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    ローマ人への手紙11章11〜32節


    11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

    11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

    11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。

    11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

    11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。

    11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

    11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、

    11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。

    11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。

    11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。

    11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

    11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

    11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。

    11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

    11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

    11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

    11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

    11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

    11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。

    11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

    11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

    11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

    2001.07.01. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    ユダヤ人と異邦人

    11章11〜32節

       パウロは、神が確かに御自分の約束に忠実であられること、ユダヤ人が不従順で不信仰であるがゆえに神の祝福を失ってしまったことを説明した。更にパウロは、「それでイスラエルの話は終りなのか」と問う。イスラエルの役目は終わったのだろうか。神は今日のイスラエルにおいて何をしておられるのだろうか。この問いは紀元一世紀のクリスチャンにとっては特に重大な意味を持っていた。エルサレムには依然として神の神殿があったからである。イスラエルはその神殿で礼拝をささげていた。キリストも神殿で教えていた。パウロと使徒たちは神殿を神の家と呼んで尊んでいた。

       それ故、あたかもパレスチナに存在する古いエルサレムの神殿と天にある新しいエルサレムの神殿という二つの神殿が存在しているかのような印象をそこから受けるのだ。その中で、パウロは、新しい神殿はキリストの教会であることを説明しなければならない。しかし、この説明は神学的に非常に深いものであり、更に難解なものということでも有名になってしまった。今から見るローマ人への手紙11章11〜32節までの箇所は、ローマ人への手紙の中で最も論争の種になっている箇所の一つである。それは、ローマ人への手紙の11章の解釈が、解釈する者の終末論と非常に強く結び付くためである。

     

    イスラエル全体

       実際にわかりにくいところもあるが、26節が解釈の分岐点になっていると思う。「こうして、イスラエルはみな救われる」という言い方が26節の最初にある。この言い方がローマ人への手紙の11章11〜32節を解釈する重要な鍵の一つである。この言葉をめぐって、多くの注解者と神学者は意見を異にしている。そのためにその箇所全体の解釈についても意見が一致していない。パウロは9章から11章でずっとイスラエルと異邦人について話している。イスラエルはどうなっているのかを異邦人のクリスチャンに説明し、そして異邦人が今イスラエルの契約に入っているのはどういうことなのか、神の真実はどのようなものなのかを説明している。「イスラエルはみな救われる」という言い方を読むときに、一般的な解釈では「パウロは、将来イスラエル全体が救われるということを預言者として語っているのだ」と考えられている。

       千年王国無説の立場を取る人たちも、千年王国前説の立場を取る人たちも、「これは、未来においてイスラエル全体が救われるという意味なのだ」と解釈する人が多い。千年王国後説の人たちも、そのように解釈する人は少なくない。私も以前はそのような解釈をしていたが、今その解釈は正しくないと思うようになった。ここでいくつかの疑問について検討する必要がある。私たちから見た未来のある時点においてイスラエルの全国民が救われると、本当にパウロは言っているのだろうか。或いは、パウロにとって未来であっても私たちにとっては過去のことを指しているのだろうか。パウロは神の古い契約の民であるそのイスラエルを指しているのだろうか。それとも、ここで使われている「イスラエル」という語は、神の新しい民を特別に指し示すための比喩として使われているのだろうか。

      この箇所を理解する鍵の一つが「こうして」という言い方である。この言葉を、「それから」とか「そののちに」というように何か時間のことを指すかのように訳されることがある。英語の聖書では"and so"と訳されており、日本語訳よりも問題である。そのような訳になってしまうのは、この箇所を「このようなことがあった後に、こういうことになる」という時間的なものとして解釈するからである。しかし、この言葉は時間を指すものではない。日本語新改訳が「こうして」と訳したのは正しいと思う。この言葉の意味は「このような方法で」という意味である。時間的な話をしているのではなく、物事がどのようにして行なわれているのかについて話しているのだ。

       「このような方法で、このような意味で、イスラエル全体は救われる」ということをパウロはここで話しているのだ。一つ一つのことを時間の順を追って預言的なことを話そうとしていのではない。方法について言っているのだという観点から見れば、パウロはここで「異邦人の完成の後にイスラエル全体が救われる」というような説明をしていないということがわかる。だから、「こうして」というのは、前に説明したことを違う言い方で更に説明を加えているのである。

       次の「イスラエルはみな」という言い方にも注目すべきである。「全イスラエルは」という言い方でもよいと思うが、ここで問題なのは、「イスラエル」という言葉は何を意味するかということである。26節の前のところで、「イスラエルが頑なにされたのは異邦人が救われるためである。そして、イスラエルも異邦人も救われる」ということが25節で説明されている。だからパウロは、「イスラエルが盲目になることによって異邦人の完成がもたらされる。それが“全イスラエル”が救われるための道である」と述べているのだ。「異邦人が救われることによって、イスラエルはねたみを覚えて救いに導かれる」ということをパウロは説明している。「それだから、異邦人も傲慢にならないように」と警告しているのである。

       そのように、イスラエルが捨てられたことによって異邦人が救われたけれども、異邦人が救われることによってイスラエルがまた救われるようになる、と言うのである。「そのようなやり方で、“全イスラエル”が救われるようになる」とパウロは説明しているのだ。それ故、「全イスラエル」というのは、異邦人もユダヤ人も含まれた比喩的な言い方であると見るのが適切であろう。だから、「26節の“イスラエル”は、旧約時代のイスラエルそのものを指しているのであって、未来においてイスラエルは一つのグループとして全体が救われるのだ」という解釈は間違っていると思う。

       しかし、「イスラエル」という言い方が、二つの異なる意味を持つものとしてこれほど近い前後関係の中で使われることは有り得るのかという疑問もある。確かにそれは不自然かも知れない。しかし、このような言い方もあるということを覚えなければならない。即ち、9章6節に「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」という言い方があるが、その僅か一つの節の中でさえ“イスラエル”という言葉が二つの異なる意味に使われているのだ。ギリシャ語の言い方は日本語より明確である。ギリシャ語はもっと短く「イスラエルからの者がみなイスラエルなのではない」と書いている。これは、聞く者に「これはいったいどういう意味なのか。何を言おうとしているのか」と思わせるような誘いの言い方なのだ。「えっ」と思わせてから、後の説明を見ることで「なるほど」と思うように書かれている。

       パウロはこの一連の説明の中で「イスラエル」という言葉を、「イスラエルの民」という意味にもなるし、同時に「神によって選ばれた者が本当のイスラエル」という意味にもなるように書いている。エサウもヤコブも肉においては“イスラエル”であるけれども、実はヤコブだけが「真のイスラエル」であり「ヘブル人」なのである。「アブラハムの本当の子孫はヤコブであり、エサウではない」と聖書は記している。モーセの時代のイスラエル人のほとんどは裁かれて荒野で死んだ。その時代も、本当の意味での“イスラエル”は少なかったのだ。

       しかし、その中にあって特にヨシュアとカレブの二人は明らかにイスラエル人であったことが記されているが、カレブはカナン人であった。そのカレブが、神を信じてユダ族に養子とされてユダ族となった。モーセの働きを引き継いで次世代のリーダーとなったこの二人を見るとき、その一人は肉的にはイスラエルから出た者ではなく、カナン人だったのだ。しかし聖書は、二人とも真のイスラエル人だと記しているのである。そこから、「真のイスラエルとは、神に選ばれた者たちのことである」と結論づけることができる。

       そういうわけで、パウロが9章6節で「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」と、二つの異なる意味において「イスラエル」を表現しているのと同じように、11章の中でも、26節の言い方は一般と異なる意味で使われていると思われる。そして、9章6節で使われている「イスラエルはみな」或いは「本当のイスラエル全体は」または「全イスラエルは」と訳せるその言い方は、「選ばれた者全体である“イスラエル”は救われる」という意味でパウロが説明しているということがわかるのである。だから、「こうして」というのは、25節で言っていることを更に説明しているのであって、「このようなやり方で神はイスラエルを救い給う」と言っているのである。パウロは神の救いの方法を説明しているのだ。「そのような方法で神は“全イスラエル”をお救いになる」と言っているのである。

       9章から11章までは特に「イスラエルと異邦人」の話が中心になっているけれども、本当は1章から既に何度もパウロはこの問題に触れている。例えば1章では、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と言っている。福音はまずユダヤ人に伝えられ、それから異邦人にも伝えられると言っている。2章では割礼について語り、また3章のところでは「なぜユダヤ人には特別な祝福があるのか」について話しており、4章ではアブラハムの信仰とダビデの信仰について語っている。7章でモーセの律法の意味は何なのかについて説明しており、ずっと異邦人とユダヤ人、ユダヤ人と異邦人について語っているのである。ユダヤ人と異邦人の問題はローマ人への手紙の中では基本的なテーマとなっているのだ。いきなり9章でユダヤ人のことを話しているのではないのである。

       異邦人とユダヤ人の問題はどういう問題なのかというと、「まことの神の民とは誰なのか」という問題なのだ。神殿はエルサレムにある。そして、エルサレム即ちカナンに住んでいる“イスラエル”は、「私たちは神の特別な選びの民である」と主張している。その彼らはメサイアを拒絶し、メサイアを信じることをしないで、メサイアを殺した。それに対して、実に小さなグループである者たちが「私たちこそ神に選ばれた民であり、私たちはメサイアを信じており、主イエス・キリストを信じている」と主張している。この人たちは僅かな者であって、いけにえをほとんどささげることもせず、人種的背景は複雑で、宗教的にもどこから来たのかわからないような、何でもかんでも含まれているような小さなグループである。

       その主イエス・キリストを信じるキリストの教会であるその小さなグループが神に選ばれた民なのだろうか。どちらが本物の神の民なのかという問題になっているわけである。その中にあってパウロは、神殿、エルサレム、イスラエルの歴史について説明しなければ、「教会は何なのか。なぜ教会がまことの神の選びの民なのか」ということがわからないのである。特に異邦人には理解できないことであったが、キリストを信じたユダヤ人たちにもわからなくなるかも知れないのである。ペテロでさえその影響によって、ガラテヤ人への手紙2章のところで福音を否定するような行動を不本意に取ってしまったこともあったのだ。だからユダヤ人と異邦人の問題は、当時のクリスチャンにとって極めて重大な問題だったのである。

       しかし、今日はどうだろうか。今の時代にあってユダヤ人と異邦人の問題は大きな問題だろうか。皆さんがクリスチャンになったときに、「ユダヤ人はどうなるのか。本当に私たちの方こそ神の契約の民なのだろうか。教会とユダヤ教の関係を説明してくれませんか」と言って戸惑うようなことは基本的にはないはずである。日本人であれ、アメリカ人であれ、ヨーロッパ人であれ、アフリカ人であってもそれは変わらない。この問題はあくまでも昔のパウロの時代の話なのである。それ故、「それなら、ユダヤ人は何なのか」と問われれば、「もうユダヤ人は存在しない」という言い方をした方がよいのではないかと思うのである。

       何度も説明したことだが、ユダヤ人の定義は契約的な定義でなければならないのである。「アブラハムの肉の子孫がみなユダヤ人」という概念は旧約聖書の中にはない。もう一度考えてみよう。「イスラエル」とは何なのか。旧約時代では、イスラエルは神の祭司としての国民であった。しかし、何をもってイスラエルの定義とすべきなのだろうか。人種によってだろうか。それは無理なことである。出エジプトの時以来、イスラエルは多人種集団であったのだ。彼らは、生物学的な意味でのアブラハムの子孫だけで構成されているわけではない。アブラハムから生まれた子孫は、ヤコブの時代になると70人くらいになってエジプトに行った。そのアブラハムの時代でも奴隷は数千人はいたのだ。

       ヤコブの時代になると、奴隷たちの数はどれくらいになったかはわからないが、少なくとも数千人はいたであろう。実際にヤコブの肉からの子孫と妻たちを含めて家族としては約70人であった。彼らはエジプトに移住したが、やがてヨセフを知らないパロがイスラエルを虐げた時代になると、奴隷とヤコブの子孫は皆一つのグループになっていた。その時点で見ても、既にそのグループの中でのヤコブの肉から出た子孫は少なかったのだ。「では、誰がユダ族なのか」というと、ユダとユダの肉の子孫とユダの家族に属していた奴隷たちがユダ族であった。例えば、カナン人であるカレブのようなケースでは、神を信じた時に割礼を受けるが、何族に入るのかは養子によって或いは結婚によって決めたかも知れない。他の方法もあったかも知れない。

       何れにせよ、エジプトを出た時のイスラエル全体を見ると、実際にアブラハムの肉から生まれた子孫の方が少なかったのである。「さらに、多くの入り混じって来た外国人・・・も、彼らとともに上った」とモーセが書き記しているが、その民の中にはエジプト人も混じっていた。エジプト人も、エジプトに居た他の奴隷の民とかも、神を信じた者たちは一緒について来たのである。実際に出エジプト記の中の名前を見ると、黒人や他の人種も含まれていたことがわかる。つまり、イスラエルは「契約のグループ」なのだ。

       アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じていて割礼を受けてモーセの契約の下にある者たちが「イスラエル」になるのである。それで、ダビデの時代になるといろいろな人たちがイスラエルに入って神を信じる者となり、イスラエルの民に加えられたのも史実である。ヘテ人のウリアもその一人であった。イスラエルの軍人であったので、彼も神を信じて割礼を受けてイスラエルに加えられた一人であったと思われる。彼はバテ・シェバの夫であり、バテ・シェバとの婚姻によってイスラエル人に加わったのかも知れない。そのように、いろいろな人種がイスラエルとなっていた。

       だから、旧約聖書の中でも人種的なことではなかったのだ。それ故、イスラエルの定義は何なのかというと、「契約」である。イスラエルは、契約的なグループであった。旧約聖書を読めばそのことは明らかである。神を信じた人々は、契約に入るために割礼を受けた。しかし、それだけでは十分ではなかった。犠牲制度は神が定めた契約の更新の方法であった。それがイスラエルのアイデンティティの本質であった。神殿も犠牲制度もなければ、イスラエルは存在し得なかった。そのすべては、イスラエルが契約の民であることを証していたのである。

       パウロの時代になると、イスラエルはエルサレムの神殿との係わりにおいて定義されるようになっていた。割礼を受け、神の神殿で礼拝を行なう者たちがイスラエルであった。一年間に三回しか神殿に上らない者もいたし、自分は行けなくても家族の代表がエルサレムの神殿に上って礼拝するような人たちもいたが、イスラエル全体が「神殿で礼拝をしている者たち」ということになっていた。パウロの時代にも神殿はまだ残っていた。「神殿は主なる神の宮である」ということを、キリストもパウロも言っている。

       しかし、パウロが警告をもって預言したように、そしてヨハネも警告をもって預言したように、神がエルサレムとその神殿とその民イスラエルを裁く時が来ようとしていた。主イエス・キリストが言っていたとおり、裁きの時に、神殿は完全に破壊されて二度と再建されないものとなる。イエスが神殿に対する最後の裁きを預言されたとき、古い契約のイスラエルの終りを預言されたのだ。神殿が裁かれた後は、「アブラハムの子孫」の意味が根本的に変わるのである。そのことをパウロはガラテヤ人への手紙3章でも説明している。キリストを信じる者のみがアブラハムの子孫である。それ故、神殿が破壊された紀元七十年からは、もう「異邦人とユダヤ人」という区別はなくなったのである。

       だから、厳密に言うなら、今の時代には聖書が言っている意味での“ユダヤ人”はもういないのである。今の世の中には“ユダヤ人”はもう存在していない。ではイエス・キリストを信じない今のユダヤ人は何なのかというと、彼らはエホバの証人やモルモン教やイスラム教と同じようなものであって、偽物でしかない。モルモン教もエホバの証人もイスラム教もみな、「私たちこそ本当に選ばれた神の民だ」と主張している。しかし、エホバの証人の「証人」は「商人」と呼ぶべきであって、金儲けをしている集団であって、本当に神を信じている人々ではない。その上層部の人たちはその宗教活動からとんでもないほどの巨額な財産を手に入れている。イスラムとは「従う者」という意味なのだが、イスラム教は本当の神に従おうとはしない。

       モルモン教は、聖書以外の自分たちの書物を真理と呼んでいる。実は、あまり知られていないけれども、モルモン教は多神教である。モルモン教の信者たちは「私たちはクリスチャンです。私たちは終りの日の聖徒である」と主張しているが、それも全く非聖書的でおかしなものである。今日のユダヤ人もそれと同じようなグループなのだ。彼らはタルムードなどを聖書に付け加えて信じている。聖書は、旧約と新約が一つとなって完成され封印された一冊の書物である。旧約聖書のマラキ書は終りではないことは誰もが知っている。それで今のユダヤ教はタルムード等をマラキ書の後に付け加えてそれを新約聖書の代替えとして使っている。ちょうどモルモン教がモルモンの書を持っているのと同じように、今の時代のユダヤ人と呼ばれる人たちは“聖書を完成するための聖書ではない書物”を持って、それを信じているのである。

       そういうわけで、以前は私自身も、この11章のイスラエルについてのパウロの話は「未来にはユダヤ人が全部救われるという預言の成就の話である」と考えていたので、そのように子どもたちにも教えた時期があったが、その時に子どもたちから一番厳しく質問された点は、「それなら今の時代のイスラエルの定義はどうなるのか」という質問であった。今の時代のイスラエルをどのように定義すべきなのか。「契約によって定義する」と答えると、「でも、その契約は既になくなっているのだから、契約においては何も関係ないのではないですか」と聞かれた。当時の私は、「彼らの契約は偽物であるから、彼らは偽物のイスラエルだと考えてよいのではないかと思う」と答えたのを覚えている。しかし、「偽物の契約と偽物の民」という説明にはどうも無理があるように感じられた。

       実は、これは明白な事であった。先に説明したように、紀元七十年に神が神殿を裁いたとき、その古い契約の「イスラエル」はもう存在しなくなったのである。アブラハムの肉からの子孫という意味でその政治的な集団との特別な契約を持つものではなくなったのである。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって「新しいイスラエル」が生まれたのだ。しかし、その旧イスラエルと新イスラエルとが、紀元七十年までの四十年間という特別な期間において、同時に存在していた。その四十年間では、古い契約におけるユダヤ人と異邦人の区別は、そういう意味ではまだ有効だった。

       パウロはガラテヤ人への手紙で、イシュマエルとイサクのことを比喩として使ってその事を説明している。「二人ともアブラハムの肉の子孫であるが、その中の一人だけがアブラハムの本当の子孫である」と、パウロは説明している。それと同じように、ずっとその時代まで続いていたイスラエルと、キリストによって新しく生まれたイスラエルとが、パウロの時代にはその両方とも存在していた。それだから、異邦人とユダヤ人の問題は確かに避けては通れないものだった。しかし、神殿が破壊されてしまった時、イスラエルと異邦人の区別もなくなったのだ。「イスラエルと異邦人の区別がなくなった」という言い方よりも、「イスラエルと異邦人の区別は、神の選ばれた民である新しいイスラエルと救われてない人々である異邦人という区別に変わった」と言う方が適切だと思う。

       そして、パウロは新約聖書の中で、時によってクリスチャンではない人たちのことを「異邦人」と呼んでいるのを私たちは知っている。異邦人宛てに手紙を書いているのに、エペソ人への手紙の中ではクリスチャンでない人たちを「異邦人」と呼んでいるのである。よく考えてみればわかることだが、もし旧約聖書的な言い方を使うなら、私たちも異邦人ということになる。それだから、異邦人とイスラエルの区別は全く違う意味を持つものになったのである。主イエス・キリストを信じる者たちと、そうではない者たち、という区別になるわけである。「イスラエル」の意味が変わったのである。そのことをパウロは、福音の重要なポイントの一つとして説明しているが、これには極めて重大な意味がある。

       ここでもう一つのポイントを見なければならない。この11章のところでパウロは「奥義」の話をしている。25節を見てほしい。「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい」とパウロは言っている。「奥義」の話はパウロの手紙の中に何度も出て来る。この「奥義」とは、教会のことなのである。教会とは、「異邦人とユダヤ人が一つのからだとなり、一つの生命体となる」ということなのだ。そのことをパウロは何度も説明している。なぜ「奥義」と言うのかというと、旧約聖書の中には、イスラエルと異邦人が一つのからだになるというほどの明確な預言はないからである。これは神の御恵みの新しい啓示であるから「奥義」と言うのだ。

       そして、11章の26節で言っている「イスラエル」を「アブラハムの肉の子孫」と解釈するならば、パウロがここで話していることはちっとも「奥義」ではないことになる。だが、これは「奥義」なのである。それだから、パウロは、主イエス・キリストを信じて新しいイスラエルとなった異邦人に対して、「人種差別のような心を持つな。自分たちが他の者たちよりも優れているなどと決して思うな」とはっきり教えるのである。申命記7章と9章でも、神はイスラエルに対してそのことを繰り返し言っておられる。自分が他の民よりも優れていると思ってはならない。「偉大だからとか、優れているからといって選ばれたと思ってはならない」と神は言っておられる。「神は、アブラハムとの契約を覚えて、その誓いを果たすためにあなたがたを選んだのだ」と、モーセはイスラエルに語っている。「自分たちが他の民よりもすばらしいと思うなら、それはとんでもない間違いである」と、モーセはイスラエルに説明しなければならなかったのである。

       それと同じように、パウロは選ばれた異邦人たち、そして教会すなわち新しいイスラエルとなった人たちに、「傲慢になるな。神を恐れなさい」と、強調して言わなければならないのである。ここで私たちはバベルの塔のことを思い起こす必要がある。バベルの塔の時に、人間はいろいろなグループを作った。アブラハムの子孫は祭司の民とされたが、バベルの塔の裁きによって人類は死の状態におちたと言ってよいと思う。つまり、分断された状態は死を表わす状態なのだ。血と身体を分けてしまえば死ぬのである。身体がバラバラになれば、死ぬのである。イスラエルでは、悲しみ嘆くときに服を引き裂くけれども、それは死の悲しみの象徴なのだ。一つである筈のものが破られるとき、二つに引き裂かれるとき、それは死の状態を表わしている。また、頭に灰や土をかぶるのも死を表わす象徴なのである。それらは死の嘆きを表わすしぐさなのだ。

       人類は二つに裂かれてしまった。ユダヤ人と異邦人に。その二つに裂かれた人類が一つに成らなければ、救われないのである。人類の救いはキリストにあり、主イエス・キリストを信じる者は「一つの神の民」となると聖書は教えている。「キリストを信じる者には、神の子どもとなる特権が与えられた」とヨハネが言っているとおりである(ヨハネの福音書1章12〜13節)。彼らは「神の子ども」というグループになったのだ。その神の子どもの中では、誰が先祖なのかは全く関係ないのである。実はモーセの時代であってもそうだったということを忘れないでほしい。

       強いて先祖たちとの関係を言うのであれば、それはエジプトから出た時の「族長」という言い方に見るようなものであった(民数記7章参照)。出エジプトの時、イスラエルは部族ごとにそのかしらである族長がいけにえをささげていた。その族長も、ヨシュア記ではあまり出てこなくなり、士師記の時には全く消えてしまうものなのだ。イスラエルは荒野の中で神に裁かれたりして、約束のカナンの地に入るが、カナンの地に入ったあとは経験、年、人格等によって選ばれた長老たちが民を導くようになったのだ。先祖は誰なのかによって長老たちが選ばれたのではない。そのような制度はイスラエルにはないのである。古い契約の時代にあっても、カナン人カレブはリーダーになり得たし、ヘテ人ウリアもダビデの最も優れた勇士の30人の中に選ばれ得たのである。誰が先祖なのかによって人が選ばれるとか偉くなるという話は旧約聖書の中にもないのである。

       しかし、新しい契約においては、クリスチャンは皆一つの家族となった。その意味は、「主イエス・キリストにあって神の養子とされた」ということなのだ。神の養子とされることによって私たちは文字通りアブラハムの子孫となったのである。だから、救われた者は皆同じ名前を持っている。「クリスチャン」というのが私たちの言わば本当の名前であり、キリストを主として告白する者にはみな「クリスチャン」という名が付けられている。分かりやすく説明するために、例えば「田中めぐみ」という名の人は、救われた時に「クリスチャン田中めぐみ」となったのだ。キリスト者は誰でも「クリスチャン」という名が付けられている。「クリスチャン」というのが彼らの本当の名前なのだ。それ故、皆同じ家族であり、兄弟であり、それ故人種も全く関係ないのである。先祖は誰なのかも関係ない。皆が一つのからだとなったのであり、それぞれが主イエス・キリストのからだの一部分なのである。ユダヤ人と異邦人との区別も永遠に消えたのである。

       そういうわけで、「異邦人」という言葉は新しい契約の時代にあっては比喩として使われるものとなった。それは以前とは異なる意味を持つものとなった。つまり、キリストを信じない者たちが「異邦人」なのである。例えば、生粋のユダヤ人がいて、血肉からすれば本当のアブラハムの子孫だということが証明されたとしても、キリストを信じていないなら、その人は「異邦人」なのだ。それに対して、中国人を先祖に持つ人であっても、キリストを主と告白するなら、その人は「ユダヤ人」ということになるのだ。「イスラエル」という言葉も、「異邦人」という言葉も、新しい契約においては比喩的な意味しかもたないものとなったのである。それは、旧約聖書の歴史の事柄を今の時代にどのように適用し、どのように考えたらよいのか等についての理解を助けるための比喩として使われるのである。

       そういう意味で、今パレスチナに住んでいるイスラエルはどうなのかというと、神の契約においては何ら特別な意味はないのである。彼らは、ドイツ人や日本人や中国人などと同じような、ただ神を信じていない一つの民に過ぎない。彼らの未来は他の者たちと何ら違いはないのである。ユダヤ人と異邦人の中からキリストにあって養子とされた者が真の「イスラエル」であるとすれば、キリストの外にある者はユダヤ人であれ異邦人であれ「異邦人」なのだ。パウロは少なくとも一回はこの意味で「異邦人」という言葉を使っている(エペソ人への手紙4章17節)。ヨハネもそうである(ヨハネの第三の手紙1章7節)。誰であれ、最終的にはキリストを信じることによってのみ救われるのである。

       キリストを信じない者には救いはない。「私の先祖はアブラハムだ」と主張しても何も意味はないのである。キリストを信じるならば救われるが、国全体として言うならば、今のイスラエルは「異邦人」なのである。ロシアも、インドも、中国も、イスラエルと呼ばれるその国も、「異邦人」なのである。それ故、「イスラエル」と「異邦人」という言い方を、「奥義」という言葉と一緒に考えるなら、私たちは、バベルの塔の呪いが取り除かれた新しい人類なのである。それ故私たちの間にあっては、異邦人とユダヤ人の区別はないのだ。そのことをパウロはガラテヤ人への手紙3章で説明している。私たちは、聖書を気を付けて読めば、その意味の大切さを感じることができるはずである。

       今日の日本人にとって、日本人、中国人、韓国人、西洋人の区別はないのである。つまり、今日の私たちにとって、ユダヤ人と異邦人の区別は毎日の生活の中にあっては何ら特別な意味はないのだ。「外人とか、韓国人、中国人とかいうような区別はない」と言うとき、「そのような区別は無意味だ」と言っているのである。だから、日本人だということを誇りに思うな。アメリカ人だということを誇りに思うな。なぜなら、それらはみな異邦人の話であって、私たちの誇るべきところではないからである。私たちの誇るべきところは主イエス・キリストのみにある。変な言い方かも知れないが、理解のために言うなら、「私はクリスチャン人です」ということを誇りに思うべきなのだ。国籍が天にあることを誇りなさい。天に国籍を持つ私たちの中には、日本人はいないし、アメリカ人も中国人もいないのだ。「クリスチャン人しかいない」という話になるのである。

       パウロが言っている「奥義」の話も同じように、ユダヤ人と異邦人の区別は意味のあるものとしてこれからも続くということを指すよりも、「その区別は終わった」ということを指しているのだと思う。そうであれば、それは紀元七十年のところにつながることになる。「イスラエルの完成」はいつなのかというと、紀元七十年ということになる。イスラエルはどのように完成されるのかというと、黙示録7章では、イスラエルの十二の部族からぞれぞれ一万二千人ずつが救われると書いてある。一万二千人は“12”という数であり、十二部族も“12”という数だ。ともに「完成」を表わす数である。これは、古い契約を終わらせるために救われたユダヤ人の数の完成を指しているのだ。それ故、そのグループが救われるということが「イスラエルの完成」ではないかと思う。

       そうすると、黙示録が記している七年の患難時代は紀元六十四年から紀元七十年までの七年間を指していることがわかる。その七年間においてイスラエルの十二部族から出る144,000人が救われて「その数は満ちた」ということが「イスラエルの完成」ということになる。その七年間に最終的なイスラエルの残りの者が救われて、黙示録に記されている預言のとおりに、最後の裁きは神殿の上に下されたのだ。そして、パウロと使徒たちの働きと証しによって「異邦人の完成」も成就した。このように、「イスラエルはみな」、即ち、定められた数のユダヤ人と異邦人とが救われたのである。はっきりと神の新しい民である「教会」が神の花嫁だということが証明されたのである。

       キリストは最後に、「イスラエルに対する大いなる裁きがなされるが、それはわたしがメサイアであることをあなたがたに明らかにするための証明となる」ということを預言していた。だから、エルサレムに対する裁きと神殿に対する裁きを見るその時、「メサイアは神の右に座し給うた」ということがわかるのである。そのことをキリストはマタイの福音書24章で説明している。それは預言者としてのキリストが宣告した大きな預言であった。キリストはまた、メサイアとして、ローマ帝国の軍をエルサレムに導き給うた裁き主でもあるのだ。

       その両方のポイントとも重大である。主イエス・キリストが神の右に座して、御自分で主権的に神殿を破壊したということが預言されていたのだ。その時に「主イエスはメサイアである」ということが公然と表わされて明白にされる。そして、「教会が神の民である」ということもその時に明白にされたのである。それ故、「ユダヤ教はもうその時点から消えたのであって、どのような意味においても存在しなくなった」と考える方が、「奥義」の意味もよくはっきりするし、パウロがここで話している「ユダヤ人と異邦人の区別」のこともよく理解できるのである。

       そして、バベルの塔との関係についても、どういうものなのかがよくわかると思う。神殿を裁いて破壊し、ユダヤ人と異邦人との区別を取り除かなければ、バベルの塔への神の裁きのシステムは依然として継続していることになるのだ。新しい契約においては、バベルの塔への裁きのシステムはもう取り除かれているのだ。「バベルの塔の呪いが取り除かれている」ということは、異言を語ることにおいても表わされていた。だから、キリストの復活から紀元七十年までの特別な期間に限定して与えられた異言の賜物には特別な意味があったことがわかる。使徒の時代には、バベルの塔の状況を終了させるものとして異言の賜物も与えられ、それは教会に聖霊が与えられた証しでもあった。バベルの塔の裁きの呪いが取り除かれて、すべての国々は、キリストを信じることによって一つの民となるのである。

       だから、パウロが福音を伝える時に「まずユダヤ人から」と言っているが、異言を語るのもその特別な40年間に限っての話なのだ。神殿の破壊の後は、もはやユダヤ人と異邦人の区別は存在しないのは明らかである。私が来日した時、「まずユダヤ人を見つけてユダヤ人に福音を伝えてから日本人に伝えるのでなければならない」というふうには思わないのである。しかし、パウロは、どこに行っても、まずユダヤ人に福音を宣べ伝え、そこから追い出されたときに、異邦人に伝えた。

       明らかにパウロは、初めはユダヤ人に向かって説教し、後に異邦人の使徒として働いた。そのパタ−ンが使徒行伝の中では繰り返されているのを見る。なぜそうなのかというと、それは、まだ二つのグループが残っている状態だったからなのだ。それは実に特別な期間であった。それ故、神が福音によって与えてくださった「奥義」とは「新しい人類」であり、「その新しいイスラエルの一致はキリストのみにある」ということをパウロはここで説明している。キリストが十字架の死からよみがえられた紀元三十年から、キリストがエルサレムを裁かれた紀元七十年までの間に「完成」の御業がなされたのである。

       11章32節でパウロは、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」と言っている。つまり、この11〜32節の箇所の最後のところで、「すべての人は救われる」と言う話で説明が終わっているのだ。「すべての人は救われる」というのは、「神の導きによって最終的に全世界が主イエス・キリストを信じるようになる」ということである。勿論、これは「一人残らず全ての人が」という意味ではない。各個人が例外無しにクリスチャンになるということではない。「人類全体が、まことの神を信じる人類になる」というのがポイントである。そのように神は世界を導いてくださる。神殿を裁き、新しいイスラエルを生み出すことによって、全世界に福音が宣べ伝えられて、最終的に新しい人類は全世界に広まるということをパウロは話している。「新しいイスラエル」が造られるのだ。

       ガラテヤ人への手紙6章15〜16節でも、「新しい創造・・・すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と言っている。また、アブラハムの子孫とは誰なのかをガラテヤ人への手紙3章で説明して、「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」と言っている。更に旧約聖書の中でイザヤがイスラエルが受ける祝福について語っているのを読むとき、私たちこそその祝福の相続人なのだということがよくわかるのである。イザヤ書に書いてあることが今でも私たちにおいて意味あることなのだということがわかるのである。このような比喩的な言い方は、私たちに大切なことを教えてくれるものなのだ。

       11章のこの箇所全体においてパウロは、「イスラエルは二千年後或いは三千年後には救われる」というようなことを預言しているというよりは、その当時の事について話しているのだ。ここでパウロは、「神はこのようなやり方でユダヤ人を取り扱い、そして新しい人類を創造し給う」ということを預言しているのだという理解に立つとき、この箇所全体をもっとよく理解できると思う。私たちにとっての大切なポイントは、「自分たちには特別な祝福が与えられているからといって傲慢になったり、まるで自分がその祝福を受けるのに相応しいかのような高ぶった思いを持ったりするな。へりくだった心を持ちなさい。自分たちはその祝福を受けるには相応しくない者だということをいつも覚えて、もっと神に対する正しい恐れと深い感謝を持ちなさい」ということを異邦人に話しているという点である。私たちもそのような思いを持つべきであり、これは神の民にとって決定的に大切なことなのだ。

       詩篇50篇を今日交読したが、交読した時に気が付いた人もいると思うが、旧約聖書のイスラエルの時代であっても、実際にいけにえを神にささげていたときでさえ、神は羊の血が欲しいとか牛が欲しいとか、お腹空いてるから何か食べたいということはないと、神は愚かなイスラエルに言っているのだ。それによって神は何を人に求めているのかというと、感謝の心を求めているのだ。感謝を神にささげる心を要求しているのだ。「傲慢で愚かで、神を尊ばず、敬わず、その愛を見下すような者になるな」ということが詩篇50篇にも書かれているが、このローマ人への手紙11章も同じことを言っている。私たちが礼拝に集まるのは、感謝をささげるためなのだ。

       感謝を本当の意味で神にささげるというとき、当然その前に信仰が前提としてある。信じていない者に感謝はない。本当に信じているならば、感謝の心はあるはずだ。信じて、感謝する。そういう者は自分を神にささげる筈である。神の愛に対して愛をもって応答する筈である。信仰と感謝と愛はつながっている筈であり、切っても切れない関係にある。礼拝は、神への感謝祭である。神の御恵みに対する感謝を心からささげて、聖餐式において主イエス・キリストが自分のために裂かれたことを一緒に記念するのである。主イエス・キリストは私たちのために二つに裂かれた。キリストは、血とからだに裂かれて死んでくださった。そしてよみがえって、天に昇り、私たちに永遠のいのちの御恵みを与えてくださった。その神の愛と恵みに対して感謝の心を持つなら、私たちはきっと正しく歩むことができる。感謝の心を豊かに持つなら、私たちはこの日本で実を結ぶ働きもできるようになる。そのことを、パウロはローマ人への手紙11章において、そしてダビデは詩篇50篇において、神を信じる人々に向って語っているということを是非覚えていただきたい。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年7月1日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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