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    エペソ人への手紙4章22〜24節


    その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

    95.12.24 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    殺すか殺されるか

    パウロの神学は契約的だ。彼は人間について語るとき、契約の基本的分類、つまりアダムにある人間とキリストにある人間という分類にしたがって考える。この契約的分類は、聖化に関する教えをも含む幅広い土台を形づくる。聖化の学びを始めるに当たり、もしもこの土台を踏まえなければ、キリスト者の生き方に関する若いキリスト者たちの考え方を混乱させ、間違った方向に彼らを導く歪んだ見方に陥いるだろう。この箇所における神学的問題は、我々の魂の健康とキリストの教会の成長とに非常に重要な意味を持つものだ。

    新しい性質、古い性質

    福音派のキリスト者たちの間で人気のある教えは、パウロのことばを単純に解釈し、実際にはその解釈に含まれる意味を考える者にとって聖書的心理学を却って複雑なものにしてしまう。この解釈は、パウロの「古い人」と「新しい人」という言い方を指して、キリスト者には二つの性質――一つは悪で、一つは善――があると教えるのである。ある一瞬において、我々は自分の良い性質か、悪い性質かのどちらかによって支配されている。良い性質に従って生きているときは罪を犯すことはできないが、古い性質が支配的なときは罪以外のことは何一つできない、という。

    キリスト者は、その特徴として根本的に精神分裂症的心理学を持つ、とされてしまうだけでなく、その歩み方を決定しているのが精神分裂的性質のどちらの側かによって大きく二分されることになる。古い性質に従って歩む者は「肉的なキリスト者」、新しい性質に従って歩む者は「霊的なキリスト者」である。ほとんどのキリスト者はこの二つの状態の間をどちらか一方に傾きながらも、かなり激しく行き来していると考えられる。

    この見方には、数多くの問題が論理的にも霊的にも存在している。上に述べたように、新しい性質に従って歩むときは罪を犯すことはあり得ず、古い性質に従って歩むときは罪しか犯し得ない。信仰によって新しい性質に従って人が歩んでいても、その人がキリストから目を離したり、新しい性質の特徴である全き献身という態度から離れてしまうなら、悔い改めて新しい性質に立ち帰るまで彼は古い性質に戻ってしまう。神学校の教授がこのことをクラスで教えたとき、私は一つの質問をした。新しい性質に従って歩むとき罪を犯すことがないのなら、キリストを信じないとかキリストに対する献身から離れることは罪であるのに、その人は一体どのようにして古い性質に陥ることがあり得たのか。しかし、もしも人が新しい性質に従って歩んでいても古い性質に陥って罪を犯し得るのなら、その人は悪しか行なえず、神に立ち帰ることがないのであるから、いかにしてその人は救われ得るのか。その教授は少なからず気色ばんで、「人間であることには変わりはないからだ!」と、実に答えにならない答えをした。そしてそのまま続けてクラス全体に向かって怒り出し、自分が神学において博士号を持っていることと、私たちが単なる学生に過ぎないことを思い起こさせようとした。それは私にとって、この考え方全体が表面的思考の上にしか成り立っていないことを確信させる忘れられない出来事となった。

    ここから生じる霊的問題は、論理的問題ほど滑稽ではない。自分たちをおこがましくも「霊的」だと感じるキリスト者たちは、神の御心を知っていると (考えるのではなく) 感じている。その御心は、全く不適切なところで彼らが独断的に確信に満ちていると主張するよう導く。一方、肉的でこの世的な教授は、世的な生活を送っているという事実にも関わらず、自分は実にまことのキリスト者であると主張する。この双方の誤りは、それによって捕われた者たちの魂を危うくするのである。

    決定的聖化と漸進的聖化

    さて、パウロも古い人と新しい人について語るが、パウロはそれによって何を言わんとしているのだろうか。まず第一に、それがアダムとキリストを指しているということを理解することが重要だ。パウロの書簡におけるいくつかの箇所を比較してみると、この解釈は確かなものとなる。ローマ書6章においてパウロは、我々がキリストと共に十字架にかけられ、キリストと共によみがえることについて語る。それは我々が罪に対して死に、神に対して生きることを意味している、とパウロは説明する。共に十字架にかかり、共によみがえるというその同じ教理は、ガラテヤ書2章でも引用されている。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20a)。ローマ書においても、パウロはこう勧めている。「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」(ロマ13:14)。

    キリストを着なさいという教えは、パウロの契約神学の一部である。この契約神学において、神の御前には二人の契約の代表者がいる。すなわち、古い人アダムと新しい人イエス・キリストである。アダムは我々のうちにある性質ではないし、キリストもそうではない。キリストを着るということは、倫理的にキリストに近い者となり、その命令を喜びをもって守ることによってキリストに倣うことである。古い人を脱ぎ捨てるということは、アダムとアダムが代表する生き方をを拒絶するという意味である。

    これは単なる一度限りの行為ではない。我々は最初にキリストを信じるとき、アダムとの絶対的な断絶をする。ジョン・マーレー (John Murray) はこれを「決定的聖化」と呼ぶ。これは一度限りのものであるが、それは我々が為すことではなく、神が我々のために為し給うことである。神が我々の心を変えて下さるのだ。我々は、アダムにあっては、すべてを自分で定義する自律的権威を打ち立てることを求め、神を憎み、神に反逆する。しかし、キリストにあって、我々は新しい人となる。神を愛し、自律ではなく従順なまことの人間となることを求める。パウロはローマ書6章においてキリストと共に十字架につけられることを語るとき、この根本的変化を指しているのである。

    神の御恵みによって変えられた今、パウロは神に従うことを喜ぶキリストに似た者となるよう我々に呼びかける。キリスト者がこの世的な生活を送るとき、パウロはキリスト者であるということの意味に真っ向から矛盾しているとして彼らを叱責する(Iコリ3)。「肉的」という状態は、キリスト者にとって一つの選択肢ではなく、悔い改めと真の改革か、あるいは背教と永遠の地獄かのどちらかに向かう途上の一次的状態である。キリスト者には一種類の生き方しか存在しない。それは、キリストの生き方である。

    しかし、我々は罪人である。最善を尽くしても、我々はあるべきキリストの姿に等しく生きることはない。最悪の場合、我々はその御恵みを我々の愚かさと罪によって裏切るのである。我々にとって、自らの罪を繰り返し告白し、悔い改め、決定的な出発点に戻り、アダムを脱ぎ捨てキリストを着ることが必要なのである。これこそ、パウロがエペソ書4章22〜24節で我々に行なうよう教えていることなのだ。

    戦い

    古い人を脱ぎ捨てるということは真剣な仕事である。コロサイ書において、パウロは「地上のからだの諸部分を殺してしまいなさい」という表現さえ用いている。我々はアダムに対して、親切に離れてくれるようお願いするというような礼儀正しさは不要である。古い人を脱ぎ捨てるとは、それを追い出すことであり、死に至らしめる疫病に汚染された衣服を剥ぐのと同様の力を込めてそれを投げ捨てることである。我々の霊的な深さと力の欠如は、我々のアダムに対する甘さから来ている。このような愚かしい寛大さを固辞する必要がどこにあろうか。なぜなら、古い人は「人を欺く情欲によって滅びて行く」のだ。我々は、その実が食べるのに良く、我々を賢くするということを信じるよう騙されてきた。だからこそ、神がそれを禁じたにも関らず、我々はそれを取ることを欲したのだ。幾度も幾度も、我々はリンゴの中に虫が沸いているのを見いだしては失望させられてきた。しかし、それでも我々はいつも次のリンゴは大丈夫に違いないと信じてきたのだ。

    新しい人は、聖でありまた義である神によって造られた。アダムとは逆に、キリストは真実であられる。キリストの約束は我々を裏切ることは決してない。キリストに信頼し、その御心を行うとき、我々は本当の自分になることができる。そして、最も深い満足と、我々にとって可能なかぎりの豊かな実を見いだす。新しくされた心とキリスト者らしい良き習慣をもって、我々は自発的に為すべき仕方で喜びをもって考え、感じ、行い、自由と知恵において成長していくのである。また、それはアダムの愚かさによって邪魔されることなく神に与えられた賜物を発展させ、御名のために実を結ぶ働きに集中する能力をも意味する。キリストに似た者として成長するにつれ、完全にではないが、我々の生活から徐々に罪が取り除かれていくのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章20〜21節

    エペソ人への手紙4章25〜27節

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