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    ローマ人への手紙5章3節


    5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

    99.09.19. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    患難の中で喜ぶ

    5章3節a

    そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。

       キリストを信じる信仰によって義と認められたゆえに、クリスチャンは神との平和を持っており、神の栄光が表わされることを喜んでいるということを2節までで学んだ。神の栄光を喜ぶのは私たちの救いの完成のことでもあり、また人類全体の救いである主イエス・キリストの栄光が最終的に完全に表われることを喜ぶことでもある。この箇所でパウロは「義と認められた私たちは喜びます」ということを三回も強調して言っている。2節で「神の栄光を喜ぶ」とあり、3節には「患難の中にあっても喜ぶ」と言っており、それから11節では「神ご自身を喜ぶ」と、強調して言っている。「キリストにあって義と認められた人は喜ぶべきだ」とは言っていない。「喜んでいる」とパウロは言っているのだ。つまり、「喜ぶべき」と言えば、それは命令していることになるが、そういうことではない。「喜んでいる」のは状態のことであり、義と認められた人の当然の状態のことをパウロはここで話しているのである。それはクリスチャンの当然の姿である。

       無論、「喜ぶべきです」という意味も示唆されているけれども、これはクリスチャンに共通のことであり、喜んでいないクリスチャンはいないというのがパウロの言わんとするところである。義と認められた者は当然喜んでいる。その救いの完成のことをいつも喜んでおり、神御自身を喜んでいる者である。そして、試練の中にいても、喜んでいるのである。それ故、試練にあっても持ちこたえることができる。その喜びは確かな望みに根ざしたものであり、究極的には神御自身に焦点をあてる喜びなのだ。パウロは強調をもって私たちのことを話している。

       なぜ、これほどに喜びを強調するのかというと、義と認められたものは神との平和を持っているからである。神との平和を持っているのであれば、原則的に救いはもう既に与えられたのであり、神との関係が既に回復されたのである。人間のすべての問題の根本はそこにある。すべての問題は神との関係というところにある。すべてを含むその根本的な問題が解決されたなら、喜ぶのは当然のことである。あなたのすべての問題は根本的に解決されたのだから。「健康の問題は解決された。経済の問題も解決された。人間関係の問題は解決された。あなたの問題はすべて原則において解決されて、今持っているのは完全な救い、シャロームである。もはや問題は残っていない。今日からあなたはシャロームのうちに生きるのだ」と宣言されたら、どうして喜ばないでいられようか。それがクリスチャンの本当の状態なのだ。主イエス・キリストを信じる信仰の内にはその意味が含まれている。

       「私は主イエス・キリストを信じて救われました。罪から解放され、肉体の問題も原則的には完全に解決されました。私はキリストとともに復活する者です」と宣言する筈である。たとえ今、病気を持っていても、その人にとってその病気の意味はクリスチャンになる前の意味とはまるで違うものとなる。人間関係の問題は原則的に言えば100%解決されている。この世にいる間は、病気もするし、人との摩擦もあったり、諸々のこの世的な問題があったりするけれども、それはすべて私たちがクリスチャンとして成長するために与えられている訓練なのだ。それらは私たちの愚かさと鈍さを懲らしめ、私たちを教え諭すために残されている。私たちは、それを救われる前とは違う意味で受け止めるものである。そういう意味で、根本的な意味においてすべては変えられたのである。キリストにあって救われた。その救いが完全であることを本当に知って信じているのであれば、当然喜んでいる筈なのだ。

       人がもし、所有し得るかぎりの最高で最も偉大な宝を与えられたなら、そして人生のあらゆる出来事において日々彼にとって最善のことだけが起こると保証されるほどにその人生が守られて祝福されるなら、また、その人の未来が、より好ましくなっていくのみで、決してその逆にはなることがなく、永遠の栄光において最高潮に到達することが確実であるなら、その人はどうして喜ばずにいられようか。それで、私たちのすべての試練が、やがて私たちに表わされる栄光と比較するに価しないものであるなら、たとえ大変な困難に直面するとしても、その困難が耐え難いほどに大きなものに見えたとしても、どうして喜べないことがあろうか。どんな状況の中にあっても喜ぶはずである。喜びはクリスチャンの特徴だということをパウロはここで話している。

       クリスチャンの喜びは、言い換えるならば、神の大いなる愛という事実と神が私たちに賜った素晴らしい救いの事実に根ざしている喜びである。キリストにあって、私たちは永遠の救いという至高の宝のすべてを持っており、これらの豊かな宝は単に将来所有するというようなものではない。今でも、日ごとに、神は私たちを救ってくださり、御子の姿に似るようにと、私たちの生活の中でまどろむことなく働いておられるのである。それゆえ、クリスチャンは本当に幸いな者である。

       これとまったく正反対なことがある。それは何かというと、エジプトから救い出されたイスラエルの状態がそうである。救われたのに喜びがない。ぶつぶつと、あくまでも神に対して文句を言い続ける。どんなに大きな祝福が与えられても「これが足りない、あれが足りない」と言って不満たらたらに生きている。そのイスラエルの姿を神は「不信仰」と呼んでいる。信仰がないので、喜びがない。それがイスラエルに対する神の見方であった。主イエス・キリストを信じる者には大いなる喜びがあると、パウロは強調して私たちに教えている。これは極めて大切なことである。

     

    主にあって喜ぶ

       実際には、私たちはどのようにしてその喜びを表わすのか。いつ喜ぶのか。どんな場所で喜ぶのか。何を喜ぶのか。クリスチャンの日常生活は喜びによって特徴づけられるべきであるが、特別な喜びの時というものもある。特に日曜日の聖日礼拝は私たちにとって喜ぶ場所であることは皆さんもよく認識していると思う。パウロの念頭には、喜びは真の礼拝の本質的しるしだという真理があったのは確かである。旧約聖書の中で神は、年に三回、20歳以上の男性たちは皆エルサレムに集まるように命じた。申命記にはエルサレムとは書いていないが、「神が選ぶ場所で」とあり、それがエルサレムであった。旧約聖書のイスラエルにおける祭は、国を挙げて喜ぶ時であった (レビ記23章40節; 申命記12章7節, 12節, 18節; 14章26節; 16章11節, 14節, 15節; 26章11節; 27章7節)。「エルサレムに来て礼拝を捧げなさい」と神が命じるとき、それは「エルサレムに来て喜びなさい」という命令であった。実に素晴らしい命令ではないか。礼拝は喜びをよくよく表わしている集まりである。

       それ故、礼拝に集まるとき、クリスチャンは心から歌うのだ。皆で歌っている。これは礼拝が喜ぶ場所であって、正式に私たちは教会として全会衆が神の御恵みを喜び、神の御名を賛美するのである。祈りの中で、神の御名をほめたたえて、感謝を捧げるのである。初期のキリスト者が最初にキリストを信じたとき、彼らは毎日主の晩餐を祝い、神の御前で喜んだ (使徒行伝2章42節, 46〜47節)。彼らは神への感謝に満ち、それゆえ日々キリスト御自身の命じられた方法で主に感謝を捧げた。主の晩餐は「感謝を捧げる」という意味の "eucaristew" というギリシャ語の動詞から、英語では "eucharist (ユカリスト)" と呼ばれるようになった。主イエス・キリスト御自身、主の晩餐を弟子たちに与える時に二度感謝を捧げられ、最初はパンを割かれた時、そして二度目は杯を差し出された時であった (マタイの福音書26章27節; コリント人への第一の手紙11章24章; 他)。それ故、私たちも聖餐式を受ける時に、パンに対しても葡萄酒に対しても感謝の祈りをささげてから受けている。

       それで、私たちは毎週の聖日礼拝を感謝祭の意味を持つものとして考えるべきだと言ってよいと思う。一緒に集まり、正式に感謝をささげ、喜びを神にささげて、神を礼拝するのである。そのように、キリスト教礼拝における中心的行為は、神への感謝を捧げ、御前でその救いの愛と慈しみとを喜ぶことなのである。それ故、クリスチャンは誰でも、日曜日の礼拝に向かうとき、「喜びの場に行くのだ」という心を持っていなければならない。私たちはキリストの十字架を祝い、私たちに対する神の愛のゆえに神をほめたたえる。なぜなら、罪人のための主イエスの死と、神の右の座へのその復活は、被造物の歴史の中で最も重大な出来事であり、それは私たちが楽しむすべての祝福の源であるからだ。

       第二次世界大戦の前(1930年後半)に作られたドイツのドキュメンタリー(というよりはプロパガンダ映画)がある。それはヒットラーについてのものである。その頃のヒットラーはまだアメリカでも人気者であった。アメリカの大統領や他の国々の指導者たちも口をそろえて「ヒットラーはドイツを救った。彼は素晴らしい政治家だ」と称えていた。その噂が世界に広まっていた頃に、ドイツの天才的な女性の映画プロデューサーによって「意志の勝利」というプロパガンダ映画が制作された。これは20世紀で最も優れたプロパガンダ映画だと評されている。その映画の冒頭にヒットラーがドイツ国民に会うためにニュールンベルグに来るシーンがある。映像は空の上から始まり、輝く雲を割って地に下って来るかのようにカメラの目は地上に向かう。まるで救世主が天から下ってくるかのようにその映画は始まっている。そして、象徴の鷲とヒットラーが一つであるかのように映し出される。

       夕刻から始まって次の朝、人々は朝早くから起きて喜びに満ちてヒットラーを迎える備えをする情景が細かく描写される。楽しそうに歯を磨き、軍人は外で身体を洗って清潔な服を着こなし、皆が頭から足の先まできれいにしようとしている。喜びいっぱいに皆で朝食を食べるシーンの後、皆が正装してヒットラーに会いに街に出て行く。そこへ、ヒットラーはオープンカーで街に入ってくるが、街はもう女性や子どもたちを含む歓喜に満ちた群衆で埋め尽くされている。誰もが満面に笑顔をたたえてヒットラーを歓迎し手を振って挨拶している様は圧巻である。幾ら走っても街道は人の波で溢れており、どの顔も喜びに満ちている。ヒットラーには護衛兵が一人もついていない。暗殺されないように守る必要はない。護衛手段は何もない。国民と親しく挨拶を交わすシーンもある。やがてヒットラーの演説が始まるが、そのやり方はドイツの礼拝に似ている。礼拝式文のようなやりとりがあり、賛美のように歌ったりして、礼拝を真似て儀式を演出している。人々は礼拝に行く時にそうあるべきやり方でヒットラーに会いに行くのである。その前晩は早く寝て、朝はいつもより早く起きて、身を清潔にする。特別で喜ばしいことだという思いでヒットラーの“礼拝”に向かうのである。

       クリスチャンはどうだろうか。日曜礼拝は何にもまして喜びの時であり、神の御前に来て、御子を賜ったことを神に感謝する時である。それは私たちの祭りであり、それゆえ“お祝いらしく”行なわなければならない。すなわち、私たちを愛してくださる神への楽しく喜ばしい賛美の時とならなければならない。礼拝とは、王の王であられるお方の御前へと、賛美のささげ物をもって、私たち自身をこのお方に捧げるために来ることである。生活のあらゆる状況の中で喜ぶこと、そして私たちに対する神の愛と約束の栄光とのゆえに神御自身を喜ぶこと、その喜びが毎週の礼拝と主の晩餐の祝宴において最も豊かで最も重厚な表現に至るのである。

       礼拝は結婚式と同じようなものとして考えてよいものであり、聖餐式は結婚式のお祝いの食事のようなものとして考えてもよい。結婚式に行くのに、時間ぎりぎりまで寝てるような花嫁はいないだろう。その日は早く起きて、身をきれいにし、歯を磨き、心の備えをし、喜びをもって結婚式に向かうはずである。「また結婚式かあ。行きたくないなあ」という気持ちで式場に行くはずはない。礼拝は喜んで行くべきものである。礼拝は、喜びを表わすところである。それで、繰り返し言うが、日曜日は祝宴のようなものである。毎週の日曜日の礼拝はフォーマルな祝宴である。結婚式は正式な儀式であって、一緒に歌ったり、誓いをしたり、交わりを持ったりする。礼拝も同じである。私たちは神に招かれて礼拝に集まる。そして、賛美と祈りを捧げて、神の御言葉を聞き、神との契約を新たにし、一緒に食事をしたり、御言葉の交わりをもったりする。正式な儀式が終わったあとも、互いに自由に主にある交わりを持って、それから家に帰る。実に、一日がかりの祝宴なのだ。そのようなものとして礼拝を考えるべきであり、それはキリストに対する感謝の心の表われとして行なわれる。

       それ故、家庭においてもそのように考えて、そのために心を備えるべきである。私たちは日曜日の朝、時間がなくて「もう、遅れる」と思って、あわてて家を飛び出したりするかも知れない。しかし、喜ぶ心をもって礼拝に向かうことを忘れてはならない。その心を本当に大切にして礼拝に集まるべきである。礼拝で、私たちはその喜びをささげて神の御名を賛美するのである。感謝に満ちて礼拝を守るのである。礼拝は私たちの生活の一番中心的な部分であり、毎日の生活の中にその礼拝の喜びが続いていくのでなければならない。

       聖日の正式な礼拝だけでなく、家庭礼拝で聖書を学んだり、祈ったりするし、個人的にも聖書を読んだり祈りをささげたりするし、道を歩く時も祈ったり、御言葉を瞑想したりする。それらもみな広い意味での礼拝である。それらは日曜日の礼拝の延長であり、聖日礼拝と切り離してあるものではない。その広い意味での礼拝においても、常に喜びは中心的なものである。礼拝に来る喜びと私たちの生活全体が神に捧げられるいけにえとして考えられるとき、生活のすべてにおいて私たちは喜びをもって神に仕える者となるはずだと思う。

       昔の王たちを考えてみよう。ペルシャ王は、誰であれ喜びのない顔をして自分の前に立つことを許さなかった。王である自分の前に来て喜びがないのは許されないことであった。それは、王に対して尊敬をはらわないことと見做された。それで、ネへミアは、王に自分の訴えを聞いてもらうためにわざと自分の心にあることを態度において表わした。つまり、ネへミアは悲しい顔をして王の前に出た。実際ネヘミアの心には深い悲しみがあったのだが、王の前で喜ばないことは絶対に許されないことであった。王の前で悲しい顔をするならば、その場で処刑されても仕方がないようなことであった。しかし王は、ネへミアがそのような人間ではないと知っていたので、その場で彼の首を取ることをせずに、「なぜそのように悲しい顔をしているのか。心に悲しみでもあるのか」と尋ねた(ネヘミア書2章)。それで、ネヘミアは王に訴えることができたわけだが、それは普通ではない。王の前に出るときは、喜びを持って出なければならないものである。

       礼拝のとき、救ってくださった神に対する感謝をどれだけ深く持っているかを、私たちは喜びにおいて表わしているはずである。決して悲しみをもう感じることができなくなってしまったわけではない。喜びしか解らなくて、悲しみがぜんぜん解らなくなってしまったのではない。真の喜びというものは、たとえ悲しい事があっても、大変な試練の中にあっても、忙しくて疲れきっていても、消えるはずはないものなのだ。キリストに対する喜びと感謝は常に生きている。それは心の中で一番支配的なものである。だから、喜びの顔を持って神の御前に出ることは何時どんな時であってもできるはずなのだ。

       地域教会として一緒に集まり、共に涙を流して祈りをささげて神を礼拝することも勿論考えられることである。それは、喜びを失うような悲しみではないからである。教会員が神に召されてお葬式を行なうときには、自然に悲しみを神に対して表わすけれども、それは何も悪いことではない。しかし、その場でブツブツ言ってお葬式を行なっているなら、それは喜びと信仰を捨てて神に逆らうことになる。礼拝は喜ぶ場であって、クリスチャンは常に喜ぶものである。そのことをパウロは強調している。日本語の表現としておかしいかもしれないが、主イエス・キリストが自分にとってどれほどの価値があるのか、どれほど大切なのか、ということが結局のところ問題なのである。

       主イエス・キリストが共に居てくださり、私を愛してくださり、常に私のために執成しの祈りをしてくださっておられる。それらをすべてちっぽけな事実として考えて、自分の問題や苦しみあるいは楽しみであっても、それを大きなものとして考えてしまうなら、それは罪に他ならないのである。主イエス・キリストの恵みと私たち自身のこととを秤にかけてみるならば、主イエス・キリストの御業の方が遥かに無限に重いはずなのだ。だから、喜びと感謝は最終的にすべてを支配するはずなのである。ここで私たちは、この5章のところでは救いに対する喜びと感謝がまず強調されていることを覚えなければならない。

     

    患難の中で喜ぶ

       「神の栄光を望んで大いに喜んでいる」と言ったあとで、パウロは3節で、「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます」と言う。この「患難さえも喜んでいます」ということは、患難そのものを喜んでいるというよりも、患難の中にいても喜んでいるという意味である。ギリシャ語では文字通りには「患難の中でも誇っています」となっている。C・E・B・クランフィールドはここで「・・・の中で誇る」という表現が患難の「ゆえに」誇る或いは喜ぶという意味なのだと主張しているが、それは正しいかもしれない。しかし、「患難の中で喜んでいます。それは、・・・を知っているからです」と「患難のゆえに喜んでいます。それは・・・を知っているからです」との意味の違いはさほど大きいものではなく、前者の方が私には自然であるように思われる。私たちは患難の中で喜ぶ。つまり、たとえ信仰のゆえに数々の試練や困難に会おうとも、キリストにある私たちの喜びはそれによって消されることはなく、充満し続けるのである。

       これは全く私たちの試練や悩みが苦しいものではなくなるという意味ではない。患難が患難でないなら、患難の中の喜びも喜びではなくなってしまうからだ。患難が悲しくもなく、辛くもなく、大変なものでないならば、それは患難ではなくなる。ここでパウロは「クリスチャンは患難を感じないものでなければならない」と言おうとしているのではない。患難は、悲しく、辛く、痛みを伴うものであるのは事実である。しかし、患難の中にいてもクリスチャンは喜びを失うことはない。神の栄光を喜んでいるけれども、それだけではない。患難の中にあっても私たちは喜ぶ。そのように宣言する時、パウロは患難そのものがどんなものなのかを示唆している。

       厳密に言えば、パウロは「信仰のゆえにぶつかる試練」を考えていると思われる。その患難は成長を生み出すものだとパウロは教えている。クリスチャンに与えられる患難は成長のためのものなのだ。キリストのために患難は来る。クリスチャンはその意味を知って受け止めるので、その患難によって成長する。だから、狭い意味で言うなら、患難は、キリストのために私たちが遭わなければならない試練なのである。それで、新約聖書の中では「患難」という言葉が使われている箇所のほとんどが迫害に近いような意味に使われていたり、迫害と一緒に使われたりしている。狭い意味において、それはキリストのためにぶつかる問題として考えなければならないものなのである。

       いったい主イエス・キリストのために問題にぶつかるということがあるのだろうか。そのとおりである。それは当然のことである。ヨハネの福音書16章の最後のところで主イエス・キリストは弟子たちにこう語っているが、それは原則としてすべてのクリスチャンにも当てはまることである。すなわち、33節で、

    わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

       これは5章のパウロの言葉に似ている。クリスチャンは平安をもって生きる。キリストが既に福音の勝利を得たことを私たちは知っている。しかし、この世にあっては患難がある。少し前のヨハネの福音書15章では、「世はあなたがたを憎み、迫害する」とキリストは教えているが、その文脈において理解されなければならない。この世はクリスチャンを憎むので、クリスチャンはこの世にあってはいろいろな患難に遭う。弟子たちは特にそのような状態に置かれていた。しかし、パウロは、テモテへの第二の手紙3章12節でこう言っている。

    確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

       「敬虔に生きようと願う者」とは漠然とそう思って生きている人のことではない。実際に敬虔に生きている者のことである。キリストにあってそれを真剣に求めている人間は、確かに迫害を受ける。クリスチャンとして、本当に真剣に毎日の生活を送るならば、いろいろな意味での迫害にぶつかるのは当然なことなのだ。時代により、場所により、時によって、その迫害の程度ややり方は違うであろう。しかし、聖書の中で、クリスチャンは必ず患難や迫害にぶつかるものだと教えられている。主イエス・キリストの命令を守るならば、憎まれたり、誤解されたり、反対されたりする。

       今の日本でそのことはあまり激しく起こっていないが、それでも非常に強く両親から反対されたり、脅かされたり、友人や知り合いたちに反対される経験をした人は少なくないと思う。いろいろな意味で、自分がクリスチャンだということで問題が起こってくるわけである。これは狭い意味での患難の話である。そして、パウロは特にその意味のことを考えているのではないかと思われる。なぜなら、それはちょうどローマ帝国が間もなくローマの教会に対して大変な迫害を始めようとしていたからである。パウロは他の箇所でもそのことを警告している。しかし、このことは実に多くの教会の経験するところであった。

       テサロニケへの手紙の中で、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となったのです(テサロニケ人への第一の手紙1章6〜7節)」とパウロは言っている。パウロは福音を伝えているときに、使徒行伝14章22節にもあるが、「私たちは多くの試練や苦しみを経て御国に入るのです」と言って教会の人々の心を強め、信仰にしっかり留まるように励まして教えていた。私たちはキリストのためにそれらの試練にぶつかるのである。これが試練の狭い意味だということをまずしっかりと覚えておかなければならない。

       広い意味においても、クリスチャンは試練にぶつかるのは事実である。クリスチャンが直面するあらゆる種類の苦しみや試練をこの節の意味から除外する理由は全くない。というのは、私たちの生活のすべては神の御手の中にあり、生活で起こり来るすべての事柄は主イエス・キリストの御名のためにあるということを理解しなければならないからである。風邪をひいたときも、これは神から与えられたものであって、クリスチャンとして成長するために与えられたとして受け止めるべきである。その他のすべての病についても同じである。会社の問題は、直接的にはキリストを信じているからといって起こった問題ではないにしても、神から与えられたものとして考え、祈りをもって受け入れ、成長のために与えられたということを認識すべきである。それ故、常に喜んで闘うことができるはずである。

       どんなことにおいても、私たちは常に神の御手の中にあるということを忘れてはならない。そして、毎日の生活の中で、どんなちっぽけな問題であっても、どんなに私たちの信仰と無関係のようであっても、それを主権者なる神から与えられたものとして、正しくそれを受け止めるのである。それによってクリスチャンは成長していく。たとえば、日本の銀行制度に問題があるために、日本経済が非常に苦しい状態に陥ったとする。そのような時、私たちはクリスチャンだけが天から札束が降ってきたりして栄えるということには恐らくならないであろう。国家全体が経済的に不況に陥った場合、私たちも当然経済的に苦しくなる。そんな時、私たちは広い意味で患難について考える必要がある。それはキリストのために行なった行為によって苦しくなったわけではない。それは銀行の悪いやり方によってもたらされた苦しみである。しかし、それでも、そのことは私たちにとってはキリストにある者として与えられた試練なのである。それを神が私たちに与えてくださった祝福として受けることができる。

       だから、国が戦争状態に入ったり、経済不況に陥ったり、地震、台風、洪水のような壊滅的な自然の大災害を経験するなら、クリスチャンたちはこれらの災いの痛みを不信者と共に苦しむことになる。洪水が起こったり、市場が崩壊するとき、私たちだけが安全だという保証は全くない。しかし、私たちにとってこれらの災いのすべては、悪者たちにとってそれらが意味することとは根本的に異なった意味を持つ。周りの者にとってそれは悪い意味を持つものであっても、神の御計画は十分に深くて、十分に複雑なものである。神は、同じ戦争、同じ経済問題、同じ災害を、異なる人の目には異なる意味をもつように計画してくださる。それはクリスチャンとクリスチャンでない人とにおいて区別されるだけでなく、個人においても異なるものである。同じ事柄が、違う個人にとっては違う意味を持っている。

       そのように神は、私たちに試練を与え、患難を与えてくださる。それが神からの訓練であることを知るならば、私たちは広い意味において考えて、すべての患難の中にあっても喜ぶことができるし、喜ぶべきである。神を喜ぶからである。ちょうど福音のゆえに苦しむことが、キリストの御名のゆえに苦しむという特権であって神の我々に対する愛の証しであるのと同様に、神が国々の上にもたらされる裁きの中でこの世と共に苦しむことは、私たちにとっては、神に仕え、神に栄光を帰する特別な機会なのである。この世にとって、そのような裁きは神の御怒りの証しであるが、私たちにとっては神の主権的力と偉大さを思い起こさせてくれるものなのである。信仰を正しく保っているのであれば、試練の中でさえも喜びをもってその試練を取り扱うはずである。それがクリスチャンの真の姿である。

     

    知っているからです

       なぜ試練を喜ぶことができるのか。その試練の喜びはどこから来るのか。3節の中にその理由が教えられている。患難の中でも喜ぶ理由は、私たちが自分たちの患難の特徴について特別な知識を持っていることにある。日本語の聖書の場合は文法の関係で「知っている」という言葉が4節になってしまっているが、原文では3節にある言葉である。何かを知っているので、患難の中にあっても私たちは喜ぶことができるのだ。その「知っている」というのはキリストにある信仰から来る知識のことである。患難が、ここに書かれていることを生みだすものだと知っているので、喜ぶことができるのである。

       周りの人々を見てみると、患難にぶつかる人が皆成長しているわけではない。皆がそうだとは限らないが、浮浪者の人たちは何かの患難にぶつかって失望してすべてを止めて浮浪の生活を送るようになっている。患難に対する反応が常に人間の成長につながるとは限らないのである。むしろ、多くの人々は患難に遭うと非常に心が暗くなり、信仰を失い、望みを捨て、神をも人間をも憎むようになってしまう。そのような人間はいくらでもいる。患難は、与えられたからと言ってその人が必ずクリスチャンとして成長するとは限らないのである。

       クリスチャンであっても、信仰の知識によって捉えないならば、成長はしない。しかし、反対のことなら確実に言えるであろう。つまり、何も患難がなければ人間は成長しないものである。楽な生活しか知らない人間はなかなか成長しない。しかし、「患難にぶつかる人は必ず成長する」とは決して言えないのである。キリストのうちにいない人にとって、患難や苦しみはしばしば辛辣さや憤り、落胆を生み出す。キリストを信じ、キリストに信頼する者たちにとってのみ、患難は祝福であり、それは言わば変装した祝福なのである。

       パウロは、「私たちはその試練に耐えなければならない」とは言っていないことに注目していただきたい。「患難の中で喜び、試練によって成長する」と言っているのである。つまり、昔のギリシャやローマのようなストイック的なことを言っているのではない。昔の日本の武士もそうであったが、悲しいことがあってもその悲しみを顔に出してはならないと考えていた。悲しみを抑えて、どんな境遇にあっても耐える。常に耐え続けるようなことが男性に要求されていた。それはストイック的な考え方である。パウロはそのようなことについて話していない。ただただ耐えるのではない。特別なことを「知っている」ので、その患難の中にあっても喜ぶことができると言っているのである。その特別な知識とは、先に言ったように、それは信仰による知識である。コリント人への第二の手紙4章を見てほしい。そこでパウロはずっと自分の働きについて話している。7節からを見てください。

    私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

       ここでパウロは、自分の「軽い患難」のことを話している。前の部分を読むと、「迫害されている。死に渡されている。あれこれの問題にぶつかる」と言っているが、それら全部をパウロは「軽い患難」と言うのである。パウロの患難が軽いものだというなら、私たちの患難を何と言ったらよいのか。パウロは死に直面したことが何度もあったし、投獄されたり、ローマ軍にむち打ちにされたり、群衆に石打ちにされたり、殴られたり、その連続であった。人々はパウロをめった打ちにして、もう殺したと思って道端に放っておいたのに、パウロは生きていたということもあった。時には餓えたり、強盗に襲われる危険に晒されたり、寒さに凍えたりした。それらのすべての患難を、パウロは福音のために受けたのである(コリント人への第二の手紙11章23〜33節参照)。

       その状態は何年も続き、良くなることもなく、ますます悪化するような状態にあった。それを、パウロは「私たちの軽い患難は...」と言うのである。福音のゆえに自らが苦しみ抜いた驚くべき試練の連続を見て、パウロは「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と言うことができたのである。

       その基準で言うならば、私たちは「患難」という言葉をまったく自分に適用できないということを感じないではいられない。私たちの患難のほとんどは自分の罪と愚かさが招いたものであって、キリストの御名のために刑務所に入れられたり、キリストのために蹴飛ばされたり殴られたりしてはいない。私たちの中の誰一人、それほどに激しい迫害を受けた者はいないのではないか。パウロが言う患難は、永遠の意味をもつ患難である。それはキリストに従う私たちにとっては軽いものであって、喜びをもってその中を歩み、そして乗り越えることができるものなのだ。そのことをパウロはコリント人への第二の手紙の4章で言っている。それは「永遠のことに目を留めるように」と教えているのである。信仰による知識をもって試練を見るので、私たちもパウロのように試練の中にあっても喜びを持つことができる。

       その試練についてどう考えるのか。信仰の目をもってその与えられた試練を見るのかどうか。それが私たちにとっての本当の問題なのだ。神の主権を信じ、神が必ずや導いてくださることを確信し、神がこの試練を与えてくださったからには必ずや神の御計画があることを、信仰によって知るのである。その御計画は私たちにとって永遠の祝福である。その試練を通して父なる神は私たちを成長させてくださるのだ。どのように導くのかは、当然、その試練が終わるまで私たちにはわからない場合が多い。しかし、それでも、「神はこの試練を通して導いてくださり、教えてくださり、訓練を与えて成長させてくださる」という確信を持って試練の道を行かなければならない。

       神がこのように試練を用いてくださることを「知っています」と、パウロは5章で話しているが、これは信仰から来る知識であって、キリストに目を留める者だけが持つことのできる知識なのである。神を認めず、キリストを信じない者にはこの知識はない。普通の人々はそれを信じない。彼らは試練の先にある祝福を知らない。次から次へと試練に出会う人はだんだんと暗くなり、落ち込んで、もう自分はだめだと思ってしまうのが普通なのだ。神に目を留めることはできないし、神の御心を信仰をもって求めることもしない。彼らは、「この試練は自分にとって有益であり、神はこれを用いて私を導いてくださるに違いない」という信仰を持って歩むことができないのである。

       しかし私たちは、人生の中で出会う様々な困難が神の完全な御計画に従って、私たちの祝福とキリストにある成長とのために来ることを知っている。私たちは試練を試練のまま喜ぶことはできないが、それらの試練がなぜ来るのか、それらが私たちや他の人々にとって何を意味するのかについて「知っている」ゆえに、試練の中でも喜ぶことができる。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ人への手紙8章28節)。

       モーセは40年間も自分の家族から離れて生活をした。エジプトの王の家で育ったが、決してその中で楽しく過ごしたわけではない。その中にあって、自分の民と一緒に歩む日を待ち望んでいた。そして、少しだけ自分の民と接触したところで、エジプトから逃れなければならない事態に陥ってしまった。そこから更に40年間、自分の民から離れて荒野で羊飼いとして働いた。それは人生として楽しいものではなかった。モーセは、荒野にいた40年間、自分の人生の意味とは何なのかを祈ったり考えたりして、神に求めていたであろう。それだから、イスラエルをエジプトから連れ出すためにパロの所に遣わすと命ぜられたとき、きっと大きな喜びと望みに胸ふくらませて向かうだろうと思われたが、そうではなかった。モーセは「私はそのような器ではない」というようなことを言ったので、アロンと一緒に遣わされることになった。

       しかし、神の恵みによってモーセはエジプト王パロに勝利し、神の御手による大いなる奇跡を次から次へと見せられた。エジプトから連れ出されて神の御腕の力と栄光を自分の目で目撃したイスラエルとモーセはどうなるかというと、40年間も荒野の中で過ごし、そして荒野で死んだのである。人間の目から見れば、これは実に120年の過酷な人生であった。楽しいものではなく、次から次へと試練と難問ばかりの人生であった。しかし、その試練には神の確かな導きがあって、モーセも祝福され、民も祝福された。それはモーセにとっては最高で最善の素晴らしい人生であった。

       ダニエルも、王座の所で王に仕えているけれども、ティーンエージャの時に宦官にされたことはどうだろうか。今日の私たちには宦官の心を知る由もない。もちろん結婚も出来なければ、相続の子どももできない。大変な虐待を受けたりもした。ダニエル書5章のところを見ると、ネブカデネザルの死後、ベルシャツァル王の時にはかなりの長い間ダニエルの存在は忘れられていたのがわかる。その空白の期間、宦官の苦しみは譬えようもないものであった。宦官は、政治的な力のために闘う以外に生きる意味がないので、ダニエルはバビロンの中にあってもペルシャの中にあっても、その闘いは壮絶なものであったろう。決して楽しい人生ではなかった。

       しかし、ダニエルにとってその試練は神の御国のための試練であり、神の御心が行なわれていることを信仰によって知っていたので、ダニエルはその中にあって神を喜び、信じ、神に目を留めて歩んだのである。救いは、楽しい人生を約束するものとは限らない。しかし、永遠の意味と永遠の祝福に目を留め、見えないものに目を留めて歩む者とされたので、この世の患難やこの世の苦しみを正しく量ることができるのである。それ故、「その患難は軽いものだ」ということを知るのである。主イエス・キリストの栄光の重さを感じるからである。クリスチャンはそのような者である。

       聖餐式は、毎週毎週、繰り返し、その目に見えないものに目を留めるように私たちを励ますものとして与えられている。私たちは、毎日の生活の中で神の御恵みと神の約束、神の偉大さとその御国の働きなどから目を反らしてしまうことがあるとしても、聖餐式のときに私たちはキリストにある救いの恵みが与えられていることを覚えて神を喜ばずにはおれない。神の御名をほめたたえて、感謝と喜びの心に立返るのである。その感謝と喜びを礼拝の中心として神にささげるのである。

       聖餐式はそういう意味で、繰り返し繰り返し私たちの人生の中で一番大切なものがどういうものなのかを思い起こさせてくれるものである。主イエス・キリストに愛されていること、一方的に救いを与えられていることを思い出させてくれる。それを覚えることによって、主イエス・キリストのために生きる心が深められるのである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年9月19日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章2節

    ローマ人への手紙5章3〜4節

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