徒21:31以降)。

    こうして、エペソ人たちはパウロの投獄に特別な個人的関心を抱いていた。彼らはある程度責任を感じていたのである。しかし、パウロは自らの状況に神の特別な働きがあることを見た。投獄のおかげで、福音が地のみならず天にある支配と権威に対しても宣言されることとなったからである。パウロはエペソ人たちに、自分の患難のゆえに落胆せぬよう励ました。これらの患難は、実は彼らの栄光のためであったためだ。

    ひざをかがめて

    「神がこの状況の中で働いておられる」ということと「これはあなたがたの光栄である」ということとの間には論理的なギャップがあるように見えるかも知れないが、よく考えればその問題は消え失せてしまう。我々がキリストの似姿に変えられるため、特別な試練が我々の人生に作用するよう神がご計画されたことを覚えるなら、それらの試練が我々自身の光栄のためにも働くこともまたわかる。しかし、パウロが語っているのは、これに優ることなのだ。パウロは神が自分の人生の中で働き給うことを、神がヨセフやダニエルのうちに働かれたことと同じものとして見ているのである。パウロは、教会にとって慰め、励ましとなるべく、昔のイスラエルの歴史と彼の時代の教会とが類似していることを見るのである。

    パウロが14節で「ひざをかがめて」と言うとき、彼の時代の歴史と平行しているものとして旧約聖書を指しているのである。意外なことと思われるかも知れないが、これは聖書においてめったに使われていない表現だ。聖書の文学に深く精通したパウロのような人物は、今日の作家たちと同様、このような表現をよく注意した上で意図的に用いたに違いない。 (私はプロの作家フローレンス・キングが、ある著者に関して、彼女の知っている別な著作家から表現や言い回しを全く盗用していると訴えているのを読み、いささか驚いた。彼女の読む何百、何千という書物の中から、いかにしてだれの文章や言葉遣いだということが覚えられるのであろうか)。

    ユダヤの人々は通常立ったままで祈ったと言われるが、神はエリヤの時代の忠実な信者について、バアルにひざをかがめなかった者、と述べておられる(1列王19:18)。それはおそらく彼らが主にひざをかがめたということを意味する。イスラエルの礼拝において、ひざまづくという行為がいかに位置づけられていたにせよ、ソロモン王は神殿の献堂の時に全イスラエルの前でひざをかがめた(2歴代6:13; 1列王8:54)。神の御前でひざまづき、ソロモンはダニエルの希望となる有名な祈りをした。「また、もし、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したため、敵に打ち負かされるようなとき、立ち返って御名をほめたたえ、この宮で、御前に祈り願うなら、あなたご自身が天からこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らとその先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。・・・彼らがこの所に向かって祈り、・・・この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、・・・この宮に来て祈るとき、・・・捕われていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください」(24-25, 26, 29, 32, 38-39)。

    神殿に向かって祈る祈りは赦しと支配の回復を求める方法であった。ダニエルは、ソロモンの祈りを覚え、毎日三たび神の御前にひざまずいてバビロン捕囚の終結を求めて祈った(ダニ6:10; 参照:ダニ9章)。そしてダニエルの祈りは聞かれたのである。神はダニエルを獅子の穴から救い出し、イスラエルをバビロンから救い出した。ダニエルは、ヨセフのように、王位に着く前に試練や投獄に会う、或いは、新約聖書の言葉を用いれば、栄冠の前の十字架、という聖書の原則を示している。それで、イエスもゲッセマネの園でひざまずき、ダニエルのように、神の御旨に従って救い出されることを祈られたのである(ルカ22:41)。

    パウロが祈りの中でひざまずいたのは、自らのの投獄の重要性を自覚していることを反映したものだ。パウロは自分自身を (とは言っても自分一人だけをではないが)、新しい契約のヨセフ、ダビデ、或いはダニエルとして見ている。というよりも、旧約聖書の雛型を成就されたキリストの御跡に従うべき者として自分自身を見たのである。

    上に示した箇所に加え、もう一つ、ひざをかがめることにふれている旧約聖書の重要な箇所がある。パウロが二度引用し、おそらく念頭に置いていると思われる箇所だ。「私は自分にかけて誓った。私の口から出る言葉は正しく、取り消すことはできない。すべてのひざは私に向かってかがみ、すべての舌は誓[う]」(イザ45:23; 参照:ロマ14:11; ピリ2:10)。いつの日か、全世界がキリストの御前でひざをかがめることとなる。パウロは主の御前でひざをかがめて、キリストの主権を認め、自らの投獄が聖徒たちの支配に終わるよう祈るのである。

    支配と試練

    この同じ原則は今日の我々にも同様に適用される。十字架は栄冠に先行する。我々は試練を通して学ばねばならない。そうすることによって我々は支配のために訓練され得るのだ。もしもこの真理を知っているなら、落胆すべきではなく、試練のただ中でこの試練は神が特別に我々の人生のうちに働き給うことを知って喜ぶべきである。我々はポティファルの奴隷としてまず仕えなければエジプトを支配することはできないのだ。バビロンの捕囚の間によく学んだ者が王国を支配するに至るのである。19世紀後半より、教会は人間中心主義に捕囚にされている。教会はごく最近になってやっとこの状態の本質に気づき、救い出されることを祈り始めた。我々にはキリストの教会のために、神が指導者を賜い、教会を知的・霊的束縛から救い出し、それによって教会がキリストに栄光を帰することができるよう祈る義務がある。

    教会全体にとっての真理は、我々にとってもまた真理である。我々の未熟さは、我々が王座に座ることを妨げるものである。しかし、もし我々が自らを低くし、今学ぶことを求めるならば、将来神が救い出してくださることを我々は見るようになるのだ。 


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙3章6〜13節

    エペソ人への手紙3章15〜19節

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