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    ローマ人への手紙5章12節


    5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、「「それというのも全人類が罪を犯したからです。

    99.11.7. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    アダムにある死

    5章12節

       先週、主イエス・キリストとアダムのことについて考えたが、今日は12節について一緒に考えたい。まず1章との関係について考えてから、12節から21節の中での関係について考え、それから12節に書いてあることについて考えたい。なぜ1章18節から5章11節までのところの関係を考えたいのかというと、12節の冒頭にある言い方は1章18節から5章11節までの説明の全体を指しているからである。

     

    そういうわけで

       「そういうわけで」或いは翻訳によっては「だから」とある。パウロはここで1章の18節からずっと語られている事柄のすべてを土台にして5章のところを説明しているのである。その説明は、偶像礼拝の罪深さについての描写と、創造主よりも被造物を拝む者たちに対する神の御怒りの宣言で始まった。アダムとキリストの話は、ローマ人への手紙でずっと今まで語られてきた「」と「義と認められること」の土台の上にある。ユダヤ人に対して、例えばアモスが預言者として御言葉を語るとき、アモスはまず異邦人が裁かれることについて宣言し、それからイスラエル王国が裁かれることを宣言する。ユダ王国の人たちはそれを聞いて「そうだ」と思ったが、最後にアモスは「あなたたちユダも裁かれるのだ」と言う。それに似てパウロも、偶像礼拝をしている異邦人たちはこのように裁かれると言う。

       それから2章の1節のところから、異邦人に語っているように見えるが実は道徳的に高い異邦人たちについて話しており、その中には或いはユダヤ人も含まれていたかもしれない。2章17節から、パウロは明確にユダヤ人に向かって「あなたがたも等しく神の怒りの下にあるのだ」と言う。そして、3章に入ると、パウロは旧約聖書を多く引用ないし引喩して、すべての人間は罪人であることをはっきりと宣言する。彼が述べたメッセージが、それ以前の啓示と完全に一致していることを明確にしている。

       だから、律法によって義と認められることではなく、律法によっては却って罪の意識が生まれて罪を認識するようになる、とパウロは言う。律法の行ないによって義と認められるのではない。律法によっては、自分たちが罪人だということを知らされるのである。そのことを3章の前半で先に説明してから、後半でキリストの十字架の働きを説明している。「ここに、十字架の必要性はあるのだ」とパウロは説明する。いわゆる道徳的に高い人間であっても、神の民であったユダヤ人たちも、すべての人間はみな罪人であり、神の御怒りの下にある。すべての人間は、神から逃げて、神に逆らい、神を憎む罪人に他ならない。人間の徹底的な罪深さについての啓示は、同様に徹底的である救いの手段を要求する。そのような罪人が救われるためには、贖いが必要である。それが主イエス・キリストの十字架の意味なのだということをパウロは3章21〜26節で説明する。

       キリストの死によってのみ人間は救われ得るのである。キリストの十字架による意外に救いはない。そのことをパウロは明らかにする。これは、律法における犠牲制度全体を前提とする議論である。それから4章にかけて、主イエス・キリストの贖いを信じる信仰のみによって救われるということを、パウロはアブラハムとダビデのことから説明している。5章1〜11節までの箇所では、アブラハムのように神を信じるクリスチャンは、アブラハムが持っていたのと同じ平和と望みをもっていることを説明し、主イエス・キリストを信じて義と認められた私たちは、どんな状態に置かれても喜びを持って神を礼拝し、主イエス・キリストに対する感謝と喜びの心は勝利をもたらし、ついに私たちは神御自身を喜ぶ者となることを説明している。

       ここでもその議論は主として旧約聖書をよりどころとしている。しかし、5章11節のところまでの議論全体はまだ、救いの教理について真に包括的な見方を持つために理解されなければならない事柄である古い創造と新しい創造の根本を取り扱うものではなかった。だから、パウロは、キリストの受肉と贖いが世界の変革にどれほど重要なのかを示すために、議論全体をアダムとキリストという契約の代表の教理に基づかせる必要があった。それが5章12節に始まる段落の神学的目的である。それだから、「そういうわけで」と言って12節からアダムの話に戻っているのである。

       ローマ人への手紙を読む者は、このようなパウロの説明によってはじめて聖書全体における主イエス・キリストの救いの意味がはっきりと理解できるようになるのだ。アダムのところまでリンクを張らなければ話はつながらない。それでパウロは、「そういうわけで」と言ってアダムとキリストのことを通して5章の終りで「義と認められること」と「人間は罪人であること」を説明する。「そういうわけで」は、今までの説明全体を土台にして語るためのものである。そして、聖書の一番最初に戻って、主イエス・キリストがこの世に生まれたその神の御計画と救いの根本的な土台についてパウロはこれから語るのである。そういう意味で、5章12節からの箇所を理解するということは、聖書全体を理解することにつながるのである。

       パウロは1章の2節で、自分が語る福音について、「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたものである」と言っている。この福音は、旧約聖書に記された預言者たちが書いたものであって、その預言者たちの預言の成就である。そのことをパウロは最初から説明している。こんど、5章12節になると、アダムとキリストのこと、その二つの契約のことを説明する。その二つの契約のことを説明するときに、パウロは聖書全体を理解する基準というものを与えている。ここに二つの契約があり、二人の代表者がおり、そして神はその二人の代表者を通して人類すべてを取り扱い給う、と言うのである。それによって、キリストの受肉の必要性とか、主イエス・キリストが十字架上で死んでくださった意味などについてもはっきりと理解されるのである。

       ここで私たちは、12節の後にあることとの文脈の関係についても見なければならない。12節の日本語訳だが、新改訳も口語訳も厳密に言えば正確に訳されていない。文章の構造から見れば、12節でパウロは、「ちょうどAがあったのと同じように、Bもあった」というような決まった文形を用いて説明をしようとしているのがわかる。しかし、パウロは「ちょうどAがあったのと同じように――」と語ったところで文章が途絶えてしまっており、その続きの「――Bもあった」という文は18節にある。18節は、12節の文を再度受けて、それを完成させているわけである。12節は、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に――」とあり、18節では「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」とある。

       18節の内容は、12節でパウロが言いかけたポイントと同じものである。だから、12節と18節をつなげて、「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ひとりの人によって義がはいり、義によっていのちが与えられるのです」というのがこの12節の文章である筈だった。しかし、パウロは間に説明を入れているために、正しくは12節は不完全な文章のままでなければならない。日本語訳では「――」があるために、説明が困難として文章を12節で完結してしまっているが、それは間違いである。12節が不完全な文章になっている理由は二つある。一つの理由は、「死がはいり、死が全人類に広がった」ということについてもっと説明を付け加える必要があったからだ。それで、いきなり13節と14節で、律法と死の話をしている。

    というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

       この13節と14節で「死の支配」、すなわち、アダムがその罪によって世界に死をもたらした問題についてパウロは付け加えて説明している。12節にあるもう一つの理由は、「ちょうど...と同様に」という言い方を完了する前に、「実は、ちょうどこれと同じようだけれども、全く同じなわけでもない」という意味があるので、それを説明しなければならなかった。

       つまり、アダムは主イエス・キリストのひな型ではあるけれども、全く同じものとして考えられても困るわけなのである。そこで、15節から17節のところで「主イエス・キリストとアダムは確かに似てはいる。しかし、同時に、二人は非常に異なるものであるということも理解しておく必要がある」と説明しているわけである。その説明を挿入することで、12節の最初の部分に暗示されていた帰結に制限を加えている。「ただし、恵みには違反のばあいとは違う点がある」と説明し、また、「賜物にも違う点がある」と言って、次のように説明している。

    もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

       キリストとアダムは、「ひな型」であるという関係においては両者はよく似ている。だから、主イエス・キリストとアダムを並行関係にあるものとして考えることはできる。しかし、主イエス・キリストがアダムよりどんなに勝っているかということをも覚えつつ、その並行の部分について考えなければならない。だから、12節は、ポイントを半分だけ話したところで文章を完結させずに、13節と14節で死の支配について、そして15〜17節でアダムとキリストに違う点もあることを付け加えてから、18節で12節のポイントに戻ってやや異なる表現でそのポイント全体を完結させているのである。

       そして、19節では「すなわち」と言って、更に別な言葉使いでそのポイントを繰り返している。20節と21節では、律法の目的とキリストの福音の勝利を結論として説明する。そういうわけで、この5章の12節から5章の最後までの箇所で、主イエス・キリストが新しいアダムとしてこの世に来られたことの意味をパウロは深く説明している。私たちの救いの土台をパウロは明確にしているのである。13〜17節の重要な条件を付け加えることをせずに12節の考えをただ帰結させるならば誤解を招くことになっていたであろう。パウロは、アダムによる人類のための代表的行為という課題を紹介し、その文章を言い終える前に、更に詳しく説明を加え、意味を限定するためにいったん中断している。この箇所には、そのような全体の流れがあることをまず覚えてほしいと思う。

       少しくどくなったかけれども、以上のことをしっかり頭に入れておいてから、この12節について一緒に考えたいと思う。今までのローマ人への手紙の教え全体を指して「そういうわけで」と言って語り始める。そのポイントを半分言いかけたところで、その結論を言う前に説明しておかなければならないことをパウロは説明する。13節から17節までは、12節を話す前に理解しておかなければならないことなのである。そして18節からの説明で、キリストと福音の勝利のところに話を戻している。

     

    契約の代表制度

    そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がり、そして全人類が罪を犯したのと同様に――

       ここでパウロがアダムを全人類の代表者として考えているのは明白である。アダムによって全人類が罪を犯した。全人類がアダムの中にあって罪を犯したという、その「契約の代表制度」というものを前提としてパウロが話しているのは明らかだと思う。パウロは、5章の中で「契約」という言葉を使っていない。使う必要もないと言ってよい。つまり、創世記から聖書を読んできていることを前提として語っているからである。アダムとその後の人類との関係はどういう関係なのかは既に十分に明らかなことであるので、アダムとの契約の関係についてはここで改めて細かく説明したりはしていない。

       少し横道にそれるが、以前に聖書の学び方について研究所のクラスで学んだが、聖書の中の言葉をよく調べることによって聖書がその概念について何を教えているのかを理解することができるということを見てきた。クラスの学びでも明らかなように、その箇所にその言葉が書いてあるか否かによって概念全体が理解できるわけではない。つまり、愛についての教えを正しく理解するために、「愛」という言葉が出てくる箇所を全部見れば十分だというわけではないのだ。愛について話していても、「愛」という言葉が一つも出てこないことも十分に有り得る。

       研究所にある本でヨハネの福音書全体を紹介する本があるが、その題名は「John "Evangelist of The Covenant People" 」(ヨハネ“契約の民の伝道者”)とある。その本は、契約の民をテーマにヨハネの福音書を紹介している。しかし「契約」という言葉はヨハネの福音書には一度も出てこない。しかし、ヨハネの福音書は極めて契約的な書であることを彼は説明している。ヨハネの福音書は、四つの福音書の中で最も聖書の契約概念を深く教えている書だと言われている。しかし、「契約」という言葉を一度も使っていないのだ。

       ローマ人への手紙5章も、パウロは「契約」という言葉は使っていないが、全人類とアダムとの関係はどんな関係なのか、全人類とキリストとの関係はどんな関係なのかは、聖書を創世記からしっかり読んでいればわかる筈なのだ。それは明らかに契約的な関係である。だから、新約聖書の中で繰り返し繰り返し「キリストにある」とか「キリストの中にある」とかいう言い方が出てくる時に、その契約の関係を指していることがわかる筈である。それは契約関係を表わす言い方なのだ。アダムが罪を犯したときに、それがなぜ私たちも罪あることになるのか。それを聖書の中で考えるとき、ペラギウスのような答えになる筈はない。

       ペラギウスの答えは、「アダムが罪を犯したとき、アダムは悪い模範を示したのだ」というものであった。「カインらが生まれたとき、アダムの悪い模範を見て、自分たちも罪を犯したのだ」と言う。「子どもが生まれるとき、全くアダムと同じ状態でこの世に生まれてくる。どうして罪を犯すようになるのかというと、そこに模範の力が表わされるのだ。自分の心には何も罪はなかったが、悪いものを見てその真似をする。それで皆は罪人になる。皆がアダムと同じように罪人になるのだ。アダムと同じなのだ。それでその罪は全人類に広まって、皆がアダムと同じように罪を犯したのだ」とペラギウス及びペラギウス主義は説明する。それは大変な思い違いである。

       パウロは模範の話をしているのではない。「主イエス・キリストの十字架の模範によって私たちは救われる」とは言っていないのだ。しかし、リベラルの人たちの中にはそのように教える人たちがいるのは事実である。「十字架の意味はただ単にキリストの模範にある。信仰のためにキリストはそこまで耐えて頑張ったのだ。私たちも信仰のためにそこまで頑張れば、救われる。救いはそういうなものだ」と彼らは教えたりしている。彼らを「現代のペラギウス主義」と呼んでもいいかも知れない。しかし、ここでパウロは、アダムの模範やキリストの模範について語ってはいない。

       例えば、18節でそのポイントを言い換える時、そのことは明らかである。「ちょうど一つの違反によって」というのは、アダムが犯した罪のことであり、その「一つの罪」についてパウロは話しているのだ。「一つの違反によってすべての人が罪に定められた」というのは12節と同じポイントを言い換えているだけである。その一つの罪が、すべての人に転嫁されたのである。代表者が行なったことは代表されるすべての人たちに転嫁されているからである。確かに、アダムの罪が私たちに転嫁されたために私たちはこの世に罪人として生まれてくるのだ。それはアダムから受けた相続であり、私たちは罪人としてこの世に生まれて来る。ペラギウスが言うように、私たちは心の潔い者として生まれてくるわけではない。

       ある人たちは、「アダムが罪を犯したので、皆罪人としてこの世に生まれてくる。罪人として生まれてくるので、皆が罪を犯し、全人類は罪を犯したのだ」というふうに最後のところを解釈する。「アダムが罪人になったので、アダムの子らは皆罪人となって罪を犯した。だからアダムと同様に死ななければならない」と解釈するわけである。神学的な二次的ポイントとしてならそれは確かに言える。私たちも罪人としてこの世に生まれ、アダムと同じように神に逆らっているので、私たちはアダムの罪を自分のものにしていて、自分もそのような行ないをしており、その罪の罰をともに受ける者となっているのはまぎれもない事実である。しかし、「全人類は罪を犯した」とパウロが言うとき、パウロはそのことについて語ってはいない。「一つの違反によって、すべての人が罪に定められた」ということは「全人類がアダムにあって罪を犯した」という意味になる。それがパウロの言わんとするポイントである。アダムのその「一つの違反」が「全人類の違反」となり、全人類は罪ある者となり、全人類はアダムとともに死に定められたのである。

       キリストの十字架を理解するために、このポイントは非常に重大なものである。代表制度は契約の考え方の中心である。ヴァン・ティルもどこかで「契約の本質は代表制度にある」ということを書いている。初めてヴァン・ティルの本を読んだとき、「なぜ代表制度をそこまで強調するのか」と不思議に思った。十分な説明なしにそのポイントだけを強調してから話は先に進んでしまったので、疑問が私の心に残ったままになっていた。契約の世界観について考えるとき、契約における代表制度は非常に重要なものなのだ。代表制度がなければ、契約関係は成り立たないのである。代表者が行なうことは代表されている者すべてのために行なっていることであって、すべての者に転嫁される。この原則を取り消すなら、法律というものも成り立たない。すべての法律は代表制を前提にしていると言ってよい。

       福音は神の律法を基準にして説明されているので、代表制度は前提としてある。「契約のかしら」という概念は、一人の人が契約によって結ばれているグループの全員を代表することを意味する。それで、一人の罪によって、全世界は罪人となり、全世界はアダムとともに罪を犯したのである。アダムとエバはエデンの園にいて、全人類の代表者として行動したのだ。アダムは人類のかしらとして神によって立てられたのである。世界を創造するときに、神は園における最初の人アダムにおいて最初の契約を立てられたのである。人類はこの点において選択の余地はなく、神が成し給うたことを、私たちがいま撤回することはできない。

       私たちは、神によってその本性が定められている被造物に過ぎないのである。「人間は造られたものであり、それゆえ神によって定義されたものである」という概念は、自己の知的自律を信じたい人間にとってはつまずきである。罪人はその概念を嫌う。現代人はこの代表制度を嫌う。現代人は契約的な考え方そのものを嫌い、それに逆らう。特に啓蒙運動の影響を受けていれば受けているほどに個人主義的な考え方になりがちで、代表制度の概念はそこで崩れてしまう。それは西洋の深い問題の一つである。代表制度を除けば、どのグループも最終的には成り立たなくなる。それで、個人主義的になってしまうという強い傾向がそこにある。

       それはルネ・デカルトに戻るようなものである。つまり、何でもまず疑ってみるが、自分の存在だけは疑わない。自分だけを疑わずに自分の思惟から出発してすべてを疑い、他のものと接触を持つわけである。「我思うゆえに我あり」とデカルトは言う。それで、自分の存在については確実であるが、他人の存在をどうしたら信じられるのかという問題にぶつかる。そして外にある現実とのリンクを認識論的に求めるのだが、それは見つからない。最終的に、数百年もの哲学の歴史が続いたあげくに、自分以外には何一つ確実なものはないという“唯我論 (Solipsism) ”に陥ってしまいがちになるのだ。それが西洋の哲学の歴史であるが、この考えは文化においても表われてくる。

       その考えに影響されると、家族というものは成り立たなくなる。代表制度がなければ、結婚の意味も成り立たなくなるし、家族は成り立たない。地域教会も、国家も、政府もみな、代表制度によって成り立っている。代表制度を取り消せば、これらのものはみな成り立たないことになる。今、社会全体の流れとして代表制度というものを重んじないし、見下す傾向がある。そのために、クリスチャンもその影響を受けたりしている。アルミニアン主義的な考え方は啓蒙運動の影響を受けやすいものだということも事実である。個人主義的で、自分の選択を強調し、代表制度を認めようとしない。それ故、このポイントを今の時代に説明しようとすれば苦労しなければならないところがある。

       「アダムが罪を犯したから私はだめになったのか。そんなことは認めたくない」と思うわけだが、認めなくてもあなたは死ぬのだ。つまり、その罰を受けることになるし、そこから逃げることはできないのである。アダムの罪によって死がはいった。死を否定できる者は一人もいない。すべての人に適用される死という事実、また限界があるという事実はあまりに明らかであるため、人間がその真理を拒むことは「悪」とならざるを得ないのである。アダムについての啓示された真理、つまり、彼の代表者としての立場、また全人類の代わりに為した行ないについての啓示された真理は、人間の最も道理にかなった見解であり、生きるということについての基本的問いに答えるものなのである。アダムの行なった代表的行為は、全人類にその行為の報いをもたらした。

       代表者が成功すれば、代表されるすべての人は代表されることを喜び、彼ら自身が労して稼いだのではない利益を被るのである。アダムがそうであったように、代表者が失敗するとき、人々は文句を言う。それでも、アダムやその代表制度から逃れることは決してできない。そして、私たち自身がみな罪を犯すという事実が、アダムを自分の代表として持っているということの正当性を確実なものとしているのである。すべての人が罪人として生まれ、全ての人が死ぬという結果をもたらしたのは、全人類の代表者としてアダムが園において犯した一つの行為であった。それというのも、全ての人はアダムとともにその罪の共犯者として見做されるからである。

     

       パウロの説明は、死が自然な現象ではないことを意味している。このパウロの「」についての考え方は、現代人のそれとはまるで違うものである。これは、進化論と聖書が衝突する非常に重要なところの一つである。つまり、今の世の中の世界観において、死は自然現象に過ぎないのだ。なぜ人間は死ななければならないのかというと、人間はエネルギーの塊であって、そのエネルギーを使い果たすと朽ちて無くなるのだと考えたりして、それは自然な現象に過ぎないのだと考える。死は単なる物質的現象だと宣言する哲学や思想の影響を受けて、この真理を抑圧する人々がいる。それで、「人は誰でも死ぬ」と思うわけである。

       逆に彼らは、「人間は死なないはずだとでも言うんですか」といって問い返すのである。「太陽だっていつかは死ぬのだ。宇宙全体ももしかすると新たにエネルギーを生み出せなければ、死ぬかも知れない。けれども、死は自然な現象に過ぎない。死には何も罰とかいうような意味なんかないのだ」と現代人は言う。本当は、その考え方は成り立たないということも解っている筈だけれども、それでも必死になってその考え方を保持しようとする。しかし、死ぬことを怖いこととして感じており、恐ろしい罰として、心の中のどこかで感じているのも事実である。ピカソの最後の作品である自画像を見ると、まるでホラー映画にでも出て来るような恐怖の顔を自画像として描いている。ピカソが非常に深く死の恐怖を感じていたことがよくわかる作品である。

       晩年のスターリンもヒットラーも、周囲の人々を信頼できなくなり、自分がいつ殺されるか、誰に殺されるかなどを毎日疑って恐怖の中に生きていた。もう既に地獄に墜ちてしまったような気持ちでいたということも側近に洩らしていた。「死ななければならない」という逃れることのできない事実は、罪人にとっては単なる現象としては納得できないことなのだ。罰のようなものとしてとにかく感じるのである。そして、結局のところ、死はいつも私たちの都合のいい時に訪れてくれるわけではない。若くして死んだり、まさにこれからだと思ったところで死んだりする。「なぜ」と人は思う。「なぜ、今、死ななければならないのか」と誰もが思うのである。「どうしてこのような事は起こったのか」といって落ち込むのだ。10代の若者が死んだときに、「死は自然な現象に過ぎないのだから、気にしないでいいんだよ」とは誰も言わない。そうは言えないのである。「これは、あってはいけないことだ。なぜこんなことがあるのか」と、クリスチャンではない人たちも皆感じるのである。

       非常に年老いていて豪勢な生活をしていた人が死んだなら、「もうこの人は十分に報われたのだから、もう思い残すことはない」とクリスチャンではない人も思ったりするかも知れない。しかし、それでも「これは不自然なことだ」ということを感じないではおれないのだ。「死の問題は罪の問題から来ている」というふうに、クリスチャンではない人たちも心の奥底では感じている。死を自然なこととして見做すことほど不自然なことはないからである。実際、すべての人は本当の死の性質について何かしらの感覚を持っており、それが神からの罰であることを心の中で知っている。死は、人間の罪のゆえに神が人間に与えた罰であり、また御怒りなのである。人間は最初から死ぬべきものとして創造されたのではない。そして、自分が死ぬことについて私たちは想像できない。考えたくないことなのである。

       私は子どもの頃、毎週リベラルの教会に行っていた。そこで何を教えられたかはよく覚えていない。6歳の時に叔父が死んだけれども、まだ幼くて死のことがよくわからなかった。こんど12歳の時に、祖父が死んだ。どういうことかピンと来なかった。ただ、自分が存在しなくなるという意味だと思った。死んで、それで終りであって、もう何もない。そう思って、12歳の子どもなりに、それがどういうことなのかを一生懸命考えようとした。どうしてそんな事が有り得るのか。いったいどうなっているのか、解らなかった。祖父はもういない。それだけがはっきり現実として重くのし掛かっていた。死は、いったい何なのか。どう考えても、解らなかった。

       そういう意味で、「人は死んで塵に戻る」ということを、クリスチャンではない人たちが本当の意味で信じることは困難なことである。自分がただ消えることを想像できない。しかし、死の意味は、創造主なる神の御怒りなのだ。アダムが罪を犯したので、神は死という罰をアダムに対して与え、代表者アダムを通してその罰は全人類に与えられたのである。そのことをパウロは「死がはいった」という言い方で表わしている。この「死がはいった」というのは実に重い話だということは良く解ると思う。なぜ死ななければならないのか。それは、神が怒っているからである。私たちの罪に対する神の御怒りである。それが死の原因である。そのことは1章のところからずっと説明されていることである。

       罪によって死がはいった。これも進化論の世界観と激しくぶつかるもう一つのことである。つまり、進化論者にしてみれば、アダムの前に何百世代も何千世代もあって、アダムのところまで進化してくるわけだから、地を這っていた先祖たちや、水の中を泳いでいた先祖たちや、猿のような先祖たちがみな、死んで、死んで、消えていって、やっと人間となったのだから、アダムが死ぬのも自然な現象であったということになる。しかしそれは、「アダムによって死が世界にはいった」という話にはならない。それは、「神の御怒りからくる神の罰である」という意味にはならない。では、アダムが罪を犯さなかったら人間は死ななかったと言うのか。その通りである。 アダムが罪を犯さなかったら、死が世界にはいることはなかったのである。

       コリント人への第一の手紙15章を学んだ時に見たとおり、アダムの創造は最終的なものとして創造されているのではなくて、言わば種のようなものとして創造されたのである。それがいつか実を結んで別なものになる筈であった。肉によるからだと、御霊によるからだがあることをパウロはそこで説明している。アダムにあって創造されたからだは、御霊によるからだになるように創造されていた。最初からそのように計画されていた。それは、死んで、贖われて、甦る、というようなものとして創造されていたのではない。エノクのように、地上での働きが終わったら、地上の人生を卒業して新しいからだが与えられて天に昇ったように、新しいからだを受けるはずであった。アダムが罪を犯さなかったなら、死ははいらなかったのである。当然、事故死のようなこともない。

       それはサタンが引用した詩篇91篇11節に書いてあるとおりである。主イエスは何度も殺されそうになるが、いつも御使いがイエスを守った。キリストを殺そうとする群衆の前を誰にも邪魔されずに逃れたことが福音書のいろいろな箇所に記されている。それはロトたちのことと同じであり、周りの群衆は御使いの裁きによって盲目になり、イエスは歩いてその真ん中を抜けて行ったのである。私たちは罪人でなかったなら、御使いが人間のしもべとして人間を助け、守るはずであった。偶然の事故による死というようなことはなかった筈である。実際に御使いが助けてくださる。

       しかし、アダムが罪を犯したので、死がはいり、私たちは死ぬべきものとなった。そして死ぬべきからだを持っている。病気になったり、髪の毛を失ったりする。からだは死ぬべきものとなった。からだから出て来るものは全部臭い。水や気体が出て来るとそれらは臭いし、死を表わしている。死んだら、もっと臭くなる。それらはすべて、人間が罪人であって死ぬべきものだということを毎日表わすものである。「この者は、死につつある」ということを、周りの人に迷惑をかけながらこのからだが語っているのである。それは明白な事実であって、誰も否定することはできない。罪によって死がはいり、私たちは死ぬべきものである。

       これは、アダムのその「一つの違反」によってそうなったのだとパウロは説明しているのである。アダムは、全人類の代表者として罪を犯したので、私たちはアダムとともに罪人となり、私たちは死ななければならないものになっている。それは契約の呪いである。全人類は契約にあってアダムと一つであり、アダムと共に罪を犯したと見做されるゆえ、それはすべての人に負わされた呪いである。アダムの罪は彼が代表した者たちすべてに転嫁され、それゆえ、その罪の罰もまた彼らのものとなったのである。これが聖書の「」についての説明である。動物の死もアダムに対する呪いを反映しているが、それは二次的なポイントである。パウロの関心事は、人間の死、死ぬはずはない神の特別な似姿の死という事実なのだ。

       この箇所の明らかな含意と創世記のストーリーも、もしアダムが罪を犯さなかったなら、人間は死ななかった、というものである。そうであったなら、人類は、罪にも、そしてその不可避的な結果である死にも支配されることはなかったのである。しかし、私たちは今や死に支配されている。私たちの人生全体が、私たちが神の御怒りの下におり、救いを必要としていることを証言している。だが、人生の中の痛みや苦しみをかなりの程度にまで逃れることのできる裕福な人は、すべては巧く行く、大丈夫だ、自分はすぐには死なない、人生を十分に楽しむことができると、自ら確信している。ドクヴィルの言葉を借りるなら、彼らは「生活をうんざりするほど満喫させる些細で取るに足りない享楽」に自らを捧げているのである。彼らが死について考えることをしないために(詩篇90篇)、生きることの意味も部分的に彼らには隠されているのである。

       パウロは12節を途中で中断して、「ちょうどアダムのような代表の働きを主イエス・キリストもした」ということを言おうとするのだが、そこではキリストのことを話さずに、まず13節と14節で死について説明し、続いて15〜17節でアダムとキリストについて説明してから、18節でやっと12節の文章を完成させるわけである。それで私たちも主イエス・キリストの話を後にしたいと思う。

       とは言え、毎週聖餐式を受けるときに主イエス・キリストの話を全く後にすることはできない。18節のところでキリストとアダムのひな型と成就の話をするわけだが、私たちは死ぬべき者であったにもかかわらず、主イエス・キリストは私たちの代わりに死んでくださった。それは私たちが受けるべき罰を代わりに受けてくださったということである。死の問題は、十字架上で解決され、復活によってキリストは死に対して勝利を得た。これが福音である。アダムと死の問題に戻るというとき、本当に「福音は復活のメッセージ」だということもよくわかると思う。キリストの十字架を説明したけれども、復活まで行かなければ、それは福音にはならない。昇天、支配、神の御国にまで話が行くのでなければ、福音にはならないのである。

       キリストにあって、私たちは死から解放された。もはや死は、不信者に対して意味することを私たちに対して意味することはない。しかし、私たちの周りの世界は死の支配下にある。その中で、いのちのメッセージを伝え、人々を神の知識へと導くように、私たちは召されているのである。それ故、私たちは聖餐式を受けるときに、自分の罪をはっきりと認め、はっきりと悔い改めなければならない。その罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じるときに、私たちは主イエス・キリストを私たちの代表として告白している。ちょうどアダムが私たちの代表としてエデンの園の中で罪を犯したように、主イエス・キリストは私たちの代表として罪の罰を代わりに受けてくださった。主イエス・キリストの義によって私たちは義と認められる。

       私たちの代表は誰なのかというときに、ある意味で、罪の中を歩む者はアダムを自分の代表として選んでアダムに忠実に従っている者だと言わなければならない。罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じることを告白する者は、主イエス・キリストを代表者として選んでいる。そのように言うことができると思う。もちろんそれがすべてではない。ここで全部が決められるわけではないけれども、私たちは罪の中を歩むか、主イエス・キリストに従うか、どちらなのかを聖餐式において明確に告白するものである。子どもたちも、大人も、自分の罪を悔い改めてその罪を捨てる。そして主イエス・キリストに感謝の祈りをささげるのである。そして、神は御自分の代表を通して私たちに主イエス・キリストを与えてくださる。このパンと葡萄酒はキリスト御自身を代表するものである。だから、このパンを食べ、この葡萄酒を飲むことには特別な意味があるのだ。

       神は、私たちに、御子キリストを受けるように私たちを招き、キリスト御自身を私たちに与えてくださるのだ。パンを食べ、葡萄酒を飲むとき、私たちはキリストを受け入れ、キリストに依り頼む信仰を告白している。そのために、私たちは一緒に神の御前に集まって信仰を告白している。罪を悔い改めて、感謝をもって聖餐式を受けることは実に重大なことなのだ。聖餐式のその深い意味を覚えなければならない。人類の新しい代表を信じるその信仰を告白し、その御方を本当に喜んで、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年11月7日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章12〜21節

    ローマ人への手紙5章13〜17節

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