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    エペソ人への手紙5章18〜21節


    御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。

    96.02.11 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    霊的であることの偽物と本物

    酩酊は姦淫と同様に盗んで得た楽しみであり、盗んだ楽しみは何であろうと偽物である。すなわち、喜びはつかの間で、続いて起こる痛みは堪え難いものとなる。酩酊は貪りの一つの形であるという点でも姦淫と似ている。つまり、禁じられているものを激しく欲し、与えられていないものを取ろうとすることだ。しかし、聖霊という真の喜びは決して盗まれることはない。酒に酔う者は、自分が神の御恵みの賜物として受けることを拒んでいる内なる平安と安息を貪り、化学的刺激を通して幸福感をくすねようとしているのだ。こういうわけで、酩酊は重い罪であり、広い意味で偶像礼拝というカテゴリーに陥るのである。

    アルコールは危険なものである。聖書はこれについてしばしば警告している。「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」(箴20:1)。「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない」(箴21:17; 参照:箴23:29-35; イザ5:11, 22; 28:1, 7; ホセ4:11; 等)。我々はこれらの警告を真剣に受け取らねばならない。なぜなら、アルコールは、歴史を通して世界中の何百万という男女の人生を破壊し、戦争と並ぶほどの破壊の記録を持っているのだ。

    酔わぬように飲みなさい

    聖書の警告や歴史的事実から、多くの真剣なキリスト者が引き出す結論は、アルコールは禁じられている、というものだ。このような意見を持つ人々に対し、我々は同情の念を持たなければならない。彼らの多くはアルコールの悪用から受けた傷跡が深く残る家庭から来ているからだ。このような人々は深く苦しんできた。彼らは蔑まれるべきではない。

    しかし同時に、聖書は全面的な禁酒を推し進めていると教える者たちは、異端には欠かせない解釈のアプローチをもって神の御言葉を曲げていることは明確に主張されねばならない。例えば、エホバの証人は、聖書がキリストの神性について教えることを無視して聖書を曲げ、多くの聖書箇所を彼らのもっともらしくない教理の型に無理に嵌めようとしているのである。このアプローチは、根本的に強情なもので、神の御言葉に対して心を従わせないのである。真の神学的方法においては、注意深く選り好みされた聖書の一部ではなく、聖書の教え全体の土台の上に我々の教えを建て上げることが要求される。

    酩酊の危険に関する聖書の警告だけでなく、ぶどう酒の祝福についても考慮に入れるなら、我々は別なイメージを持つようになる。ぶどう酒は神からの祝福であり、神がイスラエルに彼らの祭りの時に楽しむよう命じられたものである。「あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい」(申14:26) 。水をぶどう酒――明らかに120ガロン以上の質の高いぶどう酒――に変えるというキリストの最初の奇跡は、明らかに我々の主のぶどう酒に対する姿勢を示唆するものだ。主が御自身の教会に定められた晩餐も同様である(マタ26:26以下; 1コリ11:23以下)。聖書が全面禁酒を教えるとか、ほのめかしていると提案することは、ほとんど冒涜と言ってもよい。我々の時代は聖書が教えていることとは異なる道徳基準を要すると主張すれば、律法主義的異端に近づくだけだ。意図がどんなに良くても、アルコールを禁じる者は聖書に違反しているのである。

    パウロが禁じているのは酒に酔うことなのだ。パウロはホセアが語った危険性を心に留めているのである。「ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる」(ホセ4:11)。酒を飲み過ぎる者はアルコールの奴隷となる。それはちょうど姦淫者が姦淫の奴隷となるのと同じである。それは、偽の喜びのために心を愚かにも投じてしまう放蕩という同じ精神なのである。両方の罪は自制の全くの欠如、すなわち自殺行為である自己放棄へと導くのである。牛が屠り場に引かれるように、罪人は自らの情欲に従い、死の場所へと引かれていく。

    アルコール、お金、性的関係、名誉、これらはみな神に対して罪を犯し、禁断の実のためにその魂を悪魔に売り渡すよう人間を誘惑するものだ。これらのものは、それ自体悪であるために誘惑なのではなく、それらがある決まったやり方で求め、受けるよう神によって与えられた祝福であるがゆえに誘惑なのである。お金は良いものであるが、盗むものではない。性的関係は結婚関係の中における祝福である。名誉は仕えることによって求められるべき神からの祝福だ。アルコールは貪りの欲望をもって食い尽くされるべきではなく、適度な量で食されるべき食物なのである――このことは、アルコールを他の多くのドラッグとは区別し、アルコールの使用とドラッグの使用が似たものとしてしばしば提案されているのは間違いであることを示している。きよい者にとってはすべてがきよいのである。

    御霊に満たされなさい

    強い酒と放蕩に満たされてはならない、御霊と満足とに満たされなさい。酩酊という放蕩の反対は、神の御霊によって満たされた者の特徴である自制と感謝である。多くのキリスト者が考えていることとは反対に、御霊によって満たされることとは、自分を失って神に支配されることではない。キリスト者が失神し、うつろな目で激しく笑い始めたり、訳のわからぬことを話したり――これは聖書の異言の賜物ではない――、或いは倒れてけいれんを起こしたりすることは、ふさわしいことでもなければ、尋常でもない。このような現象は必ずしも悪魔的なものとは言えないが、それによってキリスト者たちを悪霊の影響に晒すこととなるかもしれない。こういったことは幼稚で、愚かである。実際、それらは心理的陶酔の一種で、アルコールはなくても自己破壊的な放蕩へと導く酩酊なのである。ペンテコステ系の教会や運動が性的な不道徳に悩まされているのは偶然ではない。教会がでたらめな礼拝をもって蒔くならば、放蕩の生活を刈り取ることは避けられないのである。

    しかし、聖霊が我々を喜びで満たすということは否定されることはない。イエス・キリストにある神の御恵みに対する神への心からの感謝は、この世の喜びにまさって心をうっとりとさせる驚嘆の念である。罪の赦しの確証は魂を生き返らせる甘い水の涌きだす泉である。神の聖霊は、主がいつくしみ深いことを我々が味わい知ることができるようにして下さる。それによって我々がダビデとともにこう告白できるためである。「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです」(詩84:10)。

    神の御霊は、賛美の御霊である。御霊は、神学的な歌、我々が詩篇と呼ぶ書を霊感させられた。賛美歌は新約聖書の歌を指しているかと思われる。霊の歌とは、おそらく聖書の真理を表す歌を意味しているのだろう。それらは特別な聖霊による霊感をもって書かれたわけではないが、それでもなお聖霊の助けと祝福をもって書かれている。パウロはここで礼拝式について特に語っているのではないことにも注意したい。パウロの言い方を礼拝において用いられ得る歌を指していると限定する理由は一つもない。むしろ、キリスト者は敬虔な音楽の全範囲を必要としている――子供たちのための歌、仕事のための歌、遊びのため、楽しみのため、弔いのための歌と同様に、言葉遣いを変えずにその内容にふさわしい節に合わせて歌われる詩篇。重厚な音楽と共に、軽くて簡単な歌も我々には必要である。遊びとスポーツ、皿洗いと洗濯物干し、結婚式やお葬式――すべてのことが、その場に合った敬虔な音楽をもってなされることができるし、なされるべきなのだ。

    感謝と服従

    パウロはすべてのことについて常に感謝をするよう我々に命じる。神は常に主権を持っておられる。我々にふりかかることで、その御手から来ていない事柄は一つもない。深い試練の真中で神に感謝を捧げるには成長した信仰の自制が要求される。しかし、これは我々の救い主御自身が成し給うたことであり、御霊がその御跡に従うことができるようにさせて下さることなのだ。

    キリスト者が互いに詩篇や賛美、霊の歌をもって語り合うなら、彼らが常にすべてのことについて聖霊の御力によって神に向かって感謝を捧げるなら、彼らは互いに従い合い、仕え合うことができる。感謝は、キリスト者の愛を窒息させる傲慢や愚かさを根こぎにする。御霊の御力による自制は、ちょうどキリストが我々の祝福のために御自身を犠牲にされたのと同様に、我々が他者の祝福のために自己を犠牲とすることができるようにしてくれるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙5章15〜17節

    エペソ人への手紙5章32節

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