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    エペソ人への手紙3章20節〜4章1節


    どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

    95.10.08. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    教会の一致に表わされる神の栄光

     

    聖書が章毎に分けられているというのは確かに学びのためには便利である。しかし、それが却って紛らわしいこともある。我々は、聖書が書かれた当時の読者も、自分たちのように章や節や区切りにしたがって考えていたのだと思ってしまいやすい。だが、それは違う。3章と4章との間に大きな区別は全くないのである。3章の終わりにあるパウロの祈りと頌栄は4章に始まる勧めへと導くものなのだ。このことは原文において強調もされている。4章の2番目の言葉は、 [新改訳の「さて」ではなく] 「だから」という言葉である (「だから」が最初ではなく2番目に来るのはギリシャ語の文法による) 。4〜6章におけるパウロの勧めは1〜3章の教え全体を土台としているが、より近い前後関係は特に重要である。

    神の宮

    パウロは、キリスト者たちが強められることによって、神の愛を理解し、神の豊かさで満たされるよう祈る。その祈りの中での二つの表現が神の宮としてのキリスト者を指している。「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように」、「神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」。この前の部分に照らしてみると、このことは特に重要であることがわかる。2章の終わりにあるユダヤ人と異邦人の救いに関するパウロの教えのクライマックスは、ユダヤ人と異邦人が共に神の宮となるという説明部分である。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(エペ2:19-22)。天にいる神の御国の国民は、神の新しい宮なのである。キリストによって住まわれ、神によって満たされるということは、彼らにとって神の聖なる場所であるという意味の最も素晴らしい部分なのだ。

    パウロは神が我々のうちにそのことを成し遂げることができ、また必ずそうされることを確信している。そのために神は我々を選び、救い給うたからである。また、パウロは神の御旨が成し遂げられるようにと祈る。それは、我々の祈りと良い働きを通して神のご計画が完成するからである。パウロは、神に栄光を帰し、教会を教えるため、我々のうちにその目的を成し遂げ給う御力のゆえに神をほめたたえるのである。

    神は我々の願うところを越えることがおできになる。その御力は我々の祈る能力を超越する。とは言え、御力は我々の祈りによって働くものとは限らない。我々の祈りが愚かで未熟であることはあまりに多いからだ。神は我々の思うところを越えることがおできになる。我々には、神がご自身の歴史上の教会、また永遠の教会のために用意しておられる栄光を想像することすらできない。パウロはこれらのことをさらに強調し、次のように言う。神には、「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すこと」ができる。神は、御民が痛みの伴わない成功を容易く手にするなど、罪深い人間が好むようには歴史の中で働かれることはないが、神の働かれる方法は素晴らしい。最終的に、我々には何の文句の言葉もないのである。

    最も目立ち、おそらく最も重要なことは、「我々のうちに働く力によって」という表現であろう。我々の想像を上回る偉大で理解できないほどの力が、我々のうちにすでに働いているのである。我々は神の御力によって住まいとされている。それは世界を変え、キリストにいつまでも続く栄光をもたらす無限の御力である。これが、神の宮であることの意味なのである。我々はそれぞれ、神の御臨在の雲で満ちている聖なる宮なのである。

    一つの宮

    4章の1〜16節は、キリストの一つのからだとしての教会の一致について語っている。教会がキリストに似た者に成長するとき、この世においてキリストのからだとして機能するができるようになるが、そのときまでは、未熟さは神の御国の発展を妨げるのである。成長した教会は知識がある教会である。知識がなければキリスト者は容易に人間の用いるサタン的なわなに騙されてしまうだろう(4:14)。キリストの御からだなる教会の支配は暴力によるものではなく、ことばによる世界の征服なのである。御霊の剣は神の御言葉である。そういうわけで教会は世界を勝ち取るために愛のうちに真理を語り、キリストの王国を建て上げるのである(4:15-16)。このすべてのために、教会は神の御霊が神の宮において創造される一致を実現しなければならないのである(4:3)。

    パウロはこの4章でからだの喩えを用いているが、彼が3章の終わりで用い、4章の初めで「だから [新改訳では「さて」] 」という言葉によって少なくとも幾分かはほのめかしている宮の喩えをよく考えるならば、その喩えはパウロが一致について強調する意味を本当に理解し味わわせてくれるだろう。人類の一致が実際に崩れ始めたのは堕落の時であった。アダムが罪を犯した後、アダムとエバとの関係はあまりよいものではなくなったのである。彼らの最初の二人の息子は彼らよりもひどかった。そして、洪水の後、ニムロデは一つの偽宗教の告白の上に新しい一致を建て上げることを求めた。その宗教は「バベル」と呼ばれる塔の神殿を中心とし、そこで進められた。おそらくジッグラト [古代シュメール・アッシリア・バビロニアなどのピラミッド型の神殿] のように建てられたバベルの塔は、人間が神に達するための象徴的試みであったのだ。それによって人間は自分自身と世界とを定義することができた。それは人間によって建てられたエデンの園のニムロデ版であった。ニムロデは、勿論文字通りにではないが象徴的かつ魔法的に天の領域にまで侵入することができるはずであった。神は、言語を混乱させることによってその塔の神殿をさばかれた。結果として起きた言葉の違いは、単なる語意の違いではなく、ものの見方の違いを意味した。今日においては、バベルの時代よりもはるかに深い信仰告白の一致が、人間の意志の疎通のために必要とされるようになったのである。コミュニケーションの土台は、今も変わらず告白の一致にあるのであって、あくまで単なる言葉の一致ではない。

    バベルの一致は表面的なものではあったが、危険であった。すべての者が一つの「くちびる」(文字通りのヘブル語の意) を持ったため、「今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない」状態となったからだ(創世11:6b)。ニムロデの全体主義国家は、奇跡が与え続けられなければ止めることのできない神に対する反逆のプログラムを実行し得るものであった。しかし、人類の言葉を混乱させるという一つの奇跡が、全体主義バベル国家を可能たらしめる信仰告白の一致を破壊することによって問題を解決したのである。

    ところで、自分たちがしようと思うことで何一つできないことはないほど一致団結した民という概念は必ずしも悪いものではない。人類はもともと一致しているべきものであったし、それゆえ神の栄光を力強く表わすはずであった。キリストの贖われた子らもまた、一つとなり、それゆえに力強く神の歴史における目的を果たすべきなのである。神の御国は、神の民の一致にかかっているのだ。単なる形式だけの一致ではないし、中央集権的組織でもない。キリストにある信仰の一致なのである。教会が神と御民に対する愛によって表わされた成熟した信仰を持つとき、神の宮は一つとなるのである。神の栄光に満ち、何物もそれを退けることはできない。

    これこそ、我々がキリストにあって召されているものなのだ。即ち、言わば真のバベルの塔である神の宮としての一致と聖さ、である。パウロはその召しにふさわしく歩むようにと力説する。彼は自分がキリストの囚人であることを思い起こさせる。それは、同情を引き出すためではなく、励ますためなのだ。すでに見たように、牢獄とは支配への道であるからだ。教会が真理の告白によって一致を保つなら、神の栄光のために実を結ぶことができるようになるのである。

    千年王国後説を信じる者にとって、このヴィジョンは不可欠だ。前説や無説支持者は教会が歴史の中で何一つ偉大なことを成し遂げるよう召されているとは信じない。一致は彼らにとって良くても二次的問題なのだ。後説支持者にとっては、教会の一致は重大問題である。それなくして歴史上における神の御国はないからである。しかし、パウロがこの章で我々に示しているように、我々が召されている一致とは妥協に基づくものではない。それは教会の一致の現代リベラル版に過ぎない。神の御霊こそが一致を造る、否、すでに造られたのである(4:3)。我々はキリストにあってすでになっているものになるよう召されているのである。これは妥協するための召しではなく、真理を実現するための召命なのだ。 


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙3章15〜19節

    エペソ人への手紙4章1〜6節

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