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    ローマ人への手紙2章25節〜29節


    2:25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

    2:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。

    2:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

    2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

    2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からでなく、神から来るものです。

    98.11.1. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    割礼:真理と偽り

    2章25〜29節

    25もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。26もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。28外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。29かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

       この25〜29節の箇所は、私たちにとって、ある意味で特別に大切な箇所だと思う。これは「割礼」の話である。割礼は、新約聖書において頻繁に(動詞形と名詞形を合わせると合計50回以上)神学的に重要な文脈において登場する重要なテーマである。新約聖書で「割礼」がそれほどに強調されているという事実に気付くとき、神がアブラハムへの契約の印として割礼を与えたと書かれている創世記からではなくて、新約聖書から聖書を読み始める人たちは戸惑ってしまう。しかし、アブラハムからキリストの時まで割礼は「神の祭司の民の印」としての役割を果たしていたことを理解しなければならない。割礼は聖書において明らかに重要な儀式であり、その本来の重要性だけでなく、ユダヤ人の割礼の施し方が彼らの生き方を完全に描写するものであったがゆえに、パウロはかなりの注意を割礼に注いでいるのである。

       ユダヤ人の割礼に対する考え方は全く間違っていることをパウロは指摘している。彼らは、その生き方において割礼の真の意味を無視し、或は否定さえしながら、外見上の形を守ってそれを強調していた。しかし、変に聞こえるかもしれないが、その間違え方はある意味で正しいと言える。どんな意味においてユダヤ人の割礼の考え方は間違っているのかというと、割礼をあまりに重要なものとして考え過ぎる点である。しかし、それは軽く考えるよりはよい。割礼を軽く考えるならば、その間違え方でさえも間違いよりも深刻なことになるからである。神の契約の印を間違った方法で重んじ過ぎることは、少なくとも「大切にしている」という点では間違ってはいないのである。日本語になっていないかもしれないが、言わんとすることは理解してもらえると思う。

       ユダヤ人たちがどれほど割礼を重んじているかは今までもよく説明した通りである。あるラビの教えによると、「アブラハムは地獄の門に立っていて、割礼を受けた者が地獄に行くことのないように守っている」と言う話もある。「割礼を受けてさえいれば永遠に救われる」という考えがユダヤ人の中にあった。契約の印としての割礼を、そこまで重んじ、そこまで大切なものだという思いは持っていたのである。「割礼が実に大切なものであって神の契約の印だ」というのはいかにもその通りである。それを重んじるがあまり、ある意味で偏ってしまって間違いが出てしまう愚かさは理解できないわけではない。

     

    契約のしるし

       では、ユダヤ人はどうしてそのような間違いをしてしまったのだろうか。それは、割礼の本当の意味を忘れてしまったからである。割礼の本当の意味はいったいどこにあるのかというと、それは割礼そのものに表わされている。私たちはあまり“象徴的な世界観”を持っていないために、象徴に対する考え方がユダヤ人とは違うかもしれない。これはユダヤ人にはすぐに分かる筈のことである。割礼は「血を流す犠牲」である。血を流し、肉を切り取って捨てる儀式である。その意味を考えればユダヤ人であれば誰にでも分かる筈のことである。

       神が最初にアブラハムに割礼を与えられた時、その儀式の意味はかなり明白であった。アブラハムは、老齢のゆえに子を持つことは無理だと思っていたが(創世記17章17節)、神はサラによって一人の子――神の契約の息子となる奇跡の子――を約束された。割礼は、肉にあってはアブラハムは永遠に契約を相続する奇跡の子を生むことは不可能だという事実を指していた。「肉」が切り取られてはじめて、真の相続の子が生まれ得たのである。肉による生まれながらの者には「いのち」はない。肉を取り除いて新しいいのちを求めなくてはならない。つまり、割礼は、「死」と「復活」を表わす象徴として神がイスラエルに与えた儀式である。すべての犠牲制度はそのようなものである。

       「切られる」(詩篇90章6節、新改訳では「しおれて枯れる」に相当する言葉)とか「絶ち切る」(詩篇118篇10節)とも訳される「割礼」というへブル語は、割礼が血のいけにえであり、そのため古い契約の犠牲制度の一部であるという事実を指している。しかし、何を犠牲にしているのかというと、人間なのである。犠牲が行われるその「場所」も子供を産むことに関係している。つまり、割礼は人間の問題を取り扱っているのである。人間の心にある罪の問題を指してその儀式を行なっているわけである。

       割礼はまた、園におけるアダムとエバの罪を明らかに示すものであった(創世記3章)。彼らが罪を犯した時まず隠したのもその場所であった。彼らの恥はその隠し所に集中していた。割礼は、人間がまさに罪の恥を覚えた部分において「新たにされる」ことを表わしていた。だから、旧約聖書を読んで象徴的に考えるならば、それら全部が関連している行為だということはすぐに分かるものである。罪が表わされる所、罪を隠す所、もろもろの罪と係わる所、その部分の肉を切り取るのである。その割礼の儀式の意味をユダヤ人なら自然に考えるはずである。しかし、自然にそのことを考えることがないとしても、モーセ五書の申命記10章の16節のところでその意味はイスラエルのためにはっきり書き記されてあるのだ。

     

    あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

       ここで「心の包皮を切り捨てなさい」と言っているのは、「心の割礼をしなさい」という意味である。心の割礼をへブル語で「割礼」と呼んでいるのである。これはユダヤ人には明らかな事であった。自分の心の上に「」がある。つまり、アダムから相続した性質がある。それを取り除かなければ、御言葉は決して心の中に入って来ない。割礼はそのことを表わすものである。「」が取り除かれなければ、エバの裔は生まれて来ない。サタンの裔が生まれてしまう。そのような意味をユダヤ人たちは十分に理解していた筈である。割礼の本当の意味は、「新しく生まれる」ことなのである。割礼の本当の意味は、「」に対して死んで、神に対して生きることにある。旧約聖書の中には「耳の割礼」という言い方もある。あたかも耳の鼓膜に肉があって御言葉をふさいでしまうために何も御言葉は耳に入ってこないというような例をもって割礼の意味を説明している。

       割礼は人間の「」がその人の耳(エレミヤ書6章10節、使徒行伝7章51節、そして参照として出エジプト21章5〜6節、イザヤ書6章1節)と「」(レビ記26章4節、申命記10章16節、30章6節、エレミヤ書4章4節、9章2節、エズラ記44章7節と9節)を覆っているという事実を指すものであって、そのことによっていのちや知恵をもたらす神の御言葉が入っていけなくなっていることを指している。その肉を取り除かなければ、御言葉は入って来ない。割礼はそのようなことを表わす象徴的な儀式である。自分の耳に神の御言葉が入ってこないように罪という包皮が覆っている。その包皮を切り捨てなければ、御言葉を心に受け入れて心に刻むことはできない。それが割礼の本当の問題なのである。ユダヤ人は割礼を実際に行なう時に、そのことを覚えて行なっている筈なのである。そういう意味で、儀式は幼稚な時代の人々のためのものであって、その儀式を行なうことによってその儀式が教えようとする事を深く学ぶ筈であった。

       ユダヤ人が子供に割礼を与えるとき、どこか病院に行って子供の親にも見えないような手術室で行なったりはしない。割礼は家で行なわれていた。父親か、あるいはよく割礼を施していた年長者によって行われていた。儀式として行なっているので、手術室で密かにやるような事ではなく、大切な儀式としてそれを行ない、その意味を皆で考えながら行なうものであった。「割礼」は契約の印である。神から与えられた契約の印として割礼を行なうわけだから、意味を考えないで行なう筈はない。

       犠牲制度全体がそのようなものである。毎年、何回か、家長が羊の上に手を置き、自分の罪、そして自分の家族の罪を悔い改めて、刀を手に持ってその羊を殺さなければならないのである。神の御前で、その羊をほふるのである。私は羊を殺したことはないが、豚ならば屠殺した経験がある。文字通り血だらけになる。旧約の時代、羊を殺し、その皮を削ぎ、そのからだをバラバラに切り裂くのは父親の仕事である。「これは、私が受ける筈の裁きだ」ということを深く認識しながらその儀式を行なうのである。それを繰り返し、繰り返し、繰り返し、行なわなければならなかった。父親は一年の中で数回それをしなければならない。その家庭の事情によって回数の増減は決まるし、ささげる動物が羊でなく、鳩をささげる場合もある。雄牛をささげる場合もあるが、それこそ全身血だらけになる。ささげる動物の種類や量は事情によって異なるが、犠牲をささげる行為は繰り返し繰り返し行われなければならなかった。

       繰り返し繰り返し、自分の罪を悔い改めて刀を振り下ろして自分の身代わりである動物を殺さなければならないのである。祭司たちはもっと大変で、毎日、朝晩、羊をささげなけれならない。安息日にはそれを倍にしてささげなければならない。それが一年中続けられ、実に1500年間も続けられたのである。祭りの中で、場合によっては70頭の雄牛をほふってささげなければならない。繰り返し、罪を告白して、いけにえの動物を殺すのである。告白して殺す。告白して殺す。告白して殺す。これを1500年間も続ければいい加減その意味を考える筈だということが前提となって犠牲制度は与えられている。

       割礼も同じである。意味を考えるために与えられた儀式である。しかし、罪人はどういうものかというと、心の割礼がなければ、儀式そのものを重んじて儀式の意味を忘れることができるほどに心が鈍感で愚かな者なのだ。それで、キリストの時代のユダヤ人はどうなったかというと、「割礼。割礼。割礼」と言って割礼を強調するけれども、その意味を考えようとはしない。意味を深く考えないために、割礼を熱心に行なっていながら、その意味を曲げて割礼そのものを駄目にしてしまうようなことになってしまった。

       パウロの時代になるともっと複雑になっていた。クリスチャンに改宗するユダヤ人がどんどん出てくるようになった。彼らがクリスチャンになったとき、「アブラハム契約の祝福が異邦人にも与えられたのだから、異邦人は割礼を受けなければならない」というつながりで誰もが考えてしまうものであった。この誤解はいとも簡単に生じてしまうものであった。異端を作りたければ、いとも簡単に御言葉からその論点を展開することができる。だから、誤解は起きやすかったし、実際にその誤解はあった。それ故、教会は使徒行伝の15章のところで実際にその問題を取り扱わなければならなかったのである。

       ユダヤ人がクリスチャンになって教会に来るようになると「異邦人もアブラハム契約にあずかる者になるならば、アブラハム契約の“印”を受けなければならない」と考えてしまう傾向があった。しかし、ガラテヤ人への手紙でパウロが説明しているように、異邦人は直接アブラハム契約に入ってはいないのである。異邦人は、ただ主イエス・キリストを通してアブラハムの契約に入るのである。異邦人のクリスチャンたちは、キリストにあって真の意味での“割礼”を既に受けているのである。主イエス・キリストにあって旧約聖書のすべての犠牲制度は成就されたのだ。主イエス・キリストが世に来られた意味、そして主イエス・キリストが十字架上で死んでくださった意味は、犠牲制度のすべてを完全に成就するものであった。すべての犠牲制度の意味はキリストにあったのだ。キリストの意味が犠牲制度にあるのではない。

       「今でもいけにえを行なわなければならない」と言うならば、すべてが本末転倒になってしまうことになる。1500年間も犠牲制度や割礼を行なってきたイスラエルが理解しなければならないポイントは、「十字架の死」なのである。自分の罪のゆえに、私たち一人ひとりは、神の御怒りを受けて死ななければならない者なのである。間違ってはならない。「死ななければならない」とは、“永遠の死”の話なのである。肉体の死の話ではない。罪人となった人類は神の永遠の御怒りを受けるべき者なのである。それを神は犠牲制度において1500年間かけてイスラエルに教えようとされた。時至って主イエス・キリストがそのすべてを成就してくださったのに、それを理解もせずに、「続けていけにえをささげなければならない」と教えるユダヤ人たちが現われる。それで「割礼の意味がぜんぜん解っていない」という話になるわけである。そして、この問題は当時の教会において実に大きい問題であった。使徒行伝の中でも、ローマ人への手紙以外の新約聖書の箇所にもよく出て来る問題なのである。

       そのように、割礼の問題は非常に大きく、その意味は実に深い。私たちは「また割礼の話か。それはもう昔の話じゃないか」というふうに考えるべきではない。割礼は、クリスチャンなら誰もが真剣に考えるべき大切な問題として御言葉の中で取り扱われている。それ故パウロは割礼を受けた者たちに対して、「もし律法を守らないならば、その割礼は無割礼になったのではないか」と訴える。律法にそむいているなら、それは割礼の意味をひっくり返してしまっているのである。割礼の意味は、肉体の包皮を取り除くということにあるのではなくて、「心の包皮を取り除く」ことにある。それ故、本当の意味での割礼を受けなければだめなのである。本当の割礼はどのように表わされるかというと、律法を守ることによって表わされるのだとパウロは説明する。

       なぜここで律法を守る話を持ちださなければならないのか。これは「神を愛する」ことについての話だからである。ぜんぜん律法主義的な話ではないし、「もし律法を守ることができたら義と認められる」という仮説的な話でもない。パウロがここで話しているのは、割礼の本当の意味は「心の割礼」なのであって、「心の割礼」を受けた者は詩篇119篇に出てくるような心を持つようになるということである。心の割礼を受けたのであれば、「主よ。私はあなたを愛します。あなたの御教えを愛します。あなたの御教えとおきては私にとって何にも増して大切で、私はいつもその戒めに思いを潜め、あなたのおきてを喜び、それを守ります。試練を与えてくださったことも私は喜びます。なぜなら、苦しみによって、私はあなたのおきてを学んだからです。試練によって、あなたの御言葉を守ることを学んだからです。まことに、御言葉は私を生かします。どうか私に悟りを与えて、私があなたの仰せを学ぶようにしてください。私はあなたの御言葉を慕っています。私はあなたの定めから離れません。私のくちびるに賛美があふれるようにしてください」と神に祈る心を持つ筈である。

       心の割礼を受けた者は、すべての事において神ご自身とその御言葉のところに戻る筈である。すべてにおいて神ご自身が中心である。それが律法を守ることである。それが割礼の本当の意味である。それが、罪に対して死んで、神に対して生きることなのである。だから、「儀式を一生懸命行なっていても、その儀式の本当の意味を守らないならば、その儀式を殺してしまったことになりはしないか」とパウロは訴えているのだ。「あなたの割礼は無割礼となったのだ」と。実にそのとおりである。 

       「律法への不従順によって契約を破る者は、事実上自らの割礼を無きものにしている」とパウロが書いたとき、彼は特に、例えばエゼキエル書にあるような預言者のテーマを繰り返し語っているのである(エゼキエル書28章10節、31章18節、32章19節以下、44章7節と9節、そして参照としてエレミヤ書9章25〜26節)。契約の印をその身に負っているユダヤ人が神の御前で無割礼の異邦人と全く同じ立場に立つということがポイントなのではない。事実、パウロはキリストと同じように、彼らが割礼を持っているという事実が彼ら自身に対する証言となり、それは彼らにより大きな罪と裁きをもたらすことを示唆しているということなのだ。パウロの要点は、ユダヤ人が彼らの生き方によって彼らの割礼の意味に逆らうとき、割礼はもはや彼らにとって益とはならないということなのである。彼らはもはや神の特別な祭司の民と見做されることは無いし、祭司職の祝福を楽しむこともないのである。

     

    無割礼とされた割礼

       続く26節で「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか」とある。神が、割礼の意味を守っている者をご覧になるときに、その者が割礼を受けていなくても、神はその人を割礼を受けた者と見做して受け入れてくださるのだ、とパウロは言っている。これは明らかに、割礼を受けていないけれども神の律法を守っている異邦人の話をしているのである。神の契約を守る異邦人は契約の印を持たなくとも、彼らは本当に神の民である。神の律法への従順は、彼らの耳と心が神の御言葉に対して開かれていることを表わしているからである。

       ローマの教会の中にはユダヤ人も異邦人もいる。ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人たちを見下す傾向もあった。異邦人の方も、割礼を受けているユダヤ人を見下す傾向があった。罪人は、割礼という一つの事によって、このようにすぐに間違った思いを抱くことのできるものである。その小さな肉のかけらについて、大きな問題を起こすものなのである。それ故、パウロはここでユダヤ人に対して訴えている。これはクリスチャンではないユダヤ人に対する訴えでもあるが、クリスチャンのユダヤ人たちも割礼をどう考えるべきかを正しく理解するためにも書かれている。割礼を正しく理解するならば、異邦人が御言葉を守っていればその者はまさに真の神を畏れて神を礼拝する者であることを認めなければならないのである。 

       原則としてならば、律法を知っていたユダヤ人なら誰でもこの点を認めたであろう。にもかかわらず、特にパウロが「これらの無割礼の異邦人が彼らを裁くことになる」と付け加えると、それはユダヤ人にとっては受け入れがたいものとなる。「真の割礼は外見上のものでなく内面的なものであり、心の割礼こそ割礼である。ユダヤ人は、神の律法と契約の儀式は持っていても、律法の心を行なわず、文字にのみ従っているがゆえに、真の割礼の祝福を捨ててしまったのだ」とパウロは結論づける。彼らが求めたのは人間からの称賛であって、神からの称賛ではなかった(ヨハネの福音書5章44節)。ユダヤ人がその儀式と共に滅びる一方で、律法を守った異邦人たち、即ちクリスチャンたちは「真のユダヤ人」「真の割礼ある者」として神に受け入れられるのである。

       ここで、パウロの議論は二つの重要な役目を果たしている。第一に、それはユダヤ人が確信を持っている領域においてこそ彼らの救いが失われていることを彼らに理解させるものである。パウロは、「割礼を受けた者はゲヘナに落ちることはない」とか「終りの時にアブラハムがゲヘナの入り口にいて、割礼を受けたイスラエル人が一人もそこに落ちないように守ってくれる」と宣言していたユダヤ人教師の偽善と愚かさを暴いたのである。第二に、パウロの議論はキリストに立ち返る異邦人は割礼を受けるべきだと言い張っていたユダヤ主義キリスト者を論駁する役割をも果たしている。要するに、「割礼の意味をその生活において実際に守り行なっているのであれば、彼らは真に割礼を受けた者として神に受け入れられないだろうか」とパウロは問うているのである。

     

    割礼と洗礼 

       これは新約聖書の時代に限られたことではない。ここに割礼とバプテスマの大きな違いがあることを覚えていただきたい。旧約聖書の時代であっても、「救いを受けるためには割礼を受けなければならない」という話はないのである。女性は割礼を受けはしない。アフリカの一部に見られる残酷な儀式には女性の割礼をする習慣があるが、聖書にそのような儀式はない。女性はあくまでも割礼を受けることはない。異邦人はどうなのかというと、旧約聖書には異邦人が救われた時には割礼を受けなければならないというような定めはない。

       モーセの姑イテロは割礼を受けていない可能性は高い。アブラハムの関係で受けている可能性もあるが、それは定かではない。ミデアン人はアブラハムの晩年の妻ケトラから出ているので、或は割礼を受けているかも知れない。エジプト人は割礼を守っていた。しかし、メルキゼデクは割礼を受けている筈はない。アブラハムは、その割礼を受けていないメルキゼデクを神を畏れる者として敬い、メルキゼデクの下に立って神に礼拝をささげたのである。旧約の時代で、クリスチャンになったから割礼を受けなければならないということはなかったのである。

       それでは割礼は何なのか。割礼は、アブラハムの子孫が守るようにと命じられた儀式であり、それはアブラハムの子孫が「祭司の民である」という“印”としてイスラエルに与えられたものであった。旧約聖書の中でも、異邦人が神の律法に教えられている倫理と定めを正しく守るならば、それは「心の割礼」を受けた者として認められていた。それはモーセの時代でもダビデの時代でも、どの時代であってもそうであった。 

       ダビデはツロの王ヒラムと神殿を作るために話し合い、ツロの王は神殿の建築の為に莫大な献金をした。なぜダビデはその献金を受け入れたのか。ダビデはクリスチャンでもない人から巨額の献金を求めたのだろうか。そうではない。その人の献金を受けたということは、その人が真の神を信じる者として自分たちをイスラエルの神の下に置いて献金しているからである。シドンの王も神殿の建設に大変な貢献をした。しかし、ツロの王に対してもシドンの王に対しても「割礼を受けなさい」というような話は旧約聖書のどこにもないのである。

       割礼はそういう意味でバプテスマとは違うものである。旧約聖書でアブラハムから主イエス・キリストの時代までの祭司の印はイスラエルの男性のためのものであった。異邦人がイスラエル人になりたければ、割礼を受けてイスラエル籍に入ることができる。そういう意味では、アブラハムの子孫は、旧約聖書の時代であっても“肉による”だけの子孫ではなかったのだ。カレブがその良い例である。カレブは元々はカナン人であったが、割礼を受けてイスラエル人になった有名な人物である。割礼は「神の祭司の民」ということを意味する印なのである。

       しかし、新しい契約には特別な祝福が与えられている。その祝福は、その祝福とは、「主イエス・キリストにある者はすべて祭司である」ということである。主イエス・キリストを信じるすべての人には神の至聖所に入る特権が与えられている。私は肉によるアブラハムの子孫ではないし、アロンの子孫でもない。アロンの長子の子孫でもないのに、アロンの長子に与えられている特権を私も受けている。ドイツ系、アイルランド系、スコットランド系の野蛮人の子孫であるこの私が、イスラエルの中でも非常に特別な者しか受けることのできなかった特権を受けている。「祭司の特権」がこの私に与えられているのである。私には至聖所に入ることが許されている。クリスチャンの女性たちも皆、神の至聖所に入ることができる。子供たちも皆、至聖所に入ることができるのだ。それが「バプテスマ」の意味なのである。キリストにあって、信じる者すべてが祭司となった。そういう意味でバプテスマと割礼の違いを正しく理解するのであれば、バプテスマの意味の素晴らしさと深さを本当に感じないではおれない筈である。その特権が私たちクリスチャンのみんなに与えられているのである。

       エペソ人への手紙の2章の学びでこのことについて勉強したのを覚えているだろうか。私たち皆が、キリストにあって至聖所に入る特権が与えられている。キリストは唯一の大祭司である。しかし、契約にあって私たちはキリストと一つである。だから私たちには至聖所に入る特権が与えられている。その意味においてバプテスマと割礼には大きなそして大切な違いがあることを覚えなければならない。それで、パウロの時代でもモーセの時代でも、異邦人が割礼を受けなければならない定めはないのである。旧約聖書をよく知っているのであれば、異邦人にとっての問題は「心の割礼」であって、肉の割礼ではないことは明白である。しかし、ユダヤ人にとっても一番大切なのは「心の割礼」なのだ。ユダヤ人は肉の割礼を受けて、異邦人は心の割礼を受ける。それだから神はユダヤ人を選んだ、ということではない。肉の割礼は「心の割礼」を大切にすることを教えるための儀式なのだ。だからパウロはここで、「異邦人が神を愛して神の御言葉を守るならば、これこそ本当の割礼なのだ」と教えているのである。

       27節で「また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか」とパウロは言う。ここで「文字」と訳されている「グラファース」という言葉はときに「聖書」とも訳されている。英語では"scripture"という意味の言葉である。だから、「律法の文字」とあるのは、「これは御言葉の話なのだ」ということを教えるためである。なぜここでこの言葉を「聖書」と訳さないのかというと、これは旧約聖書を指しているであって新約聖書は含まれないし、「聖書」というと旧新両約という問題もあるのでそのように訳さなかったのであろう。しかし、直接の意味は「聖書」である。

       ユダヤ人は聖書も持っている。割礼の儀式も持っている。けれども、その両方をも正しく用いることをしないのである。そのような者は結局、神の律法を愛してそれを大切にする者によってさばかれることになる。その意味は、割礼を受けた異邦人が座ってユダヤ人を裁くというようなことではない。その意味は、最後の裁きの日に神の裁きの御座の前で二人が並ぶ時、マタイの福音書25章にもあるように、本当の意味でキリストを愛してキリストの命令を守った者たちは永遠のいのちに入って御国を受け継ぎ、信じるとは名ばかりの者たち(神の民であったのに神の命令を守らなかった者たち)は永遠の刑罰に入るのである。「その二人が並ぶ時、その違いが示されることによって偽りの者たちは裁かれることになる」とパウロは言っているのである。

       そして、28節〜29節で「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」とパウロは説明している。これは申命記10章16節に記されていることである。「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない」とある。本当の割礼は「心の割礼」である。申命記30章6節にも出てくるし、エレミヤ書4章4節などにも出てくる。「心の割礼」は旧約聖書の数カ所に記されている。本当の割礼は心の割礼である。本当のユダヤ人は心の包皮を切り捨てた者である。その事をパウロは話して、割礼だけに依り頼むユダヤ人の曲がった心を取り扱うのである。罪人はいとも簡単にこのような者になってしまうものだ。それは罪人の現実である。そのことは私たちも痛いほど理解している筈である。割礼は契約に入る儀式であり、それゆえにバプテスマに相当するものである。キリスト教史の悲劇は、儀式において偽りの確信を抱くというユダヤ人の過ちをクリスチャンが繰り返し、ユダヤ人が割礼を歪曲したのと同じようにクリスチャンもバプテスマの本当の意味を見失っていることにある。

       なぜ「痛いほど理解している筈だ」と言うのか。それは、この事に関しては、教会歴史における二つの大きな問題があるからである。パウロの時代の教会の話ではない。それはバプテスマについての問題である。昔の教会では、バプテスマがあまりに救いに密接に係わっているために、一部の人々は受洗後に犯す罪によって救いの効力を失ってしまうのを恐れて、死ぬ間際まで洗礼を延期したりしたほどである。バプテスマを非常に大切にしたがために、「バプテスマ」=「救い」という極端な考え方になってしまった。ローマン・カトリックの教会はまさにその通りのものになってしまった。ローマン・カトリックは洗礼を行なうこと自体によってその水が御恵みを授けるのだと教える。その儀式は受洗者に御恵みを“注ぎ込む”奇跡ということになる。それで「バプテスマさえあれば救われる」という考えになってしまった。

       そして、「バプテスマさえあれば救われる」ということの上に更に成人するための儀式を加えて「それがあれば救われる」ということになる。その上に更に、「毎週のミサ(懺悔)を守れば救われる」という話になる。そのようにして、最終的に五つの儀式を守るならば救われるという話になってしまった。なぜそうなったかというと、「バプテスマさえあれば救われる」というのでは教会にとっていかにも不都合だったからである。例えば、赤ちゃんがバプテスマを受ける場合、バプテスマを受けた後は何もしなくても救われてしまうことになる。それでは都合が悪い。それで、幾つかの儀式を上乗せして、「それら全部を守らなければ救われない」ということにしたのである。その一連の最後の儀式は、死ぬ前に油を注ぐ儀式というものである。それで、出産から墓場に至るまで、教会の儀式を守るのでなければ救われないということになり、ついには「教会は儀式を行なうことによって救いを与える」ということになってしまった。これは実にとんでもない話である。バプテスマの意味は曲げられてしまい、「救いは神から与えられる」というよりも「救いは教会から与えられる」という事になってしまった。そこから「儀式だけで救われる」という考え方にまで発展してしまったのである。

       これは、教会の歴史の中で実に大きな問題である。こんどはそれに反対するために、「バプテスマを受けることによって救われるのではなく、信仰のみによって救われる」ことが強調されるようになった。そこまではいいのだが、更に、突っ走って「だから、バプテスマはどうでもよい」という話にまで発展してしまうのである。極端な者たちは「バプテスマなんかどうでもいい」と叫ぶ。私が最初に行っていた教会はその極端な立場を取っていた。「バプテスマなんか受けない方がいい」というところにまで行ってしまったのである。バプテスマの意味が曲げられて利用されるために、それに強く反発した結果、バプテスマそのものに対して闘ってしまうようなことになった。

       バプテスト派系の教会はある意味でその傾向を表わすものになっている。バプテスマを既に救われている者のみに属するものとして考え、その為に受洗前に信仰の告白を要求する。子供たちにバプテスマを与えず、救いを受けたことを証明できた者にのみバプテスマを与えるべきだと考えるのである。「バプテスマは契約の印である」とは考えないで、「バプテスマは、その人自身が救いを受けた印として与えるものであり、救いを得たことが証明できた後で授けるものだ」と考えるようになってしまった。厳格なバプテスト派では、“確実な”信仰告白を要求し、バプテスマを受けさせる前に悔い改めの証拠として生活が変わることを要求する。それで、「契約」の意味が失われてしまったのである。結局ローマン・カトリックと根本的に同じような問題になってしまっている。バプテスト派は、自分たちをローマン・カトリック教会と根本的に立場を異にするものだと主張する一方で、バプテスマと救いの根本的関連についてはローマン・カトリックと事実上見解が一致しているのである。

       つまり、結論的には「バプテスマ」=「救い」なのである。ローマン・カトリックでは、儀式によって自動的に救いが与えられるという意味で「バプテスマ」=「救い」となっているが、バプテスト派の教会は「救いを受けた者のみがバプテスマを受ける」ということで「バプテスマ」=「救い」となる。一方はバプテスマを「救いを授ける儀式」と看做し、他方は「公けに救いを証する儀式」として考えている。だから、結局「バプテスマを受けた者は救われた者である」という話になってしまいがちなのだ。バプテスト派の教会もローマン・カトリックの教会も、バプテスマと救いを同じものであるかのように考えている。それで、どちらの考え方もおかしいと言わなければならない。

       以前アメリカでよく人々の家を訪問して福音を伝えたりしたが、ローマン・カトリックの家を訪れて「あなたはクリスチャンですか」と聞くと、「はい。私はバプテスマを受けていますから」という答えで、もうそれ以上話を聞こうともしなくなる。しかし、私はバプテスト教会の長老の家に行って同じ経験をしたのである。「はい。私はバプテスマを受けたし、バプテスト教会の長老です。あなたと話すことなんかない」と言って聖書について話そうともしなかったのである。「バプテスマを受けた。だから私はもう救われている」と、大胆にはっきり言い切る。この考え方はバプテスト教会の中に根強くあるのは事実である。「救われている者でなければバプテスマを受けることは許されない」ということが理解の前提となっているので、「バプテスマ」=「救い」という確信を彼らは持っている。

       さて、確かにバプテスマは割礼と同様に救いに関っている儀式である。割礼の意味は、死んで、復活して、新しいいのちが与えられることにあるのは事実である。それは神の契約を表わしている。バプテスマの意味も同じである。聖書における救いはあくまでも「契約的」なものなのだ。神の御恵みは儀式的に吹き込まれるわけではないし、単に個人主義的な“霊的”方法で与えられるわけでもない。そうではなくて、「神の契約を通して与えられる」ものなのである。この認識は重大である。私たちの神は契約の神であられる。神との関係のすべては契約的なものなのだ。

       バプテスマは、神の新しい契約の民の上に、天から注がれる御霊の約束を象徴している。ちょうど古い契約の民が信仰と愛と良き行ないとによって契約のうちに留まるよう命じられたのと同じように、今日の神の民は、神を愛し、真の交わりによって神と共に歩むことが命じられている。神の御恵みの契約を尊ばず、その契約を捨てる者は、彼らのバプテスマを無意味にしているのであり、自らに契約の呪いをもたらしているのである。「契約関係」とは、換言すれば「生きた現実」なのだ。バプテスマは人を神との契約に導き入れる契約の儀式である。その契約を真剣に受け留めてこれを守り、神の御言葉を行ない、真理のうちに神と共に歩む者が救われるのである。

       真の意味で契約に入っている者と、ただ外見上で契約に入っている者との区別はあくまでもある。勿論バプテスト教会にもそれはあるし、ローマン・カトリックの教会の中にもある。しかし、私たちはバプテスト教会ではないし、ローマン・カトリック教会でもないので、その人たちの問題について一生懸命になって話さなくてもいい。そう言えばもう何が言いたいのか分かる筈だと思うが、問題は長老教会である。つまり、私たちなのだ。160年前のアメリカのことを考えてみてほしい。160年前に遡って考えると、ニューヨーク州にユニオン神学校があり、バージニア州にも同じ名前のユニオン神学校がある。そして、ニュージャージ州にはプリンストン神学校がある。これらはすべて長老教会の神学校であり、すべての面で実に素晴らしい所であった。

       学問においてあまりにも素晴らしいものであったので、今もリベラルの学者たちでさえ聖書の学問に関する文献を集めて本を出版する時には、聖書を神の誤りのない御言葉として信じるその十九世紀の時の論文を引用したりして出版しているのである。あまりにも優れているからである。ベンジャミン・ブレッキンリジ・ウォーフィールドが書いた記事はリベラルな人たちの書物の中にも頻繁に出てくる。それはウォーフィールドがリベラルと同じ信仰だからというわけではない。あまりにも学問的に優れていて、クリスチャンとしても立派であるから無視できないのである。ウィリアム・G・T・シェッド、チャールズ・ホッジ、アーチバルド・アレグザーンダ・ホッジ、ロバート・ルーイス・ダブニ、ウィリアム・グリーンなど、これらの尊敬すべき神学者たちはみな長老派教会の学者であった。

       しかし、二十世紀のアメリカになると、長老派教会は非常にちっぽけな存在になっている。バプテスト教会とメソジスト教会が一番大きくなっている。リベラルにおいてはメソジスト教会が一番大きいだろう。聖書を信じる教会においてはバプテスト教会が一番大きい。なぜ、長老派教会は小さいのか。なぜ、これほど優れた神学者が大勢与えられていて、素晴らしい神学校もあるのに、長老教会は伸びなかったのか。これらの神学者たちは学問において素晴らしかっただけではない。クリスチャンとして、本当に教会の歴史の中で、信仰の強さにおいて、祈りにおいて、へりくだった心を持つことにおいて、実生活において、すべてにおいて立派で目立つ人たちなのだ。私たちはこの人たちと並べられると、恥を覚えずにはおれない。自分がどんなに足りない未熟者であるかを感じて恥ずかしくなる。それほど素晴らしい信仰の先輩たちが大勢いるのに、一世紀経ってみると、この人たちの子孫はいない、或は、非常に少ないのだ。いったいどうしたというのか。

       先に言った「神の契約を守り、神の御言葉に従い、それを行ない、神と共に歩む」ということは具体的にはどういうことなのだろうか。それが問題である。その歩みとは、私たちが御旨に従う次世代を訓練することをも意味しているのである。教会はその真の意味においてこれを怠ってきた。神はアブラハムを選ばれた時、次のように仰せられた。「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて、主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである」(創世記18章19節)。子孫が神に従うように教えることにおけるアブラハムの忠実さ、それが契約を守る意味の本質的な部分であったのだ。子孫を教える忠実さが先ず契約において要求されているのである。

       また、神は、御自分の契約を荒野のユダヤ人たちに与えられた時、その律法を彼らの心に刻み、子供たちに熱心に教え込むように命じられた(申命記6章6節以下)。更に「神の律法を子供たちに教え込みなさい」というこの命令は、契約の忠実のまさに本質と思われる。なぜならば、その文脈において、それは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)という命令の意味するところを具体的に表現したものとなっているからである。

       実は、十九世紀の終りに、アーチバルド・アレグザーンダ・ホッジとロバート・ルーイス・ダブニは長老教会に対して強い警告をしていたのである。その警告とは、「子供たちの教育をクリスチャンではない人たちに任せてしまえば、大きな大きな失敗をすることになるだろう。そして、教会は堕落するであろう」というものであった。しかし、教会はその警告に耳をかさなかった。子供たちにバプテスマを授けさえすれば、それでもう契約の子供だと思って、もう絶対に救われると思い、申命記6章に書いてある神の命令を守ろうとはしない。子供たちにバプテスマを与えればそれでもう大丈夫という確信を持っていた。その結果どうなったかというと、子供たちの大部分が離れて行ってしまったのである。

       それを見たバプテスト教会は、「だから、子供たちにバプテスマを授けることに特別な意味などないのは明らかである。長老教会の子供たちだって私たちの子供たちと同じように殆どが教会から離れて行くではないか」と思っていたである。「子供たちにバプテスマを与えるとか、契約の子供とか、そんな言い方には何も意味はない」と、バプテスト教会は長老教会に対して訴える。「実に、その通り」である。律法を守っていないからである。申命記6章にあるとおり、律法の最も中心は、「主をおのれの主として愛し、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を自分の神として愛しなさい。そして、神の御言葉を、自分の心に刻みなさい。それから、自分の子たちに一生懸命それを教え込みなさい」ということなのだ。それを、長老教会はしなかった。それをしていないがために、神の懲らしめを受けているのである。

       今はその懲らしめを受けている状態にある。そして、その状態について長老派教会の牧師と話しても、その事を認めようとはしない。子供たちの80%が神から離れても、90%が離れても、それは自分たちに対する神の裁きであり、神からの懲らしめだとは認めない傾向がある。そうであれば、悔い改めて成長することもできないのだ。神の御言葉を守るところに祝福があるということを深く覚え、子供たちにバプテスマを授ける聖書的な意味を本当に正しく理解するのであれば、私たちはその子供たちに一生懸命御言葉を教える筈である。

       子供たちが神から離れ、神を求めないとき、私たちはまず自分を省みなければならない。自分たちが神の契約に忠実であったかどうかを真剣に問わなければならない。バプテスト派やローマン・カトリックが長老派教会の教えに納得しないという事実は、一つには長老派教会が神の明らかな祝福を現実として指し示すことができていないという事実に見出されることは疑いようがない。もしも長老派教会が子供たちを育てることにおいて神に忠実であったならば、神の契約の御力は目に見えるものとなり、彼らの証しには説得力があるだろう。「これを守りなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、『この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ』と言うであろう」(申命記4章6節)。

       私たちが実際に神の命じたことを守り行ない、神の祝福を経験するまでは、私たちには他の者たちを教える資格はない。もしも私たちが、何が正しいかを知っていると思うなら、何よりもまず謙遜と畏れとをもって真理を実践し、神にその御恵みと祝福とを祈り求める必要がある。それは、すべての領域においてそうあるべきである。私たちの行ないではなく、神の御恵みのみが救いを与えるからである。そして、もしも私たちがへりくだって神に仕え、神を求めるならば、神は私たちを用いて御自分の契約の慈しみの模範としてくださるであろう。

       教会においては、どのような教育を子供に与えるかは家長によって考えは違ってもそれは問題ではない。問題は、本当に御言葉を教えているかどうかにある。どんな方法を選ぶにしても、どんな形を取るにしても、御言葉そのものを一生懸命教えなければ絶対に駄目であって神の祝福は受けられない。神を愛する心を子供たちに伝えるには、御言葉の教えが不可欠である。私たちはまず自分が御言葉を守って、それを子供たちに教えることになる。表面的なことにばかり確信を持ってしまって、本質的なことを守らない。それが罪人の傾向である。「罪人の傾向」とは、あなたの傾向のことである。そして私の傾向の話なのだ。私たちこそ、本当に神を畏れて、神の御恵みを求めて、一生懸命に御言葉を守るように、子供たちを訓練しなければならない。

       マタイの福音書28章にあるのはこのことである。バプテスマを授けるということは「神を信じてキリストの命令を守るように教えて訓練すること」なのである。このことをしないならば、私たちはバプテスマの意味をまったく壊しているのである。当然、バプテスマの意味を壊してしまえば、表面的にその形を守っていても神の祝福は受けられないことになる。この事も誤解しないように気を付けてほしい。例え、私が朝から晩まで、家の中で詩篇119篇を叫びながら歩き回るとしても、20年間続けて子供たちに御言葉を教えるとしても、それで自動的に祝福が得られるわけではない。罪人はあくまでも「この事をすれば、救われる」というふうに考えがちなものであるが、何か、割礼を受けたら救われるとか、律法を守れば救われるとか、そんな話ではないのである。

       先程言ったように、救いは恵みなのだ。本当の意味で御言葉を守るとはどういうことなのか。心から神を畏れ、神を愛し、子供たちに正しい教育を与えるとはどういうことなのだろうか。それは、何よりも、何よりも、神を畏れる心を見せることなのだ。自分の罪を憎み、自分の罪を悔い改める心を実際に見せるのである。ただ口で話すだけではない。御言葉を教えるにはしゃべる必要もあるけれども、しゃべるだけではなくて、実際に自分の行動において、へりくだった心を持って神を畏れる者として生きることによって子供たちに教育を与えなくてはならない。

       モーセも申命記6章でそのことを命じている。「あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、御言葉を唱えなさい」とモーセは教えている。これはそういう意味なのである。それは、子供たちが「おはようございます」と挨拶したら、お坊さんがかしこまって念仏を唱えるように御言葉を唱えて応じてあげるというようなことではない。心から、御言葉に従った生き方を見せなければだめなのだ。実際に神を畏れる生き方を模範として示さなければ、教育にはならないのである。それによって子供たちは父や母を見て、「この父と母にとって何よりも大切なのは神ご自身なのだ」ということを知るようになる。彼らが大きくなって、道を歩いていてインタビューされて「あなたはお父さんとお母さんをどう思いますか。彼らから何を学びましたか。お父さんとお母さんはどういう人ですか」と聞かれた時に、子供たちは一言で答えることができるに違いない。「私のお父さんとお母さんは、神を愛する者でした。父と母は、神の御言葉を何よりも大切にしていた人でした。私のお父さんとお母さんは神を畏れる人でした」と。子供たちがそのように答えることが出来るように、子供たちを教育し、割礼の本当の意味であるところの「神を愛し神を畏れる心」を、私たちは相続として彼らに与えるのである。

       このことを長老派教会はやっていなかった。それをしていないために、長老派教会は実際の行動における証しを持っていない。神学ならば、長老派教会はどの教派よりも優れている。それは今日でも変わらない。勿論バプテスト教会にも優れた学者は沢山いるし、英国国教会にもいる。彼らの著作を私も読んでいる。しかし、本当に御言葉の意味を最も深く教えているのは長老派教会である。しかし、いかんせん行動において足りないのである。だから、証しにおいても優ってはいない。これが私たちにとって考えなければならない重大な問題である。私たちには、本当に神の御言葉を守り行なう者としての証しが必要なのだ。

       勿論、御言葉に書いてある神の細かい命令もそうであるが、この2章29節の最後の所に出てくる言葉は特に大切なものである。即ち29節は「その誉れは、人からではなく、神から来るものです」という言い方で終わっている。人からではなく、神から誉れは来る。これがポイントである。だから、主イエス・キリストがパリサイ人たちに対して訴えるときにこう言っている。「互いの栄誉は受けても(即ち、人間の誉れは受けても)、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」(ヨハネの福音書5章44節)と言っておられる。

       「ユダ」という言葉の意味を知っているだろうか。「ユダ」は「ほめたたえる」「賛美する」という意味である。パウロはこの17節で「あなたが自分をユダヤ人ととなえ.....」と言っているが、「ユダヤ人」という名の意味は何なのかをこの最後の所でまず宣言しているわけである。パウロは言葉の持つ響きを巧みに用いて表現している。この段落の最初の箇所で、「ユダヤ人とは、神をほめる者であり、神に受け入れられ、神の賛美を大切にする者である」ことを示唆している。それ故、彼らは神に喜ばれる者となる。それが「ユダ」とか「ユダヤ」の意味なのだ。

       自分を「ユダヤ人」と唱えるけれども(17節)、「ユダヤ人」の意味を忘れている。「割礼」を受けているが、「割礼」の意味を忘れている。そういうわけで、神に喜ばれることを求めることこそ、真のクリスチャンの有様であり、本当のユダヤ人、本当の神の民の有様なのである。どんな事においても、神に感謝をささげて、神に喜ばれることのみを求めるのである。それこそ、本当に神を畏れる者である。その心を、子供たちに相続として与えることができれば、子供たちの50%とか80%が神から離れてしまうような事には絶対にならない。本当に、一人も失われないように、皆さんは真剣に祈っている筈だと思う。

       しかし、私たちはそのように神の御恵みが注がれるように、神を畏れつつ真剣に続けて祈り、この子供たちが本当に神を畏れて、神を喜ばす者となるように真剣に求め続けなければならない。私たちの子供たちがバプテスマの本当の意味を表わす大人になるように祈るのである。そして20年後30年後にバプテスト教会の人たちがこの子供たちを見た時に、一人残らずクリスチャンになっていて神を畏れ神を愛しているのを見て驚き、「どうしてなのか」と思うに違いない。その実績を作らなければならないのである。それは、決して私たち自身の栄光を求めることではなく、主の御国を第一に求めることであり、神の栄光を求めることなのである。今、躍起になって人に教える資格はまだ私たちにはない。しかし、真の証しの実績とは、神を畏れ、神を愛し、その神を喜ばす生活そのものである。神を喜ぶ心を完全にそしてはっきりと持って歩むことである。そして、その心が子供たちにも与えられ、私たちよりも深く与えられるように、私たちよりもはっきりと与えられるように、切に、切に、祈るのである。

       最終的にそれが与えられるか否かは私たちの行ないによるのではなく、神の御恵みである。それは実に感謝なことである。私たちの行ないはあくまでも足らないからである。行ないによるのであれば誰にも望みはない。神の御恵みを心から祈り求めるのである。本当にこの子供たちが私たちよりもずっと立派なクリスチャンになるように切に求めなければならない。そのように生きる者は、本当にバプテスマの意味を守る者である。それは神に喜ばれることを求めることである。それこそ本当のユダヤ人であり、本当の割礼であり、本当のバプテスマである。

       そのことを私たちはこの箇所を読む時に、深く覚えなくてはならない。「割礼」の話はあくまでも契約の相続の話であるし、子供たちの話になる。勿論、それはバプテスマにつながる話である。ところで、誤解してはならない。「私はまだ結婚していないし、子供もいない」という人がいるけれども、あなたもバプテスマを受けた者である。自分にとってのバプテスマの意味は、教会が続けて成長することの中にある。子供がいるかいないかの話ではない。次の世代が私たちよりも成長したクリスチャンになるために、バプテスマを受けたすべての大人が神を畏れる心をはっきりと個人として持つべきである。それはバプテスマの意味を表わすし、その心を子供たちに表わす責任はバプテスマを受けたすべての者の上にある。まことに神を畏れ、神を喜び、神に喜ばれることを熱心に求める心に、割礼の意味もあるし、バプテスマの意味もある。その事をよく覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

       聖餐式の意味は、「バプテスマの誓いを新たにする」ことである。私たちは聖餐式を受ける時、バプテスマの誓いを新たにするものである。私たちはみな、毎週、毎日、それこそ一分刻みに、結局神の道から簡単に離れてしまう罪人である。その私たちに神が聖餐式を与えてくださったのは、私たちが神の御前に罪を悔い改めて、へりくだった心をもって神との契約を新たにするためである。そのバプテスマの素晴らしい大切な深い意味を覚えて、一緒に心を新たにして感謝をもって聖餐式に臨みたいと思う。

     

    ――1998年11月1日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙2章17〜24節

    ローマ人への手紙2章25〜29節
    バプテスマと幼児洗礼

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