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    エペソ人への手紙4章13節


    ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

    95.11.19 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    信仰・知識・成熟

    アラン・ブルーム曰く、「トルストイは、ルソーと同様、究極的問いならどんなものでもすすんで取り組んだ」。そのため、トルストイの著作において宇宙の究極的本質について彼が信ずるところは比較的明確だ。事実アラン・ブルームは、トルストイの小説には実際にルソー哲学の模範的人物が登場する、と言う。トルストイは、ジェイン・オースチンのようにその確信するところを隠したりはしない。それは頁をめくる毎に現れる。しかし、オースチンのような作家たちであってもその信念を隠すことはできない。信念は彼らの物語の展開をあまりに確実に導くため、注意深い読者ならだれにでも見分けがつく。トルストイのようでもオースチンのようでもないパウロは、神学者であり、神に任命された究極的真理の教師である。彼が教会のビジョンを詳細に説明する中で、彼の認識論に関して信じるところを見いだしても、それを何か特別なことのように考えるべきではない。

    信仰と知識

    初代教会において、ギリシャ哲学の影響で、知識とは信仰に先立つものであり、何かに傾倒するための条件であるという考え方をする人々がいた。他の多くの者はただ単に物事についてはっきりしていなかった。だが、アウグスティヌスの有名な公式は誤った考え方を正し、明白で確かな立場を与える。すなわち「理解するために信じる」である。信仰が理解を与える。アウグスティヌスがこれを人間の知識の基本条件として見なしたか否か、私は十分に語ることができるほど彼について知ってはいない。が、そのように見なすということは、非キリスト者であろうと、好むと好まざるとにかかわらず、信仰によって生きているという意味になる。そして、現代哲学は、まるでアウグスティヌスの理論を再確認しさらに拡張するかのように、すべての人間は意識的に献身するにせよ無意識のうちに傾倒するにせよ、信仰に始まり「知識」へと進むことを明らかにするようになってきた。

    現代哲学者ヴィトゲンシュタイン (Ludwig Wittgenstein) は、同性愛の倒錯者であり相対主義者であるが、彼が次のようなことを認めるのは現代の哲学者としてはいかにも典型的である。「疑いとは、疑い得ないものの上に立つときのみ可能である」。また、「ランゲージ・ゲームの可・不可は、疑い得るすべてのことを疑うというところには依存しない」とも言う。この点で彼は正しい。信ずる何かの基準がない限り、我々にはその基準と新しいデータとの比較はできない。さらに、多くの場合、文字通り本格的に何かを疑うことは不可能なのだ。結論的に、某かの信仰があってはじめて疑いも信仰も可能となるのである。この世の知識を築き上げるために、経験主義者のように、幼い頃から受けてきた事柄をすべて無視してゼロからの出発をするなどということはだれにとっても不可能なのだ。

    こういうわけで、デカルトの疑い得るすべてのことを疑うという主張は私利的偽善であったということになる。彼はすべてを疑ったと主張したが、彼は自分自身が疑っているということは疑うことはできなかった:「我思う、故に我あり」。しかし、もし彼が、考える際に用いる言語の文法を疑ったとしたらどうなっていただろうか。あるいは、もし彼が、世界が今もこれまで通りの世界のままであるのか、また明日も同様であり続けるのか、ということを真剣に問いただしていたとしたらどうなっていただろうか。簡潔に言えば、もしもデカルトが本当に疑うということに関して真剣であったなら、彼が疑い得たことはもっとずっと多くあったのである。だが、もしそうしていたら、その結果デカルトは、彼の哲学的探求の出発点からすでに行詰まることになっていたはずだ。

    人はまず信じることから始めなければならないことを理解していたヴィトゲンシュタインは、知識は信仰に基づくものなので信仰なら何でもよいと言っているかに見える。おそらく彼はそんなことを言うつもりはなかったであろうが、彼の前提に立って考えるならこの結論は避け難い。人間は何かを信じることからは逃れられないが、一体だれが何を信じるべきか、また、どの信仰が今の時代にとって最善であるかを語ることができようか。

    信仰と啓示

    それは神にとってのみ可能である。昔から哲学者たちが求め続けてきた自律した知識を人間は持ち得ないことを聖書の世界観は最初から認める。自律した知識とは、結局その知識の持ち主が自律した存在であることに依拠する。そして人間は多くの場合、そのような存在ではない。しかし、神は自律した存在であられる。神は純粋かつ絶対的な直感によってすべての事柄を知り給う。神の知識は創造的で、現実に依存せず、むしろ現実を創造する。また神は御恵みをもって御自身を人に啓示される。御言葉を通して、我々は現実と、現実を現実となさしめる真理とを知ることができる。神は我々を御自身のかたちに創造された。それは我々が懐疑主義という岩礁で難破することなく、愛をもって意識的に御自身に依存することにより真の知識を得ることができるためである。我々は何を信じるべきかを知っている。それは、神が信ずるための無謬の啓示を我々に与え給うたかだ。

    そこで、聖書的世界観において、信仰は常に知識に先行し、知識と称されるすべてのものを調べる尺度を与えるものだ。もう一度強調したいのは、これが聖書を信じる人にのみ適用されることではない点だ。あらゆる宗教、あらゆる哲学、究極的問題へのあらゆるアプローチは、直接的、間接的を問わず、何らかの信仰を前提としているのである。人間とは信じるものであり、それ以外のものにはなり得ない。そのようなわけで、聖書が提供しているのは、単なる信仰に基づいた一世界観ではない。それは、唯一真なる世界観なのだ。その信仰は、もし受け入れるなら、我々を真の理解へと導いてくれるのである。

    パウロとイエス

    エペソ書4章11〜16節の構造は実際、この見方をよく表す例となっている。パウロはまず、キリストが教会に教師たちを与えて下さったと言う。教師たちとは、使徒、預言者、伝道者、牧師である。彼らの仕事は神の啓示を教えることである。使徒と預言者の場合は、啓示の語り手でもあった。伝道者と牧師は他の者たちによって啓示された事柄を教える。我々は彼らの証言を信じたとき救われる。このように信仰が我々の出発点である。

    パウロによる教会のビジョンにおいては、信仰が働きへと導く。聖徒たちは、使徒、預言者、伝道師、牧師による教えに従う。このことが彼らを「奉仕の働き」へと導く。啓示と信仰とは、必ず働きに終わるものだ。しかし、これはさらに深い知識へ、また、さらに成熟へと導くのである。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(4:13)。 つまり、我々の前進は次のようなものとなる。信仰、従順、知識、成熟。

    ヨハネの福音書によれば、これはキリストが教えられた信仰の本質的な前進と同じものである。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(8:31-32)。キリスト者の成長は信仰に始まる、とキリストは信じた者たちに語られた。また、キリストは彼らに、御自分の御言葉に従うことの重要性を強調された。もし従えば、彼らは真理を理解するようになる。このことを信じた結果として、彼らは理解を得るだけでなく、自由をも得ることができるのだ。自由、本当の自由とは成熟である。

    そういうわけでパウロは、キリストに見られるのと同じキリスト者の成長に関する考え方を我々に示している。人間はまず最初に信じなければならない。その者の信仰は働きにおいて表されなければならない。我々が信仰にしたがって歩むとき、その信仰は成長し、我々は真の理解を得る。それは我々を人間に対する奴隷状態、すなわち、誤りなき意見をコロコロと変える“専門家”に対する奴隷状態から自由にしてくれるのである。

    成熟とは知的であると同時に倫理的なものである。我々は罪につながれているなら、成長したキリスト者になることはできず、また成長したキリスト者でもない。愚か者と弱い者だけが罪につながれるのである。自由人はキリストにある信仰を通して罪に対して勝利を得ている。始めは神の命令の意味を十分に理解していなかったかもしれないが、神の御言葉に対する従順が、彼に徐々に成長していく真理に対する理解力というものを与えた。それは彼をさらに強さと理解とで満たすのである。彼は成熟し、自由である。彼は喜びと感謝をもって従うことができる。なぜなら、神の命令を理解し、それに心から賛同しているからだ。これがパウロの成長した個人と成長した教会の姿なのである。我々が本当に神の栄光を現すべきであるなら、我々が家庭において、教会において追い求めなければならないのは、このビジョンなのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章12節 (B)

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