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    ローマ人への手紙5章13〜17節


    5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

    5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

    5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

    5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

    5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

    99.11.14. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    挿入部

    5章13〜17節

       先週は5章12〜21節までの全体的な流れを見た。12節の文章を完結しないでパウロは前提となる説明を加えている。即ち、「....と同様に――」というところまでの意味を誤解することのないように、13節から17節までに括弧として挿入するような説明を加えている。そして、18節で再び12節の内容に戻ってその文章を完結させている。だから、12節で言おうとしたポイントは、18節でやっと完結されている。もしかすると、日本語訳では、12節の「そういうわけで」と18節の「こういうわけで」という言い方は、この二つの文が一つの文章であることを表わそうとしているのかもしれない。

       18節と19節では同じくアダムとキリストのことを説明してから、20〜21節では神の律法の意味、そして主イエス・キリストの御恵みの勝利を宣言している。今日は、括弧の中にあるようないわば“挿入部”である13〜17節の箇所を見たいと思う。13〜17節では、12節で誤解してしまいやすい二つの問題を取り扱っている。その一つの問題とは、アダムの罪と死のことであり、パウロはそのポイントをもう少し説明しなければならない。この説明は、すべての人がアダムにあって罪を犯したというパウロの主張を支えるものである。もう一つの問題は、アダムとキリストの関係のことであり、その“ひな型”とはどういう意味でのひな型なのかについてパウロは説明を加えている。13節と14節で前者を扱い、15〜17節で後者を扱っている。

     

    罪と死

       既に説明したように、12節は完結した文章ではないので、「それというのも全人類が罪を犯したからです」という文章は「――」の前に含まれるべきである。それで、12節全体は「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がり、そして全人類が罪を犯したのと同様に――」という未完成の文章になっている。アダムが罪を犯し、その罪によって世界に死がはいり、そして全人類はアダムとともに罪人となり、全人類はアダムと同じように死ななければならない者となった。「ちょうどそれと同じように、主イエス・キリストは、いのちを与えてくださった」というように文章は続くはずであったが、パウロは12節で一旦話を中断し、先に進む前に説明しなければならないことをまず説明するのである。まず、罪のことについて13節と14節で説明する。

    13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

    14ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

       この二つの節の論理的なつながりや細かい部分は理解しにくいものであるが、主要なポイントははっきりしている。14節の結論は明らかであり、アダムのような罪を犯さなかった人たちも皆死んだということだ。アダムのように真っ向から神の命令に逆らい、神に対する不信仰をはっきりと表わすような罪を犯していない者の上にも死は“支配した”のである。パウロは歴史的事実に訴えているのである。

       なぜ死ななければならなかったのかというと、人間の歴史は、人類の代表者アダムが罪を犯したので全人類にその罪が転嫁されているからである。無論パウロは、現代の世俗主義者のように聖書を信じない人々や仏教徒のように全く異なった宗教的背景を持つ人々と議論を戦わせているのではない。厳密にそれがどのような人々であったかを特定できるほどローマの教会についての詳細な歴史的資料はないが、この議論が、一方に信者である異邦人とユダヤ人、他方に一部教会内にいた幾分異端的な者たちや教会外でキリスト教に熱心に反対していた者たちを含む不信者のユダヤ人との間で起こっていたものだと理解してよいと思う。

       そして、この議論に加わっていた者全員が、聖書の真理を当然のことと考えていたのも事実であった。人間は罪深く、ユダヤ人にも異邦人にも救いが必要であるという広い意味での救いの教理の一部として、アダムとキリストの関連性をパウロは強調している。より厳密に言うなら、それはアダムとキリストにある契約の代表という教理を教えるためであった。これは救いの教理全体の土台なのである。

       今の日本の状態について考えれば理解の助けになると思う。日本には聖書を読んだこともない人は大勢いる。聖書の神については、映画などから少しは知識があるかも知れないが、あまりわかっていない。直接神に逆らってるつもりもない。悪いことをしているつもりもないし、認識もない。正しいことをしようという思いをもって生きている。もちろん罪人であることに変わりはないので、いくら正しいことをしようとしても、それほど素晴らしい者ではないのは事実である。しかし、意識において、特別に聖書の神を憎み、聖書の神に逆らっているという思いは少しもない。神の命令を試すとか、神を信じないような思いは何もない。そのような人は確かにアダムのような罪を犯してはいない。しかし、その人々も死ぬのである。

       アダムの時からモーセまでの間の人たちよりも今の日本に住んでいて聖書をあまり知らない人たちの方が間接的なかたちでかなりその内容は伝わっていると言える。アダムからモーセの時代においては、まったく聖書との接触のない人たちが大勢いた。今の日本人の中にいる人よりも、モンゴルの小さな 100人くらいしかいないような部落に住んでいる少数部族の方が例としてむしろ相応しいのかも知れない。その人たちの方がアダムからモーセの間に生きた人たちよりもまだ間接的に聖書のことを知っているかも知れないのだ。

       とにかく「アダムのようには罪を犯していない」という意味で考えれば解りやすいと思う。アダムは直接神から命令を受けたので、誰の命令なのかはよく知っていた。アダムは紛れもなく確信犯であった。はっきり疑い、そしてはっきりと神に逆らい、神を試みたのである。そのような罪を犯せば、神の権威と愛に対して挑戦することになると知って実行したのである。アダムはそのような革命的な反抗を神に対してしたのである。そのアダムに対して、「」の罰が宣言されたとしてもそれは当然のことである。

       誰も、文句は言えない。王に対して直接逆らうならば、首が飛んでも仕方のないことなのだ。それは基本的に誰もが認めることである。しかし、パウロは歴史の事実を指して言う。「それでは、アダムからモーセの時までの間の人々が皆アダムのように、直接神に逆らったのだろうか。そのような当然死ななければならないような罪を犯したのか。そうではない。彼らは知らずのうちに罪を犯していたのは否めない。しかし、彼らは皆死ななければならなかった。なぜ人類は皆死ななければならないのか。アダムのように罪を犯していない人も、どうして死ななければならないのか」とパウロは言っているわけである。そのポイントは、アダムの罪は代表されるすべての人間に転嫁されたということなのである。

       13節にはさまざまな解釈が施されてきたが、14節にある結論はその基本的な主張としては十分に明らかである。それらの人々は死んだのだから、罪は明らかに転嫁されたのである。罪はアダムからモーセまでの期間においても世にあった。しかし、罪は律法がなければ転嫁されないのであるから、その期間にも律法は世にあったということになる。律法がなければ、罪は認められないものである。4章15節にもこのことが説明されている。律法がなければ、罪もない。つまり、はっきりした基準がなければならないのである。

       基準があって、その基準に従わないというものでなければ、罪は存在しない。だから、アダムの時からモーセの時までにも律法はあったのだ。ただ、皆がその律法をちゃんと把握しておらず、認識してはいなかったのである。人々は、アダムのように律法の命令が何であるかを直接神から受けて知っているわけではなかった。しかしアダムは、はっきりと神から律法が与えられており、彼はその律法に意志をもって逆らったのだ。明らかに律法はあった。律法がなければ罪もないし、罪がなければ死もない。

       二十世紀以前は、場所によって多少違うけれども、赤ちゃんが生まれてもだいたい5割くらいまでが10歳になる前に死んだ。出産の時に母親が生命を落としてしまうことも少なくなかった。今でも後進国では出産が危険なところもある。赤ちゃんが、生後2ヶ月とか3ヶ月で死んでしまうのを見るときに、「この赤ちゃんは大変な罪を犯したので死んだのだ」という論議は成立たない。どういう罪のゆえに死ななければならないのか。明らかに、アダムの罪が転嫁されたので、死が人類にはいったのである。それで、罪を何も犯していない赤ちゃんでも死ぬ。赤ちゃんの例を考えればそのことは非常にはっきりしていると思う。

       人々がアダムのように死ななければならないのは、アダムの最初に犯した罪にあるのだ。アダムが「代表」であることを理解するとき、人間の罪に対する罰がすべてアダムにまで遡るということも理解できるのである。では、アダムからモーセまでの期間においても律法はあったというその律法とはどのような律法で有り得たのだろうか。その律法とは、「アダムにある契約」なのだということを14節は説明している。この説明は、律法の概念を契約と等しいものとするところに根拠を持つ。これは、聖書の中ではよくあるものであるが、ローマ人への手紙5章の解説者たちの間では稀なものである。

       実は、モーセの律法が与えられたときに、罪の問題はもっと明らかにされたのだ。それも代表制度が前提となっていることはすでに理解していただけたと思う。モーセの律法はイスラエルに与えられた。シナイ山でモーセの律法が与えられたとき、当時の中国人はすぐにそれを知ったわけではない。しかし、祭司の民とされたイスラエルに律法が与えられたとき、全人類は新しい時代に入ったのである。罪の責任はもっと明確なものとなった。そして、イスラエルは全人類にその律法の教えを伝える責任を負わされた。人類は、モーセの律法が与えられたときに新しい時代に入り、罪は神の啓示によってもっと明らかにされた。

       そして、何が正しいのか何が正しくないのかということがわかればわかるほど、その罪の意味はますます明確になり、神に逆らうか神に従うかという選択もはっきりと示された。罪を犯せば、その罪はもっと深いものとなった。そういう意味でパウロは2章で、イスラエルの罪は異邦人の罪よりも重く、悪いものだと言っている。律法によって、神に逆らっていることがはっきりされてしまったのだ。そのこともこのパウロの説明の背景にある。モーセの律法が与えられたとき、もっと罪の問題は大きなものとなった。

       そのことをパウロは20〜21節でも説明している。律法が与えられたのは罪が増し加わるためであった。明らかにこれは「もっと罪が犯されるためだ」という意味ではなく、「罪がもっと明白にされる」という意味である。律法によって、今まで罪とは思わなかったことも、あれもこれも罪であることが明らかにされた。人々は、初めて自分の罪の深さというものを恐ろしいほどに知らされたのである。しかし、主イエス・キリストがこの世に来られたことと比べるならば、それは比較にならないほど明白ではないものであった。主イエス・キリストが世に来られて、モーセの律法を教え、律法を守る模範をその全生涯において明確に示したとき、罪と義の意味はずっと深くそして明白に表わされたのである。

     

    アダムとキリスト

       そういうわけで、13節と14節のところでパウロは、「全人類が死ななければならないのはアダムの罪による」ということを説明している。つまり、代表制度のことを説明しているのである。アダムが罪を犯し、それによって死がはいり、それが全人類に転嫁されて広まった。そのような代表制度によって歴史を見なければならないことを教えているのである。「アダムの罪による」ということを理解しなければ、死がこのように広まったことはとても理解できない。明らかにアダムは人類の代表者なのだ。

       アダムは、来たるべき御方、キリストのひな型(予型)であった。このことは更に説明をする必要があると思う。「ちょうどアダムが罪を犯したように」の続きは、「主イエス・キリストは何をしたのか」ということで結ばれているが、「キリストとアダムは同様に」ということを考えるとき、そこには「ひな型」とその成就の関係がある。しかし、その「ひな型」とその成就がどんなに違うのかということをパウロは強調しようとしている。「アダムのように、キリストも...」という言い方だけではだめなのだ。

       そのことを15節、16節、17節で更に説明するわけである。平衡している部分があるので、両者は「ひな型」とその成就の関係にあるわけだ。「ひな型」がまずあって、その成就がその「ひな型」に似てないとすれば、その関係は成り立たない。「ひな型」とは、「似ている」ということなのだ。しかし、ただ似ているというだけでは説明不足なのだ。キリストの方が遥かに優れているからである。キリストによって与えられた恵みは遥かに素晴らしいものである。そのことを強調してから、どのように似ているかということをまた18節からそのポイントに戻ってパウロは説明する。

       「似ているけれども、こんなにも違うのだ」ということを、15節、16節、17節で説明しているわけである。パウロがその関係を説明するやり方は、その関係そのものの性質と一致している。15節から17節において、パウロはアダムの罪とキリストの救いの御業を不釣合いな文章で対比させているが、それは二つの契約のかしらの違いをより明らかにするためである。まず15節の説明を見よう。

    ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もし一人の違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

       この15節のところで、アダムの罪と、主イエス・キリストによって与えられた賜物を比較している。ここでは、平衡したものを比べていないのは明白である。アダムの罪とキリストの義しさを比べるなら、それは平衡したものとなる。15節と16節と17節で、「アダム」と「キリスト」、「罪」と「義」、そして「死」と「いのち」という具合に単純に並べてあるならば、全く平衡しているので読んでも簡単に理解できるものとなる。しかし、パウロはそのような単純な書き方をしていない。キリストの行ないとアダムの行ないを単純に比較してはいないのだ。比較の対象がまったく不釣合いなのである。

       パウロは、私たちに与えられた「恵みによる賜物」と「アダムの違反(罪)」とを並べて比べている。「アダムの違反」と言って、こんどは「イエス・キリストの恵みによる賜物」と言うのである。この二つは平衡していない。平衡していないものを比べているのである。だから、読者は戸惑ってしまう。なぜこのように平衡していないものを比べているのだろうか。ここでパウロは「恵みが増し加わった」というポイントを強調したいのだ。ここに恵みの祝福があって、それはアダムとは非常に違うものである。全体的に似ている中で、非常に違うところがあるということを説明しようとしている。

       アダムの違反は賜物のようなものではない。「恵み」がどんなに「」よりも豊かで素晴らしいものなのかを強調しているのである。それを解説するとき、その対比は更に複雑なものとなる。「神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」とパウロは解説する。罪によって多くの人が死んだが、それよりもずっと大きな卓越した恵みの賜物の影響が主イエス・キリストによって与えられた。「キリストによって与えられた恵みはアダムの罪に完全に勝つ」と、パウロは宣言しているのである。「恵みによる賜物」とは何か。それは、簡潔に狭い意味で言うなら、「キリストによって私たちに与えられている義しさ」である。キリストによって「義」が私たちに与えられているので、私たちは神の御前で義しい者と見做されるのである。その「恵みによる賜物」とは「義の転嫁」である。

       続いて16節では、また別なものを比べて説明している。14節のつながりにおいて私たちは次のような文章を期待するであろう。即ち「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、ひとりの人の義しい行ないによって多くの人が生きる」と。しかし、パウロはそういう言い方をしていない。パウロの対比はまたしても複雑なものである。「また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります」とパウロは言う。ここでは、アダムによって与えられた結果とキリストの賜物という二つのものを比較している。そして、「さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです」とパウロは説明する。この二つの比較も並行していない。不釣合いなものである。

       アダムの罪の結果は賜物の場合とは異なるものなのだ。しかしパウロは、「アダムの違反はキリストの義のようなものではない」とか「アダムの罪の結果はキリストの義の結果のようなものではない」とかは言わないのである。もっと複雑な表現を敢えてする。それによってポイントは一層明らかなものとなる。「さばき」のばあいは、一つの違反が全人類を罪に定めたが、「恵み」のばあいは、沢山の違反を取り扱っているのである。「さばき」の場合、一つの罪がすべての人に転嫁される。「恵み」の場合、沢山の罪が恵みによって赦され、取り除かれる。それは、恵みがさばきよりもどんなに勝って力あるかを強調する言い方である。恵みはさばきに対して勝利する。「一つの罪」は全部をだめにした。しかし、恵みにおいてはどんなに沢山の罪であっても、それを完全に取り除いて勝利するのである。そのような不釣合いの対比なのである。それからパウロは17節で、この同じ「恵みの勝利」というポイントを違う言い方で説明している。

    もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

       単純に並行したものを比較するつもりであれば、この文章は、「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、ひとりの人の義しさにより、ひとりによっていのちが支配するようになる」という言い方の方が解りやすい。しかし、パウロはそうは言っていない。この17節にある比較もまた並行していないものなのだ。「ひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったと同様に、ひとりの義しさにより、ひとりによっていのちが支配するようになった」という話ではないのだ。パウロは違うポイントを強調するために、対比するものをずらしているのがわかる。

       「.....なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです」と説明する。最初は「死の支配」から説明は始まったが、終わりは「私たちの支配」で終わっている。つまり、「いのちにある私たちの支配」で説明は終わっているのだ。よく見れば、15節、16節、17節は、二つのポイントにおいて「恵みとは違う」と言っているのがわかる。第一のポイントは15節にあり、第二のポイントは16節と17節にある。その二つの違うポイントとも、並行したものになってはおらず、初めと終わりが二つともずれている。それによってパウロは、「アダムとキリストは似ているが、非常に違うものである」ということを文形においても説明においても強調しているのである。

       それを強調するために、敢えてこのような変わった書き方をしているのである。さっと読んだだけではぴんと来ないということになる。表面的に読んだだけでは理解できないように書かれている。要点がわかったと思っても、その論理に従って考えることがなかなかできない。読む価値のある優れた本を読めば、数回読み返さなければわからないような文章はどうしても出て来るものだ。それらは一回読んで全部わかってしまうようなものではない。この箇所もそのような書き方になっている。何回も読み返して、なぜ並行していないものを対比させているのか、何を言おうとしているのかを、考えてみなければならない。

       パウロは、読者が何度でもこの箇所を読み返して、この要点を理解するために深く瞑想することを強いるような書き方をしているのである。前提としてどうしても強調しなければならないことがあるからである。「なるほど、アダムとキリストもそのように単純に並行したものではないのだな。だから、文形までもこのような形になっているのだな」ということに気付かせるためなのだ。

       16節にも含まれるポイントだが、「恵みはさばきよりも遥かに豊かで力ある」ということを17節で説明するときに、パウロは「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば...」という言い方で、アダムの時からキリストの時代までのことを指している。その時代は「死の支配」の時代である。神の御怒りが支配する時代であった。「死の支配の時代」ということは、アダムにある古い契約の時代だということである。

       それでパウロは8章2節で、「いのちの御霊の律法が、罪と死の律法から、あなたたちを解放したからです」と言っている。今の新改訳聖書では「原理」と訳されているが、ギリシャ語でこれは「ナマス」という言葉で、これは普通「律法」を意味する言葉である。「ナマス」は原理とも律法とも訳し得る言葉ではあるが、「罪と死の律法」は古い律法のことを指しているのである。8章を学ぶときに再度このことを考えることになるが、旧約聖書の時代とは古い契約の時代であり、その「アダムからキリストの時代」は「罪と死の支配」の時代である。

       それだから、モーセの律法において「」は中心的なものである。「これを行なえば汚れたものとなる」というものである。「汚れたもの」とは、死ななければならないもののことである。それは、神から離れており、神の御怒りの下にあることを意味している。いろいろな行為が汚れたものになることが定められている。「これをしてはならない。これを食べてはならない」等が、ずっと強調されている。しかし、律法を見るならば、結局してしまうことが多くある。罪を犯してしまい、自分が本当は死ななければならないものだということを毎回いけにえをささげる時に教えられ、自覚させられる。旧約聖書の時代では、いけにえを繰り返し繰り返しささげなければならなかった。毎回、「私は罪に支配され、死に支配されている。私は死ぬべき者である」ということを深く教えられて、身代わりとなる羊の上に自分の手を置いてその羊をほふるのである。

       これは現代アメリカの教育において非常に強調されている“自尊心”というようなものとは正反対のものである。自分自身を高く評価するよりも、聖書は、「あなたは死ぬべきものだ」ということを毎日のように子どもたちに教え、大人たちも学ばせられている。聖書は、私たちが鏡を見るときに「私は死ぬべきものだ」ということを思い起こさせてくれる。今のアメリカでは、鏡を見るときに、「私は美しい。私は賢い者だ。もっと自分を誇れ」ということを繰り返し自分に言い聞かせるような教育を行なっている。そのような対比があると言ってよいと思うけれども、パウロは当時の教会に、キリストまでの時代は「死の支配の時代」であったと説明する。

       主イエス・キリストが世に来られるまでは、罪から解放され、死から解放され、神の御怒りから救われるのを、全人類は待ち望んでいた。死に対して完全な勝利を得させてくれる御方を待っていた。人々はメサイアを待っていた。それは「死の支配の時代」であった。17節の「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです」というのは、それと正反対のことなのである。

       この三節において強調されている二つの点とも、アダムにある人間の状態とは正反対のものとして、神の恵みの賜物に焦点が当てられている。パウロがここで語っている賜物とは何か。答えは、17節にある「義の賜物」である。21節にもあるように、「罪が死によって支配したように、恵みが、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる」のである。新しい時代においては、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、「義の賜物によって支配」するのである。だから、21節では、「死の支配」と「恵みの支配」という対比になる。これも全く並行しているわけではない。

       単純に「死の支配」と「いのちの支配」の比較であればわかりやすいのだが、17節では、「恵みの支配」が「私たちの支配」という説明になっているのに注目していただきたい。「死」が私たちを支配していたのに対して、「恵みの勝利」が私たちを支配者にしたのである。これは、神の恵みの勝利を非常に深く表わすものである。死によって支配されるはずの死ぬべき者が、キリストの御恵みにより、いのちにあって支配する者となっている。キリストとともに支配する者になっている。それ故、ただ単に「アダムにあって罪がはいり、死がはいったと同様に、キリストにあって義がはいり、いのちが与えられた」ということではない。アダムの罪によって失われたものより遥かに豊かに神の御恵みが働いて、私たちはみな主イエス・キリストとともに支配する者となったのである。

       このことは、例えばエペソ人への手紙2章や他の箇所をも見ながらパウロが言おうとしているポイントを考えてみればよくわかると思う。アダムが創造されたとき人類は被造物の支配者であった。アダムが罪を犯さなければ私たちはアダムとともに被造物全体を支配するはずであった。しかし、アダムは罪を犯した。そのために、全人類は死ななければならないものとなった。

       しかし、神は、ただ死を取り消すような恵みを与えるだけではなくて、神御自身が人となって私たちの代表となってくださり、神御自身が私たちが受けるべき罪の罰を完全に受けてくださり、罪と死に対して勝利を得て、復活して天に昇り、父なる神の右に座し給うた。そればかりでなく、私たちがキリストを信じて受け入れるとき、代表者であるキリストとともに死に、キリストとともに復活して、キリストとともに天に昇って座して支配させ給うのである。私たちがイエス・キリストにあって惜しげなく与えられているものは、神の御前での義なる立場なのである。キリストの義は恵みによって我々に転嫁されている。それによって神の目に私たちは聖い者とされている。それが

    しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな遭いのゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし――あながたたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。

       「私たちは既にキリストとともに神の御許に座った」と、パウロは説明している。キリストの死と一緒になっており、キリストの復活と一緒になっており、キリストの昇天と支配と一緒になっているのである。このことは、恵みの勝利の偉大さを表わすものである。神の御子とともに支配する者とされた。それはただ単に罪を取り消すとか死から救うというだけに留まる話ではないのである。それ以上に大きな御恵みを、神はキリストを信じた者に与えてくださった。恵みの賜物をアダムの罪 (15節)、また、アダムの罪の結果 (16-17節) と対比させることによって、パウロは救いにおける神の御恵みが私たちを罪に定める律法の厳密な正義よりもはるかに豊かであることを宣言している。

       神の御恵みはただ単に私たちの問題に応じて解決を与えるようなものではない。アダムにあって裁きをもたらしたものに、罪を全く洗い去って私たちをキリストと共にいのちにあって支配する者として御前に連れて来る恵みの洪水が対抗するのである (17節)。恵みは完全に勝利する。このローマ人への手紙5章を読んで、パウロがここでどんなに恵みの勝利を強調しているのかを感じさせられる。

       これによって、救済論と終末論の二つのことがどのように一緒にもたらされるのかということもわかる。主イエス・キリストの恵みによる勝利は、私たちを、主イエス・キリストとともに支配する者にしてくださる。アダムの罪は歴史の中で勝利を得るものではない。歴史において、キリストが勝利を得、いのちにあって支配するのである。キリストが勝利を得たので、私たちは歴史の支配する者となるのである。「死んだ後で支配者になる」という話ではない。主イエス・キリストが勝利を得、恵みが増し加わり、アダムの罪が広まったところにおいて恵みは満ちあふれた。そして、私たちは今すでに、キリストとともに支配している者となっている。そのことをパウロはここで説明している。

       パウロの説明は、「死の支配」から「聖徒たちの支配」へと進むのである。もし神の御恵みとその御恵みの賜物とがアダムの罪の結果よりもはるかに勝って豊かであるなら、死の支配は、単純にいのちの支配と対比することはできない。読者は次のように尋ねるよう導かれる。「アダムにあるさばきをこれほどはるかに圧倒するのに、神の御恵みは何を成したのであろうか」と。「神は私たちを死の支配から救い、いのちの領域へと移されただけでなく、私たちをキリストと共に、いのちにあって支配するために王とされた」というのがその答えである。

       この挿入部分における最後の節において、パウロは「アダムにある律法の契約」と「キリストにある恵みの契約」との対比を非常に印象的な言葉で述べている。このパウロの説明は、古い契約と新しい契約の根本的なことを明らかにしている。古い契約の場合は、死の支配の時代なので、人々は死から逃げて生活しなければならなかった。

       イスラエルの民の生活はそのようなものであった。「これを触ると死が移るので触ってはだめだ」とか、「触れたなら、洗いきよめをして死から自分を浄めなければならない」というようなことをいつも考えなければならなかった。「死がはいる」ことからいつも逃げる生活をしなければならない。そして、繰り返し繰り返しその死の汚れを洗い浄める儀式を行なわなければならなかった。そのような生活の中からパリサイ人の異端が現れてくるのも不思議ではないと言えよう。つまり、その汚れを強調しすぎて間違って解釈し、自分たちを聖くしようとして律法の意味を曲げて適用してしまったのがパリサイ人たちの考え方であったと言えよう。

       新しい契約の場合、私たちは死に対して勝利を得たのである。例えば、主イエスが罪人といっしょに食卓についている時に、キリストに罪が移って汚れてしまうのだろうか。そんなことはない。キリストの多くの奇跡はそのことを表わしている。福音書の中の奇跡のところを読めばそれに気がつくはずだ。例えば、子供が遊んでて腕の骨を折ったりするが、そのような子供の怪我を癒すような奇跡は一つも記されていない。ユダヤ人の子供たちには骨が折れたりするような事故はなかったというのか。あるいは、キリストの癒しの奇跡は幾つかの種類に限られていて、他の病や怪我については癒さなかったのだろうか。骨折したといってキリストのもとに連れてきても、「そのケースの癒しはやりません」とキリストは言うだろうか。そうではない。キリストの奇跡はとても全部を書き残すことができないほどに行なわれていた。

       しかし、聖書の中の奇跡の記述は、奇跡を記録するだけのために書いてはいないのだ。聖書の記述によって、それがどのような奇跡で、その奇跡の意味は何なのかを神は私たちに教えている。福音書に記されているキリストの癒しの奇跡の殆どは、汚れに属するような身体の問題を癒すというものであった。例えば、血を流しているならば祭司の民としての責任を果たすことはできないので、長血を患っている女をキリストは癒した。らい病を癒したのも、その病は祭司として働くことができなくなる病であったからだ。死んだ者は当然祭司として働くことはできないので、死んだ者をよみがえらせる。それらはすべて祭司の働きに係ることであり、汚れの浄めに係ることなのだ。

       祭司の民イスラエルは、その汚れのために祭司として働くことができなくなってしまっていた。普通なら、らい病者に触れたら自分の方が汚れた者になる。しかし、キリストが触れると、汚れた者が浄められるのだ。ここにメサイアがおられる。イザヤがで預言して書き記したとおりである。そのことを福音書は表わしている。しかし、「私たちも、主イエス・キリストと同じようになっているのだ」とパウロは説明する。主イエス・キリストによって救われた者は、キリストとともに支配する。それ故、ヨハネによる福音書でクリスチャンについて話すときに、ヨハネは次のように書き記している(7章37〜39節)。

    さて、祭りの終りの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

       ここで主イエス・キリストは、御霊が私たちに与えられるという約束について話している。私たちの心の奥底から御霊の川が流れ出るようになるということは、私たちは御霊の影響を周りの人々に対して与えるようになるという意味である。もはや私たちは、死んだものに触れば自分も汚れたものになるというようなことを心配して生活したりはしない。私たちは、御霊の力によって、いのちの影響を周りに与えることができる。そのことをキリストは私たちに教えている。その新しい契約にあっては、私たちはキリストとともに支配するのである。そして、良い影響を周囲の人々に対して湧き出る泉のように与えることができる者となった。

       御霊の力が流れ出るためにはどうしたらいいのかについて、キリストは15章で更に細かく説明している。私たちは、神の命令を守って歩むなら、御霊は私たちを通して働き、御霊の力は私たちを通して流れ出て、周りに対して良い影響を与えることができるのだ。イスラエルの場合、カナンの地に入ったなら、その場所で正しく神の命令をことごとく守り行なう生活をするようにと神から命じられていた。それは、異邦人の影響が入ればイスラエルは汚れたものになる、というものであった。しかし、キリストの教会に対しては、あらゆる国に出て行くようにと命じている。全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、あらゆる国を弟子とせよと命じているのだ。勝利は十字架上で既にキリストが得てくださったので、私たちは周りの悪い影響を受けるというよりは周りに対して良い影響を与えるという、積極的に出ていって御霊の力をもって働くように命じられているのである。

       教会の歴史の中においてもそのポイントをはっきりと見ることができる。自分たちのグループだけを他と隔離して「私たちだけが良い者だ」と主張するようなグループはだんだんと弱くなり、駄目になっていく。しかし、大胆に全世界に出て行って福音を伝えるようなグループは力において成長していく。教会は全世界に行って福音を伝えるために救われたのである。それ故、私たちはキリストとともに支配し、福音の影響を全世界に広めるために遣わされた者なのである。そういう意味で、私たちは臆病になって逃げることはしない。はっきりと、福音の影響を全世界に伝える者だという認識をしっかり持たなければならない。

       福音を伝えるためにクリスチャンではない人と一緒にビールやワインを飲んだりして話することはしても、一緒に酔っ払ったり、「福音を伝えるためだから」と言って、行く必要もないような場所に行ったりはしない。何をしようとしているのかを十分に認識し、そして大胆に自分が与えようとしている神の恵みの福音を伝えるために働くのである。

       もう一つ、誤解しないでいただきたい点がある。即ち、子どもたちは宣教師としての力を持っているわけではないので、子どもたちを送り出すことはしない。主イエス・キリストは、弟子たちを送り出す前に十分に訓練を与えられた。訓練を与えてから戦いに送り出すことが原則なのだ。訓練も無しに送り出すようなことをしてはならない。子どもたちを守り、聖書に従って彼らに教育を与え、十分に戦うことができるまでに成長してから戦いに送り出すものだと思う。

       大人でさえそうなのだ。二十五歳で大人になったクリスチャンには一生懸命御言葉の教育を与えたりする。彼は、学べば学ぶほど良い働き人に成長していくはずである。もちろん、三十歳になるまでは何も証しをしないように勧めているのではない。救われたばかりの人は、出来るだけ自分の喜びと感謝を知人に話そうとするのは自然なことであり、それはそれで良いことなのだ。しかし、大人になってから救われた人たちのほとんどが覚えているように、救われたばかりの時に知人に話したりするとよく質問が返ってくる。そして、殆どの質問に対して答えられない自分がそこにいるのに気がつかされるのだ。それで、先輩のクリスチャンや牧師のところに行って質問したり勉強したりしてから、その友人のところに戻って説明する。最初は、何も質問に答えられなかった。それは当然のことだ。

       しかし、五年経っても何も答えられないようであってはならない。十年経ってもまだ何も答えられないなら、どこかに大きな問題がある。十年も経てば、聖書は何回も通読してた筈だし、御言葉の理解においても成長しているはずである。大切なのは、自分の意見とか考えではなく、御言葉が流れ出るようになるということなのだ。御霊の力は御言葉にある。

       ヨハネの福音書15章のキリストの教えをよく覚えてほしい。キリストに留まるとは、キリストのことばに留まることなのだ。御言葉に従い、御言葉に留まるなら、私たちは豊かに実を結ぶようになる。御言葉の力が湧き出るときに、相手は悔い改めて神を信じるように導かれるか、あるいは嫌になって去って行く。混じり気のない純粋な御言葉が流れ出ているのであれば、反応も明らかなものとなる。キリストに対する人々の反応も明らかなものであった。それは「イエスか、ノーか」というほどにはっきりしたものになる。パウロや弟子たちも、ある人たちには殺されそうになるが、ある人たちには愛された。反応は極めてはっきりしたものになる。御言葉がはっきり流れ出ていればいるほど、相手の反応も明白なものとなる。

       私たちには、大胆に世界の流れを変える使命が与えられている。「私たちは、王として、支配者として、キリストとともに座っている」ということをパウロは話している。これが千年王国後説的な救済論であることは、注意深く読めばわかる筈だと思う。アダムの罪による死の支配よりも、主イエス・キリストの恵みを受けた人たちの支配の方が遥かに豊かですばらしい。そのことをパウロは強調して説明している。そのキリストの救いの力を私たちは深く覚え、新しい契約の働きを与えられた者として、神の御国のために、その前進のために、そしてこの日本が救われることを求めて働くべきである。そのことをもこの箇所から教えられていると思う。もちろん日本だけではなく、アジア全体、そして全世界が救われるように祈り求めるものである。しかし、まず自分たちが置かれているこの地域にあって忠実に働きたいと思うのである。

       パウロは引き続き6章で、私たちが死と復活においてキリストと同一視されていることについて語る。これらの箇所の要点は、神の御恵みが罪と死に対してあまりに大いなる勝利を治めるため、かつて罪と死の支配下にあった者たちは、いまや自由にされているばかりでなく、キリストにあってこの世の支配者とされているということを一貫して教えるものである。神の恵みは、単にアダムの罪によって受けた害を“修復する”にとどまらず、遥かに広くすべてに及んでいる。人間は、もしアダムが罪を犯していなかったら、アダムにあってこの世を治める者となっていたはずだが、その支配はキリストにあるこの世の支配ほどに高くされたものになることはなかった。この御方にあって、神と人がひとりの御人格において一致されており、贖われた人類は栄化されるのである。

       アダムの罪に対する福音の勝利は、私たちをキリストにあって勝利者にする。私たちはキリストにあって王座に着かされており、キリストと共に治める者として、大胆に罪や悪と戦い、この世に神の国を拡大するように生きるべきなのである。アダムの罪がキリストにあってこれほど徹底的にうち負かされるなら、私たちの証しと労苦は、神の祝福と共に、歴史上で福音の勝利を拡大することを私たちは確信することができるのだ。そのような福音の勝利、いのちの勝利、恵みの勝利が、私たちの勝利において表わされるということをパウロは教えている。

       キリストとアダムは似ているけれども、違う点もある。そして、「その違う点は非常に重大である」ということをパウロは説明している。その神の御恵みの勝利を覚えて、いっしょに聖餐式を受けたいと思う。実際に私たちも罪人であり、神の御国のために働いているつもりであっても、罪はその働きをだめにしたり弱めたりすることはよくある。神の御国のために働くという思いさえ薄れたり、無くなってしまったりすることも有り得る。いったい何のために生きているのかを正しく把握せずに生活してしまうことも、有り得ることなのだ。それ故、毎週の主の礼拝のときに私たちは、神の御恵みが与えられていることの意味を思い起こし、主イエス・キリストとともに神の御国のために働き、キリストとともに支配する者として神との契約を新たにするのである。

       「私はあなたの御国のために生きます。あなたの御国を第一に求めます。主イエス・キリストとともに自分の十字架を負い、毎日の生活にあって自分の意志や自分の望むところによってではなく、神の御心のみを求めます」というような誓いを、私たちは聖餐式において誓うものである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けるための心の準備をしたいと思う。まだバプテスマを受けていない者は一緒に聖餐式を受けることはできないが、是非この時に、主イエス・キリストを求めていただきたい。

     

    ――1999年11月14日――


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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