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    ローマ人への手紙2章17節〜24節


    2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、

    2:18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、

    2:19 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、

    2:20[前節に合節]

    2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。

    2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめとるのですか。

    2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

    2:24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。

    98.10.25. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    ユダヤ人と律法

    2章17〜24節

     

       ローマ人への手紙1章18節からずっと3章20節までの箇所で、パウロは、神の御怒りがなぜ罪人に対して表わされているかを長く、そして深く説明している。1章18〜2章16節では異邦人の罪を取り扱っている。偶像礼拝と性的不道徳がその最も顕著で明らかな罪であったが、2章1〜16節では、異邦人の中の道徳家の罪を取り扱い、その全き偽善を明らかにし、なぜこのような者は悔い改めなければならないのかを説明する。そして、2章12〜16節までの段落では、少しだけ異邦人とユダヤ人の問題が扱われているが、異邦人の道徳家を取り扱うとき、それは自ずと一般的に異邦人よりも道徳的であると思われていたユダヤ人について考えるように導くものである。だから異邦人を取り扱っている中でユダヤ人を取り扱い始めるようなかんじで説明しているわけである。

       2章17節からパウロは直接ユダヤ人に向かって語り始める。パウロはその17節に入る前に、即ち、直接ユダヤ人に向けて書き始める直前のところで、まず律法の問題を紹介して、「真に道徳的である異邦人は救われる」ということを説明する。この部分は、異邦人の罪の問題から神の御前におけるユダヤ人と異邦人の問題およびユダヤ人背教の問題へと移行する布石の役割を果たしている。そういうわけで、1章18節から2章16節までは基本的には異邦人の取り扱いが中心となっているが、2章17節からこの議論が終わる3章2節までは、あくまでもユダヤ人の罪が中心的関心事となっている。

     

    ユダヤ人と異邦人

       このアプローチは旧約聖書に出てくる預言者たちの話し方によく似ている。預言者たちは、まずイスラエルの周囲にいるアモン人等の異邦人の罪について語り、その罪に対する裁きを宣言した後でイスラエルに向かって語るのである。結局、イスラエルは神の民であった筈なのに異邦人とさほど変わらない、というような訴えを預言者たちはしているわけである。パウロも同じような訴えをしなければならなかった。新約聖書を読めば、「ユダヤ人と異邦人」という問題は至る所に出てくる。20世紀の読者は、パウロがユダヤ人と異邦人、割礼、モーセの律法などについて論じるのにあまりに多くの紙面を割くのを見てしばしば混乱してしまうものである。この混乱は何よりも先ず私たちの聖書の読み方から来ている。

       現代の読者は創世記よりもマタイの福音書やヨハネの福音書から読み始め、旧約聖書をほとんど無視するほどまでに新約聖書に集中するのが普通である。その結果、神の御計画の中にあってアブラハムとその子孫がどれほど重要であったかということを見落としてしまうのである。聖書を創世記から読まない人にとって、そのような箇所は理解しにくいものになるが、創世記から聖書をちゃんと読んでいる人であれば、創世記12章で既に神によって「選ばれた民はアブラハムの子孫である」と書かれてあるのをよく知っている。その創世記12章から新約聖書の終りまで、イスラエルは神の御計画の中で特別な地位を占めていることは明らかである。

       聖書の最初の書物である創世記の半分もいかない12章のところで、すでに聖書のすべての中心がユダヤ人になっており、それが旧約聖書の最後の書であるマラキ書まで続いている。聖書のほとんどはイスラエルの歴史、イスラエルの英雄たち、イスラエルの神に仕えるための戦い、そして背教の時代には神に対する戦いで占められている。そして「新しい契約の到来」とともに神の救いの御恵みが区別なくすべての人に提供されるとき、ユダヤ人と神の御計画における彼らの特別な地位は由々しき問題となった。神もその御言葉もあまりよく知らない異邦人と、パリサイ人的な偏見と傲りとでその知識が腐っているユダヤ人に対する神の契約的取り扱いを説明するために、パウロはユダヤ人と異邦人に関する問いに答えなければならなかった。

       新約聖書に入ると、主イエス・キリストがまずユダヤ人の所に行って御自分を表わされたことは注目すべきことである。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書は全部ユダヤ人の話である。使徒行伝に入ってから初めて異邦人に対して福音が直接伝えられた。それも使徒行伝の8章から(10章からと考えてもよいが)、やっと異邦人に対する宣教が具体的に聖書に記されるようになった。それ故、聖書ではユダヤ人がどんなに中心的な存在になっているかを認識することは大切なことである。

       当時の教会が聖書を持っていたとしても、それは旧約聖書でしかなかった。新約聖書はまだ書かれていなかった。だから、信者が礼拝に集まって聖書を読む時には、創世記から読んだり、詩篇を読んだり、預言者たちの書を読んだりしていた。パウロの時代のすべての教会は、パウロから直接手紙を受けていたわけではない。ローマの教会に手紙が書かれると、ローマ教会はそれを手書きで複写して他の教会に送ったりした。だから、当時の教会がどんなに急速に増えていったかを、使徒行伝を読めばわかることである。多くの小さな教会がローマ帝国の至る所に設立されていった。その信者たちが読んでいた聖書は旧約聖書であった。しかし、読んでいる彼ら自身は異邦人であった。当然のことながら、旧約聖書を読む異邦人のクリスチャンたちは、自分たちとイスラエルの関係は何なのかについて深く考えさせられていたに違いない。それに加えて、当時のほとんどの異邦人の教会の出発点は何人かのユダヤ人がクリスチャンに改宗するところから始まっていたのである。

       使徒行伝を見ると、パウロが町々を訪れる時に、いつもその町のシナゴーグ(会堂)に行って御言葉を伝えることから始めていたことがわかる。そこで何人かのユダヤ人が救われると、それが他のユダヤ人の怒りを招いたので、パウロは救われたユダヤ人の数家族を連れ立って異邦人に福音を伝えたのが最初である。それで町のユダヤ人たちは怒り狂ってパウロを迫害し、パウロを町から追い出した。パウロの生涯はそのパターンの繰り返しであった。それらの町に残った教会の最初のメンバーたちは皆ユダヤ人であって、後から異邦人が救われて教会員に加えられていくというものであった。持っていた聖書は旧約聖書で、リーダーたちはだいたいユダヤ人であった。当然ユダヤ人の方が聖書をよく知っていた。けれども、パウロの宣教は、ユダヤ人と異邦人を同等に扱うものであった。

       割礼の話も、新約聖書の中に何度も何度も繰り返し出てきているが、それは創世記17章にあるアブラハムの契約の話であり、「アブラハムとその子孫はすべて割礼を受けなければならない」というところに戻ることなのだ。だから、新約聖書を読む時に、この新約聖書の手紙を受けたユダヤ人と異邦人の混在する教会の歴史的状態を正しく理解しなければならない。その状態は詳細に使徒行伝の中に描かれていることである。そして、その教会の人々が読んでいる聖書、彼らの心にある御言葉は、基本的には旧約聖書であったことを忘れてはならない。

       旧約聖書は聖書全体の四分の三もあるのだから、新約聖書を読んだだけでクリスチャンとしての生活ができる筈はない、ということは明らかである。旧約聖書の中でユダヤ人は中心的な存在である。だから、ここでユダヤ人の問題を中心的な問題として取り扱わなければ先に進めないことはもう理解してもらえたと思う。もし、聖書を創世記からしっかり読み、旧約聖書を丁寧に読んでいるならば、新約聖書に入るときに、割礼の問題やユダヤ人の問題が取り扱われる箇所で疑問を抱いたり混乱したり躓いたりはしないし、むしろ割礼の話の大切さがよくわかる筈である。

       パウロは、福音について語るとき、ユダヤ人の問題を直接取り扱わなければならなかった。そして、ユダヤ人と異邦人との違いをも取り扱わなければならなかった。救いについて教える時も、ユダヤ人と異邦人の関係が説明されなければならない。割礼とは何なのかをもはっきりと説明しなければならない。「当時のユダヤ人はまだ神の民として存在していた」というもう一つの複雑な問題があったことも見落としてはならない。主イエス・キリストがこの世に来られたとき、ユダヤ人の所に来てユダヤ人だけに御自分を表わされたのである。ローマやアテネには行かなかった。少しだけデカポリスに行っただけで、イスラエル以外の所には行かなかったのである。

       主イエス・キリストは、まずイスラエルに御自分をお与えになったと言ってよい。しかし、イスラエルはキリストを受け入れず、キリストを信じない。それ故、キリストはイスラエルに対する裁きを宣告するが、その裁きとはA.D.70年の事であった。A.D.70年にイスラエルに対する大いなる裁きが下される。それまでの40年の間、イスラエルには悔い改めの機会が与えられていた。その40年間、イスラエルは神の民だったのだろうか。その答えはある意味で「はい」だが、ある意味で「いいえ」である。それでは、教会は神の民なのか。答えは「はい」である。ならば、神殿で礼拝を行なってもいいのか。答えは「はい」である。パウロはそうしたし、ペテロもヨハネもそうした。だから、そういう意味で、A.D.70年までの40年間は、神殿での古い礼拝と教会での新しい礼拝がオーバーラップしていた時代であった。そういう意味においても当時のユダヤ人と異邦人の関係は複雑なものであったことは確かである。それだから、パウロはそのことについて長く説明しなければならなかった。

     

    ユダヤ人の特権

       イスラエルに向かって語るとき、パウロはローマ人への手紙1章18節から3章20節の箇所で、なぜ主イエス・キリストを救い主として必要としているのか、そして義と認められることがなぜ信仰のみによらなければならないのかを説明している。それ故、この箇所でパウロは、人間の罪の問題について詳しく説明しなければならない。人間はどうして主イエス・キリストを信じなければ救われないのかを話している。これは、異邦人にもユダヤ人にも共通の問題である。2章17節から20節の箇所で、ユダヤ人たちは自分たちをどう自負しているのかを明かにしている。

    17もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、18みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、19-20また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら..... 

       ここでパウロは、ユダヤ人が自分たちをどう考えているのかを明かにする。ユダヤ人が自分をこのように考えるのは、ある意味で全部正しいと言える。神は、アブラハムの子孫であるイスラエルを御自分の民としてお選びになった。全世界の「祭司の民」としてくださったのだ。この箇所は、祭司の民としてこの世に生きる意味がどのようなものなのかを明確に表わしている。つまり、イスラエルに正当に適用され得る特徴とは何なのかを列挙している。

       「律法を持つことに安んじ」とあるが、イスラエルは確かに神の律法を持つことに安んじるべきであった。律法によって慰めを得、律法に依り頼む民でなければならなかった。「律法を持つことに安んじる」とは、律法の知恵の真価を正しく認識し、それに信頼することを実際の生活において表わすことである。クリスチャンも同じように「神の御言葉が私たちに与えられている。私たちはこのことを喜び、それに依り頼んで生きる。それが私たちの支えであり、力である」と考えるべきなのだ。私たちは神の御言葉に依り頼む者である。人間の力にでなく、人間の知恵にでなく、国家の力や利点に依り頼むのでもない。イスラエルは、神の民であるとともに、一つの国民でもあったので、国民としての傲慢に陥ってしまう危険性もあった。そうあってはならない。「私たちはこの点で他の国民よりも良い」というように傲るべきではないことは、申命記7章にも9章にもはっきりと記されてあるとおりである。そうではなく、私たちは神の律法を持つ者、御言葉に依り頼む者である。そういう意味であれば、それは良いことである。

       「神を誇り」とあるが、これも素晴らしいことではないか。私たちは何を誇るべきだろうか。自分の行ないを誇るべきではない。イスラエルの場合は自分の国を誇るのだろうか。そういうことではない。まことの神御自身を誇るのである。神の民が神を誇ることは実に相応しいことである。神を愛し、神を喜び、神を誇るべきである。

       「御心を知り」とあるが、これも当然のことである。御言葉を持っているならば、神の御心が何なのかをイスラエルは知っている筈である。知っているので、喜ぶことができる。私たちにもこの告白はできる筈だと思う。クリスチャンは神の御心を知っている筈である。変に謙遜して、「いやあ、私はそんなに神の御心など知ってはいません」と言うべきではない。神の御心は聖書の御言葉に明らかに書いてある。中には難解な箇所もあるのは事実だけれども、基本的なことについては分かる筈である。神の御心は何なのか。それはモーセの十戒にもはっきりと書いてある。「分かりません」と言う必要はない。「はい。分かっています」と言う筈である。だいたいの基本的な所についてクリスチャンは大胆に説明できる筈である。それとも、そんなことはないと言うのか。

       「なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ」とあるが、これも当然なことである。律法から教えられているので、わきまえを持ち、識別力を持ち、分別がある。当然なことである。異邦人のように、何をすべきなのか、何が良くて何が悪いのかを永遠に論争したりして迷う必要はない。神の民であるイスラエルは、異邦人のように永遠に何が良いのかが分からないままで変化を続けていく必要はない。神の律法によって教えられているからである。神の御言葉を知っているので、わきまえもある。 

       また「知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任している」と言うのも当たり前のことであって、これも教会がそのまま告白できる筈のことである。大切なポイントとして「律法を持っている」「律法に教えられて」ということが前提として繰り返されているのを見落としてはならない。「律法が与えられているから.....できる」ということが強調されており、「律法の中には具体的な教えがある」ので、本当に律法を持っているなら、見えない異邦人たちを導くことができ、闇の中にいる者を光に導くことができ、幼稚な者には教師として真理を教えることができる筈である。これは本当に神の御言葉が与えられているならば言える筈のことである。そのために神はイスラエルを選んで御自分の民とし、御自分の御言葉を与えてくださったのである。 

       ユダヤ人たちが神に忠実であったなら、これらはすべて良いことであって、良い意味で使われ得たはずである。クリスチャンでない人が私たちの所に来て助けを求める時に、「いやあ、私もそれほどよくは知らないんですよ」と答える筈がない。勿論、これは物理学や天文学のような難しい学問の話ではない。毎日の生活の中で普通の人なら誰もが闘っているような基本的な問題について話しているのである。クリスチャンならば御言葉を開いて答えを出すことが出来るはずである。出来ないならば、それはだめなのだ。

       実は、キリストの教会はすでに二千年もの歴史があるので、色々な難しい問題についても解決のための実例が書物として残されているので、学ぶ意欲さえあれば難しい問題をも解決に導くことのできるリーダーや先輩たちがいる筈である。しかし、特別な能力がなくても、特別なリーダーでなくても、一般のクリスチャンであっても、人間が闘っている毎日の生活と心に関するほとんどの問題に対して、「わきまえ」をもって御言葉の真理から人々を教えることができる筈である。出来なければだめなのだ。それができないならば、御言葉を持つ意味はいったいどこにあるのかということになる。

       パウロはユダヤ人を責めている。ユダヤ人の罪を取り扱っているのである。どうして叱責の中でこんなに長くこのような事について話さなければならないのかというと、このような「特権」が与えられているからこそ、彼らの罪はいっそう深刻で重大な問題となるからである。何も知らない人が道に迷っても、それは当然のことである。地図があって、光もあって、その道をいつも歩いているし、その道について模範を示して教えてくれた先輩たちがいくらでもいるのに、その全部を知っているというのに、なぜ迷うのか。迷う必要などない筈だ。迷うならば、問題は別なところにある。

       確かに、彼らにはそれほどまでの大きな特権が与えられている。それなのに、今の姿はいったいどうした事なのか。ここまで祝福されているのに、イスラエルはだめになっている。これは非常に許しがたい状態である、というのがこの箇所の一つのポイントである。もう一つのポイントは、ここに書いてあるすべての事がイスラエルにあっては歪曲されてしまっているということである。「律法(御言葉)を持っていることに安んじる」ことには良い意味もあるが、悪い意味もある。悪い意味もあるというのは、持つだけで、それを心に刻まず、行なおうともしないからである。「持っているから」と言って安心し、「私は異邦人たちよりも正しい」と考えてしまう。ただ持つだけで、その中身を知らない。それがユダヤ人の問題であった。

       つまり、17〜20節の表現はすべて良い意味であった筈である。ところが、ユダヤ人の祝福と特権を指すこれらの表現は、彼らの不正がどれほどのものかをも示唆している。これらの表現は、パウロのこの箇所の使い方からすれば、ユダヤ人が単なる律法の表面的所有に信頼するという歪んだ意味で「律法に安んじ」ているという事実を指しているからである。彼らは神との契約があたかも他の者に対する自分たちの優位性を証明するかのような考えで神を誇っていた。彼らは、自分たちこそ律法を知っており、この世の残りの者たちを教えることができると自負していたが、キリストが幾度も彼らに示されたように、彼らは自分たちの伝統のために神の律法を拒絶したのである(マルコの福音書7章1節以下を参照)。

       主イエス・キリストが福音書の中で指摘しているように、ユダヤ人たちは、「自分たちはモーセを持っている」と思っているが、その実はモーセの教えに従ってはいない。彼らはモーセの教えを知ってもいない。主イエス・キリストはユダヤ人のリーダーたちに対して繰り返し厳しく叱っている。「あなたがたは、律法を知らないのか。読まなかったのか」と言って、律法を持ってはいるが、それを心に刻まず、本当の律法の教えを知ってもいないユダヤ人のリーダーたちの罪を厳しく指摘している。「自分たちは異邦人たちに道を教えることが出来る」と言って誇ってはいるが、その実はその意味を曲げて「自分たちは異邦人よりも優れている」という考えになってしまっている。

       その証拠として、キリストの時代のユダヤ人は異邦人を軽蔑していた。「祭司の特権」が与えられているということは、本当は全世界に仕える者として、全世界に神の福音を伝える者として選ばれたということなのだ。自分たちが救われて、他の人たちは皆滅びるために選ばれたのではない。創世記12章のところで神はアブラハムをお選びになった。それは、アブラハムを通して異邦人が救われるためであると最初からはっきり書いてあるではないか。即ち「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と神は言い給うたのだ(創世記12章3節b)。毎年の祭りの時にも、イスラエルは異邦人のためにいけにえをささげて異邦人の救いのために祈らなければならないことが律法の中に定められている。異邦人が救われるために、神はアブラハムを選んで御言葉をイスラエルに与えられたのである。 

       しかし、パウロの時代のユダヤ人は異邦人を軽蔑し、「自分たちは神に選ばれた民である」と言って誇り、他の者たちを見くだしていた。それで、「神を誇る」が「自分を誇る」にすり替えられ、その意味は変えられてしまった。異邦人の宗教とその神々を馬鹿にして心の中で彼らは囁く。「私たちは異邦人とは違う。私たちは律法を持っている。彼らよりも優れているのだ」と。まるで、自分の知恵でこの神を選んだかのように誇るのである。更には、まるで自分たちがこの宗教を作ったかのように誇るのである。そういう意味で、イスラエルに与えられた「特権」はその罪によってことごとく曲げられ、その特権はイスラエルの傲慢を表わすものとして悪用され、その偽善を表わすものとなってしまった。だからパウロは、「あなたがたはこのように自分を誇り、自分たちのことを考えている。しかし、本当にそのような者として生きているのか」と訴えているわけである。

     

    ユダヤ人の偽善 

       21節から、パウロは幾つかの質問をもってユダヤ人の偽善を暴露する。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのか」と問う。これが最も基本的なポイントである。「御言葉を持っている。わきまえがある。神を誇っている」などと自分について考えている。それなのになぜ、もっともらしく他の人を教えたり罪に定めたりするくせに、自分自身には教えないのか。初めてこの言葉を読むユダヤ人は驚くに違いない。この箇所はあくまでも福音書を背景としてもって読んで理解しなければならない箇所である。今のいろいろな注解書やパウロの教えについて書かれた書物を読むと、考古学者たちの発掘等によって見つかった当時のユダヤ人の文献やイスラエルについて異邦人が書いた文献などが翻訳されて引用されたりするが、最近のほとんどのリベラルの学者は「当時のイスラエルはそれほど悪くはなかった。イスラエルに対するパウロの非難は極端である」とコメントしている。

       例えば、E.P.サンダース(E.P.Sanders)は、22節のパウロの議論にはひどい誇張があると考えている。ユダヤ人のほとんど、或はその多くの者が神殿の物をかすめていると示唆してるからだ。他の学者たちもパウロに誤りを見出したとして、当時のユダヤ人たちが新約聖書の背教者だという描写に対して弁護を試みている。しかし、クリスチャンはこの歴史的描写について混乱させられてはならない。福音書で主イエス・キリスト御自身がユダヤ人についてどのように見ているかに目を留めるべきである。

       クリスチャンは誰であれ、キリストの目を通してこのパウロの言葉を理解しなければならない。私たちの主イエス・キリストほどユダヤ人の状態について十分かつ明確に語った者はおらず、キリストの告発は明白なものだからである。表面的にただ当時の異邦人がイスラエルをどう考えていたかとか、当時のユダヤ人がイスラエルをどう考えていたか等の資料によって正しい理解が得られるというものでは決してないのである。指導者たちは偽善者として断罪され、民は彼らに従ったことで罪に定められた。当然指導者への裁きの方が大きかったのであるが.....。 

       「どうして、他の人を教えながら、自分を教えないのか」と問う時に、パウロは、神の律法を甚だしく破る三つの具体的な例によって彼らの罪を明らかにしている。即ち、「どうして、盗むなと説きながら、自分は盗むのか」「どうして、姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのか」「どうして、偶像を忌み嫌いながら、自分は神殿の物をかすめるのか」という三つの罪である。盗み、姦淫、神殿を汚す(礼拝を曲げる)ことにおいてユダヤ人たちは罪を犯していた。

       これらは深刻な咎めである。一般的に異邦人よりも道徳的であったユダヤ人たちがいったいそのような罪について実際に有罪であり得たのだろうか。ここで私たちは、パウロ自身がかつてパリサイ人であったことを思い起こす必要がある。それは、ユダヤ人を咎めるにあたって、パウロが元内部の人間として語っていると考えるべきことを意味している。更にユダヤ人たちがそのような罪において有罪であったことは主イエス・キリストの教えにおいて明らかにされる。キリストもまたこれら三つの罪すべてについてユダヤ人を罪に定めたのである。 

       第一にキリストは「盗み」について厳しく咎めておられる。二つの問題が主イエス・キリストの教えの中にある。一つは「誓い」の問題である。マタイ福音書23章を読むと、ユダヤ人は誓いをするときに神殿を指して誓ったり、神殿の中の黄金を指して誓ったり、いろいろと特別な方法でよく誓いをしていた。その箇所でキリストが訴えていることは、ユダヤ人は特別な方法で誓うことによって異邦人を騙しているということであった。彼らはよく商取引きでもっともらしい誓いをして人々を騙していた。異邦人に対して誓って約束すれば、異邦人はユダヤ人が信心深いと思っているので簡単に信じてしまう。しかし、ユダヤ人の側からすれば、神殿を指して誓っても無意味であって、神殿の黄金を指して誓わなければその誓いは無効なのである。そのように、当時のユダヤ人は誓いを騙すためのトリックとしてビジネスに用いていた。 

       「盗み」のもう一つの問題も、パリサイ人たちについての箇所に頻繁に出てくるものである。この事はマタイ、マルコ、ルカの福音書の全部に記録されている。それは、やもめたちのお金を盗むという問題である(マタイの福音書23章14節、マルコの福音書12章40節、ルカの福音書20章47節)。

    忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見栄のために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。 

       使徒行伝を読めば、当時の教会はあまりにも多くのやもめがいたために、彼女たちの世話をするために教会は貧しくなり、その世話のために執事を任命しなければならないという問題が記録されている(使徒行伝6章1〜6節)。バルナバたちは自分の財産全部を売って教会を助けたが(4章34〜37節)、やもめが多く、飢饉もあったりして(11章28節)教会は貧しくなっていたために、弟子とパウロたちは他の教会に行って献金を集めてエルサレムの教会を助けなければならなかった。そこまでエルサレムの教会ではやもめの問題は大きな問題になっていた。

       その原因の一つとして、ユダヤ人がやもめからどんどん金銭をかすめていたことが挙げられる。世話するからという約束で彼女たちからどんどんお金を取るが、結局何も世話をしない。それで、ユダヤにある教会はそのやもめたちを救いに導いて彼女たちを助けた。その結果エルサレムの教会には多くのやもめがいるようになった。それは使徒行伝の6章からの話である。「盗む」のでなく「与える」というのが、ユダヤ人とキリストの教会の違いの証となった。これは教会の初期において既にあった問題である。パリサイ人たちはそのように、最も弱い者から盗むことをしていた。

       今でも同じ問題がある。アメリカだけではないと思うが、アメリカではやもめから盗むことが格好のビジネスになっている。その盗っ人たちは、新聞を見て年老いた夫が死去した弔報掲載を見つけると、そのやもめの家を訪ねて色々なサービスを約束する。様々な手口で詐欺を企てる。夫を失って悲しんでいる年配の婦人たちは識別力が弱くなっていて、夫がいなくなったことがまだ信じられずに、一人になってしまったことにまだ慣れていない。その時を狙えばやもめは格好のカモだと詐欺師たちは考えている。それが彼らのビジネスなのだ。しかし、これは何も罪に満ちた現代のアメリカに始まったことではない。これは2000年も前に既にパリサイ人たちがやっていた商売なのである。パリサイ人や律法学者たちはやもめの弱さにつけ込んでいつもそのような女性たちを特に求めては餌食にしていた。福音書の中で「盗む」という行為はパリサイ人に対して特別な強調をもって指摘されている行為なのだ。これは最低の盗みである。

       「姦淫するなといいながら、自分では姦淫するのか」とパウロは言う。これもマタイ、マルコ、ルカの福音書の全部に記録されている罪である。これは特に離婚に係る話である。キリストは、離婚に関する彼らの掟を非難する意味でユダヤ人の姦淫について彼らを叱っている。ユダヤ人たちには離婚を軽く考えるという問題があった。キリストの時代のユダヤ人は離婚の問題について、人が妻に「恥ずべき事」を見出した場合(申命記24章1節)にのみ女性は離婚させられると述べたシャマイに従う者たちと、妻が夫の食事を焦がせば夫は彼女を離婚することができるというヒレル学派とに分かれていた。ラビ・アキバは、「もし人が妻よりも美しい女性を見つけたなら、彼は妻と離婚してもよい」と教えた。

       それで、パリサイ人はその質問を携えてキリストの所にやって来て「何かの理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」と言ってイエスを試みた(マタイの福音書19章3節)。当時のユダヤ人の間では、いとも簡単に離婚することができた。現代のイスラム教ほどではないにしても、実に簡単に離婚していた。朝食が気に入らないという理由だけでも離婚することができた。どんな理由であっても、理由さえあれば離婚することができた。イスラム教の場合は離婚しても全く気にもしない。どんな場合でも「自分には正当な理由があった」と思っている。サウジアラビアの初代の王であるイブン・サウド(Ibn Saud)は、際限なく離婚を繰り返し、全部で300〜400人もの妻がいた。イスラムの戒律では一度に四人までは妻を持つことが許されていたので、離婚しては別の女性と結婚を繰り返してその戒律を守ったということになっている。彼らは平気で離婚と結婚を繰り返し、離婚を非常に軽く考えていた。勿論結婚も彼らには同じことであった。

       主イエス・キリストの時代のユダヤ人も離婚をあまりにも軽く考える傾向があったので、キリストは、彼らの見解は実質上姦淫になると教えた(マタイの福音書5章32節、同19章3節)。「離婚、結婚、離婚、結婚を繰り返すような者は姦淫をしているのだ」と言われたのである。離婚のための正当な理由が全くないわけではない。旧約聖書には離婚の正しい理由が定められている。キリストはそれを否定してはいない。夫が姦淫をしているなら、あるいは妻が姦淫をしているなら、その事実が証明されれば、それは離婚の正当な理由として認められ、その離婚は罪とはならない。正しい理由による離婚は問題ではない。しかし、主イエス・キリストの時代のユダヤ人の場合はどんなに小さな理由でも、何でも理由さえあれば離婚をするのである。

       今日でいえば「性格の不一致があれば離婚してもいい」というようなものである。性格の不一致という理由は、結局ほとんどの場合が「20年間も連れ添ったが、もう倦怠期で退屈だし妻はもう美しくもなくなったし、もっと若い女がほしい」というのが本音なのである。このことはマラキ書にも出てくる。マラキ書2章に、神との契約を汚しているイスラエルのことが出てくる。それは結婚契約に対する裏切り、妻に対する裏切りに譬えられている。イスラエルとエルサレムが妻と離婚して若い外国の娘をめとったことが書かれている。そして、「わたしは、離婚を憎む(16節)」と神は言い給う。この問題が当時のイスラエルの中に満ちていたために、福音書の中で何度も取り扱われ、この問題に対するキリストの教えもはっきりした強いものとして与えられている。この2章22節でパウロはそのことを指して話しているのである。

       次に、神殿から物を盗むような話が出てくる。即ち「偶像を忌み嫌いながら、自分は神殿の物をかすめるのか」とある。ここの翻訳はちょっと難しい。「神殿の物をかすめる」という言葉は「神殿を汚す」と訳してもよい言葉である。恐らく「神殿の物をかすめる」というよりも、神殿における礼拝のあり方においてユダヤ人がまことの神を汚していることを指しているのだから、「神聖冒涜」と訳すのが最も良いだろう。これも福音書の中において強調されているポイントである。

       主イエス・キリストは荒野でサタンの誘惑と闘われた後、バプテスマを受けられてから後に、御自分の三年間の働きの初めに何をなさったかというと、まずエルサレムに行き、エルサレムの神殿を汚している者たちを神殿から追い出したのだ。その公生涯の始まり(ヨハネの福音書2章14節以下)と終り(マタイの福音書21章12節以下)の両方において、神殿に入られて、祈りの家を強盗の巣にしていた両替人たちを神殿から追い出したのである。当時のイスラエルの礼拝の仕方が神の神殿を汚す礼拝であったことをキリストはマタイの福音書23章で長く律法学者とパリサイ人たちに訴えて、攻撃するような凄まじい説教をしている。

       また、キリストが十字架上で死なれた時、御自分の神殿に対するユダヤ人の罪のゆえに、神が彼らから離れられたことを示すために神殿の幕が真二つに裂けたのである。イスラエルは神の神殿を汚していた。「偶像礼拝をしてはいけない」と人々に教えながら、本当の神の礼拝を汚している。それがキリストの見解である。パウロはここで、主イエス・キリストの訴えを短く簡潔に引用して訴えているのである。イスラエルは神の祭司の民であることを自分で誇りながらも神を汚すというどうしようもない大罪を犯している。それ故「どうして、自分を教えないのか」とパウロは訴えている。ユダヤ人は律法を誇っていると言いながら、律法に違反し、神を侮っているのだ。

       「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で汚されている」というのはイザヤ書からの引用である。イスラエルがそのような生活をしているために、神の御名が異邦人の中で汚されるのだ。祭司の働きはイスラエルの生き方とは全く正反対なものだ。祭司の働きは、自分の生活において神の栄光と誉れを表わすことによってそれを見た異邦人たちがイスラエルの神を信じるように導くためのものである。異邦人が彼らの生活を見て、イスラエルの神がどんなに偉大ですばらしい神なのかを知って神を求める筈であった。それが、全く逆になっている。イスラエルを見て、人々は神をばかにするようになっていた。その事を、イスラエルは知らなかったわけではない。正しさのためにばかにされたり迫害されることはあくまでもあるが、不義のゆえに嘲笑され、神の御名を汚すのとは全く違う話である。

       当時のイスラエルは神の誉れを表わさない。申命記4章6節で神はイスラエルが神の命令とおきてと定めを行なうように教えて「これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ』と言うであろう」と言われた。しかし、当時のイスラエルはそうではなかった。その結果、周りの国々はイスラエルを愚かと思って見下した。「その状態はイスラエルのどうしようもない罪の深さを表わしている」とパウロは言う。それ故、パウロがここで話しているのは、信仰から離れてしまったイスラエルのことなのである。

       そして、これは信仰から離れてしまった教会の状態でもある。御言葉を捨ててしまった教会は実に当時のユダヤ人と変わらない姿をしている。聖書を信じないアメリカのリベラルの教会の姿は、確かにそのような状態になっている。私がシカゴに住んでいた時、近くに大きな教会があった。建築物は非常にすばらしくて土地も広い。エバンストンというシカゴでも最高級邸宅地区にあったのだから、アメリカにしては非常に費用のかかる教会であったが、なんと牧師と牧師の五人目の妻がその教会の隣に住んでいたのである。最初の四人の妻たちと死別したわけではない。離婚を繰り返したのである。牧師ではない人たちもそのような有様になったりする。

       十九世紀末頃からアメリカは御言葉から離れていく傾向が強まり、二十世紀になると多くの教団が分裂してしまった。どのように分かれたかというと、聖書を信じるクリスチャンたちが追い出されてしまったのだ。聖書を信じない者たちが大学等の組織や施設をどんどん自分らのものにしていった。勿論、教会の建物などもどんどん自分たちの名義に変えていった。その目的を果たすためには、ずるい事をしたり、嘘もついたりして、どうしようもないことを平気でやってのけた。とても御言葉を信じて神を愛するような者ではない。御言葉を信じるクリスチャンたちは教会から追い出されてまたゼロからもう一度始めなければならなかった。それが二十世紀の最初のいろいろなグループの状態であった。

       よく知られている事だが、プリンストン大学とプリンストン神学校はもともと長老教会のものであった。イエール大学やハーバード大学も会衆派教会のものであった。それらは今、教会とは無関係のものになってしまった。自称クリスチャンだがクリスチャンではない者たちがそれを私物化し、離婚、姦淫、盗み、神の御名を汚す問題などが日常茶飯事としてまかり通っている所になってしまった。アメリカの普通の町の教会に行けば必ずファーストバプテスト教会、ファースト長老教会、ファーストメソジスト教会という名前の教会がある。「ファースト」の意味は、その町での最初のバプテスト教会とか最初のメソジスト教会とかいう意味であるが、「ファースト」が付く名前の教会は全部問題ある教会だと思えばまず間違いはない。その殆ど全部が御言葉から離れているのが普通なのだ。「ファースト」即ち「最初のもの」がそうになっているのである。それらの教会のリーダーたちは基本的に御言葉から離れている。勿論例外も少しはあるが、それがだいたい今のアメリカのすべての町の状態なのだ。 

       ここに言及されている罪は、ユダヤ人指導者たちが行なっていた罪だけでなく、キリストが彼らを叱責する時に弁護した罪でもあった。この箇所の要点は、これらの者たちが罪人であるというに留まらず、ユダヤ人指導者たちが自らの罪を悔い改めるどころか、罪を弁護し、キリストにあって彼らに提供された神の憐れみから離れ、ただただ自己の正当化を求めたことも含まれている。彼らは異邦人を騙すためのありとあらゆる方法を自分たちの利益のために考案したばかりでなく、自分たちの間においても、真の神礼拝を指導者らの金儲けの手段と変えてしまった。

       ユダヤ人の偽善は、自らを祭司そして真理を世に教える教師としての特別な働きをもって神に仕えるには相応しくない者とするほどに極端なものとして聖書の中に表わされている。自分をクリスチャンだと自称し、「神の啓示を持っている」とか「本当の神を知っている」とか言いながら、それらしい姿はどこにもない。そうであれば、ユダヤ人のゆえに神の御名は異邦人の間で汚されていたというのも無理からぬことである。

     

    ユダヤ人とキリスト者

       パウロがここでユダヤ人について述べている事柄のほとんどは、現在の教会にも適用されるものである。これはまさしく現代の教会の状態でもあると言わざるを得ない。パウロの時代も今の時代も、これが一般の信者よりむしろリーダーたちを中心に考えるべき問題であるのは事実である。イスラエルの中のすべてのユダヤ人がパリサイ人たちほど偽善者だったというわけではない。しかし、パリサイ人たちは福音書に書いてあるとおりの者であって、そこまで腐っていた。彼らは悔い改めるどころか、その罪を弁護するのである。実にどうしようもない悪しき者になっていた。今のアメリカのリベラルの教会のリーダーたちもまったくそれと同じである。聖書によると、これこそ悪者だという話になるわけである。聖書を否定する現代主義的教会も、聖書の離婚についての律法を水で薄め、神を礼拝することの真の意味を破壊してこれを汚し、多くの偽りの口実をもって神の民から盗みを働くがゆえに、キリストとパウロが宣告した罪について明らかに有罪である。

       しかし、今の教会の状態について語る時、福音派の教会もそれと同じ道を歩み始めていると言わなければならない。近年、福音派の教会もこの罪に巻き込まれている。御言葉を持っていることを誇っていながら、御言葉を学ばず、心にも刻まず、それに従おうともしない。御言葉を求めず、勉強もしない。神学校に行けば心理学を教えられ、教会経営などを教えられる。まるでビジネスマンになるための教育を神学校で受けているのである。デビッド・ウェールズはその事について本を書いており、神学校では御言葉そのものについては本当に教えられていないという問題を指摘している。

       今、福音派の教会は実に御言葉から離れていることを強く訴えて福音派の改革を訴える運動もアメリカで起こっている。福音派の中でさえ、離婚の問題は牧師やリーダーたちの中で問題となっている。裁判ざたにもなったベーカー氏の話はよく知られている。また、ツワイガードの問題もよく耳にしていると思う。アメリカの有名なテレビ伝道者の何人かは監獄に入れられ(主の御名のゆえではなく)、他の者は不道徳と詐欺のためにその指導的地位を追われた。それが今日の状態である。

       やもめのお金をかすめるという問題も実際に頻繁に起こっている。死んだら教会に財産を寄付するように積極的にやもめたちに求めたりする。相続の受益者を教会にすること、そして多くの献金をするように一生懸命働きかけたりする。悪い方法で求めたりもする。なぜなら、教会には多くの負債があるからである。そのような姿になり下がっている今日のアメリカの福音派は今どうにもならない状態にある。パウロはここでユダヤ人に対して訴えているが、現代ではユダヤ人がどうのこうのではなくて、「御言葉から離れてしまった神の教会はどうなのか」という問題になっているのである。

       しかし、そのレベルだけでこの箇所を読むのではまだ足りないということも言わなければならない。つまり、主イエス・キリストがマタイ福音書5章の山上の説教の中で教えた律法のレベルにおいて考える必要がある。ユダヤ人は表面的なレベルでもとんでもない大罪を犯している。今のリベラルの人たちもそうである。しかし、そのレベルで御言葉を読み、そして「あの人たちは悪い人だ」というところで説教を終えるならば、それこそとんでもない話である。神の律法(御言葉のすべて)は私たちに与えられているのだ。創世記から黙示録まで、神の御言葉はクリスチャンである私たちに与えられている。けれども、私たちの生活は本当に神の栄光と誉れを表わしているだろうか。

       周りの異邦人が私たちを見て、神を求めるようになっているだろうか。御言葉を持っていることに傲るだけで、実際に書かれてある意味を知らないのではないか。そのことを私たちはよくよく自己吟味する必要がある。「私は御言葉を信じます。勿論、創世記から黙示録まで全部信じます。はい、信じます。信じます」と言うけれど、毎日30分すら御言葉を学ぶ時間を持とうともしないのか。毎日御言葉を読み、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように御言葉を慕い求め、御言葉を真剣に瞑想し、心に刻み、そして神に祈る時間をもうけることができないというならば、あなたが御言葉に依り頼んでいるというのは本当だろうか。

       他の盲目の人に光を照らすことができるためには、先ず「自分に御言葉を教える」必要があるのだ。あなたは御言葉をもって自分を教えているだろうか。私たちは皆そこから始まらなければならない。改革は自分の心から始まるものだ。そうでなければ何も始まらない。常に、自分に対して改革を行なっている者であれば、家庭の中で改革を行なうこともできるし、教会の中でも改革を行なうことができるし、社会に対しても影響を与えることができるようになる。当時のユダヤ人のように、まず隣人に――というよりは最初から最後までただ隣人に――説教する専門家になってはいないだろうか。自分には説教しないというなら、まったく当時のパリサイ人と変わらないではないか。真剣にこの点において私たちは自己を省みる必要がある。

       ユダヤ人に対してこの事を話している中で、どんなに大きな特権が彼らに与えられているのかということをもパウロは指し示して、どんなに大きな働きができる筈なのかをも指し示している。しかし、ユダヤ人はそこから遠く遠く離れている。けれども、この特権、この祝福、神に仕える機会は、私たちにも与えられているのである。私たちがもし、このユダヤ人のような姿になってしまうならば、表面的にはどんなに良くても、決して神の民として実を結ぶことはできなくなるのだ。そのユダヤ人たちのようにならないためには何が大切なのかというと、「常に自分の罪を悔い改めて神の御言葉に戻る」ということに尽きるのだ。常に、悔い改める備えが出来ている。神に示されるならば、何時でもただちに悔い改めて神の御前にへりくだって御言葉に従うところに立ち帰る心の備えができていなければならない。自分の悔い改めが第一なのである。悔い改めがなければ、私たちはただの一歩も進むことはできないのである。

       コリントの教会を見るがよい。パウロはコリントの教会を「兄弟」と呼んでいる。ユダヤ人をパウロは「偽善者」と呼ぶ。コリントの教会とパリサイ人の違いはどこにあるというのか。ただ表面的に見るならば、場合によってはパリサイ人の方が道徳的に高いかも知れないのだ。いったい違いはどこにあるのか。それは、コリントの教会は「自分の罪を真剣に悔い改めている」という点である。時間が経つに連れてその違いは明らかになる。パリサイ人は続けて堕落の道を一直線に行くが、コリント教会は悔い改めて成長を求めていくならば、どんどん成長して行くことになる。

       今どこに在るのかということではなく、どこに向かっているのかが問題なのだ。神の御国への狭い道を、悔い改めつつキリストを信じる信仰によって歩んでいるのか。それとも地獄への広い道を歩んでいるのか。どの道を歩んでいるのか。それが本当の問題なのだ。それは表面的なことではなく、信仰の心の問題なのである。ユダヤ人が自分の罪を悔い改めてキリストを信じるならば勿論救われるし、異邦人も同じように救われるのである。そのような真の悔い改めにパウロはユダヤ人を導こうとしている。

       しかし、この箇所を読む時に、私たちも同じように、盗むこと、偶像礼拝のこと、姦淫すること、神の御名を汚すことについて、マタイの福音書5章に書いてあるその深い意味において考えるべきである。貪る心も盗むことに他ならないのである。これらを決して軽く考えてはならない。これらの罪を避ける唯一の道は、礼拝において神を真に崇め、日々の生活の中でその戒めを守ることである。日々の熱心な御言葉への服従により神への本当の愛を表わさないならば、神の御名によって誇ったところで何も意味はない。私たちの礼拝の心はどういう心なのだろうか。本当に神ご自身を喜んでいるのか。本当に神を愛して心からの礼拝を捧げているのか。妻を愛し、夫を愛し、お互いの祝福を心から求め合っているのか。主にある兄弟姉妹を本当に愛しているのか。そのことを真剣に考えて、私たちはまず自分を省み、自分の罪を悔い改めよう。そして真の悔い改めの心をもって神に礼拝を捧げるべきである。心を尽くして神を求め、この今の悪い時代に御旨を行なう心を神が私たちに賜わるよう、心から祈らずにおれない。

       聖餐式において私たちは自分の罪を悔い改めるけれども、いつも言っているように、それは「ああ、神さま。どうか私を許してください。私は少し足りませんでした」というような話ではない。モーセの十戒を基準としてもって、主イエス・キリストの山上の説教の説明に従ってモーセの十戒を十分に深く瞑想し、自分の心を探り、その奥にある罪を「反省」というようなレベルではなくて、本当に「悔い改める心」をもって聖餐式を一緒に受けたいと思う。

     

    ――1998年10月25日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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