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    エペソ人への手紙4章25〜27節


    ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。

    95.12.31 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    偽りを捨て、真理を身に着けよ

    救いとは根本的に倫理的なものだ。キリストは、我々の身体的構造や化学的性質、また存在の連鎖における位置づけを変え給うたのではなかった。キリストが変え給うたのは、我々の心である。我々は変えられたがゆえに、真の自分になるよう召されている。本当の意味で倫理的に生まれ変わるためには、我々自身が積極的に取り組むことが要求される。なぜなら、義しくなるということの意味はつねに、自由な道徳的存在として義を愛しまた選び取る、ということであるからだ。我々が救われたのは、宗教という組織の奴隷となるためではない。救いとは、我々を自分の情欲の奴隷状態から解放してくれるものなのだ (非キリスト者はこの情欲の奴隷状態を、自己破壊的とわかっているときでさえ、真の自由と見なすのであるが) 。自己への奴隷状態から自由となり、我々は神の奴隷となる。それこそが真の自由なのである。それは、神が我々を愛し給うからであり、また神は我々のことを我々自身が知る以上によく知っておられ、ただ我々の祝福のみを求め給うからである。その命令はいのちであり、平安、喜びである。それでパウロは我々に古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るようにと呼びかけている。大多数が異邦人であったエペソ人に対し、パウロは異邦人の考え方 (4:17-19) と歩み方 (4:25-5:14) というものを強調している。

    構 造

    4章25節〜5章14節の構造には興味深いものがある。パウロは十戒(とは言っても具体的には第6〜9戒のみであるが) を適用している。アダムを捨てキリストを着なさい、という命令にさらに具体的な意味を加えることで、エペソ人たちが新しい生活の意味をより明確にわかるようになるためだ。この箇所は第9戒「あなたの隣人に対し、偽証してはならない」(申5:20) の適用に始まり、次にパウロは第8戒「盗んではならない」(申5:19; エペ4:28-30) を適用、その後の4章31節〜5章2節で、第6戒「殺してはならない」(申5:17) に飛ぶ。そして最後に第7戒「姦淫してはならない」に戻る。パウロはそれぞれ当時の異邦人にとって必要な特定のやり方で戒めを適用している。

    パウロの十戒の用い方における二つの特徴に目を留めたい。まず、パウロの引用の9、8、6、7という順序だ。我々は、なぜ彼が第9戒から始めるのか、なぜ順番が逆になっており、またなぜ第6戒と7戒の順序を逆にしたのか、を問わねばならない。パウロがこれらの戒めを一つひとついかに発展させているかを見れば上の問いの答えは比較的明確となる。第一に、パウロは真理を強調したいがために第9戒から始める。偽りを語ることは異邦人社会の大きな問題の一つであり、パウロは最初からそこに焦点を合わせた。第二に、パウロは一つひとつの命令を扱っていく中で、語るということを強調するためにこのような順序を用いている (参照:4:29, 31; 5:3-4)。そして、この語るということの強調がパウロが命令を発展させていく中で注目すべき二番目の特徴である。

    舌の罪を取り扱うために第9戒から始めたのであるから、そこから遡るのはごく自然なことだ (実際これはこの後の5章15節以降の箇所においても続き、パウロは広い意味で第5戒の議論へとその教えを進めている。参照:5:22-6:9) 。だが、なぜ第6戒と7戒の順序を入れ替えているのか。答えは第7戒に特別な強調を置くためだ。第7戒は異邦人社会の中で慢性的に破られてきた命令である。このことは第7戒に割かれている箇所を読めば明らかだ。他の命令に関する箇所よりもずっと長く扱われており、永遠の裁きについて語っているのもこの第7戒についての箇所だけなのだ。

    異邦人社会

    偽り、盗み、悪意、姦淫――異邦人社会は、ローマ書1章18節〜32節にあるように、偶像礼拝のゆえに特にこれらの罪に特徴がある。このパターンが歴史を通していかに変わらないかは驚くに値する。現代社会も、古代エペソに劣らぬほどこれらの罪が特徴的だ。いわゆる「啓蒙主義思想」とその知的継承者らは、神の真理に対する異邦人の拒絶に伴う悪をよく表している。フランス啓蒙主義の代表的人物ヴォルテール (Voltaire) を例にとって考えよう。1762年にディドロ (Diderot) は、ヴォルテールに宛てて「気高く、尊敬すべき、親愛なる私の反キリスト」と彼を呼んでいる。ピーター・ゲイ (Peter Gay) は、ヴォルテールがこの肩書を喜んだことを確かな事実として伝えている。ゲイはヴォルテールの後半生が「ほとんど取り憑かれたとも言えるほどのキリスト教に対する嫌悪を露にしていた」と語る。「ほとんど」ということばを取ればこれは啓蒙運動全般について言えることだ。ゲイが啓蒙主義思想を「現代の異教信仰」と呼ぶのは実にふさわしい。

    ポール・ジョンソン (Paul Johnson) はこの現代の異教の悪をその著書『インテレクチュアルズ』において暴く。ルソー (Rousseau) からチョムスキー (Chomsky) まで知識人たちを簡潔に紹介しつつ、ジョンソンは彼らの口が語る信条と実生活との甚だしい食い違いを暴露する。それは彼らが偽善者と批判している相手よりもはるかにひどいのだ。ジョンソンが紹介している人物は全員、ヴォルテールの反キリスト教的堕落に倣ったという点では彼と啓蒙主義思想の弟子たちである。ルソー、シェリー(Shelly)、マルクス(Marx)、イプセン(Ibsen)、ヘミングウェイ(Hemingway)、ラッセル(Russell)、サルトル(Sartre)など、彼らは皆ある基本的な領域で驚くほど似た生き方をした。彼らは皆そろってとんでもない大嘘つきであったし、彼らのうちの多くは借金を返さないという方法で人の財産を盗んだ。またほぼ全員が友情を長く保つことができず、ある者は暴力をふるった。また彼らはみな性的に不道徳で、ある者たちは信じがたいほど極端にそうであった。彼らは習慣的に神の命令を破り、自分自身も彼らの回りの人間をも悲惨な状況に陥れている時でさえ反逆をしているという事実を意識的に喜び楽しんだのである。

    性的不道徳もそうかもしれないが、嘘をつくこと以上にこの者たちを特徴付けるものはない。ルソーの『告白』は信用すべきでない、とジョンソンは言い、マルクスとエンゲルス (Engels) は「ごまかしの共犯者」であったが、「うそつきという点では、マルクスのほうがずっと大胆だった」と加える。アーネスト・ヘミングウェイについては、「真実はヘミングウェイの創作倫理の要なのだが、それは棚にあげて、彼もまた知識人特有の信念を持っている。真実はエゴの従順な僕でなければならないということだ。うそをつくのは作家修業の一部であるとヘミングウェイは考え、時には自慢もした」。ジョンソンによると、サルトルの長年食い物にされた同伴者、女性解放運動家知識人シモーヌ・ド・ボーヴォワール (Simone de Bauvoir) も嘘をつくことを除けば、サルトルの欠点をまったくもっていなかった、と言う。

    現代社会は、それが啓蒙運動の継承である限り、人間の知的自律という高々と打ち立てられた偽りと、進化論をはじめとするそこから生まれてきた様々な理論的偽りとにどっぷりと浸かっている。インフレによる盗み、政府の補助金という盗み、無責任なビジネスのやり方から来る盗み、あるいは単純に万引きという盗みが横行し、社会の特徴となっている。暴力と憎悪は社会の病気と言えるほどにまで増殖しており、性的不道徳は主義となるところまでまん延している。簡潔に言えば、我々の世界は、パウロの時代の異邦人社会と同様に神の命令を破っているのである。我々にとって古い人を脱ぎ捨てるということは回りの世界の生き方を脱ぎ捨てるという意味なのだ。

    真理を語れ

    パウロはエペソの人たちにまず偽りを捨てなければならないと言う。ここで22節で古い人を脱ぎ捨てるよう命じたときに用いたのと同じ動詞を使うが、それは25節から始まる箇所が22節における基本的ポイントの続きであることを示唆している。口の領域でアダムを脱ぎ捨てなければならない。アダムはその父である悪魔に似て嘘つきだ。偽りを捨てることが真理を身に着けることの先に来る。罪に対する否定的かつ不愉快な拒絶は、我々が自分自身を神に捧げることができる以前に、つねに我々に命じられていることなのである。

    隣人に対して真理を語ることについては、説明は何も要らないように思われるが、一言言っておく必要がある。まずこの箇所の「隣人」とは、25節後半から明らかなように我々が身近に接するキリスト者のことを指す。「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです」。また、真理を語るとは、単なる事実をそのまま報告すればよいと考えられるべきではない。本人に向かって「あなたは醜い」と言うことは、本当のことであろうと、パウロがここで考えていることとは全く異なる。真理とは神の真理、我々が語る相手の徳を高め、祝福する神の御言葉を指しているのである。

    パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません」と加える。この箇所全体の構造を理解すれば、この節の正しい見方もできる。これは第9戒の詳しい説明なのだ。彼が「怒っても」と言うとき、我々には怒るべき理由があることも認めている。怒ることが必ずしも間違っているとは限らない。が、我々は罪人であるため、「罪を犯してはならない」と付け加える必要もある。我々の怒りには通常、罪深い行為に容易く結びつく罪深い思いや考えが混ざっている。その中で最もよくあるものの一つが悪口だ。怒りとそこから生じる罪とに負けてしまえば、偽りと憎しみを得意とするサタンに、キリストの教会を攻撃する余地を与えてしまうことになるのだ。

    偽りを語るというアダムの性質を捨てるには、思想と生活の両面で真理と徳を高めることに身を捧げることが要求される。我々は自らの舌をもって神に栄光を帰するよう召されているのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章22〜24節

    エペソ人への手紙4章28〜30節

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