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    ローマ人への手紙11章1〜10節


    11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

    11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。

    11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」

    11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

    11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

    11:6 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

    11:7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。

    11:8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

    11:9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。

    11:10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

    2001.06.24. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神は御自分の民を退けられたのか

    11章1〜10節

       ローマ人への手紙10章の終りのところで、「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」と、パウロはイザヤ書からの引用をもってイスラエルに対する神の御恵みについて話している。「今、イスラエルが神から離れているのは、不信仰のためなのだ」と説明している。イスラエルの不信仰とその反抗的な心は、実は旧約聖書の中で預言されていたことであった。そして、旧約聖書の時代の中でもイスラエルにはそのような時代はあったのだ。そのためにイスラエルはバビロンの捕囚となったりした。パウロの時代のイスラエルは、そのバビロンに捕囚とされた時代のイスラエルと同じように神に対して反抗的で、神から離れていたので、神の懲らしめを受けなければならない状態にあった。そのことをパウロは10章で説明している。そして、その最後のところで、パウロは神の御恵みを非常に深く素晴らしく伝えていると思う。

       「わたしは一日中、手を差し伸べた」と神は言い給うたのだ。神が、反抗的で不従順なイスラエルに対して、ずっと手を差し伸べて、悔い改めるように招いておられたのだ。その神の御恵みに対してイスラエルは聞く耳を持たないで、続けて反抗し、続けて逆らった。それで11章1節の「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか」という話になるわけである。この問いは、9章の初めからパウロが扱っている基本的な問題である。初期のクリスチャンにとって、神とイスラエルの関係を正しく理解すること以上に大切なことはなかった。

       イスラエルは約二千年にわたって神の民であった。神はどのように彼らを導いたか。また神は、どのようにして彼らの罪と過ちを取り扱ったのだろうか。古い契約において「神の民である」とはどういう意味だったのだろうか。それは新しい契約においてどのように変わったのか。このような問いや、これに類似した問いには、神がイスラエルの民をどのように導かれたかを真剣に調べることによってのみ答えることができる。「イスラエル人」と呼ばれるすべての人が本当のイスラエルなのではないと、パウロは9章で説明した。彼らは信仰によって求めずに、行ないによるかのように義を求めた。つまり、彼らは神とその義を求めるのではなく、自分たちの伝統を求めたのだ。実に不従順で不信仰であった彼らに対して、神は絶えず御手を差し伸べておられたのだ。

     

    捨てられたのか?

       神の豊かな御恵みに対してあくまでも逆らい、いくら神が愛を表わしてもイスラエルはその不従順を改めようとはしない。ここでパウロの問いが始まる。「だから、神はイスラエルを捨ててしまわれたのか」とパウロは問いかける。最終的に彼らは神を拒絶し、キリストを十字架に付けた。そのことはキリストに対する彼らの反逆を端的に物語っている。イスラエルは、単に神の御言葉を聞きたがらないだけでなく、彼らは熱心に神が遣わしたメサイアを憎んだのである。キリストの死を見るまでは決して満足できないほどに、キリストを憎んだのである。このような民は、永遠に退けられるのだろうか。「そんなことはない」と、パウロは断言する。

    すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

       「絶対にそんなことはありません」というとても強い言い方で問いに答えている。しかし、「神はご自分の民を退けてしまわれたのか」という問いを発するとき、その言い方の中には既に答えが含まれているのだ。というのは、旧約聖書の中で、神は「わたしは、決してあなたを捨てない」とイスラエルに約束しておられるからである。パウロは、その問いかけの言葉の中においても、神の約束の言い方を使って質問しているのである。「いったい神は、御自分の約束を破ったのだろうか」と問うているのだ。答えは「絶対にそんなことはない」である。しかし文法上では、その質問の答えは「否」になる方が自然であり、質問の表現自体もまた否定の答えを待っているようなものである。それだけに、断定的な否定の言い方は、その強調を最大限に引き出すものになっている。

       神は「ご自分の民を」退けられたのか。イスラエルの民は「神の」ものであって、神が契約の関係を持っておられるのであれば、どうして捨てられ得ようか。「そうではない」ということを聖書は多くの箇所で述べている。例えば第一サムエル記12章22節では、「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ」と書いてある。また詩篇94篇14節にも、「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません」と記されている。

     

    証明

       「神が御自分の民を退けたのではない」ということを確証するために、パウロは理由を付け加えている。まず、神が御自分の契約を守る方であるということについて、パウロは自分自身がその証拠であると述べている。パウロは、自分自身もイスラエルであり、自分も神の民の一員であることを力説しているが、ここではそれだけがポイントなのではない。「私はクリスチャンです。イスラエルには私のようなベニヤミン族もいるんですよ」と言っているだけではない。もちろんパウロがユダヤ人のクリスチャンであるのは事実である。しかし、「異邦人に福音を伝えるために特別に選ばれた使徒もイスラエル人なのです」と言うのがポイントなのである。「この私も」と言っているのは、「異邦人に福音を伝えているこの私も、イスラエル人なのだ」ということなのだ。つまり、これはパウロ個人の話ではないのである。

       使徒パウロは、正真正銘のイスラエル人であり、このユダヤ人を神は異邦人への使徒としてお選びになった。神がユダヤ人を退けたのなら、なぜわざわざユダヤ人を選んで非ユダヤ世界に対して御自分の御恵みを宣べ伝える器とされたのか。そういうわけで、神が依然としてイスラエルのうちで、またイスラエルを通して特別な方法で働いておられるが、そのことの証拠はパウロ自身であった。神は御自分の約束を守ってくださったのである。パウロの使徒の働きは特に異邦人に対するものである。神は、異邦人に福音を宣べ伝える器をもイスラエルの中から選び、ベニヤミン族であるパウロを通して異邦人にも福音を与え給うのである。

       これは紀元七十年以前のことだが、そのパウロの時代にあっても、救いはユダヤ人を通して与えられるものであった。この原則は、ヨハネの福音書4章のキリストとサマリアの女との話においても見ることができる(特に22節)。パウロの時代に、パウロを通しても、その同じ原則が表わされている。パウロは異邦人の伝道者だけれども、彼はアブラハムの子孫であって、ベニヤミン族の裔なのだ。そのポイントを強調してから、パウロは2節の初めのところで、もう一度「そんなことはない」と言うのである。

    神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。

       この2節は、神が御自分の民を捨てられなかったことを直接主張している。しかし、パウロの表現は再びその主張の根拠に触れている。ここでパウロは、彼が私たちについて言っているのと同じ言い方を使っている。神が私たちを愛してくださり、選んでくださり、信仰を与えてくださったので、私たちはその御恵みによって絶対確実に守られると、パウロは私たちに説明している。羊のように殺されたり虐げられたりする時こそ、私たちは神の民であることが一層鮮明となり、パウロが「キリストの愛から私たちを引き離すことのできるものは存在しない」と8章で説明したことが明らかになるのだ。そうであれば、「どうしてイスラエルの問題が出て来たのか、どうしてイスラエルは神の愛から離れて逆らう者になったのか」という疑問が起こってくる。その説明をする中で、パウロは「あらかじめ知っておられた」という言い方をしているのである。

       明らかにこれは8章29節と30節で「選ばれた者に対する神の愛」を説明するのに使われた言い方であり、これはキリストを信じる私たちについて話す時の言い方なのだ。神は、「あらかじめ知っておられる人々」を捨ててしまったのだろうか。いいえ。絶対にそんなことはない。8章で説明したように、この「あらかじめ知っておられる」とは、契約の愛をもって選ぶことである。神は、地の基が築かれる前に私たちを選んでくださったのだ。神は人類のうちに特定の集団をお選びになり、御自分の豊かな愛を彼らに注がれたのである。その民が、キリストに似る者となるようにと、神は予め定めてくださった。その「あらかじめ知っておられたご自分の民」を、神は決して捨て給わないのである。続けてパウロはイスラエルの歴史の中でも最悪な時代の一つを取り上げている。

    それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。

       説明のためにエリヤの時代を選んだ理由は、先にも説明したように、パウロの時代がエリヤの時と同じような時代だからである。エリヤの時代のイスラエルは、間もなくアッシリアに囚われてしまうことになる北イスラエル王国の時代であった。エリヤの時代のイスラエルは、神から離れており、甚だしい背教に陥っており、明らかに不従順で反抗する民となっていた。そのエリヤの時代は、イスラエルの上に神の厳しい裁きが下される時代であった。「イスラエルの民にはもはや望みはない」とエリヤ自身が信じるように誘惑されたほどにその状態はひどかった。それ故、「その時代について聖書に書き記されたことを、あなたがたは忘れたのか」とパウロは問うのである。そしてパウロは、3節で次のように引用して説明している。

    彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」

       エリヤのこの祈りは、神がイスラエルを裁いてくださるように訴える祈りであった。「どうか、神さま。このイスラエルを見てください。あなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しています」とエリヤは訴えている。「わたしは一日中、手を差し伸べた」と言っておられるのは、神が預言者たちをイスラエルに遣わしてその口を通して彼らに御言葉を語り続けたということである。そのイスラエルに語り続けてくださった神の大いなる御恵みを見るとき、エリヤはそれにもかかわらず反抗して逆らう民を見て深く悲しんだ。イスラエルは神に逆らい、その御言葉を求めはしない。しかも、神が遣わした預言者たちを殺すのである。それを見てエリヤは「神よ。どうかこの民をお裁きください」と、神に訴えている。

       主イエス・キリストの時代のイスラエルも全くそれと同じであった。事もあろうに、彼らは神の御子でありメサイアである主イエス・キリストを憎んで殺したのである。主イエス・キリストを殺した後で、ステパノをも殺し、さらに使徒ペテロやパウロたちをも殺そうとしていた。キリストの弟子たちも、旧約聖書のエリヤの時代や預言者の時代と同じように、神の福音を宣べ伝えたので殺されたのである。神の御恵みのメッセージを語って教えたために、憎まれて、殺されたのである。エリヤの時代とパウロの時代は、そういう意味で同じような背教の時代だったのだ。国全体が盲目になった過去と同じく、再び盲目な民になっていた。「古い契約の時代の終り」であるパウロの時代のイスラエルは、完全に神から離れていたような時代であった。そのエリヤの時代に代表されるようなことをイスラエルは行なっている。

       エリヤの祈りを見ると、イスラエルは神の預言者たちを殺すだけでは飽き足らず、「あなたの祭壇をこわしている」とエリヤは訴えている。何という反逆か。祭壇を壊してしまうこと以上に神に対する反抗の心を表わすことはないのである。預言者たちが語る御言葉を拒絶しているだけでなく、神の祭壇を壊すのである。「祭壇を壊す」とは、神を礼拝する場所をだめにすることにほかならない。御言葉と礼拝を捨ててしまうイスラエルの姿をそこに見ることができる。今の時代の言い方で言うなら、それは、御言葉の説教を阻止し、聖餐式をだめにすることに他ならない。御言葉なんか聞きたくない。聖餐式もいらない。エリヤの時代のイスラエルは実際に神への礼拝への嫌悪を表わしていた。

       そのようなイスラエルに対して、当然のこととしてエリヤは深い憤りをもって「この民はどうにもなりません。どうか神様。この民をお裁きください。今、彼らは私をも殺そうとしています」と祈った。その祈りをささげる時、エリヤは非常に気を落としているし、深い悲しみを覚え、心を痛めていた。しかし、神はイスラエルの最悪の背教の時代においてさえも、御自分の者を保っておられたのだ。4節に神の答えがある。

    ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

       この「七千人」というのはおおまかな数字だと思うが、これは非常に多くの者がいるということを表わしている。実際には7100人くらいだったかも知れないし、6900人くらいだったかも知れない。ポイントは、「七千人しかいない」ではなく、「これほど多くの残された者がいる」ということなのだ。「男性七千人」という言い方も、女と子どもはいなかったという話ではない。「男性」と言うとき、これは成人した二十歳以上の男性を指しているので、約七千もの家族ということになり、実際には非常に多くの人々が、バアルに対してひざをかがめていないのである。「その人々を、わたしのために残してある」と神はエリヤに答えている。

       しかし、その七千人はイスラエルの中では目立たない存在であったのだろう。エリヤが周りを見渡しても、その人たちがどこにいるのかはわからなかった。イスラエル全体の中での七千の家族と言ってもそれほど大変な数字ではないかも知れないが、この人たちの信仰の証しは、バアルにひざをかがめたことがないということによって表わされていた。しかし、これらの男子のたった一つの良い点が否定形でしか言われていないことに注目すべきだ。つまり、彼らが何をしたかではなく、何をしなかったのかに言及しているのだ。それは一番目立たないレベルでの信仰の表われだと言うこともできる。

       ロトのことを例に考えればわかるが、ロトは家族を連れてソドムとゴモラの町に住んだ。そこの生活に慣れてしまったために、家族とともにそこに住み着いた。ということは、ロトを見ても、その周りの人とそれほど違いはなかったと思われる。服装も同じだし、香りも同じで、会話も同じだったかも知れない。しかし、ペテロの手紙に記されているのでわかることだが、ロトは周りの社会や生活を見てずっと苦悩していた。証しもしなかったし、無口で、罪に対して訴えることもしなかったようである。何か神のために働いたということもない。だから、ソドムとゴモラから脱出した時、親族や友人たちは誰もロトの警告を聞こうとせず、ロトの妻と二人の娘だけが町から連れ出された。しかし、結局はロトひとりしか救われなかった。ロトは一人心の中で苦しんでいた。それだけの信仰であった。

       エリヤの時代のこの七千人の男子もその最低限のレベルの信仰であったと思われる。心の中では苦しんでいるが、何も語らず、働くこともしない。だから、エリヤにはその七千人が見えなかった。彼らの最低限のその信仰は、神のみを礼拝する忠実によって示されている。そのような、非常に弱くて未熟な、クリスチャンとしては絶句するほどに足りない七千人であったが、彼らは「神のために残された者」として存在していた。それがエリヤへの神の答えであった。「わたしは、そこまで自分の民を捨てたわけではない。残りの者がいる」と言うわけである。

       そのような最悪の状態の中にあっても、神はご自分の民を残し、それを守っておられる。だからと言って、裁きをしないわけでもない。裁きは行なうが、神は残りの者を守っていてくださるのである。それがエリヤの時代のことであった。エリヤは、がっかりして、神の契約の約束を忘れるほどに落ち込んで、「私一人しかいない」という思いになってしまったが、それはよくないことであった。それ故、「いいえ。あなた一人ではない。たとえクリスチャンとして非常に未熟であっても、わたしはわたしのために、七千人の男性を残してある」と、神はエリヤに答えられた。

       この「残りの民」は、神の真実を表わしている。彼らは神の御恵みのみによって残されたからである。神はアブラハムに対して、その子孫が祝福されることを約束してくださった。たとえ彼らが国を挙げて神に背き、契約の呪いを自ら招くようなことをしたとしても、神はアブラハムとの約束を守ってくださるのだ。神の選びは9章のテーマである。そしてそれは、神の契約の真実と、契約の御恵みとを表わすものだ。イスラエル全体が神に逆らう悪しき民であったが、そのような民の中からさえも神は御自分の分として七千人を召し出さしておられるのである。彼らはただ御恵みによって選ばれたのであって、彼ら自身の善行や徳によったのではない。

       「それと同じように、今も、恵みの選びによっって残された者たちがいます」と、パウロはイスラエルについて説明している。「今の時代は、エリヤの時代と同じようなものです」と説明されるときに、異邦人たちもユダヤ人も「なるほど」と思うものであった。イスラエルの歴史を見れば、神を恐れて大多数の人々が神に従ったあのヨシュアのような時代もあれば、ほとんどが神から離れて神に対して背教的になってしまったエリヤのような時代もあったのだ。「今の時代は、そのエリヤの時代と同じで、イスラエルは神から離れている。しかし、今のイスラエルの酷い状態を見るとき、残された者たちがいるということを忘れてはならない」と、パウロは教えているのである。

       「残された者がいる」ということは、「恵みの選びによって」存在している人たちがいるということである。「恵みの選びによって」という点が重大なのだ。周りの皆が神に逆らって反抗的になっている。イスラエル全体が盲目になった。しかし、その中から神は、ある者たちを特別な御恵みをもって選び出してくださった。逆らう者としてはパウロがその最もよい例であった。どこまで神に対して反抗的であったかというと、神の預言者たちを殺すことに参加したパウロであった。そういう意味で、「神の祭壇を壊す者であった」という言い方もできよう。つまり、聖餐式を阻止しようとしたのだ。それがパウロ(当時の名はサウロ)であった。パウロはエリヤが憎んでいたイスラエルの民の中に含まれていた人間であった。

       そのパウロが、神の「恵みの選び」によって救われ、今は異邦人に福音を伝える器に変えられたのである。だから、「恵みの選びによって残された者がいます」と、パウロは5節で説明する。その者たちは、神の御恵みによって契約の救いを受けることができた。そして6節でパウロはその「恵みの選び」のことを更に強調している。

    もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

       ここが非常に重大なポイントである。一読しただけでは、何か取って付けられた横道のように感じるかも知れないが、ここでパウロは「選び」について話しているのだ。9章でパウロは選びについて説明した。8章でも説明されているが、その選びとは永遠の昔の選びの話である。「選び」はどのように定められ、どのように与えられているかについて考えるとき、それはただただ「恵み」によるのだとパウロは強調をもって説明している。9章で説明されているように、ヤコブとエサウは生まれる前から、まだ何一つ良い行ないもしていなければ罪も犯していない時に、「神はエサウを選ばないでヤコブを選んだ」ということをパウロは説明している。

    その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

       「選びは恵みによる」と言うとき、「救いは100%神からの賜物として与えられるものだ」ということがよくわかるのである。アルミニアンの信仰では「神は人間を見て、信じる機会が与えられたときに誰が信仰を持つようになるかを予知して、その人を選んでくださった」という説明になるのが普通である。最近では、もっと極端なアルミニアンがあって、「神は未来の人間の自由な選択を知ることはできない」と言っている。そのような極端な考えは昔のアルミニアンに無かったわけではないが、あからさまに言う者は少なかった。しかし、それはアルミニアンの考え方の論理的な帰結であり、その論理の適用であると言える。

       今アメリカの福音派の中でその考え方が流行している。「明日、あなたがどんなシャツを着るかはあなたの自由であり、神はそれをご存知ではない」と言うわけである。あなたも今はまだ知らないかもしれないが、明日それを選択する時、それは決定される。その自由な選択による決定がなされる以前には、誰もそれを知らないし、神もその自由の選択がどのようなものになるかはご存知ないのだと言う。それで、誰が信じるのか、誰が信じないのか、神は知らないのだと言うのである。その考えがこともあろうに福音派の中で流行っているのだ。

       しかし、昔からの普通のアルミニアン主義は、「誰が信じるようになるかを神は予め知っておられるので、その者たちを選んだ」と考えていた。つまり、その人の自由意志による選択が、神の選びの土台となると言うわけである。それで、どうして選ばれたのかというと、「自分が神を選んだからだ」という結論になってしまう。「最終的な理由は自分にある」ということになるのだ。それ故、それは神の一方的な恵みではなくなる。彼らには、選びは「恵みの選び」ではないのだ。それでも「救いは恵みによる」ということは続けて告白する。

       つまり、「私が神を信じるからと言って神は私に救いを与える義務はないのだから、救いについては、恵みをもって神はご自分を受け入れる者に“恵みの救い”を与えてくださるのだ。でも、クリスチャンとクリスチャンではない人の区別はその人自身に委ねられる」と、アルミニアン主義の人たちは考えるのである。「救いを与えるのは恵みであるが、救いを選ぶその選択の責任は最終的にはその人間にある」と考えるのである。しかし、ここでパウロは敢えて「救いは恵み」と言わずに、「恵みの選び」と言っている。「選び自体が恵みなのだ」と言っているのである。誰が選ばれているのかということは、神の永遠の御恵みのみによることなのである。それで、「残された者」は、逆らうイスラエルの中から選ばれていた。皆が反抗的な者となり、皆が神から離れていた。イスラエル全体が神の真理を憎んで拒絶していた。「その逆らう者の中から、神は御恵みによってご自分のものを選び給うたのだ」と、パウロは話している。

       「選び」そのものが「恵み」によるのである。このパウロの言葉を受け入れるとき、「神はご自分の約束に対して真実を表わしてくださった」ということがもっと深くわかるようになる。神はイスラエルに救いを与えると約束された。イスラエルが反抗的になっても、逆らっても、拒絶しても、どうしようもなく逆らう背教の国家になっても、その中から神はご自分の契約の真実を確実に守ってくださるために、その反抗するイスラエルの中からでも恵みをもってご自分の者を選んでくださるのである。そこに神の契約の真実がよく表わされている。「恵みの選び」なので、絶対に行ないによるのではない。行ないによるのであれば、もう恵みではなくなってしまうのである。

       「恵み」なのか「行ない」なのか。この二つは絶対に相反するものである。「恵みの選びである」とパウロは強調する。事実、永遠の観点から見れば、救いは完全に全く一方的な賜物なのである。私たちは神の恵みに対して、神の救いに対して、まずへりくだった心をもって感謝しなければならない。それ以外に相応しい応答はないのである。100%、神が私たちを求めてくださり、神が与えてくださったのだ。私たちはただ反抗する者でしかなかったのに、その救いを受けることができるように神の方から恵みをもって招き、そして導いてくださったのである。救いは全く神からの「ギフト(賜物)」である。そのことを知るとき、私たちはへりくだらせられて、真に神を恐れる心をもって感謝する者となるのである。「恵みによるのであれば、行ないによるのではない」と言ってから、パウロの説明は更に続く。

    では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。

       「イスラエルは、自分の義を行ないによるかのように求めたので、律法に到達しなかった」と、パウロは9章の最後のところで説明した。イスラエルはある意味で律法の義を求めていた。しかし、誰も律法の正しい意味を悟らなかった。律法の義の本当の心が何なのかを悟らず、むしろ神に逆らいながら、その曲がったやり方で自分の義を求めた。そのために、求めていた筈のものを獲得できなかったのである。しかし、ここでパウロは「選ばれた者はそれを獲得した」と言っている。神の恵みによって選ばれた人たちは、その律法の義を獲得したのである。「恵みの選びによって」彼らに永遠の救いが与えられた。しかし、「他の者は、かたくなにされたのです」とパウロは言う。

       この11章を読むとき、9章のことが全部その背景にあるということを注意深く思い出しながら読まなければならない。実は、パロのこともこの中にあるのだ。「かたくなにされた」のは他でもないパロだからである。エリヤの時代のイスラエルも、パウロの時代のイスラエルも、エジプトのパロのように神に逆らう者となった。その反抗的な者の中から、選ばれた者もいるし、そのまま自分の罪の道を歩むようにかたくなにされる者もいる。「かたくなにされた」というのは、1章に書いてあるように、あくまでも神に逆らうので、神は彼らを自分の欲望のままに罪と汚れに引き渡してしまわれたということである。「自分の選んだ道を、どうぞ歩みなさい」と言ってその人が自分の欲する道を歩むに任せてしまう。それが「かたくなにする」ことなのだ。心が頑なに成った者たちは、どんどん神から離れて行った。それでも、「恵みにより、神の選びによって」、偶像にひざをかがめない者たちが残されているのである。8節を見よう。

    こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

       これは、「かたくなにされた」者たちのことである。実に恐ろしいことだ。神に対してあくまでも反抗する者たちは、預言者たちに聞く耳を持っていない。最終的には預言者たちを殺すようになる。彼らは、神からの裁きとして「鈍い心と見えない目と聞こえない耳」とが与えられた。これは見てのとおり旧約聖書の引用であるが、イザヤ書29章10節を見よう。

    主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。

       これはイザヤが神の裁きを宣言するところである。イザヤの時代にイスラエル全体が神に退けられた。彼らはアッシリアに敗北し、アッシリアの奴隷となった。その時に多数派は消えてしまったのだ。それから、申命記29章2〜4節のところを見てほしい。この4節はイザヤ書のところと重なる言い方があるけれども、とにかく同じポイントを伝えているのは明らかである。

    2モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。3あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。4しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。

       イザヤ書6章10節などの箇所も同じポイントである。主イエス・キリストがユダヤ人に話していたときにも、イザヤ書6章の箇所を引用しておられた。いくら語っても聞く耳がなく、見る目がなく、悟る心を持っていないと、主イエス・キリストもユダヤ人に訴えている。それだから、主イエス・キリストは譬え話で話すのである。ルカの福音書8章10節でキリストは、「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです」と弟子たちに説明しておられる。「イスラエルには、神の御言葉を聞く耳がなく、悟る心がなく、見る目がない」と、旧約聖書に書いてあるのだ。申命記やイザヤ書だけでなく、他の箇所にも書いてある。

       つまり、イスラエルの歴史において何度もイスラエルは神から離れたのだ。人間は罪人であり、罪人は自然に神から離れてしまうものなのだということを、そのイスラエルの歴史は表わしている。そのポイントは実に深く、そして長く、歴史を通して表わされている。そのイスラエルの歴史を見るとき、私たちは、ただ単に「人間とはどんなに罪深いのか。どんなに容易く神から離れていくものなのか」だけでなく、もっと大切なポイントとして「そのようなイスラエルの中から神はいつも恵みの選びによってご自分に従う者たちを守ってくださった」ということに目を留めなければならない。それがポイントなのだ。9節を見よう。これはダビデの祈りである。

    ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

       このダビデの祈りは自分の敵に対する祈りであった。つまり、ダビデの敵は多かったのだ。ダビデはサウル王の時代に、王によって殺されそうになっていた。ダビデは、憎まれた預言者であるエリヤのような者であった。サウル王は祭司たちを殺し、執拗にダビデを殺すために追い回した。ダビデが王になった後も、自分の息子アブシャロムが謀反を起こしてイスラエルの心をダビデから盗むことができたのである。アブシャロムがイスラエルの心を奪うことができたのは、イスラエルの心が悪かったということをよく表わしていると言える。ダビデの時代のイスラエルでさえ、裁かれるべき者は多かったのだ。自然と神に逆らい、神から離れてしまうイスラエルであった。

       ある意味で、パウロの説明がダビデの言葉の引用で終わっているのは驚くべきことだと思う。旧約聖書の中のイスラエルは何度も神に逆らっては神から離れることを繰り返した。その度に神はイスラエルを懲らしめ、そしてその中から恵みによってある者たちを残し給うたのである。そういう意味で、神はご自分の契約の真実を、特別にイスラエルを通して表わしておられるのである。イスラエルが実に良い子どもであったなら、それほどに契約の真実を表わすことにはならなかったかも知れないが、イスラエルは実にうなじのこわい民であった。神の御恵みを豊かに豊かに与えられているのに感謝しないイスラエルに対して、それでも神は一日中、御手を差し伸べてくださったのだ。

       そのようなとんでもないイスラエルであったのに、神は続けて契約の御恵みを表わし、契約の真実を保ってくださった。その神の変わらない真実をパウロは当時の教会に教えているのだ。これは目新しいことではない。そのエリヤの時代と同じ「契約の原則」がパウロの時代にも適用されており、その原則に立ってイスラエルの問題を理解することができるということを、パウロは教えている。

       更にイスラエルについて言えば、「イスラエルは人類全体の代表だ」と言うことができると思う。イスラエルは国々の中から代表の民として選ばれたからである。だから、問題はイスラエルだけにとどまるものではない。イスラエルは神の祭司の民である。「祭司の民」ということには、人類全体のために神の御前で代表的な役割を果たす民であるという意味がある。「代表である」ということは、人類全体の状態を代表として表わしているということでもある。イスラエルは最も神に近い民であるから、その反抗的なところも最もはっきり表われることになる。人類の罪がもっと深く表現されてしまう民である。

       キリストを殺すほどの大罪を犯すことができたのは全世界でイスラエルのみである。主イエス・キリストがインドにいたなら、殺されなかったかも知れない。とういのは、それほど敏感に反応しないし、深く心に感じることもないからである。聖書の教えを与えられたイスラエルの場合、本当ならばメサイアが来たらわかる筈なのだ。どんなに心が鈍くても、幼い時から聖書の言葉によってよく教えられており、歴史を通してもはっきりと教えられているので、痛いほどに感じて強烈に反応してしまう。それだから一番早く反抗的になり、逆らい、暴力的になって、メサイアを殺す民なのだ。

       けれども、その本質は異邦人たちと何ら変わらないのだ。イスラエルが行なったことを見れば、私たちは自分たちが何であるかを見ることができる。イスラエルは基本的に他の民と違わない。イスラエルが神に不忠実で、心が鈍く、反抗的であったように、人類全体が神に対して反抗的なのだ。それは3章で説明されているとおりである。即ち、ユダヤ人も異邦人も、すべての人が罪の下にあるのだ。ひとりの例外もなしに、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」のである。すべての人が神を憎み、教えられても教えられても決して悟らない。イスラエルは人類全体の状態を最もはっきりと表わす民なのである。それ故、「神はイスラエルを捨てなかった」ということは、「人類を捨てなかった」というポイントをも表わしている。

       アダムとエバが罪を犯したとき、その時点で終止符を打ってもよかったのだ。しかし神は、恵みをもってアダムとエバの子孫の中から残りの者を選び、その残された者たちをキリストにあって新しい人類とし給うのである。11章を最後まで学ぶと、最終的にすべてが贖われて、イスラエルも神に戻るという話になっているが、神の救いが御国のレベルにおいて顕れるまでに、いつの時代にも残りの者がいるのだ。そして、最後に福音がすべての国々に宣べ伝えられて、人類全体が神を求めるようになる。その時が来るまで、常に神はアダムとエバの子孫に対して御恵みを表わし、アダムとエバの子孫の中から残りの者を選び給うのである。そのことが、アブラハムの子孫において特別に啓示されていると言ってよいと思う。イスラエルが御恵みの選びによってのみ救われるように、世界の他の国々も同じようにして救われるのである。

       しかし、私たちが生きている今の時代もまたエリヤの時代に似ており、人々は神から離れてしまっていると言わねばならない。御言葉の教えにおいても、神の教会は非常に弱くなっているという現実に目を留めなければならない。そして、かなり神から離れてしまう傾向が強い。次世代に御言葉を正しく教えることにおいても、教会は非常に弱くなっている。しかし、そのような非常に弱い時代に、「皆が神から離れてしまって、私たちだけが残っている」というような思いを持つ必要はないということを、私たちも覚えなければならない。

       はっきり言えば、アメリカの改革派の中で神学的立場として、例えば「約六千年前に神は六日間において天と地とすべての物を創造された」という立場をとる神学校は一つもない。バプテスト派にはあるが、改革派の中には一つもないのである。また女性を牧師にしようとする人たちが増えている。そこまではっきり御言葉に書いてあることに対して逆らう人もいないわけではない。同時に、教会二千年の歴史の中で、百年前までは誰一人疑わなかったようなことを、今の時代では一番良いと言われる教会でさえ立場を取ることができないでいる。中絶にはっきり反対する教会は少ないことも本当に遺憾なことである。誰もはっきり立場を取ろうとはしないのである。

       そのような、実に簡単なところでキリストの教会は立場が取れないでいるのである。まさに、聞いても聞かず、目があっても見えないのである。そのようなことが沢山あることに心が痛まずにはおれない。しかし、そのような時代に生きている私たちは、「ああ。誰もいない。私は一人ぽっちなのだ」というような思いを持つべきではない。残された者が沢山いることを覚えるべきである。神に信頼して、はっきり立場を取り、はっきりと神に仕えることによって必ず影響を与えることができるのだ。そういう意味で、「残された男性七千人」は影響を受けるのを待っている状態なのだと言えよう。

       私たちの時代もエリヤの時代と同じく、神から離れている。そのことを認めざるを得ない。日本のクリスチャンは、福音は聞いているけれども、心が鈍くて聞く耳を持たない、目が見えない社会の中に住んでいる。私たちはただ「恵みの選び」によってその中から救われたのである。私たちが周りにいる日本人よりも目がよいとか心が敏感だとか耳がよく聞こえるからということではない。神が、私たちの目を、開けてくださったのである。神が私たちに悟る心を与えてくださった。聞く耳を与え、御霊によって受け入れる心を与えてくださった。だから、私たちは教会に導かれて、御言葉を聞く耳を持つようになったのだ。その「恵みの選び」を覚えるとき、私たちは本当の意味で恵みの意味を考えているのである。

       私たちの中に何か選ばれるに相応しいものがあったのではなく、永遠の初めに、神はご自分の愛をもって私たちを一方的に選んでくださった。そして導いてくださったのである。私たちがクリスチャンとなったのは、実に「恵みの選び」のゆえなのである。そのことを覚えて感謝をささげるとき、本当の意味でへりくだりの心を持つことができる。私たちも周りの人たちのように傲慢になりやすい者であり、愚かな道に走りやすい者である。恵みに対する感謝が全く足りないからである。私たちの心も実に鈍いのだ。聖餐式はその問題を取扱うために与えられたと言える。

       聖餐式の時に、「私は100%神の御恵みによって救われた」と告白して、神に感謝をささげるのである。聖餐式のとき私たちは、神が一方的に救いを与えてくださったこと、そして愛してくださったがゆえに主イエス・キリストを世に遣わし、十字架の上で私たちの罪を贖うために死んでくださったことを記念するのである。その感謝の心をもって神の御名をほめたたえるのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年6月24日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙10章14〜21節

    ローマ人への手紙11章11〜32節

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