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    エペソ人への手紙3章15〜19節


    天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

    95.10.01. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    パウロによるとりなしの祈り

     

    とりなしの祈りとは、自分以外のキリスト者のために祈るものである。それは、偉大な大祭司イエス・キリストの下で神に仕える祭司としての我々の責任の一端だ。それは我々に、神について、神の救いのご計画について、歴史上で自分たちが置かれている状況について、自分たちが祈ろうとしている人物について、考えよう要請するものである。また、とりなしの祈りとは、ある意味で自分自身の必要のために祈ることよりも困難であると言える。つまり、他の者に対する深い同情と理解を要するものであり、それは自然にわき出てくるようなものではないからだ。我々はみな、余りに多くの場合、自らの自己中心が、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことを困難にしている自分を見い出すのである。

    それに加え、我々は思考や瞑想、祈りなどがなおざりにされている謂わば行動の時代に生きている。知識は「実践的」であるかぎりは尊重されるが、そこには神について熟考したり、その御恵みのゆえに神を賛美したり、また御栄光が現されることを求めて祈る、などということの占める余地はない。我々は、こういった時代精神によってこそ少なからず影響を受けているが、神の御霊によっては十分な影響をいっこうに受けようとしないため、パウロの祈りを読む度に、その祈りが我々が普段ささげている祈りに比べ、どれほど深くまた純粋なものであるかということに心打たれるのである。

    全家族の名

    パウロはまず最初に、「御父」に向かってひざまずく、と述べている。伝統的ギリシャ語原典によれば、「私たちの主イエス・キリストの」がその前につく。つまり、15節は欽定訳のごとく「その主イエス・キリストから天上と地上の家族全体は名前を与えられている」と訳され、教会を指していると解釈されるべきだ、という意味になる。天と地の両方に存在している全教会、神の民の全家はイエス・キリストの御名によって名付けられている。この節から、パウロが明らかに地域教会と同様に「普遍的」あるいは「目に見えない」教会についても考えていることがわかるのである。神の民の全員が、彼らがどこにいようとも、キリストにあって一つの家族なのである。パウロは祈りを捧げるとき、その家族全体のことを考え、我々も同様にすべきことを教えているのである。

    御霊によって強められ、キリストが心のうちに住まわれる

    パウロがエペソ人のために(そして我々のために)捧げた祈りにおける第一の願いは、最初は直接的に、次に間接的に、二度にわたって表現されている。その願いとは、エペソ人たちが強められることであった。このギリシャ語の言葉は、新約聖書において4回しか使われていない。ルカ1章80節では、バプテスマのヨハネについてこの言葉が使われている。「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた」。ルカは後で、その同じ言葉をキリストについて用いている。「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった」(2:40)。パウロはこの言葉を別な状況について使っている。「目を覚していなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」(1コリ16:13)。この言葉の含みは明らかである。キリスト者はバプテスマのヨハネやキリストのように、霊的に強くなり、罪や悪によって簡単に影響されてしまうようなことはなく、自分の失敗について言い訳をすることなく、自己憐憫を感じたりしないことである。我々はこの世を勝ち取る戦いにおける軍なのだ。我々の「内なる人」は強くなければならない。

    パウロは神が「その栄光の豊かさに従い」我々に強さを賜わるよう祈る。神の栄光とは、神の属性を総括し、太陽よりも偉大な輝きをもって現れるものだ。パウロが祈っているのは、常に豊かに湧き出る泉のような栄光という不朽の富から我々が強められることである。このような富が与えられていながら貧しくなるなら我々は何の言い訳もできない。

    「キリストが、あなたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように」とは、比喩的な言い方で同じことを表現している。神はエルサレムの神殿に住まわれ、御臨在と力、御栄光を御民の真中で現された。キリストが我々のうちに住まわれるとき、キリストは我々を通して御自身を現し給うのである。キリストは我々を強め、御自身の慈しみを世界に啓示するためのパイプ役とさせ給うのである。

    キリストの愛を知るということ

    第二の願いは、すべての聖徒と共にエペソ人たちがキリストの愛を知ることができるようにという祈りである。この願いは論理的に最初の願いを土台にしている。我々は御霊によって強められた結果として「愛に根ざし、愛に基礎を置[く]」ことになるのである。即ち、我々の全存在をもって神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよと命じる神の律法に従って、我々は日々の生活を歩んでいくのである。愛とは、神の律法に従い、御旨と神のご栄光を万事にまさって考えるゆえに強いのである。

    愛のうちに歩むよう神の御霊によって強められるときにのみ、我々は神の愛の偉大さを理解し、あらゆる知識を越えた事柄を知ることができるようになる。パウロはここでキリストが教えられた認識論の概要に則っているのである。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハ8:31b-32)。神の御言葉への従順は、弟子であることの証明かつ真理を知ることの前提条件なのである。キリストに対する愛に基づいた従順こそ、その愛を理解するよう導いてくれるものだ。

    パウロの祈りは一片の詩のようである。「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように・・・」。我々は心を尽くして、無限がどれほど広く、また長く、そして深く、また高いものかを考えてみるよう導かれる――そのすべてが神の愛で満ち満ちているのである。これが、神がキリストにあって我々に与え給う愛なのだ。

    パウロは聖霊によって感動させられ祈る。その愛を我々に知ることを望んでおられるのは神である。それによって我々が神を知ることができるためである。神は我々を御自身に引き寄せ、そうすることによって我々を慰めと励ましで祝福することを喜び給うのである。神は我々の祝福と喜びのために、そしてまた御自身の喜びのために、我々を抱き給う。我々が神の民であるゆえなのだ。

    神の満たし

    この祈りにおける最後の目的は、エペソ人たちが「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、満たされるように」ということである。この祈りの一つ一つの表現は解説をゆるさない程の深さをもつが、その中でもこれが最も難しい。希釈することなしに如何にしてこれを説明することができようか。単なる罪人が「神の満ち満ちたさまにまで満たされますように」と祈るとき、パウロは一体どのようなつもりなのだろうか。我々はパウロが神秘的な汎神論のことばで熱心に論じ、存在論的に語っているのではないことを知っている――というのは、もしそうだとすれば、我々は文字通り神となるということになるのであって、それこそサタンが幻に描くことにほかならず、決して使徒にはできないことである。

    「満たす」という概念はおそらく神殿や天幕に非常に関係が深いと言えよう。神はイスラエルの中で神殿をその御栄光によって満たすことによって御自身を現された。そして時によってそれは非常に明らかであった。「祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」(1列王8:10-11)。神殿は神の栄光で満ち溢れた。

    これはイスラエルにとってどういう意味であったのか。それは祝福が満ち溢れた状態であり、また国々がイスラエルの神が主であり天地の造り主であることをはっきりと見るということでもあった。このことはシバの女王が神への信仰に立ち帰り、ソロモンの王国の栄光はソロモンの神の栄光が反映したに過ぎないのだと告白した時、成就したのである。

    我々が聖霊の力によって愛のうちに歩むなら、神の愛がさらによく理解できるようになる。そして、その愛を知り、その愛のうちに喜べば喜ぶほど、我々は愛のうちを歩み、神の栄光を現すことができるのである。このことは神の民に溢れるばかりの祝福をもたらし、世界を救いへと導くのである。神の愛のうちに歩むことが我々にできる最高の弁証なのだ。それはまた最大の挑戦でもある。福音に対する知的抗議に答える方が、福音が「愛に根ざし、愛に基礎を置く」ことよりもはるかに容易いことである。しかし、我々の祝福と義務は、神の聖なる神殿として神に栄光を帰することである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙3章1〜14節

    エペソ人への手紙3章20節〜4章1節

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