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    ローマ人への手紙5章2節


    5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

    99.07.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    望みをもって喜ぶ

    5章2節

       先週説明したように、5章の1節から11節までのところでパウロは私たちに、アブラハムのような信仰を持って生きるとはどういう意味なのかを教えている。4章で、義と認められるアブラハムの信仰を説明したあと、5章1節から11節までは、そのような信仰を私たちに適用するような論理的つながりになっている。アブラハムの信仰は、アブラハムの神を本当に信じるすべての者にとって模範である(4章16節)。それがローマの教会の実生活においてどのような意味を持つかということをパウロはこの箇所で説明する。まず第一に、それは「平和(シャローム)を持つことを意味する(5章1節)。なぜなら、義認の概念そのものが神との平和を必然的に含むからである。第二に、アブラハムの信仰を持つということは、神の国を望む信仰を持つことを意味する。それは、気まぐれに神の国を願うことではなく、神がキリストにあって約束した御国に対する確信に満ちた喜びをもって熱望することなのである。今日は5章の2節をみたいと思う。1節と2節をまず読もう。

    1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

    2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

       ここでパウロは、非常に意味の深い、そして短い言い方で多くのことを語っている。「導き入れられた」とか、「恵み」とか、「キリストによって」「立つ」などの表現一つ一つを考えるとともに、私たちは、ローマ人への手紙全体の前後関係の中でパウロはここで何を伝えようとしているかを考えなければならないと思う。

     

    キリストによって

       まず、ギリシャ語の語順と日本語の語順が違うということを念頭に置く必要がある。ギリシャ語の順番は「主イエス・キリスト」という言葉から始まっている。「この主イエス・キリストによって、信仰によって私たちは導き入れられた」という言い方で始まっている。主イエス・キリストによって義と認められた。主イエス・キリストによって神との平和を持っている。主イエス・キリストによって恵みの領域に導き入れられたということになるが、「主イエス・キリストによって」ということが非常に強調されている。「主イエス・キリストによって」ということがこれほど強調されるのは、救いが「恵みの救い」であって、救いはすべて主イエス・キリストが私たちの為に得てくださり、私たちに与えてくださるものだからである。私たちの力や知恵によって何かしたことの結果ではない。救いは、100%「キリストによって」与えられたのである。

       そのことをパウロはずっとローマ人への手紙の中で強調する。何らかの表現で私たちの救いにおけるキリストの働きを強調する箇所はローマ人への手紙に少なくとも25箇所ある。神が私たちを救うために成された事はすべて、御前で私たちの契約の代表者であるイエス・キリストにあって、キリストを通して、またキリストによって成されたものである。中でも今私たちが読んでいるこの箇所において、この点の繰り返しは際立っている。原典を見ると、1節から11節で5回も登場している(1節、2節、9節、10節、11節)。私たちの持つすべてのものを、私たちは主イエス・キリストを通して持っているのだ。キリストこそ、救いをもたらす御自身の死と復活とにより、私たちの救いを勝ち取られた唯一の御方である。この御方にあって私たちは神の御前に正しくされており、この御方によって契約のすべての祝福が私たちのものとなった。私たちの救いにおけるキリストの働きを繰り返し頻繁に指し示すこの前置詞句は、福音の中心の中心を指すものであるゆえに、決して見過ごされてはならない。

     

    導き入れられること、または、入る権利

       パウロは、「恵みの領域に導き入れられた」という言い方を使っているが、ここでローマ人への手紙1章18節を思い出してほしい。ローマの教会はこのパウロの手紙を受けたときに毎日1節ずつ読んだわけではない。当然、手紙を全体として読んでいるので、1章には何が書かれてあったかを覚えながら5章まで読み続けていたはずである。1章でパウロは「神の怒り」を強調していた。罪人は神の怒りの下にある。神の怒りを受けるべき者である。罪人は神を畏れず、神に感謝せず、真理を阻み、神を無視して生きるので、神はその罪人たちに自分のしたいようにその欲望のままに汚れに引き渡してしまわれる。それで、罪人らの生活はどんどん悪くなり、互いをはずかしめるようになった、ということが1章18節から32節までに書かれてある。

       神の御怒りの下にある者を、神はどのように扱われるかというと、その人たちが神を無視し続けるように任せてしまわれるのである。彼らのしたいようにさせる。それは実に恐ろしい罰であると思うのである。その箇所で「引き渡す」という言葉が三回も使われているのである。罪に引き渡された者の思いは空しくなり、心は暗くなり、どんどん悪に走るようになり、次から次へと多くの問題を引き起こすようになる。それで、1章に書いてあるように、戦争の問題、殺人の問題、社会の混乱、性的混乱など、ありとあらゆる問題が起こってくる。そのすべては、神を神としてあがめず、感謝もせず、神を憎み、神から離れて生きることから出る問題なのである。欲望の汚れと情欲と良くない思いに引き渡された者たちはどんどん罪の道を歩むようになる。

       罪人は、“自分が作った領域”の中に生きているようなものだ。別の言い方をすれば、ヨハネの第一の手紙によればそれは「サタンの領域」または「悪の領域」に住んでいると言うこともできる。聖書は、「神の御国」と「この世」という二つの霊的な領域(世界)があることを教えている。私たちは主イエス・キリストを信じることによって、「恵みの領域に導き入れられた」という言い方をパウロは使っている。コロサイ人への手紙では、パウロは「御子の領域に導き入れられた」というような言い方をしている。神の御国の領域、あるいは恵みの領域、アウグスティヌスはそれを「神の国」あるいは「神の都」と呼んでおり、その神の国とこの世との対立についてアウグスティヌスは語っている。同じポイントをパウロは語っている。その二つの領域があって、歴史が続くかぎり、その二つの霊的な国あるいは領域の間の戦いは続く。私たちは、キリストの愛と御恵みによって神の御恵みの領域に導き入れられて、その領域の中にいる。

       そして、パウロは「立つ」という言い方をしている。私たちはどこに立っているのか。私たちは恵みによって導き入れられて「恵みに立っている」のである。パウロはそのように私たちの救いについて説明している。この言い方は、非常に広い意味を持つ言い方である。「導き入れられた」という意味の中には、私たちが自分で選んで自分でこの領域に入ったというのではなくて、主イエス・キリストの御恵みによって私たちはここに導かれたという意味がある。「導き入れられた」というギリシャ語の使い方には、「ここに入る特権が与えられた」という意味もある。この「導き入れられる」というギリシャ語は、幾つかの英訳では「入る権利(access)と訳され、他の英訳では「導き入れられる(introduction)と訳されている。どちらの訳も誤りではない。

       この表現の意味はやや異なるが、2種類の英訳は全く異なった概念を与えるというよりも、異なった視点を提供している。「入る権利」という訳は、神の国における私たちの立場は、私たちのためにキリストが勝ち取ってくださった栄誉と特権なのだという事実を強調している。他方、「導き入れられる」という訳は、キリストが私たちを神の御臨在の中へと導かれることを描写している。どちらの訳にも、私たちの現在の立場が偉大なものであって非常に高いものだという事実が含まれている。一方ではその地位そのものが焦点であり、他方では私たちがキリストによってその立場へと導かれたことが焦点となっている。この言葉には「王の前に導き入れられた」というような意味合いがある。つまり、「ここに入ることは非常に特別な祝福であり、特権である」ということなのだ。パウロはそのような意味でこの表現を使っているのだと思う。

     

    私たちの立っている恵み

       「恵みの領域に立っている」ということは、非常に大きな素晴らしい特権である。導かれてここに入る特権が与えられたのは私たちの行ないの中に何か良いところがあったからではない。私たちがここに立っているのは、神の御恵みの働きのみによっているのである。主イエス・キリストの贖いの働きのみによってここに立っている。ただただキリストの働きにより、その贖いによってここに導かれたのである。「恵みに立っている」という言い方の意味をもっと深く考えようとすれば、とても語り尽くすことはできないほど豊かな意味を含むものである。

       私は一応クリスチャン・ホームで育った者ですが、最初に自分で新約聖書だけを最初から最後まで読んだのは大学生のときであった。読んだ時に非常に驚いたことは、「恵み」という言葉に溢れているということであった。聖書の「恵み」の教えがどんなに深くて強いものなのかということがまず印象に残った。その後、ローマン・カトリックの友人と話し合ったりするときにも、「この行ないをすれば救われるというのではなくて、救いは恵みのみによるものだ」ということを一生懸命話したのを今でも覚えている。その時はまだはっきり信仰を持っていたとか生活が変わったとかはなかったが、ただ知的なレベルでそのことを深く感じてよく話題にしたことを覚えている。最初に新約聖書を読んだ印象は「神の恵みの深さ」であった。「聖書は恵みの言葉なのだ」と思った。

       挨拶するのも「恵みがあなたがたとともにありますように」というものである。「恵みと、憐れみと、平和があなたがたとともにあるように」という言い方が挨拶の中でも繰り返されている。パウロの手紙でもペテロの手紙でも、「恵みのみによって救われる」ということがずっと強調されている。私たちはどこにいるのか、どこに立っているのか。自分の生きている領域はどこなのか。それはどのようなものなのかというと、私たちは「恵みに立っている」のである。「立っている」とは、不動で、動かされない安定した状態を指している。パウロは「キリストによって恵みに立っている」という言い方で救いを表わしている。これはローマにいる信者に深い安心感と安堵を与えるものであった。神によって守られており、その恵みの領域に立っていることを知るのは大きな励ましであった。神の国の城壁の中にいる者は確実に守られる。そこには安息があるという意味が含まれている。

       これは救いの確かさと強さを表わす言い方なのだ。その中に立つ者への祝福は神によって約束されており、守られており、失われることなく、信じる者は安心してそこに住まうことができる。この恵みの領域における私たちの立場は失われることがない。だから、「この恵み」とパウロが言うとき、パウロは御国における私たちの今の立場について述べていると思われる。今私たちが立っている御国は何よりも恵みの御国だという事実をパウロはここで力説している。「いや。ここでパウロは、もっと抽象的に語っているのだ。私たちがキリストを通して神の御恵みに取り囲まれていることを単に主張しているのだ」と理解する方がよいと考える人もいるだろう。しかし、パウロは、私たちが導き入れられた領域を指しており、その領域とは、別な言葉で表わすなら「今の御国」ということにしか成り得ないと思う。

       御国は今、栄光と力の御国としてではなく、恵みの御国として現わされているのである。私たちは今、恵みの御国に立っている。それはとりもなおさず、私たちが「揺らぐことのない立場」を持っているということである。キリストによって私たちは守られている。神の御国における私たちの現在の立場の確かさは、何よりも神がどのような御方なのかということ、そして、キリストの十字架上の御業に基づいているのだ。それゆえ、パウロは「キリストによって」という表現で始めているのである。しかしながら、恵みの御国の確かさは、この今の時代が神の恵みの働きにより、栄光の御国へと花開くことの確かさとも関わっていることを知る必要がある。

     

    栄光の恵み

       5章におけるパウロの主張は、「私たちは平和を持ち、入る権利を持ち、喜んでいる」というものである。これらのことは明らかに統一されたということではなく、体系的に関連しあっていると考えるべきである。私たちは、契約の平和において回復されているからである。しかし、恵みの御国は、来たるべき栄光の御国の現在における不完全な現われに過ぎない。従って、「恵みに立つ」という意味は、未来の栄光を熱心に期待し求めることなのである。「神の都」とか「神の御国」という言い方が使われているが、この世の歴史が続くかぎり、エバの子孫とヘビの子孫との霊的な戦いはずっと最後まで続くものである。2節の最後のところにあるパウロの言い方はそのことに関わっている。「信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」とパウロは言う。未来の栄光を真剣に望むということは、喜ぶことを意味するものだ。世界の歴史のそのような結末を、喜びに溢れることもなしに確信できる者は一人もいないからである。

       「神の栄光を望んで大いに喜んでいる」という翻訳はそのままでよいと思うが、もっと厳密に言うなら「神の栄光の望みを多いに喜んでいる」と訳す方が正しい。クリスチャンは、神の栄光を望んで、その栄光を大いに喜んでいる。ここでも日本語訳は文法の関係で違う表現になっているけれども、ギリシャ語では直説法が使われている。つまり、「私たちは.....している」という命題を提示している言い方なのである。新改訳の脚注にある別訳は間違っているので無視してよい。「私たちは、大いに喜んでいる」と言っているのだ。これはクリスチャンを定義するような意味合いを含む言い方である。「クリスチャンなら、当然このことをしている」ということである。

       アブラハムのような信仰を持ち、恵みによって導き入れられ、恵みに立っている者は、神の栄光を望んで、それを大いに喜んでいる。その「神の栄光の望みを大いに喜んでいる」という表現を正しく理解するために、まず「大いに喜んでいる」という言い方について理解する必要がある。これは強調の言い方である。3章27節からのところで「誇る」という言葉について学んだが、「誇る」という言葉は他の箇所で「喜ぶ」と訳されたりもする。ここで「喜ぶ」と訳されているギリシャ語は、3章27節で「り」、そして4章2節で「誇ること」と訳されている言葉と同じ言葉(ギリシャ語では名詞形ではなく動詞形)であることは注目に値する。

       2章17節と23節でパウロが咎めているユダヤ人の偽りの確信もその背景にある。パウロは自らのわざを誇ろうとする罪人の試みとユダヤ人の神に対する偽りの誇りを、即ち、彼らが神に帰すべき誇りを自分の誇りの一形態へと歪曲したことを咎めたのである。だから、この「喜んでいる」という言葉も「何を誇っているのか」を表わす言葉なのである。「誇る」ということは「大いに喜ぶ」という意味につながっている。つまり、自分の行ないを誇るというのではなく、自分の何かを喜ぶのでもなく、神の栄光を喜ぶのである。神御自身に目を留めて生きる。神のみが私たちの誇りであり、また喜びであり、私たちが何よりも大切に思う御方なのである。そのような意味がこの表現の中に含まれている。つまり、これは「何を誇りに思うのか」という3章27節のことを指して、その続きを話しているのである。私たちは、自分の何かを喜ぶのでなく、神を大いに喜んでいる。そのことをパウロはここで強調をもって話している。しかし、いまパウロは根本的に異なった種類の誇り、即ち、神の国の究極的実現を喜ぶように私たちに勧めているのである。

       「神の栄光の望みを喜ぶ」という言い方は、非常に抽象的に聞こえるかもしれない。もし抽象的に聞こえるのであれば、それは読み方が間違っているということになる。この短い言い方を考えるとき、聖書全体のストーリーの前後関係の中でその意味を考えなければならないものである。それはごく当たり前のことである。この望みはアブラハムの信仰と関係ないことではない。「神の栄光の望み」という言い方をアブラハム信仰との関係において読んだり、ローマ人への手紙の文脈の流れをとらえながら読むならば、そのことを深く感じさせられる言い方なのである。文脈の中で読めばすぐにピンと来る言い方である。だから、是非アブラハムの人生を思い起こしながら読んでみてほしい。将来の望みこそ、アブラハムの信仰の本質であったからだ。

       神はアブラハムに契約の約束を与えたが、「その成就は400年後になる」ということで契約が与えられた。アブラハムの信仰において「望み」は根本的で中心的なものであった。アブラハムに約束されたことは明日来るとか今日来るとかいうものではない。アブラハムは望みを持って生きたが、自分の生涯の中で、あるいは自分の息子が生きている間にはその約束はかなえられなかった。400年経ってからはじめて自分の子孫がこのカナンの地に入り、その地はアブラハムの子孫であるイスラエルのものになる。その約束を受けたアブラハムは、当然自分が死ぬ前にその約束の望みを見ることはできないことがわかっていた。アブラハムは、遠い将来に目を留めて生きなければならなかった。「私はどうなるのか。私に何の益があるのか」というようなことばかりを考えるような望みであったなら、アブラハムはどこにも行かなかったであろう。

       ユダのヒゼキヤ王は、イザヤの預言を聞いて、「裁きは来るが、自分が生きている間は平和で安全だろう。自分が死んでから裁きが来るなら、それはありがたいことだ」というような反応をした(第二列王記20章参照)。実は、罪人としてその気持ちはよくわかる。しかし、将来に対するヒゼキヤの望みは何だったのか、何のために生涯をかけて働いたのか、いったいヒゼキヤはどう考えていたのかは正直言ってよくわからない。その箇所は彼の信仰の足りなさを表わすものではなかったかと思うのである。アブラハムの場合は、自分が生きている間は大丈夫だが、死んでからはどうなるのかわからないというような望みを持って生きてはいなかった。自分は、生きている間はまったくの旅人であった。死ぬ日まで、アブラハムは旅人または寄留者であった。

       カナンに住み、自分が土地を買ってそこに住むことは一切できなかった。アブラハムが代金を支払って買った土地は、私たちの教会と同じように、墓地だけを買って持っていた。墓地以外に生きている間に住むべき自分の所有の土地は何も与えられなかった。カナンの中で旅をし、迫害されたりして生きていた。パロやアビメレクに苛められたりした。周りにいたソドムとゴモラのような町の人々との関係も容易なものではなかった。カナン人の罪はアブラハムの時代でもかなりひどいものであったからだ。そのような中にあってアブラハムは、この世においては実に不安定な生活を送った。家もなく、生涯天幕住まいであった。

       そればかりでなく、アブラハムに約束されたのは「子孫」であったのに、いつまで待っても子どもは与えられなかった。100歳になってもサラによる子どもは与えられなかった。イシュマエルが与えられたが、サラによる約束の子ではなかった。そういう意味で、100歳まで約束された子孫は誰もいなかった。それでも、アブラハムが望んでいたのは神の御国であった。エバの子孫への約束が自分を通して成就されることを堅く信じていた。しかし100歳になっても、何も与えられなかった。アブラハムは、ただ望みのみによって生きていたと言えよう。やっとイサクが与えられると、イサクを全焼の生け贄として神にささげるようにという命令が与えられる。それでもアブラハムは神を信じて、望みを捨てず、イサクをささげた。そのアブラハムの信仰こそ、望みに基づいた信仰であり、望みを持つ信仰であった。ヘブル人への手紙11章のところにおもしろい言い方がある。ヘブル人への手紙11章8〜10節を見てほしい。

    信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

       アブラハムは、神が建設してくださる「都の望み」を持って生きていた。神の都、神の御国を待ち望んで生きた。それがアブラハムの望みであった。アブラハムはどうして「神の都」という望みを持つことができたのかというと、アブラハムは創世記のアダムとエバの話をよく知っていたからである。「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ」という最初の命令をアブラハムは知っていた(創世記1章28節)。人類は、地上に増え、神の都を築き上げ、すべてのことにおいて神の栄光を表わすために創造されたのである。それが人類の目的である。神の似姿として創造された人間は、自分に与えられた可能性を正しく実現するときに、創造主の栄光を表わすことになる。アダムとエバに与えられた命令は、この世を神の都に変えるというものであったことをアブラハムは知っていた。

       歴史の中のエバの子孫とヘビの子孫との戦いにおいてエバの子孫が勝利することもアブラハムはよく知っていた。エバの子孫、即ちメサイアは勝つ。それで神の都が歴史の中にあって築き上げられる。それは神御自身の働きによって築かれるものである。神の恵みによって造られる都である。そのこともアブラハムは知っていた。アブラハムに与えられた約束に、その神の都のビジョンが含まれているのは既に説明したとおりである。「すべての国民はあなたによって祝福される」(創世記12章3節)と神は仰せられた。アブラハムに子孫が与えられ、その子孫から救い主メサイアが生まれるという約束とともに、「アブラハムを呪う者は呪われ、アブラハムを祝福する者は祝福される」という約束も与えられた。祝福と呪いはバランスが取れていてどっちにでもなり得るという話でないのは明らかである。結論として、「すべての国民はあなたによって祝福される」というのである。「祝福が歴史の中で勝利を得る」というのがアブラハム契約の中にある約束なのである。

       それで、アブラハムは、アダムとエバに与えられた契約の命令と、自分に与えられた約束のことを考えるとき、「これからの歴史はそのようになる」ということを確信していた。歴史のストーリーのだいたいの流れと結論をアブラハムはそういう意味で知っていた。そして、自分から生まれる子孫がエバの子孫であって、その子孫が勝利を得て神の都を作ることになるという望みを持ってアブラハムは神に仕え、自分の子らを育てた。神の都、即ち神の栄光を表わす御国の望みを持って、その未来への望みを持って生活を送ったのである。これがアブラハムの人生であり、アブラハムの信仰である。

       ローマ人への手紙4章では、「アブラハムは世界の相続人」という言い方があるが、意味は同じである。それは、「神の御国の相続人」という意味である。アブラハムは神の御国の相続人であり、神の都の相続人である。神の栄光の望みを持って生きる者であった。それらはみな基本的に同じことを指す言い方なのである。神のメサイアが歴史において完全な勝利を得て神の栄光が表わされる。しかし、「それははるかに遠い未来の望みである」ことを最初からアブラハムには告げられていた。アブラハムはその望みを持って生活しなければならなかった。

       アブラハムの立場はローマ人たちのそれと似ていた。ローマの教会は約束された地、恵みの領域にあったが、約束の全き相続、栄光の御国ははるか遠くの未来にある。その約束の最終的成就は、キリストの再臨の時、神の栄光の望みが永遠の輝きをもって現われるその歴史の終りまで、実際に来ることはない。この理解は、この箇所の「神の栄光」への言及をその未来の現われへの言及とする解釈にかかっている。私たちの神の栄光の望みは、パウロが先に述べたこととの関連において理解されるべきである。即ち、アダムにある罪深い人類が、神の栄光を表わすという彼らが創造された原初の目的から離れてしまっているとパウロは説明している。

       それだから、「神の栄光の望み」という言い方の意味を考えるとき、アブラハムの信仰においてその意味を考えたけれども、もう一つのことも考えておかなければならない。そのもう一つの連想しなければならない箇所は3章23節の罪の話である。「すべての人は罪を犯したので、神の栄光に達しない」とある。つまり、「罪を犯したので、神の栄光に至らない。神の栄光を表わすことができない」ということである。このパウロの教えとの関連において「神の栄光の望み」の意味を理解しなければならない。人間は本来神の栄光を表わすものとして創造された。何度も説明したポイントだが、「罪を犯す」ということはその目的から外れることを意味し、ギリシャ語の「罪」という言葉の本来の意味も「的外れ」という意味である。つまり、罪人と言っても、常に一番悪いことばかり行なっているというわけではない。朝から晩まで人を殺しているわけではない。朝から晩まで極力悪いことをするわけではない。

       問題は、「良いことをするにしても、誰も本質的な意味で良いことをしているのではない」ということにある。そのあるべき義しさからいつも離れている。善を行なう時でさえそうなのである。そういう意味で、罪人は最終的に神の栄光を表わすことに至らないというわけである。それが罪人の根本的な問題である。神の栄光を表わさないということは、ローマ帝国のことを考えればわかると思う。ある意味でローマ帝国は神の栄光を表わしているという言い方もできないわけではない。例えば、ローマ帝国の建造物には素晴らしいものがある。現代でも驚くような美の極みのような建造物がイタリアやヨーロッパやイスラエルなどにも残っている。しかし、最も素晴らしい建造物は何かというと、だいたいは神殿とか競技場のような場所になっている。そのように、偶像礼拝をする場所、最も神の栄光を汚すような場所において最も神の栄光を表わしているという逆説になってしまうのも確かである。

       ローマの偉大な建造物の一つであるコロシアム(競技場)では何をしたかというと、クリスチャンを殺したり互いを殺し合ったりしたのである。非常に残酷でひどいことをそれらの最も素晴らしい建造物の中で行なっていたのである。そういうわけで、ローマの最も優れた建築美も最終的に神の栄光を本当の意味で表わすことにはならない。また、ローマの法律はある意味では非常にすばらしいものであった。しかし、その奴隷制度は残酷極まるものであり、お世辞にも素晴らしいとは言えない。人間を生贄としてささげることもしていた。そのローマ帝国の中には非常にレベルの高い優れたものもあれば、実に程度の低いものも至る所に混在していた。そういう意味で、人間はあくまでも神を表わす者として創造されているので、自分に与えられた可能性を実現しようとすれば、自分を創造した神の栄光を程度の差こそあれ、何らかの形で表わしてしまうことになるのである。

       しかし、神を愛さず、隣人をも愛さず、自己中心的で、自分を神にしようとするような野望を持って何かを求めたりするとき、罪人の行為は本当の意味で神の栄光を表わすことにはぜんぜんならないということがよくわかると思う。それが罪人の罪の本質的なところなのだ。神の栄光を表わすものとして創造されたのに、神の栄光を表わさない。しかし、それとまったく反対に、恵みの領域に立っている私たちは、「神の栄光を望む」のである。神の栄光を求めて生きるのである。クリスチャンになるということは、神の栄光と誉れを求める者になるということなのだ(2章7節と10節)。「神の栄光を望む」というとき、最終的には天国の救いの話でなければならない。そうでなければ、神の栄光を完全に表わすことにはならない。しかし、この世の歴史においても、ある程度までは神の栄光が表わされることも事実である。

       前に何度も話したことだが、モーセの十戒だけでも、単純にその戒めを守る社会があるならば、その社会はとてつもなく素晴らしい社会になるであろう。盗みはなく、殺人もない。姦淫はないし、偽りはないし、むさぼりがない。皆が感謝をもって生活し、子どもたちは父と母を敬い、よく従い、日曜日には皆で一緒に自分たちを創造してくださった神を礼拝し、神を喜び、神に信頼してすべてを行なう。そのような社会があるならば、それは実に素晴らしい社会となる。歴史の中で、そのような社会は神の栄光を表わす社会となる。聖書の中では、福音を伝えることによって全世界が最終的に主イエス・キリストを信じるようになることが教えられており、また命じられている。そして、全世界が、主イエス・キリストを信じるようになったとき、「基本的に」全世界はモーセの十戒を守って生活を送るようになるのである。

       アブラハムの子孫がアブラハムに与えられた約束のとおりに海辺の砂のように増え、義しさをもってこの世を治めるようになったとき、神の栄光は私たちの想像をはるかに越えて歴史に現わされる。なぜ「基本的に」という言い方をするのかというと、私たちも罪人であるし、全世界が救われると言っても、一人の例外もなしに100%が救われるという話でもないからである。しかし、圧倒的多数の人たちが救われて、社会のほとんどがクリスチャンとなる。それは罪そのものが全く根絶されてすべての人間が復活の状態になるわけではない。それはまだ永遠なる神の栄光の現われのすばらしさには遥かに及ばないものなのだ。それでも、歴史の中でそれは最も祝福された社会となる。

       昔のアメリカの田舎町の話を前にもしたことがあるが、本当に犯罪という概念すらなかった。夜に鍵をかけるという習慣はない。私の祖母は、ドアに鍵がついてても、鍵を使ったこともない。毎晩窓もドアも開けっ放しであった。車も鍵をさしたままにしてある。その方が無くなることもないし一番便利なのだという。その町では、50年間でいわゆる犯罪らしい犯罪は一つもなかったのである。それが私の幼少時代の田舎町の話である。今では全く違う町になってしまっている。犯罪もあるし、麻薬ははびこり、ドアにも鍵をかけなければ安心はできなくなっている。車に鍵をさしたままにすることはもやはない。それはこの40年間の大きな変化であった。

       神の命令を表面的にだけでも守るか守らないかが社会に対してどれほど大きな意味があるのかを、私は自分の経験においてよくわかっている。全世界が本当に相手の約束を信じることができるとしたら、どうなるだろうか。私たちはそれがどんどん失われている社会に住んでいるが、昔は、ビジネスマンたちは握手一つで約束を守ったものである。書面を交わしたりする必要もなかった。一旦口から出た言葉は必ず守ったものである。もちろん複雑な契約は書面にしなければならなかったが、ポイントは、互いに騙されないように契約を交わすというようなものではなかったのだ。しかし、人々が神の命令とその戒めから離れれば離れるほどに、神の栄光を表わすことはどんどん失われてしまうようになる。

       今の時代は、非常に優れた技術を持っており、天才的なアイデアで映画を制作したり本を書いたりしている。しかし、ほとんどの場合その内容はとんでもない破廉恥な内容になっているのが普通である。神の栄光を表わすところからどんなに遠く離れてしまっていることか。真のクリスチャンの人数も僅かしかいない。アメリカでもそうだが、日本では特にそうだと言えよう。周りは神に逆らう者たちで満ちている。ローマ人への手紙を受けた当時のローマの教会の状態はもっともっとひどいものであった。ローマではキリスト教に対する本格的な迫害が始まろうとしていた。パウロもそのことを知って警告を与えていた。ローマ人への手紙やコリント人への手紙の中で「これから大変な迫害の時代になる」というようなことを警告している。

       ローマ帝国の中ではキリストは犯罪者として恥ずべき死刑に処せられたユダヤ人なのである。しかし、十字架にかかった主イエス・キリストはまことの王であった。ローマ皇帝こそ本当の王ではなかった。その支配は表面的で一時的なこの世の幻に過ぎない。真の支配は、彼らが十字架にかけた御方の手にあるのだ。そのようなことをパウロはローマの教会に説明しているわけである。明らかに、全く違う目をもってこの世を見なければならないのである。そうでなければ、ぜんぜん話の意味を知ることはできないだろう。ローマ帝国にとってキリストは犯罪者に過ぎない。しかし、表面上は犯罪者の死のように見えるその十字架の死は、神の永遠からの救いの御計画であった。主イエス・キリストは私たちの罪のために「贖い」をしてくださったのだ。その贖いの死によって私たちは救われ、「恵みの領域」に導き入れられたのである。

       その私たちは、主の十字架の勝利を確信して「望みを持ち、神を喜んでいる」者である。「この日本は救われる」という望みを持って私たちは生きている。「アジアは救われる」という望みを持って生きるのである。福音を伝えるとき、福音は歴史にあって勝利の力であることを確信して伝えるのでなければならない。「福音は伝えるが、しかし、この世はますます悪くなるしかない」というような、神の約束に逆流するような考えをクリスチャンは持つべきではない。私たちが福音を伝える相手のすべてが救われるのでないのは事実である。しかし、アブラハムに対する約束を覚え、キリストの命令の意味を正しく理解し、確信を持って福音を伝え、望みを持って福音を伝えるのである。最終的にこの日本もキリストを認める国となることを堅く信じて働くのである。そのことを覚えて私たちは祈り、そのことを覚えて私たちは子どもたちに御言葉を教え、そのことを覚えてこの世にあって神の栄光のために生きるのである。その望みは毎日の生活の心の支え、また力である。未来に対する望みがなければ、動くことすらできなくなる。この「望み」は、ちょうどアブラハムを支えたように、ローマのクリスチャンたちをも支えなければならない。

    信仰によって、アブラハムは、相続財産として受けるべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んだからです。その都を設計されたのは神です。(ヘブル人への手紙11章8〜10節)

       アブラハムに与えられた試練とこの世での不安定な寄留の年月の間ずっと、アブラハムの目は神の都に堅く据えられていた。歴史の中にあって与えられるその約束の御国に対する彼の望みは、圧倒的な試みに直面する中で、彼の信仰をますます強めたのである。ローマのクリスチャンたち、そして実にこの世の歴史の中のすべての神の家族全体は、この望みにおいて妥協したり、即座に実現を見ないときに落胆してしまわないように、彼らを支えるための同じビジョンを彼らも必要としている。「信仰によって生きる」とはまた「望みをもって生きる」ことでもある。しかし、聖書的な意味での「望む」という言葉は、確信に満ちた期待、そしてその期待に対する確実な保証を持つことを意味している。事実それは喜びで満たされるほどに確実なものである。

       パウロは3節のところから苦しみや試練などについて語りはじめるが、「望みを持って生きる」と言うときに一つだけはっきり理解しておかなければならないことがある。皆さんもテレビでアメリカの映画を見たりするだろう。アメリカ映画がなぜ人気あるのかという論文の中で、「それはハッピー・エンドがあるからだ」と評論している。中にはへそ曲がりの人もいるかもしれないが、ほとんどの人はハッピー・エンドを期待している。「アメリカン・マインドの終焉」の中でアラン・ブルームは、「ニーチェの思想がアメリカに深く入り込んだのは事実だが、それはアメリカという土壌の中でハッピー・エンディングのあるニヒリズム(虚無主義)に変えられてしまった」と言っている。ハッピー・エンドでなければアメリカ人には通じないのだという。それには確固とした理由があるのだ。

       アメリカはもともと清教徒の時代から、望みを持って建国してきたという歴史的な背景があるからである。清教徒たちは神の栄光の望みを持ってアメリカ大陸に渡って町々を建設した人たちであった。堅い信仰を持ち、望みを持って生きた。そこからアメリカは始まった。それが今では世俗化された“ディズニーランド”になってしまった。しかし、もともとは「神の都の望み」をもって開拓されて出来た国であった。その望みは現在ではディズニーランド化してしまい、ハッピー・エンディングの遊びのための都というレベルにまで墜ちてしまっている。しかし、「望みを持って生きる」という話をするとき、私たちは「この世の歴史のハッピー・エンディング」を語っているのは確かである。

       アメリカ映画では、映画の途中で死んでしまうような人物はあまり興味を引かない人物ばかりで、中心的な人物は守られて最後に笑うものが多い。中心人物は、試練があったり、とんでもない肉体の苦痛を受けたりしても、本当の意味での痛みや苦しみがないかのように演じられ、最後になるとどこにも傷はないし、髪の毛はきれいで、風呂上がりのすがすがしさをもってのハッピー・エンドになるのが普通である。しかし、忘れてはならない。古代教会の牧師たちが集まってニカイア・コンスタンティノポリス信条を作ったとき、集まった牧師たちのほとんどは、腕が無かったり、足が無かったり、目が無かったり、耳や鼻を剃り落とされていたり、顔や体中に酷い傷があったり、みな厳しい迫害を受けた者ばかりであったという。

       ハッピー・エンディングは最後の復活の日にあるけれども、この世には試練がある。その試練は本物である。本当の痛みがあり、本当の苦痛がある。最後に約束されている神の栄光の望みを持っているので、クリスチャンは最後まで耐えて戦って生きることができる。試練の中にあっても強く生きることができる。その戦いは本物なのだ。軽い戦いではない。だから、「神の栄光の望み」を心の深いところに堅く持っているのでなければ、戦いぬくことはできない。アメリカ的なハッピー・エンドがすぐに来なければ耐えられないような信仰ではどうにもならない。2時間後にハッピー・エンドは来ない。アブラハムは、400年間待たなければ、約束の出発すらなかったのである。それが信仰の父アブラハムに与えられた約束であった。

       私たちは、2時間後にはハッピー・エンディングが来ることを期待してこの日本で福音を宣べ伝えているなら、途中で望みを失ってしまうことになるであろう。「栄光の望みを持って生きる」ということは、歴史の終結にある神の栄光の完全な現われの望みを持って生きることを言っているのである。そして、それに伴って歴史を貫く神の栄光が表わされるという望みを抱いて生きるのである。それが真のクリスチャンの生きる有様である。

       これは、「神の栄光の望みを喜びましょう」という話ではない。「喜ぼうではないか」というものではない。真のキリスト者ならば、その神の栄光の望みを「喜んでいる」はずである。本当のクリスチャンなのに、栄光の望みに目を留めず、神の都を本当の意味で心から望んでいないなら、毎日の試練に落ち込んでしまうしかない。この後でパウロは試練について話しているが、試練と神の栄光の望みのつながりを十分に説明してくれている。「神の栄光の望みを喜ぶ」とは、本当にその望みを持って生きることなのである。望みを持つことは、喜びを持つことである。神を信じるとは、その神の栄光を喜ぶことである。救いについてキリストに信頼するということは、神の栄光の望みを大いに喜ぶことを意味している。神の御国が来ることを信じるということは、それを望んで喜ぶことである。

       5章1節から11節までの箇所でパウロは三回も「大いに喜んでいる」「大いに喜んでいる」「大いに喜んでいる」と言っている。これは自分を誇ること、人間を誇ること、即ち神に逆らう誇りとは正反対のものである。神御自身を喜ぶ誇りなのだ。それがこのローマ人への手紙の文脈の中に出て来る対比である。神の都を大いに喜ぶ。神の栄光の現われを大いに喜んでいる。それがクリスチャンの有様であり、クリスチャンの生活そのものでなければならない。パウロは、「本当の信仰はアブラハムの信仰のようなものでなければならない」ということを別の言い方で話しているに過ぎない。信仰の父であるアブラハムと同じ信仰を持っていなければ、義と認められるような信仰を持ってはいないことになる。喜びの欠けているところでは、信仰そのものが減退し、或いは失われている。なぜなら、真の信仰は喜ばずにはおれないものなのだから。

       そして、真の喜びは、救いの神に対する礼拝と賛美において自分を現わすものである。そのことをパウロはここで私たちに教えている。ここにあるのはローマ人への手紙1章18節から32節までの堕落の論理とは正反対のものである。そこでは感謝の欠如が偶像礼拝と不道徳を生み出している。しかし真の信仰は、喜びと神への賛美を生み出す。神の都の望みを持って生き、神の都を喜び、それを第一に求め、ひたすら神の栄光を求めて生きる信仰こそ、本物の信仰である。真の信仰は、この世において御国を建て上げる信仰である。それによって、神の栄光の望みは歴史の中で圧倒的なレベルにまで徐々に実現されていき、最後にキリストが命じたとおりに歴史の目的が達成される。そのとき、望みは完全に実現するのである。

       私たちは毎日の生活の中で、結局その大きなビジョンと意味を簡単に忘れてしまう傾向がある。そして確かに自分が生きている間に自分が望んでいることが全部与えられるわけではないので、がっかりしてしまったりする。未来のために生きる望みの力を簡単に失ってしまいがちである。そういう意味で、日曜日の礼拝のときに、私たちは共に集まって神の御前に立ち、いっしょに神を賛美し、神の御言葉を心に刻み、そして聖餐式を行なうとき、「私は何者なのか」ということを再確認するのである。「私は、何のために生きているのだろうか」ということを再確認するのである。「私は、何を求めているのか」ということを確認するものである。

       聖餐式のときに、私たちは主イエス・キリストの恵みによってのみ救われたことを覚えて告白し、神に感謝をささげている。神に感謝をささげるとき、私たちは自分自身を神にささげているのである。自分のすべてをささげているのである。「私は、あなたの栄光のために生きます」ということを新たに誓って聖餐式を受けるのである。そのことを覚えていっしょに聖餐式を受けたい。

     

    ――1999年7月18日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章1節

    ローマ人への手紙5章3a節

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