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    エペソ人への手紙4章12節 (B)


    それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、・・・

    95.11.12 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    キリストの教会を建て上げる

    神は人を御自身のかたちに創造された。それは、人が自ら神の下で「神的存在」のように振る舞う責任と特権を持つことを意味している。神のなし給うことは、人間もまた行なう。もちろん神の御国と栄光のために神の命令に従いつつ行なうのである。神が人と結ばれる契約は、人間の上下関係を確立し、責任を詳しく説明し、報いと罰を約束し、将来のビジョンを与えることによって、人間の代表という立場を定義する。神は、御自身の契約的代理人である人間を通して働かれることによりこの世において御旨を成し遂げられるのだ。教会において、神は契約的指導者を立てられ、彼らを通して教会の祝福となるよう働き給う。しかし、各キリスト者もまた御栄光を表わすために神の似姿に創造された神の祭司である。神は御自身の歴史上の計画を教会指導者のみならず、教会全体における御業を通して成し遂げられるのだ。パウロはこのビジョンを細かく説明し、聖徒たちこそキリストのからだを建て上げるために奉仕の働きを実際に行なう者たちであることを教える。

    建て上げる

    「建て上げる」というギリシャ語は、建物を建設するという意味だ。キリストは、神殿を壊しそれを三日で「建てる」と公言したことで訴えられた(マタ26:61)。この言葉は新約聖書の中で、やぐらを建てる(マコ12:1) 、預言者の墓を建てる(マタ23:29)、町を立てる(ルカ4:29)、家(ルカ6:48)、倉を建てる(ルカ12:18)など、字義通り建設について語っている箇所でよく使われている。このように、キリストが御自身の教会を建て給うことを語られるとき、教会を神の真の神殿として考えることは当然なことである (参照:エペ2:21; 1ペテ2:5) 。

    キリストこそ教会を建てられるお方である。しかしキリストはそれを聖霊の働きと御民を通してなし給う。それで我々も教会を建てると言われるのだ。「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」(ロマ14:19) 。聖徒の働きとは、徳を建てることがその主要な目的なのである。それによって教会は本当の意味でキリストに似たものとなることができる。

    高ぶってひどい罪を行ない妥協していたコリントの教会は知識や霊的賜物を求めていたために、パウロは彼らを厳しく訓戒せざるを得なかった。「私たちはみな知識を持っているということならわかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(1コリ8:1b)。「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益 (徳を建てる) とは限りません」(10:23b)。「あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい」(14:12)。「そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい」(14:26b)。キリストにあって互いを建てるなら、我々は神の御国を建て上げ天におられる御父のご栄光を表わすのだ。

    互いに教え合う

    我々はみな一つのからだの器官で、それゆえ互いにいたわり合うべきとパウロは繰り返し強調する(ロマ12:5, 10, 16; 13:8; 14:13)。各自が互いにいたわり合うことの一つには、福祉の働き、助け合い、祈りが含まれる。こういった働きは、キリストにあって我々が互いに愛し合うことを表わし、またキリストのからだを建て上げるものだ。しかし、パウロは明らかに他の事についても考えている。というのは、パウロは、聖徒たちの奉仕の働きが自分たちの信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とを増すことを示唆しているからだ。

    換言すれば、キリスト者は互いに知識を分かち合う働きにも召されているのである。それは神礼拝の一部、またキリストのからだとしての交わりの一部でもある。これについての新約聖書における代表的箇所はコロサイ書3章16節だ。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」。神の御言葉で満たされるという我々の責任は、神に対する愛を表わす二項目のうちの一つとして、申命記6章5〜6節において示されている。我々の子供たちに神の御言葉を教えることが二番目の項目である。パウロは我々に神の御言葉を我々の心に刻み、それを互いに教え合うよう命じる。

    パウロの教えにおいて、聖徒たちが知識の一致を持つとは全員の知的努力を要求するものだ。理解と知恵に導く学び、思考、知識の集積――これについてキリスト者には選択の余地はない。あらゆる知識と知恵の神、その似姿としての人間は、知識と理解とにおいて成長することを求める倫理的責任を負っているのである。我々の目標は知恵であって、単なるデータ収集ではない。知恵は成長とキリストの似姿の完全な姿へと導くものなのだ。我々は個人としても教会としても、神が我々を造り給うた通りのものとなるのである。

    知識とキリスト教社会

    家庭生活の文化面に聖書が及ぼす影響について、シカゴ大学の哲学の教授であった故アラン・ブルーム以上に雄弁に語る著者を私は知らない。彼はキリスト者ではなかったし、聖書を広めようとしていたわけでもなかった。後に続く引用でおわかりになるだろうが、聖書を失われてしまった宝として考えていた。にもかかわらず、ブルームは、西洋の歴史と自分自身の家庭の経験との両方における聖書の深遠な文化的意義を見い出した。真剣に神の御言葉を心に刻み、それを交わりの中心にしようと奮闘している我々の教会の一人ひとりや家庭の重要性について、彼はそれと知らずして驚くべき描写をしているのである。

    「実際のところ、合衆国では聖書が唯一の共通文化であった。無学者と教養人、金持ちと貧乏人、若者と老人、これらを統一してくれるのは聖書であった。聖書は――万物の秩序に対する見方のモデルそのものとして、またその他の西欧芸術を理解する鍵として (西欧芸術の最も偉大な作品群は、何らかの意味で聖書への応答となっている)――書物のもつ深刻さに人を導いてくれるものだった。しかし避けがたい事態とはいえ、聖書が次第に影を薄くするにつれて、そうして全面的な書物という考え方そのものが、そして世界を説明してみせるのが可能であり必要でもあるという意識が、いまや消えつつある。父母が子供に望む最大の抱負は、子供たちが――司祭、預言者、哲学者がそうであるように――賢明であってほしいということなのに、父母たちはすでにこの考えを失くした。専門的能力と専門分野での成功だけにしか彼らの想像力は及ばない。一般の常識とは反対に、書物がなければ全体の秩序という考え方そのものが失われるのである。・・・

    私の祖父母はいまの基準からすれば無学な人間だった。祖父の職業は社会的には地位が低かった。しかし祖父母の家庭には精神的な豊かさがあふれていた。というのも祖父母の家庭では、とくに儀礼に関するものにかぎらず、すべてが聖書の戒律に基づいて営まれ、聖書の逸話やその注釈書から説明されたからである。また一つひとつの営みに、想像世界の数多くの名だたる英雄たちの行為が対応していたからである。祖父母にとって、自分たちの家族が存在する理由、自分たちの義務を果たさねばならぬ理由は、みな重要な書物の中に書いてあった。祖父母は自分たちの受ける特別の苦しみを、偉大で高貴な過去のなせるわざと解釈した。彼らの信仰と毎日の生活は素朴だったが、まさにその素朴さゆえに、彼らは同じ書物に依拠していた過去の偉大な学者や思想かとしっかり結びついていた――これらの先達は問題を外側から眺めたり異質の視点から考えたりすることなく、祖父母と同じ信念を抱いていたが、それでこそ彼らは問題を深め、祖父母の手引きともなりえたのだ。――そこには本物の知識に対する深い敬意があった。本物の知識とは自分たちの生活と結びついた知識だという感覚があったからである。共同体、そして歴史が意味するものは、身分の上下を問わず人々をひとつの信念体系に導く、こうした共通な経験にほかならない。

    私と同世代の人々がこれと肩を並べうるような知識をもっているとはとても思えない。私のいとこたちはアメリカ流の教育を受け、全員が医者 (M.D.)とか博士(Ph. D.)の肩書きをもっているが、彼らにしても同様である。彼らが宇宙の万物とか男女や親子の関係、また人間の条件について語るとき、話の内容はいつもありふれた決まり文句か、浅はかな知恵か、皮肉の材料でしかない。私は、神話を支えに人々が生きた時代には人々はより充実した人生を送っていた、というような陳腐なことを言っているのではない。聖書に則った生活こそ真理により近い生活であり、事物の真の本性をより深く探求しそれに近づくための下地を提供してくれるのは聖書である、と言っているのだ。われわれの自然なものの見方の中に偉大なる啓示や叙事詩、そして哲学が働いていないとすれば、外の世界に見るべきものは何もなく、結局のところ、内なる心の世界にも残るものはほとんどないだろう。」


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章12節 (A)

    エペソ人への手紙4章13節

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