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    ローマ人への手紙2章25節〜29節


    2:25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

    2:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。

    2:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

    2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

    2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からでなく、神から来るものです。

    98.11.8. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    バプテスマと幼児洗礼

       

       先週「割礼」についてローマ人への手紙2章の25〜29節の箇所を見た。そして、割礼についてユダヤ人のことを考えるときに、当然ながら旧約聖書の「割礼」と新約聖書の「バプテスマ」との関係について考えることになる。ちょうどパウロがその問題について語っている箇所を学んでいる中で、今日、ちょうど幼児の洗礼式があるので、ここで再度「バプテスマ」について一緒に考えておきたいと思う。

       パウロの割礼に関する発言は、私たちの洗礼観に深く関るものであるので、しばし本題を離れて、新しい契約における幼児洗礼について考えることは適切だと言えよう。私たちは、パウロが述べていることの光に照らし、「割礼が古い契約においてそのような“失敗”であったというなら、私たちはなぜ新しい契約において同じように幼児に洗礼を施すべきなのか」を自問しなければならない。また、更に広い意味で幼児洗礼の聖書的根拠を考察する必要があると思う。旧約聖書の割礼の儀式とクリスチャンに与えられたバプテスマの儀式との関係は何なのか。なぜ、私たちは幼児に洗礼を授けるのか。そのことを一緒に考えたい。

       皆さんも良く知っているように、今の時代の福音派教会のほとんどがバプテスト教会である。バプテスト教会とは教団の意味で言っているのではなく、バプテスマを授けている教会のことを言っているのだが、アメリカでは南バプテスト教会がプロテスタント最大の教団であるが、バプテスト教会の種類は40以上もある。しかし、福音自由教会もバプテスト教会のようにバプテスマを考えている。そして、アメリカの単立教会の99.9%はバプテスト教会のようにバプテスマを考えている。兄弟団も同じようにバプテスマを考える。福音派の中では、改革派教会や長老派教会は小さなグループになっている。200年前にはほとんどの教会では幼児洗礼が行なわれていたのに、200年後の今では、ほとんどの教会で幼児洗礼は行なわなくなってしまった。なぜだろうか。その変化の歴史的な理由もいろいろあっただろうが、今日は聖書から「なぜ幼児洗礼を行なうのか」について考えたと思う。

       その問題について考える時に、「では、なぜバプテスト派教会はそれを行なわないのか」という観点からまず考えたい。幼児洗礼派において契約の子どもたちが信仰から離れてしまうという問題が存在するのと同じように、「信者のバプテスマ」ということで洗礼を行なっている福音派の教会においても信仰告白して洗礼を受けた信者が信仰から離れてしまうという問題がある。いずれにしても、洗礼を受ける前に本人による信仰告白を要請する教会は、幼児洗礼を行なうことについて特に二つの領域において批判している。人々に会ってバプテスマについて話す時にほとんどの人が考えている二つの要点がある。その大きな二つのポイントについてのバプテスト教会の考え方、そして私たちの教会の考え方について説明したうえで、なぜ幼児にバプテスマを与えるかを考えたいと思う。

       第一に、バプテスト的教会(洗礼前に信仰告白を要請するすべての教会――バプテスト派よりも大きなグループ)では、特色として新約聖書だけが洗礼の教理を理解するための基準だと主張している。旧約聖書を考える必要はないという批判である。第二に、バプテスト的教会や神学者たちは、幼児洗礼を古い契約と新しい契約の真の区別を否定するものだとして批判している。ある神学者の言葉を借りてみよう。曰く「彼ら(幼児洗礼論者)は、はっきり言えば、旧約聖書をキリスト教化し、新約聖書をユダヤ教化している」(ポール・ジュウェット著"Infant Baptism and the Covenant of Grace" 91頁)。しかし、批判されているこの二つのポイントのどちらも、それを正しく理解するならば、実はむしろ幼児洗礼への方向性を示すものなのである。

     

    新約聖書のみ?

       第一のポイントについてだが、その洗礼に関する著書がチャ−ルズ・H・スポルジョンによって強く推奨されたウィリアム・シャレフ(William Shirreff)が主張しているように、私たちは新約聖書のみに自らを閉じ込めることができるのだろうか。皆さんもよく覚えているように、バプテスト的教会ではバプテスマについて考える時に根本的にアプローチが違う。どういうことかというと、新約聖書の中で「バプテスマ」という言葉を調べて、それがどこに使われているのか、そしてどのように使われているのかを見て、そこからバプテスマの教理を決めるべきだということを、立場として主張しているわけである。「バプテスマの教理において旧約聖書は関ってこない。バプテスマは新約時代のものであって、教会時代に与えられたものである。旧約聖書と新約聖書はこのポイントにおいては違うものなのだ」という理解なのである。

       「バプテスマという言葉を新約聖書において詳細に調べ、バプテスマという言葉がどのように用いられているかによってバプテスマの教理のすべては決められるべきだ」と強く主張する人々もいる。ある意味で私はその考えを認めるものである。しかし、ある意味ではその考えを否定しなければならない。「ある意味でそれを認める」のはなぜかというと、「それならば、バプテスマという言葉が新約聖書のどこに使われているのかを原語において全部調べて、そのすべてを一つ残らず考えてみなさい」ということである。「そうすれば、旧約聖書の教えを考えなければならなくなるという結論に至るはずだ」というのが私たちの主張である。確かに幼児洗礼の研究を新約聖書を調べることから始めることはできる。だが、新約聖書を学ぶとき、神学的偏見で見るのではなく、「御言葉そのものによってバプテスマを理解する」ためにはどうしても旧約聖書に立ち返るよう強いられるのである。他でもない聖書がそのことを強いるのである。

       新約聖書の四つの箇所から考えてみよう。第一に、ヘブル人への手紙9章10節でパウロは旧約聖書の律法の中の特定の儀式について説明する時に「バプテスマ」という言葉を使っている。パウロは、「旧約聖書のいろいろな儀式は足りないものであって、主イエス・キリストがそれらの足りないところを全部成就してくださった」ということを説明している。その文脈の中でパウロが「いろいろな洗い」(新改訳では「種々の洗い」)という言葉を使っているのは興味深いことである。ギリシャ語の原語では、この「洗い」という言葉は「バプテスマ」という言葉なのである。つまり、「いろいろなバプテスマ」が旧約聖書の中にあった、とパウロは言っているのである。旧約聖書にある儀式を指して、それを「バプテスマ」と呼んでいるのであれば、旧約聖書のモーセの律法にある「いろいろな洗いきよめ」を「バプテスマ」として考えなければならないことになるのは明白である。

       だから、新約聖書に書いてあることだけを考えて「バプテスマ」が何なのかの結論を下すことなどとても出来ないことになる。同じことがマルコ福音書にも出てくる。パリサイ人たちはもともと律法では命じられていない言い伝えによる「洗い」を律法に付加してしまったことが指摘されている。そこでも、パリサイ人が旧約聖書に付け加えた「杯、水差し、銅器」の洗いきよめの儀式を「バプテスマ」という言葉を使って指摘しているのである(マルコ福音書7章4節)。この箇所は、律法の中の「バプテスマ」にはどのような類の事が含まれていたのかを知る手引きとなるものだ。律法の儀式的な「洗い」のすべてがユダヤ人によって「バプテスマ」という言葉で呼ばれていたことがわかるし、それ故ヘブル人への手紙9章10節でもパウロによって「バプテスマ」と呼ばれているのである(日本語訳は「洗い」となっている)。このことは、キリスト教の洗礼を理解するのにモーセ律法下における儀式的な「洗い」の重要性を考察しなければならないことを意味している。この二つの新約聖書の箇所から見ても、「バプテスマ」という言葉の使い方は旧約聖書の「洗いきよめ」を指すものでもあることは明らかである。

       第二に、コリント人への第一の手紙10章で、パウロはイスラエルの事について話す中で、「そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け...た」(2〜3節)と書いている。ここは私たちのバプテスマの教理に重要な意味を持つ箇所である。ある意味でバプテスマとも言える「出エジプト」というイスラエル史上最大の贖いの出来事を、私たちは考察しなければならない。明らかにパウロはイスラエルを指して言っているのである。パウロは旧約聖書のイスラエルの出エジプトの出来事を「バプテスマ」という言葉を使って説明するのである。「みな、モーセにつくバプテスマを受けた」とパウロは言う。この箇所が何を語っているのかは問題ではない。どのようにこの箇所を解釈するにしても、どう考えるにしても、旧約聖書のイスラエルの経験の中には「バプテスマ」と呼ぶべきものがあるという事実は否定できない。

       そのことがわかれば、バプテスマについて考えるときに、新約聖書だけでバプテスマを考えてはならないということもよくわかるはずだと思う。パウロが話している旧約聖書の箇所もバプテスマと何かの意味で関連している。コリントの教会にはバプテスマ(コリント人への第一の手紙1章14節以下)と主の晩餐(コリント人への第一の手紙10〜11章)の両方について問題が生じていたことを思い起こし、パウロが注意深く言葉を選んでバプテスマの正しい理解への道を指し示していると考えなくてはならない。

       第三に、皆さんが一番よく知っている箇所はコロサイ人への手紙2章11〜12節の箇所であろう。そこでパウロは割礼とバプテスマを結び付けて話している。パウロが厳密な意味で何を語っているかについては異論もあるかもしれないが、「バプテスマと割礼の結び付き」について語っているという事実は議論の余地はない。

     

    キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

       「バプテスマ」と「割礼」がここで一緒になっている。ここでパウロが話しているバプテスマと割礼の関係がどのような関係なのかについては意見の違いがあることは事実である。しかし、どのように解釈するにしても、「バプテスマと割礼には無視できない大切な関係がある」ということに変わりはない。少なくとも、「バプテスマ」を正しく理解するためには、「割礼」を正しく理解しなければだめなのである。そういう意味で、最も単純なレベルで考えるとしても、旧約聖書の「割礼」とは何なのかがわからなければ、新約聖書の「バプテスマ」を理解することはできない。ジュウェット等の訴えに反して、幼児洗礼派は「割礼とバプテスマを全く同じだ」と信じているのではない。しかし、両者間には無視できない関係があるという事実がこのコロサイ人への手紙2章11〜12節の箇所において明らかに示されていると信じるものである。従って、私たちがバプテスマを理解するためには、割礼の意味を慎重に考えることが要求されており、パウロの言葉じたいがそれを新約聖書に限定することができないことを訴えているのである。

       第四に、バプテスマのヨハネのことがある。即ち、「洗礼者」ヨハネによって施された「洗礼」に関することである。この事実は最も重要でありながら最も無視されている。「洗礼者」ヨハネは英語では"John the baptist"と呼ばれている。その名前だけを見ると、まるでバプテスト派教会の牧師であるかのような印象を受ける人もいるかもしれないので、"John the presbiterian"と呼びたくなるほどである。バプテスマのヨハネの「バプテスマ」という言葉は、ヨハネがバプテスマの教理においてどんな立場を取っているのかを表わすものではないということは誰にも明らかな筈である。

       このバプテスマのヨハネはどういう人物であったのか。これこそ聖書においては重大事なのである。多くのバプテスト派の人々の考えとは異なり、バプテスマのヨハネは新しい契約に属する洗礼を行なっていたわけではなかった。いったいバプテスマのヨハネは新しい契約の預言者なのだろうか。いいえ、そうではない。我らの主によれば、ヨハネは「古い契約の中で最も偉大な預言者」であった。主イエス・キリストはマタイの福音書の中で預言者について語っているところで「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、来たるべきエリヤなのです」と紹介しておられるのだ(マタイの福音書11章11〜14節)。

       つまり、ヨハネは、古い契約の預言者の中で一番すぐれた者ではあるが、神の御国の一番小さい者でもバプテスマのヨハネよりも偉大だと言っているのである。つまり、バプテスマのヨハネは、古い契約の人物なのである。更に、バプテスマのヨハネの父は誰か。彼の父ザカリヤはレビ人であって祭司であった(ルカの福音書1章5節以下)。祭司としてエルサレムの神殿の中で香をたいている時に御使いから「あなたの妻エリサベツは男の子を生みます。その名をヨハネとつけなさい」と言われて、ザカリヤは信じられずに「私ももう年寄りですし、妻も年を取っています」と答えた。それはアブラハムとサラのような話である。それでエリサベツはヨハネが生まれるまでおしになってものが言えなくなってしまった。彼は祭司であってレビ人であった。バプテスマのヨハネは、アビヤの組のザカリヤの息子でレビ人で、祭司で、古い契約の預言者なのである。そのヨハネがイスラエルに現わされた時に、この古い契約の祭司である預言者が何をしたかというと、「バプテスマ」を行なったのである。ならば、いかなる種のバプテスマをこの古い契約の預言者かつ祭司は施したのであろうか。明らかに答えは「古い契約のバプテスマ」であろう。

       この明白な答えは、福音書の説明を聞いたときのヨハネに対するパリサイ人たちの反応によっても確証される。ヨハネがバプテスマを行なっていたときに、実にパリサイ人たちの一部の者たちもエルサレムから来てバプテスマを求めたりしたのである(マタイの福音書3章7節以下)。パリサイ人や律法学者たちがバプテスマを受けようとして来たときに、バプテスマのヨハネは「まむしの裔たち。だれが必ず来る御怒りを逃れるように教えたのか」と彼らを叱った。しかし、そのパリサイ人たちは、バプテスマを行なう事自体については何も文句を言っていないのである。バプテスマを行なうことは彼らにとって躓きではなかったのだ。むしろ、自分たちもバプテスマを受けたいと思ってヨハネの所にやって来た。なぜだろうか。これは紛れもなく新約聖書そのものが洗礼を何よりもまず「古い契約の儀式」として示しているからである。その儀式は、キリストが復活した後にはじめて新しい契約の儀式へと生まれ変わったのである。

       ヨハネの福音書1章で、エルサレムからやって来たパリサイ人たちがバプテスマのヨハネにいろいろな質問をしている。いろいろな質問の中で彼らは、「キリストでもなく、エリアでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのか」(25節)とヨハネに尋ねた。ヨハネがどんな権威によってバプテスマを授けているのかを問うているのだ。しかし、「バプテスマとは何なのか。この儀式の意味は何なのか。いったいあなたは何をしているのか。新しい儀式なんか作ったりして、自分を何様だと思っているのか」というようなことは何も言っていないのである。ヨハネがバプテスマを行なっているのを見ていたパリサイ人たちは、「誰からの権威によってバプテスマを授けているのか」ということは尋ねても、「バプテスマとは何なのか。これは新しい儀式ではないか」というような話は皆無であった。誰もそんな事は尋ねていない。つまり、パリサイ人たちはバプテスマの儀式自体に対して何ら疑問はないのである。バプテスマを行なうこと自体は彼らにとっては矛盾ではない。なぜなら、バプテスマという儀式は旧約聖書の律法にある儀式だからである。

       それ故、新約聖書に書いてあるバプテスマについての箇所のすべてを全部原語で調べるならば、私たちは旧約聖書を見なければならない、という結論に至るのである。「旧約聖書を無視してバプテスマのことを考えなさい」と言われても意味をなさないのである。旧約聖書の「洗いきよめの儀式」は「バプテスマ」のことだということはヘブル人への手紙9章から10章22節にかけて書いてある。「モーセにつくバプテスマ」についてパウロはコリント人への第一の手紙10章2節で話している。何かの意味で、イスラエルはバプテスマを受けたのだ。彼らは「モーセにつくバプテスマ」を受けたのである。バプテスマを考えるならば、そのことをよく考えなければならない。割礼とバプテスマに深い関係があることはコロサイ人への手紙2章にもはっきり示されているので、割礼とバプテスマを一緒に理解しなければ正しく考えることはできないのは明白である。

       バプテスマのヨハネ自身が、旧約聖書(古い契約)の祭司として、パリサイ人たちでさえも儀式として認めることを行なっていた。それが「バプテスマ」である。これらのことを全部見ていけば、バプテスマというものを理解するためには旧約聖書のモーセの律法をも当然一緒に考えなければだめなのだということがわかる。だから、私たちはバプテスマのことを考える時に、聖書全体において考えなければならないのである。聖書全体からその事を見なければならない。新約聖書の使徒行伝の中で誰がどのようにバプテスマを受けたかを見るだけでバプテスマが分かるというようなものでは決してない。これは非常にはっきりしていることである。それ故、洗礼を理解するには、自分自身を新約聖書に限定してしまってはならない。もっと広い意味での聖書の儀式と、特に「洗い」と「割礼」への聖書の証言全体を考えなければならない。

       それで、幼児にバプテスマを授けるとき、私たちは「なぜこれを行なうのか。これはどういう意味なのか」を思い出して行なうべきであると思うのである。聖書全体において考えるとき、モーセの律法の中にある儀式としてバプテスマを見るならば、そのポイントは一つの言葉によって表わされる。それは「契約」という言葉である。「バプテスマ」の話は「契約」の話なのである。つまり、モーセの律法の中にもバプテスマは出てくる。それは「割礼」と関係がある。それによって、バプテスマは、何かの意味で契約的な儀式として見なければならないものだということがよくわかる筈である。

       神は、アブラハムを選んだときに、御自分の契約をアブラハムに与えたもうた。契約を与えたときに、契約とともに儀式をも与えてくださった。それが「割礼」であった。そしていけにえを捧げることもアブラハムは行なっていた。こんど、イスラエルに契約を与えてくださるときにも「契約的な儀式」を与えてくださった。祭司であり預言者でもあるバプテスマのヨハネが行なっている儀式は「契約的な儀式」であった。割礼も契約的な儀式である。「イスラエルはみな、モーセにつくバプテスマを受けた」とパウロが話すとき、それは契約的な話をしているのである。旧約聖書の洗いきよめの儀式はすべて「契約を新たにするための儀式」である。この問題の結論を簡潔に述べるならば「聖書の儀式はすべて契約的なものである」ということに尽きる。つまり、聖書の中に登場する儀式は神への宣誓なのである。

       「儀式は契約的なものである」ということは聖書全体の教えにおいて非常に重大なことなのだ。ここに、キリスト教とキリストではない宗教との違いが出てくる。キリスト教ではない宗教でも儀式は行なわれている。しかし、彼らにとって儀式を行なう意味はいったい何なのか。それらは、魔法的なものになってしまうのが普通である。つまり、何かの意味で神秘的な何かの働きとか活動とかによってその儀式を受けた者は別の人になる、或は別な次元に入る、というようなものなのだ。神秘的な、そして魔法的な意味でそうなるものである。言い方においてかなり曖昧で時に変なものになったりはするが、魔法的な解釈は普通の宗教における儀式である。その良い例として、いわゆる天皇陛下になるための儀式があるが、天皇陛下と呼ばれるためには特別な一連の特別な儀式が必要である。一晩中その儀式は続き、天幕の中に泊まって、祭司を表わす印もあって、その儀式によって天皇は神に成るというのである。それはテレビのニュースでも報道された。次の朝、天皇がその天幕から出てくる時、彼は形而上学的に違う人物(あるいは神物?)になっている、という考え方なのである。それは魔法的な考えの儀式である。普通の異教の儀式はみなそのように儀式を考えるものである。何かの意味での特別な力を授かる、という考え方なのである。だから、儀式を受けた者は、別な存在になった、別な次元のものになった、ということになる。

       旧約聖書の割礼の儀式とはそのようなものだろうか。断じてそうではない。「倫理的に別なものになった」ということは可能である。実際に、「神の御前においてその人間は変わらなければならない」ということも確かなことだ。けれども、割礼はどういう儀式なのかというと、それは「誓い」である。「割礼」は「誓い」なのである。それは契約的な儀式である。では、旧約聖書の犠牲制度は何なのか。その儀式は何なのか。「神々が怒っているから、あれこれを神々に捧げて、神々がそれを食べたら怒りは静められて、しばらくは大丈夫だ」というような考えで行なうものなのだろうか。そうではない。神は食べなくてもよいのだ。神は、食べ物が足りるか足りないかによって怒る神ではない。しかし、実際に異教の儀式はそのような考え方に基づいているものである。「たたり」とか「恐れ」がつきまとう。食べ物を捧げなければたたりがある、というような考えなのだ。そして、いろいろな魔法の力を儀式を通して求めるのである。

       もう一度言うが、「割礼」は「誓い」である。問題は罪に汚れた肉にあるので、その肉を切り取って捨てるという儀式が「割礼」である。肉が切り取られて捨てられるのは、「新しいものが生まれるための儀式」である。先週も申命記から「心の割礼」あるいは「心の無割礼」について学んだが、それらの聖書の箇所を見れば、旧約聖書のイスラエル人が割礼を考えたときに決して表面的な意味しかないものとしてその儀式を考えてはいなかったことは明らかである。もちろん契約の誓いとして割礼を行なっていたのである。犠牲制度でいけにえを捧げることもそうである。ほふられる羊の頭の上に手をおいて、自分の罪を告白して誓いをしてその動物を殺すのである。その動物を殺すのは、「私こそこの罰を受けるべきである」ということを神に対しても周りの人々に対しても「告白して誓いをする行為」なのである。「この誓いを破るならば、私はこの動物のようになってもよい」という誓いなのだ。

      「誓い」はあくまでもそういう意味のものである。結婚の誓いもそうである。「死ぬ日まで(いのちの続く限り)」という意味は「私がこの契約を破るなら、死んでもよい」という意味なのだ。私たちはその誓いをして結婚するのである。誓いは非常に重い深い意味のある行為なのである。結婚も誓いであり、割礼も誓いであり、いけにえを捧げるのも誓いである。聖書の儀式は「誓いをする儀式」である。それはあくまでも契約的なものなのである。それゆえ、それは「倫理的なもの」である。神との関係が聖書の中では結婚に譬えられる理由はそこにある。私たちと神との関係は誓いによる関係だからである。教会は花嫁で、神は花婿で、教会は神との結婚関係にあるものとして教えられている。パウロはそのことをエペソ人への手紙5章の中で説明している。これは契約の関係である。契約の関係なので、儀式も契約的なものである。旧約聖書の儀式はすべてそうである。

       それでは、「バプテスマ」はどういうものなのか。旧約聖書のことを考え、バプテスマのヨハネが行なったことをもよく考えるならば、バプテスマは誓いであることがすぐにわかる筈である。まず、旧約聖書の中の「バプテスマ」はすべて「誓いを新たにする儀式」であった。それは契約に入る儀式ではない。旧約聖書では、契約に入る儀式は血を流す儀式でなければならなかった。その契約を新たにする儀式としての「洗いきよめの儀式」はいろいろあるが、それらは血を流さない儀式であった。旧約聖書での契約に入る儀式は血を流す儀式であった。しかし、新しい契約においては血を流す儀式はないのである。主イエス・キリストは身代わりの子羊となって、ただ一度血を流すことによって罪の贖いを完全に成就してくださったからである。キリストが十字架にかかってくださって、死んで、復活してくださったので、もう血を流す儀式は主イエス・キリストに従う者には必要ないのである。

       それで、例えば使徒行伝の中でユダヤ人が割礼を行なっていても、それは旧約聖書の儀式の意味を何も持たない割礼なのである。それはもうアブラハムの契約の割礼ではない。パウロはコロサイ人への手紙2章11節のところで「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼をもう受けたのである。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのである」と言っている。「血の儀式」は主イエス・キリストにおいて全部終わったのである。では、女性たちはいつ割礼を受けたというのか。また、日本人で肉の割礼を受けていない人たちは、いつ割礼を受けたというのか。彼らは、バプテスマを受けたときに「キリストの割礼にあずかる者」となったのである。「キリストの割礼を受けた」のである。それ故、もう割礼は受けたのである。主イエス・キリストの十字架の死は割礼の成就であったからである。

       主イエス・キリストの死は割礼の本当の意味を成就するものであった。肉が裁かれ、罪に対する裁きが完全に成し遂げられ、キリストは死から復活された。バプテスマはそのことを指す「契約の誓い」としてキリストを信じる者に与えられている。しかし、旧約聖書においては、誓いを新たにする儀式、即ち割礼を前提にする儀式が、新しい契約において今や「契約に入る儀式」となったのである。なぜ契約に入る儀式が水で行なう儀式になっているのかというと、その一つの理由は「血を流す儀式はもうあってはならない」からである。キリストが既にその「血を流す儀式」を成就されたからである。

       もう一つの理由は、使徒行伝2章にある「聖霊のバプテスマ」のことである。聖霊が注ぎ出されて、新しい時代の最高の祝福を表わすものとして水のバプテスマはある。これは旧約聖書にも記されていることである。イザヤ書44章3節に「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの裔に、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」とある。これは神がイスラエルに語ったことである。イスラエルに与えられている新しい契約の約束の中に、御霊は水のように注がれることが約束されている。エゼキエル書にもこの約束があるし、ヨエル書にも同じ約束が記されている。使徒行伝2章のところでペテロが福音を伝えているときに、「これは預言者ヨエルによって語られた事だ」と宣言している(2章16節)。そのペテロの説教を聞いて信じた人たちはみなバプテスマを受けたのである(使徒行伝2章41節)。そして、「この約束は、あなたがたと、その子どもたち.....に与えられる」と話している中で、新しい契約の誓いは水のバプテスマであって、それは御霊を受けるバプテスマであると教えている(同38節)。御霊は水のように注ぎ出されて、その御霊のバプテスマと契約の誓いのバプテスマが一緒になって一つとなるのである。もはや血を流す儀式はなくなったのである。「聖餐式」は何なのかというと、それは「契約を新たにする儀式」である。

       そういうわけで、新しい契約においても古い契約においても、「二種類の儀式しかない」ということが明白となる。聖書の儀式は神への宣誓であり、律法の様々な犠牲や洗いは神に誓いをするあらゆる形態であった。儀式のほとんどは「契約に入る儀式」と「契約を更新する儀式」との二つに大別される(これに加えて職務に就くための聖別に関る特別な儀式もあった)。古い契約では、アブラハム契約とそれ以降の諸契約において「契約に入るための儀式」は「割礼」であった。割礼以外の民全体の祭りや動物の犠牲のほとんどの儀式は契約のメンバー全員の参加が要求される「契約更新の儀式」であった。種類としては基本的にその二つしかない。大切な点は、割礼も様々な古い契約の洗いの儀式も、「契約」という枠組みの中で理解されるべきだということである。これは神学的前提というようなものではなくて、聖書の明らかな教えなのである。

       新しい契約では、バプテスマは「契約に入る儀式」であって、聖餐式は「契約を新たにする儀式」なのである。儀式の類別は二つしかない点では旧約聖書と変わりはない。根本的には新約も旧約も同じである。つまり、同じ契約的な考え方が、古い契約と新しい契約の両方においてあるということである。これは聖書において実にはっきりした一貫した教えなのである。バプテスマについて考える時に、新約聖書だけ読めばいいのか。答えは「否」である。新約聖書の箇所を見れば、旧約聖書を見なければならなくなる。旧約聖書の箇所をいろいろ調べて考えてみると、「バプテスマ」=「契約」の話だということはすぐにわかる。バプテスマを契約の光に照らし、古い契約の洗いの教えとの比較において見るとき、洗礼が割礼と同様に「契約に入る儀式」であることが明らかになる。即ち、洗礼は、受洗者を神との契約関係に導き入れる誓いの儀式なのだ。割礼と異なる点は、それが血を流す犠牲ではないという点である。キリストの血がただ一度だけ私たちの罪のために流されたので、新しい契約には血の犠牲は既に成就されて廃止されたのである。それはまた、確かに契約を新たにする律法の洗いの儀式と同じ「洗い」でもあるが、それ以上の意味がある儀式である。この新しい契約におけるバプテスマは「契約に入る儀式」であり、それは「契約に入る誓い」なのである。

     

    古い契約――新しい契約

       二つのポイントにおいてその違いを説明するということで話しているが、もう一つのポイントを明らかにしておかなければならない。「バプテスマ」を更に充分に理解するには、「幼児洗礼派は、新約聖書をユダヤ教化し、旧約聖書をキリスト教化している」という批判について考察する必要がある。古い契約と新しい契約の関係はいったいどういうものなのか。バプテスト派は一般に「旧約聖書と新約聖書」を「古い契約と新しい契約」というふうに混同していることに注意しなければならない。旧約聖書と新約聖書という区別は、聖書の便宜上の区別であって、聖書自体にある区別ではないことをよく認識する必要がある。

       ここにポール・ジュウェットが書いた書物があるが、これはバプテスト派教会では非常に広く認められている書物である。このポール・ジュエットの本の中にも出てくる考え方、そして他のバプテスト派教会の色々な書物にもよく出てくる考え方がある。どういう考え方かというと、「古い契約は表面的な契約であって、新しい契約は内的な契約である」という考えである。また「古い契約は肉体的なものであり、新しい契約は霊的なものである」と考える。さらに「古い契約はこの世的な契約で、新しい契約は天国の契約である」というふうに考える。また「古い契約はある国民に与えられたものであって、新しい契約は神が選んだ個人に与えられるものである」というような考え方である。

       それ故、国民が対象ではなくて個人が対象なのだという。肉体的ではなくて霊的だという。外的なものではなくて内的なものである。この世的ではなくて御国のものである。そのように、彼らは古い契約と新しい契約の違いを区別して考えることになる。そのように、古い契約は外面的、肉的、国家的で、新しい契約は内的、霊的、個人的であるというバプテスト派の説明を受けるときに、おそらく多くの長老派教会や改革派教会の人たちも「そうだ」と思ってしまうことだろう。「確かに、古い契約と新しい契約の違いにはそのような区別もある」と考えてしまいがちである。しかしまったく話が違うのである。このことにおいて誰も思い違いをしてはならない。そこに述べられている対照は、古い契約と新しい契約の聖書的概念というよりは哲学者たちによる「自然/恩恵」という図式に近いものである。

       聖書は、二人の契約のかしら、即ち、「アダムによる契約」と「キリストによる契約」という対照を提示している。「古い契約と新しい契約」の違いを考える時に、私たちは「アダムとキリスト」という対照において考えなければならないのである。それは即ちローマ人への手紙5章の話である。それは、アダムにある契約とキリストにある契約の違いの話なのである。確かに、アダムにある契約は肉にある契約だという言い方をしている。そしてキリストの契約は霊の契約という言い方はコリント人への第一の手紙の15章にある。しかし、日本語の表現としてはおかしいかもしれないが、その箇所にある言葉の意味は「御霊的契約」と「肉的契約」というふうに理解すべきである。つまり、「物質界」と「霊界」の対立ではなくて、「最初の古い創造」と「新しい創造」の違いなのである。

       「アダムに与えられたからだは肉的からだであって、復活のからだは御霊的からだである」ということをパウロがコリント人への第一の手紙15章で説明するときに、決して霊界と物質界を対立させているわけではない。パウロが言っている「御霊的からだ」は触ることができるからだのことである。主イエス・キリストは復活した後で弟子たちに現われて疑うトーマスに「わたしに触ってみなさい。わたしは幽霊ではない」と言っておられるとおりである。「私たちも、みな天国に行ったら幽霊になるのだ。よかったね。この肉体から離れて幽霊になるんだね」というような話ではないのだ。そんな望みをクリスチャンは抱いてはいない。キリストと同じように、復活のからだを受けるのである。だから、聖書的な考えは「肉体は悪い。霊は良い」というような考えではないのである。確かにそのような考え方は西洋にはある。ギリシャにもある。しかし、聖書にはないのである。その事をぜひ覚えていただきたい。

       物質界と霊界の対立というようなものはない。新しい契約と古い契約、新しい創造と古い創造の違いはある。その違いは「罪」と「義」にある。それは倫理的な違いなのである。形而上学的な意味での霊界と物質界というものはない。「旧約聖書の場合、祝福は食べ物とか住まいとか子孫が多く与えられるというような物質的な祝福である。新しい契約の場合、祝福は霊的なものである」というような考え方は聖書にはない。今朝も詩篇73篇を交読したが、私が今日の説教のために73篇を選んだのではなく、今日それを皆で交読させたのは実に神の摂理によるものである。この73篇に、まさにバプテスト派教会が言うような“新約聖書の信仰”が示されているではないか。詩篇の著者は、悪者が栄えるのを見、高慢で暴虐をなす者たちが裕福になって誇っているのを見て、「なぜこの悪者たちは栄えるのか」と考えたのである。なぜ旧約聖書の人間がこんなことを書くのか。それは、旧約聖書においても霊的祝福が第一だからである。詩篇73篇を読めばすぐにわかることである。神との本当の人格的な愛の関係こそ中心なのである。

       そのことは、旧約聖書も新約聖書も同じである。古い契約も新しい契約も、同じなのである。割礼の意味は単に外見的なものではなかった。むしろ反対にその意味は「心の割礼」にこそある(申命記10章16節他)。それは先週見たとおりである。割礼はただ肉体的なことではない。イスラエルは、ただ表面的にアブラハムの子孫だということではない。旧約聖書のその古い契約において、神御自身との本当の関係が中心なのである。倫理的な関係が中心なのだ。「古い契約はただ表面的なもので“霊的”な事柄よりも“物質的”な事柄を中心にしていた」とか「それは本当の意味で個人的ではなく、イスラエルという国家的なものであった」というバプテスト派の見方は古い契約の核心を見誤っており、新しい契約の意味を曲げてしまうものである。聖書に見られる“肉的”と“霊的”という対照は、“物質的なもの”対“霊的なもの”の対照ではなく、アダムとキリストとの比較、古い創造における肉の失敗と新しい創造における御霊の力の勝利との比較なのである。

       では、古い契約と新しい契約の違いはどういうものになるのか。そして、アダムとキリストの違いはどういうものになるのかというと、アダムは罪を犯して神に逆らった。古い契約と古い創造のかしらであるアダムは人類を罪へと導き、新しい契約と新しい創造のかしらなるキリストは新しい人類を義に導いてくださる。アダムは死をもたらし、キリストはいのちをもたらす。アダムは肉による人であり、キリストは聖霊を私たちに賜わるのである。バプテスト派が理解する必要があるのは、古い契約と古い創造の弱さはアダムにあるもの、即ち、「堕落」に見出されるものだという点である。アダムの時からキリストの時までは失敗に終わる傾向が強かったのは明らかである。

       アダムに子孫が与えられたが、皆ノアの洪水で滅ぼされてしまう。ノアにアダムと同じ契約が与えられたが、ノアの子孫はバベルの塔に終わってしまった。アブラハムの子孫はエジプトの奴隷になってしまった。モーセの子孫はペリシテ人に敗れて神の契約の箱は奪われてしまう。ダビデの契約は、ソロモンの罪によってイスラエルは二つに分割されてしまい、バビロンとアッシリアに捕囚となって終わってしまう。エズラの時代に新しい出発が与えられたが、それもA.D.70年にローマが来てエルサレムを破壊するところで終わってしまった。古い契約はアダムにある契約であって、罪が勝つ契約であったと言える。アダムは罪によって古い創造を駄目にしてしまったからである。

       それならば、「キリストは新しい契約のかしら、新しい創造の主である」と宣言することは、「聖霊の賜物が、生活のあらゆる部分を変えるために与えられている」と述べるに等しいことになる。主イエス・キリストは世を御自分と和解させられた(コロサイ人への手紙1章20節以下)。新しい契約にあっては、キリストこそ天のみならず、地においてもすべての権威のかしらであられるのだ(マタイの福音書28章28節以下)。それ故、新しい創造のかしらとして、キリストはただ単に個人を取り扱っておられるわけではない。

       要点は簡単である。神は家庭を造られ、アダムはそれを破壊し、キリストがそれを贖われたのである。アダムの古い契約の時代には、約束された御霊の祝福はある程度あったけれども、まだ御霊の力は充分に注がれていなかったために、家庭は(個人、教会、国家も同じように)弱いものであった。しかし、キリストにある新しい契約においては、アダムの罪にあって破壊されたすべてのものが、神の御恵みによって新しくされている。バプテスマは、キリストの勝利と、世界を新しくする神の御力である聖霊の賜物とを指し示しているしるしである。

       新しい契約はどこが違うのかというと、「新しい時代」が与えられたことにある。その「新しい時代」の最高のそして本質的な祝福の意味は何なのかというと、「御霊が与えられた」ことにある。御霊の働きはアダムの時からキリストの時までの間には無かったという意味ではない。そのことは皆さんも十分に分かっていることだと思う。しかし、バプテスマのヨハネはキリストについて、「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」と言っている。バプテスマのヨハネは、その水の儀式が古い契約のきよめに過ぎず、それはさらに大いなるバプテスマが来ようとしていることを指し示すものでしかないことを知っていた(マタイの福音書3章11節)。確かに旧約時代にも御霊は働いておられた。しかし、当時はまだ御霊は注がれていなかった(ヨハネの福音書7章39節)。使徒行伝の1章4〜8節のところでは、キリストが天に昇られる前に弟子たちに「エルサレムを離れないで、御霊のバプテスマを受けるのを待ちなさい」と命じているのを思い起こしていただきたい。

     

    彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

       聖霊が注がれたのはペンテコステ(五旬節)の日であった。ペンテコステの日は、シナイ山でモーセに神の律法が与えられた日と同じ意味がある。イスラエルは過越の祭りではなくて、実際に主の過越をエジプトで行ない、エジプトを出てシナイ山まで歩いた。そして、シナイ山で神が律法を与えてくださったのはペンテコステの日であった。ペンテコステの日に、シナイ山の上に神の雷といなずまと密雲があり、角笛の音が高く鳴り響き、山全体が主の火で煙り、煙はかまどの煙のように立ち上った。そして、主は火の中にあってシナイ山に下りて来られてイスラエルに語られたのである。その事の成就は、実はこの使徒行伝の2章1節以下に記されている。聖霊なる神が下りてこられた。凄まじい音があり、家全体に響き渡り、炎があって、人々は聖霊に満たされて神をほめ称え、いろいろな国語で聖霊が話すことを語ったのである。そのペンテコステの日に約束の聖霊が注がれた。それは新しい時代が始まったことを表わす出来事であった。

       キリストはこの五旬節(ペンテコステ)の日に聖霊をもって教会にバプテスマを授け、救いの新しい時代をもたらしたのである。それは旧約聖書の時代のすべての信者が待っていたメサイアの時代、祝福の時代の始まりである。「バプテスマ」は、その「新しい時代の新しい契約の誓いの儀式」として与えられる。新しい創造は、ただこの世の中から一部の個人を救うことだけではなく、全世界の贖いなのである。古い契約において決して契約の物質的な祝福が中心ではなかったのと同じように(詩篇73篇参照)、新しい契約の祝福も聖霊から来るという意味で(エペソ1章3節以下)まず何よりも霊的なものであるのは確かだけれども、物質的な側面もないわけではない(ヨハネの第三の手紙2節)。

       けれども、アダムとキリストの違いは、「罪」と「義」にある。罪の結果は失敗と裁きであり、義しさの結果は勝利と契約の祝福である。バプテスマを行なうということは、「福音の勝利を表わす儀式」を行なうことなのである。「御霊が教会に与えられる」ことについて、主イエス・キリストはヨハネの福音書7章37〜39節で次のように話している。

     

    さて、祭りの終りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

       私たちの中から、「御霊の力」が流れ出るようになる、とキリストはここで話している。これは、新しい創造の復活の力の話なのである。アダムにはこの力はない。古い契約の中にあるイスラエルは、自分たちが悪い影響を受けないようにと、いつもガードしなければならなかった。もちろんクリスチャンも悪い影響を受けないように気を付けなくてはならないのは事実である。しかし、古い契約の場合は、勝利が得られないので、常にどのように自分を守るかが第一のことであった。それで、「異邦人の生活をするな。異邦人の服を着るな。異邦人の様に食べてはならない」などのような定めが律法の中にあって、子どもに与えるようなレベルの定めが沢山あった。それは、子どもの時代のための教えである。御霊の時代の教えには、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、どこに住むか」というような制約はない。それは大人のための教えではないのだ。私たちは、御霊に満ちて御霊の力をもって神に従って生きるときに、御霊の力は私たちから流れ出て、福音の勝利の影響をこの世に対して与えることができるのである。

       水のバプテスマは、その「御霊のバプテスマ」を表わすものである。だから、バプテスマを授けるときに、「注ぐ」形でそれを行なうのである。洗礼を行なうとき、「新しい時代」のバプテスマとしてこれを行なうのである。「新しい創造」のバプテスマとして行なうのである。ここに大切なポイントがある。バプテスト派教会のようにバプテスマを考えるならば、「古い契約は、表面的で、国民とか、肉的とかいうことが中心的だ」ということになり、「新しい契約は、内的なもので、霊的であって、神に選ばれた個人に与えられるものであるから、個人の信仰が先に証明されなければだめだ」ということになる。結果としてそれは個人主義的なものとなる。そのつもりでなくとも、結局はそういうことになってしまうのである。しかし、バプテスマは外的なものから内的なものに変わったということではない。アダムからキリストに変わったのである。アダムの世界の中に家庭はあっただろうか。はい、確かに家庭はある。アダム(古い創造)の世界に国家があるだろうか。はい、国家もある。個人もあるし、教会もある。では、キリスト(新しい創造)の世界の中には「個人」と「キリスト」しかないの。「新しい契約」とはそのようなものなのだろうか。明らかにそうではないのである。

       いつも読んでいるマタイの福音書28章19節の箇所を思い出して欲しい。日本語訳では「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と訳されているが、この訳は「あらゆる国からの多くの個人を弟子にしなさい」という解釈からきている訳である。しかし、「人々」という言葉は原語にはない。「国々を弟子としなさい」というのが文字通りの訳である。正しくは、「国々をわたしの弟子にしなさい」というのがキリストの命令である。これは非常に重大なところであって、原文通り正しく理解されなければならない。

       また、パウロも教会に手紙を書くときに、子どもたちに「こうしなさい」と命じている。なぜ子どもたちに命じるのか。明らかに子どもたちも教会の一員として教えられているのである。エペソ人への手紙もコロサイ人への手紙も「聖徒たち」に宛てて書いている。その「聖徒たち」とは、神を信じる「神の子どもたち」のことであり、パウロは「神の子どもたち」に手紙を書いているのだ。その手紙の中で、なぜ子どもたちに向かって「こうしなさい」と命じるのか。まさしく子どもたちは教会員の一員であって、子どもたちも聖徒だからである。そして、新しい契約においても、「個人とキリストだけ」ではなくて、国々もあり、家庭もあり、もちろん地域教会もあるし、個人もある。契約が根本的に変わったということではないのである。

       クリスチャンの家に生まれた子どもは、バプテスマを受けることによって正式に契約に入り、正式に養子とされると考えてよい。「神の御国に入る契約」を結ぶことによって、神の子どもとして認められるのである。これはちょうど旧約聖書の割礼の儀式と同じことである。何も変わりはない。「しかし、旧約聖書の幼児は誓いはしていないではないか」と思うかも知れないが、確かにそうである。しかし、誓いは旧約のときから「代表が誓いをする」というものであったことに変わりはない。「代表が誓いをする」ことは、今日でもどこの国の法律においても認められていることである。旧約聖書の割礼の誓いはそのようなものであったが、新しい契約のバプテスマも幼児に関しては同じであって、何ら変わりはない。

       そうでなければ、バプテスマによって「家庭」というものは成り立たなくなってしまうのだ。「お父さんとお母さんはキリストのものであるけれども、子どもたちはキリストのものではない」という前提で生活を送るなら、一つの家族としては成り立たないのである。それでは一つの契約の家族にはならない。バプテスマが家庭を引き裂くようなものであるはずはない。バプテスト派のように洗礼を考えるなら、割礼の意味もバプテスマの意味をもだめにすることになる。「神の御国には、地域教会と個人はあるけれども、国家はなく、家庭もない」ということになってしまう。事実、それが改革時代のアナバプテスト派の教えであったのだ。「バプテスマについての考え方に従って結論すればこうなる」というものではなく、はっきりそのように教理として教えたのである。その考えに従えばクリスチャンの国は成り立たないし、結局子どもたちがバプテスマを受けない限り家庭も成り立たない。場合によっては結婚さえも否定したグループがいた。そこまで論理的に「個人とキリストのみ」という考え方になっていたからである。

       新しい契約は、祝福を限定するものではない。新しい契約は、神の救いの御業を縮小するものでもない。むしろ祝福と救いを拡大するものである。それ故、洗礼はすべての幼児(男児にも女児にも)に施されるものとして与えられている。クリスチャンの家庭を分裂させるような儀式ではなく、むしろクリスチャンの家庭を祝福するものとして与えられているものである。より未熟なアブラハムの時代ですら、割礼によって神が契約の祝福を家庭に贈られたのであれば、キリストにある新しい契約はどんなに大きな救いの祝福を家庭にもたらすであろうことか。このようにして、全世界がキリストの弟子となるための手段となるように神の教会の上に注ぎだされる聖霊のバプテスマの象徴として、子どもにも大人にも水をもって洗礼を授けるのである。

       新しい契約において神が与えてくださった「家庭、教会、国家」という組織は三つとも契約的なものとして存在する。それで、家庭の中心も、国家の中心も、地域教会の中心もみな「誓い」である。すべては「誓い」の上に成り立っている。この「誓い」は、そういう意味で非常に大切であって、バプテスマの誓いを行なう時、親の責任は親が誓ったことにあるし、バプテスマに同席した者も証人という意味で責任はある。バプテスマに同席した者は皆、ある意味でその誓いに加わっていると言わねばならない。つまり、教会員は皆、お互いの為に祈り合う責任があって、罪を犯したりする子どもを見るときに、自分の子でなくてもその子のために祈る責任がある。それは、地域教会のメンバーの責任の中に含まれていることである。祈る責任は、バプテスマの儀式に証人として同席する責任の中に含まれている。

       お互いのために真剣に祈り合う責任は私たちクリスチャンにとって非常に大切なものである。そして、その子どもたちが本当に神を恐れて神を信じるようになって、神に仕えるようになって、次の世代が私たちよりもすばらしいクリスチャンになるように、真剣に求めるのである。その責任が私たちの皆にある。そのことも地域教会の意味の中に含まれていることである。幼児にバプテスマを授けるとき、新しい時代を作る御霊のバプテスマを表わす誓いの儀式として、これを行なうのである。幼児に洗礼を与えるとき、実は「千年王国後説の信仰」をも表わしてしまうことにもなるが、今その話をここでする時間はない。御霊が与えられて、福音の勝利を表わすものとしてバプテスマを行なうことを誓いの意味として考えるならば、そこまでの意味にもなる筈である。御霊が私たちの中から流れ出て、それによって御霊は世界を変えてくださるのだ。

       そういうわけで、古い契約と新しい契約の違いは、表面的なものと内的なものということではない。古い契約には内的な面と表面的な面との両方がある。新しい契約にも、内的な面と表面的な面の両方がある。主のいのりを祈る者はそのことを知っているはずである。私たちは「今日の糧を与えたまえ」と祈る。パウロもそのことをテモテへの第一の手紙4章3〜4節で強調して「しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません」と教えている。感謝しないで食べてはならない。食物は表面的なものである。外から中に入れる物である。食物について感謝しなければならないというのは新しい契約の教えでもある。

       表面的なことはどうでもいいということではない。古い契約は肉的で、新しい契約は霊的だということでもない。御霊と肉の違いは、物質的なものと霊的なものとの違いの話ではなく、アダムのような力しかない(罪に終わってしまうような力しかない)のか、御霊による福音の勝利の力があるのか、どっちなのかという話なのである。古い契約は国民とかグループとかで、新しい契約は個人的なものだということでもない。両方はグループの話であり、両方とも個人の話でもあるのだ。主イエス・キリストの義しさとアダムの罪の対立なのである。最初の創造と、新しい創造の対立なのだ。それが古い契約と新しい契約の違いである。そこにはギリシャ的な考え方など何もない筈である。

       「バプテスマ」は、その新しい契約である御霊の力を覚えて神の契約を守る誓いをするものである。子どもたちはそのためにこそ与えられたものである。クリスチャンの家庭に与えられた子どもは、御国を相続する契約の子どもとして与えられたのである。神はアブラハムを選び出し、世界を相続する者として彼に子どもたちを与えられた。その同じ理由と目的とのために、私たちをも救いに選んでくださり、私たちに相続人である子どもたちを与えてくださった。創世記18章19節で教えられていることをしっかりと覚えてほしいと思う。

     

    わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。

       ここでは神御自身がアブラハムに語っておられる。神がアブラハムをお選びになったとき、どういう目的をもって選ばれたのかというと、創世記12章1〜3節のことだが、それは全世界が救われるためである。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものである。これが最終的なポイントになる。この世の「地上のすべての者たち」がアブラハムによって祝福される。これがアブラハム契約の最終的な目的である。神がアブラハムを選んだとき、彼の家族のこともその御計画のうちにあった。授かった子どもたちに神の御言葉を守るように訓練するという責任もその選びに含まれていた。神がアブラハムを選んだのは、アブラハムが自分の子どもたち、自分の子孫に、後の家族に、神の御言葉を守るように教えるためであった。

       これはバプテスマの誓いにも出てくることである。そしてバプテスマで強調すべき点でもある。これはマタイの福音書28章19節と同じことである。キリストの大宣教命令は、この「選びの目的に適った命令」なのである。アブラハムが自分の子どもと子孫たちを神の御言葉に従うように教え育てることによって、地上のすべての国々は祝福されるという神の契約の祝福が成就するのである。その約束を成就するために、神はアブラハムを選んでくださったのである。このことを忘れてバプテスマを考えてはならないのである。

       それどころか、私たちはアブラハム以上にそうなのだ。「アブラハム契約の中で望まれていた契約の祝福が、私たちに与えられる」ということをパウロはガラテヤ人への手紙3章6節以下のところで教えている。アブラハム契約にあずかっている私たちに、その御霊の祝福が与えられた。その同じ目的のために神は私たちを選んでくださった。アブラハムに対する契約の約束を成就するためである。それは私たちがアブラハム契約に含まれているからである。さらに、契約の約束は、私たちが全世界を祝福するいわば水路となることによって契約が成就するように私たちに与えられたのである(ガラテヤ人への手紙3章14節、ヨハネの福音書7章37〜39節参照)。神の契約の家庭に与えられたクリスチャンの子どもたちは、アブラハム契約の最終的な約束(御霊の賜物)がアブラハムの真の子孫である私たちの上に与えられたという事実を象徴するものとして、バプテスマを受けるべきなのである。

       それ故、なぜ、神は契約の家族であるクリスチャンの夫婦に赤ちゃんを与えてくださるのか。それはクリスチャンの夫婦が、その子らとその後の子らとに命じて、主の道を守り行なわせるためである。それは、クリスチャンの親たちが、「後の子どもたちに正義と公正とを行なわせるため」である。それによって、神の御国の祝福がこの日本に与えられるためなのである。その祝福をアジアに、そして全世界に与えるためである。神が御自分の御霊の祝福を私たちに与えてくださったのは、その子どもたちを正しく育てて、その次の世代において、御霊の祝福がもっと広く豊かに表わされていくためである。その流れ出る水がどんどん深くなっていくということがエゼキエルの幻の中に出てくるように、それは私たちの家庭においてそうなるために、神は私たち一人一人をお選びになり、私たちの家庭を祝福して、子どもたちを与えてくださる。

       それ故、洗礼が行なわれるたびに、「なぜ自分に子どもが与えられたのか。この子どもたちの将来のために私はどういう働きをしているのか、またすべきなのか」をよく考えなければならない。バプテスマの意味がいったい何なのかを思い出して真剣に祈るべきである。私たちは、神の御国のために、そしてアブラハムの契約が成就するためにこそ、救われたのである。それは、結婚しているにしても結婚していないにしても、子どもでも大人でも、その目的のために救われたのである。そのために救われた者として、私たちは幼児のバプテスマを証人として見て、神の教会のメンバーとしてその赤ちゃんのために、そして次世代を担う祝福の実として教会に与えられた子どもたちのために、真剣に祈るべきである。子どもたちに、神の御恵みと祝福が与えられるように祈るのである。

       祝福が与えられるのは、何か自動的に「イチ、ニイ、サン」と号令かければ与えられるものではないことはよくわかると思う。「契約を守る」ということは、まず第一にそれは神と自分の心の問題である。詩篇73篇はそのことを私たちに教えてくれる。「心の中で悪者が豊かになるのを見て、悪い思いを抱いてあやうく神から離れるところであった。私は愚かだった。しかし、神に目を留めた時、神の聖所に入った時、私の思いは変わった」と詩篇の著者は告白しているではないか。それと同じことなのだ。

       新しい契約のかしらであるキリストは、世を贖ってくださる。そこには、私たちの家族の贖いのみならず、「あらゆる国民」も含まれている(マタイの福音書28章19節)。それは、全世界がついには救われるということを意味している。すべての国々もいつの日か救いの御恵みと御霊の御力とを表わすようになるのである。そのように、御国のビジョン、そして、神の契約のことを覚えて、「自分たちに与えられた子どもたちは御国のために与えられたのだ」という認識をもって子どもたちを育てるのである。日本が救われるために、アジアが救われるために与えられたものとして子どもたちのことを覚えて、彼らのために祈り、神の御霊の力が私たちの中から流れ出て、御国の影響がこの日本において広められるように祈るのである。それをバプテスマの意味として覚えて今日、バプテスマを行ないたいと思う。

       古い契約と新しい契約の違いを真に知って味わうならば、新しい契約のしるしを古い契約のそれよりも狭く限定するのではなく、むしろ新しい契約のしるしを、アブラハムやモーセが求める以上に神の救いの約束と御力に対する大いなる確信をもって子どもたちに適用するように導かれるはずである。今の時代における聖霊の御業は、私たちを通して流れ出ることにより、全世界に救いをもたらすのである。これは聖書の一貫した約束である。私たち自身がまず誰よりも神が私たちに賜わった子どもたちに対して御恵みの水路となり、彼らが御名とその栄光のために実を結ぶ者に成長することを得させてくださるよう祈らずにおれない。そのように聖書が教えているバプテスマには、非常に大きな素晴らしい意味があることを覚えよう。

       私たちの一つ一つの家庭は何のために存在しているのだろうか。御国のために存在しているのではないのか。神の契約の祝福を地にもたらすために存在しているのではないのか。地域教会も、御国のために存在している。国家にはこのことが分かっていないけれども、国家もまた神の御国のために存在しているのである。個人も、御国のために存在しているのだ。神の御国のビジョンをはっきりと持ってバプテスマを子どもたちに行なうとき、その誓いの素晴らしさを深く覚える筈である。神の契約を覚えて、契約の儀式として子どもに洗礼を授けるのである。そして、契約に入るバプテスマを受け、一つの家族として共に神の契約にあずかる者として聖餐式において、「私と私の家族はキリストを愛して、キリストに従い、キリストに仕える」という心を新たにするのである。本当に神の御国を第一にし、神の御国のために生きることを第一に求めるのである。

       個人においてもそうであるし、家族としてもそうである。もちろん地域教会においてもそうである。マタイの福音書6章にある「神の御国と神の義が第一である」というキリストの教えをよく覚えて、契約を新たにするものである。いま一度、聖書が教えるバプテスマの意味を深く覚えつつ、主イエス・キリストの十字架の死と復活を心から感謝して契約を新たにしたいと思う。

     

    ――1998年11月8日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙2章25〜29節

    ローマ人への手紙3章1〜8節

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