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    ローマ人への手紙12章1節


    12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

    2001.10.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神のあわれみのゆえに

    12章1節

    そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

       よく注解書や聖書入門のような書物の中で言われていることだが、「ローマ人への手紙は、1章から11章までが教理で、12章から16章までは実践について教えている」とか、「エペソ人への手紙は、1章から3章までは教理で、4章から6章までは実践である」というふうに分析されたりしているが、決してそのようなものではない。ローマ人への手紙の1章から11章までは神の贖いの教えであり、12章から16章までは、その贖いに対して私たちはどう反応すべきなのかについて教えている。倫理の教えもまた教理なのである。

       確かに12章から16章までの箇所では倫理についての教えが強調されており、1章から11章までは贖いが強調されていると言える。それでも、1〜11章までの中にも倫理の教えはあるし、12〜16章の中にも贖いに関することが教えられていないわけではない。しかし、全体的には、パウロはローマの人々に「神はこのような御恵みをもって私たちに救いを与えてくださった。そのことを本当に信じ、そして理解しているのであれば、私たちはこのように反応すべきである」という文脈でパウロは教えているのだ。1章から11章までで神の御恵みについて十分教えたところで、こんどは12章からはその御恵みに対する感謝をもって応答しなければならないことを教えている。そのようにローマ人への手紙全体をとらえたらよいと思う。

       12章1節にあるパウロの勧めは、それ以前の1章から11章までの内容のすべてに基づいた勧めであり、今からパウロは、その恵みにふさわしく応答するように求めているのだ。そして、これは実に重大なポイントなのだ。その応答とは、礼拝を指していると考えるべきである。礼拝はクリスチャンの義務の中心であり、礼拝は人間が無し得る最高かつ最も有意義な営みなのだ。

     

    そういうわけですから

       日本語訳では「そういうわけですから」という言葉で書き始めているが、ギリシャ語では英語の"therefore"という一つの単語が使われている。「だから」という意味であるが、「そういうわけですから」という訳は「だから」という意味を強調した訳になっているように思われる。「だから」は、論理的なつながりを表わす言葉である。この言葉によって、この12章からの話は、1章から11章までの教えの全体を理解しているという前提で、その土台に立って語られていることがわかる。もちろん、その言葉だけではそう断言することはできないが、この言葉の後に「神のあわれみのゆえに」という表現が続く。この表現はローマ人への手紙の始めからパウロが述べてきた福音の本質を表わすのにふさわしい言葉である。「私たちはその御恵みに対して、このように応答しなければならない」という論理的な話をパウロはしているのである。

    新改訳で「お願いします」と訳されている言い方は、パウロが何か頼んでいるかのようにとらえがちだが、そうではなく、これは明らかに命令である。命令ではあるが、おだやかな言い方で命じている。口語訳では「勧める」と訳されている。しかし、パウロは権威に満ちて勧めているという点を見落としてはならない。これは、権威をもって訴える言い方である。聞く者が、命令として受けとめるほかはないような言い方なのである。「兄弟たちよ」という言葉をもって訴えることによってこの命令は、上の者が下の者に対する強い言い方よりは、兄弟として訴えているのだ。兄弟として訴えていても、これは使徒であるパウロの言葉であり、使徒の権威をもって訴えている。「だから、こうしようではないか」という、深い兄弟愛と、使徒パウロとしての権威をもって命じていることが、言わばオーバーラップしたような表現と考えればわかりやすいと思う。

       そのようにパウロが訴える土台はほかでもない「神のあわれみのゆえに」である。口語訳や新共同訳では「神のあわれみによって」となっているが、ここは新改訳の「神のあわれみのゆえに」という訳の方がずっと意味として正しい。「神のあわれみ」がパウロの勧めの土台であり、この「神のあわれみ」は、1章から11章までの全体を指している。「神のあわれみ」の反対は「神の怒り」である。1章からパウロは「神の怒りが罪人の上にある」と話している。しかし、主イエス・キリストが十字架の上で私たちの代わりに神の怒りを完全に受けてくださり、私たちの罪のために身代わりとなって死んで下さった。だから、主イエス・キリストを信じることによって救われるということを、パウロはずっと説明してきた。「怒り」と「あわれみ」は正反対の意味を持つものである。

       ここで「あわれみ」という日本語訳が適切かどうか私にはよくわからないが、英語では"mercies" または"tender mercies"と訳されている。しかし、ギリシャ語の原語ではむしろ"compassion"と翻訳されるべき言葉が使われている。この言葉は「慈悲」や「慈愛」とも訳されるが、「慈悲」は日本では仏教の専門用語のように使われている。この概念はもとから仏教にあったものではなく、仏教で使われるようになったのは二世紀以降であった。その頃キリスト教がインドに伝えられ、キリストの愛とあわれみの教えがインドに大きな影響を与えて大乗仏教が生まれ、大乗仏教は「慈悲」という概念を強調する仏教になっていった。小乗仏教には慈悲という教えはない。事実、仏教の多くの専門用語はキリスト教からの借り物である。「慈愛」は、神が旧約聖書でモーセに御自分の御名を宣言する箇所で使われた言葉である。出エジプト記34章5〜7節を見よう。

    主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

       ここで神は御自分の御名を宣言された。旧約聖書の根本的な教えの一つは、神があわれみ深い神であるということだ。このことは始めから教えられている福音の真理である(申命記4章31節、第二歴代誌30章9節、ネヘミヤ記9章17節と31節、詩篇78篇38節、86篇15節、103篇8節、111篇4節、112篇4節、145篇8節、ヨエル書2章13節)。出エジプト記34章6〜7節で使われている言葉の一つ一つを詳しく勉強する必要があるのだが、「あわれみ深く、情け深い神」の「あわれみ」はへブル語の「ラハーン」という感情を表わす言葉である。つまり、「神が御自分の民をあわれむ」と言うとき、民の必要に目を留めて助けを与えて下さるという客観的な意味もあるのは事実だが、「神が罪人をあわれむ」と言うとき、それは感情を表現する言葉なのである。母親が自分の子供に対する心を表わすときに使われる言葉である。

       神は、罪人を見て、罪人をあわれんでくださる。慈愛をもって罪人に目を留めて、救いを与えてくださるのである。そのような意味の言葉であるが、これは神の御名を宣言するときに使われる言葉であることを忘れてはならない。この出エジプト記の言葉は、旧約聖書の中では非常に大切で中心的な箇所の一つであるが、その引用が旧約聖書の中に何度も出て来る。パウロはギリシャ語で「慈愛」と訳される言葉をこのローマ人への手紙12章のところで使っている。この言葉が複数形であるために、これを原義どおりに"compassion"と訳すことができない。それで英語訳では"mercies"とか"tender mercies"という複数形に訳している。"tender"は「優しい」という意味になるが、「あわれみ」に"tender"を付けて「優しいあわれみ」(複数形)と訳しているわけである。

       日本語も、「あわれみ」を複数形で表現することはできないし、日本語の「あわれみ」が感情をよく表わすかどうかは私にはわからない。しかし、この原語には深い意味があり、強い強調のある言葉だということを知っていただきたい。語源は「子宮」である。その強調されている深い意味を持つ言葉が何を表わすのかというと、それは、パウロが1章から11章までずっと説明してきた「神の御恵み」「神の愛」「神のあわれみ」である。これが、クリスチャンとして生きる私たちの土台である。神は豊かな感情を持っておられる御方である。神がこのように私たちを愛してくださり、このように私たちをあわれんでくださり、私たちに対して大いなる御恵みをもって救いを与えてくださった。それに対しては真の感謝をもって応えなければならない。それがクリスチャンにとって「生きる」ということなのだ。

       ポイントとして単純であり、簡単に言い表せるようだけれども、宗教的なポイントとしてこれは実に重大なものであり、他の宗教とはまるで違うものである。例えば、イスラム教の場合、信者として生きる義務について考えるときの考え方はこれとは全然違う。「イスラム」とか「ムスリム」という言葉は「従うこと」を強調するアラブ語である。「従うこと」は、イスラム教では厳格に要求されている。しかし、その命令は、心についての命令ではない。心まで要求してはおらず、基本的な五つの義務を定めている。その五つの義務を果たせば大丈夫というものになっている。心の中でどう考えているのかは問われない。「感謝を持って生きよ」という命令はない。

       生涯に一度はメッカを訪れ、毎年ラマダンの断食の月を守り、日に五回の定められた時間の祈りを守り、貧しい者に施しを行ない、金曜日に信仰告白をささげる、という五つの義務を守ればよいのである。神に対してどういう思いを持つか、神を愛しているかどうか等について心を取り扱うような義務や命令はない。その義務は表面的な行ないである。(五つの義務があって、6番目に「ジハード」が定められていると言われているが、それはコーランに基本的な義務としてあるのではなく、コーランを解釈したりする書物の中に書かれていることである)。イスラム教では基本的な五つの義務を果たせばよいのである。それ以上の要求はない。

       それとは違って、聖書の中での私たちの義務を言うならば、それはモーセの十戒において表現されていると言えよう。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という十戒の最初の命令は、「神のみを主として崇め、信じ、自分自身をささげる」という意味になる。十番目の命令は「むさぼってはならない」というものである。これらは心についての命令である。他の命令もみな、心の深いところまで取り扱って要求する命令である。モーセは、「姦淫してはならない」「盗んではならない」「殺してはならない」と教えるが、どれも表面的に守ればそれでよいものではないということを主イエスはマタイの福音書5章などではっきりと教えている。それは旧約聖書の中で、モーセ自身が申命記6章から26章で説明していることである。

    「神の御名をみだりに唱える」とはどういうことなのかというと、生活において神に対して愛と尊敬を表わさないことなのである。「みだりに唱えてはならない」と命じるとき、聖い生活をしなさいと教えるのである。「主のみを、あなたの主として信じなさい」ということについて説明するとき、モーセは申命記6章で明確に命じている。大前提として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じている。十戒の順番もこのローマ人への手紙と同じであるが、まず、「主は、あなたがたをエジプトから救い出した神である」と言っている(6章12節)。そこからモーセの十戒は始まっている。つまり、すべては神の救いの御恵みから始まっているのであり、「その恵みに対する感謝として神を愛して聖い生活を送りなさい」というのがモーセの十戒であり、モーセの律法なのである。

       パウロは同じ順序で同じ基本的なことを教えている。表面的に、いわゆる正しいことを行なえばよいのではない。神の御恵みの偉大さとその愛とあわれみの素晴らしさを悟って、感謝の心をもってそれに応えることが要求されるのである。そういう意味で、クリスチャンとして「生きる」というのは、まず心に対する要求なのである。心において、救い主なる神に対する感謝の心を持っているのかどうか、ということが問題になるのである。私たちは永遠の裁きを受けるべき者であるにもかかわらず、神はまことに優しく私たちを愛してくださり、あわれんでくださり、豊かな御恵みを注ぎ出してくださった。福音は、罪人に対する神のすばらしい驚くべき慈愛のメッセージに他ならない。

       感謝の心がなければ、表面的にどんなに良いことをしても、一言で言うなら「それは無意味なこと」なのである。心において本当に神に対する感謝があるなら、行動では少し足りないとしても、神は喜んでくださるのだ。それは父と母のそれと同じである。本当に子供に心があって、父と母を敬い、感謝の心があり、父と母を喜ばせたい心があるなら、たといその行ないに足りないところがあるとしても、父と母はあわれみを持ってその行ないを取り扱ったり裁いたりするであろう。明らかに心が無いのに行ないにおいては一応すべきことをしている子供がいるなら、父と母は、罰する機会を待つであろう。当然ながら、父と母は、行動においても我が子に教えを与えようとする。正しい行動を要求することは当然である。しかし、行動だけ無難にやりのけても、心が無くて逆らうなら、父と母が喜ぶはずはないし、その子の将来を心配するに違いない。何よりも心の状態が問題なのだ。

       誤解しないで聞いて欲しいが、心の状態が正しければ、いくら失敗しても、行動において足りないとしても、ある意味で心配はしない。心が正しいと知っているからである。心が正しければ、躓いてもまた立ち上がって正しく歩むことができる。心が無ければ、今日の行動が良くても、明日どうなるかは全くわからない。だから、パウロはローマの教会に対しても他の教会に対しても、「クリスチャンとして聖い生活をしなさい」と教えるとき、ただ義務を提示してそれだけを行なわせるようなことはしていない。

       アメリカでは何でもかんでも "HOW TO"と言って、「これとこれをすれば、これができる」というような感覚で安易に物事を考える傾向がある。聖書の理解についても、"HOW TO"を使う。決してそのようなものではない。"HOW TO"ではなく、神の御恵みを悟って感謝の心に満ちて歩むのである。神への感謝の心に立っているなら、"HOW TO"のところだって自然にわかって来るはずだ。そんなに難しいことではない。「盗んではならない」と言われて、「どうしたら盗まないようにできるかな」と悩む必要はない。本当に感謝の心があれば、盗む筈はない。感謝の心があれば、礼拝のときも、喜んで神に礼拝をささげるであろう。悩むようなことではない。感謝の心がまず問題なのだ。

       「神のあわれみのゆえに、あなたがたに勧めます」と言うとき、神がどんなに大きな愛とあわれみを持って私たちを愛してくださったかを覚えるように呼びかけているのである。そのあわれみを知ったとき、本当に感謝をもって自分を神にささげることができる。私たちがこの「神のあわれみ」の教えを悟ることができるために、パウロは福音を説明する最初のところでまず「神の怒り」について説明している。怒りも神の感情を表わしている。自分の問題に気付いていない者は、「あなはは救われた」と言っても、どこから救われたのかがわからない。救いを実感することができない。しかし、不治の病にかかって医者から「明日あなたは死ぬ」と言われたなら、深刻に自分の問題を感じるだろう。そして、誰かが薬を持ってきてその病を癒してくれたなら、どんなに大きな問題から救い出されたかを実感するであろう。しかし、自分が病気であることに気付かず、知らされてもいないなら、薬を飲んで治ったとしても、あまり感謝はしないであろう。

       だから、パウロは最初から、問題自体がどんなに深刻で大きなものかを十分に私たち罪人に宣告するところから説明を始めている。大人であれば、問題を悟るはずである。これは子供にはなかなかわからない事である。そのような事で子供は悩みはしないものである。大人になれば、自分の事をもっとよく知るようになり、自分の心の汚れについてももっと感じるようになるし、問題に気付けば救いを求めるようにもなる。それ故、パウロは福音を説明するとき、人間の罪に対する神の無限の怒りについて先ず話すのである。本当に大人に成っている者なら、それを聞いて悟るはずである。それほどに神は罪を憎む御方であり、罪に対して怒る御方であり、私たちは本当に神の御怒りを受けるべき者だということをパウロは説明するのである。

       そのことを悟るなら、「怒りを受けるべき者が神のあわれみを受けた」という意味を理解するはずである。神は、永遠に罰されなければならない者をあわれんでくださり、私たちに救いを与えてくださった。そのことを本当に悟るなら、感謝せずにはおれない筈である。「感謝しなさい」と言われずとも、感謝する心を持たずにはおれない。それ故、聖書の中の多くの譬え話には、神のあわれみが譬えられているし、実際の歴史的なことにおいても神は御自身のあわれみを豊かに表わしておられる。イザヤ書の49章15節にこう書いてある。

    女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

       「母が、自分の産んだ子供を忘れるとしても、わたしはあなたを忘れない」と、神はイスラエルに言う。「母のあわれむ心よりもはるかに神の愛は優しく、慈愛に満ちており、その御恵みは深い」ということをイザヤは伝えている。詩篇27篇10節でダビデも「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」と言っている。

       また、神のあわれみを表わす譬え話を主イエスはパリサイ人たちに話している。なぜパリサイ人は人々を見下し、なぜ罪人に対して怒っているかというと、あわれみが無いからである。パリサイ人は、自分たちが見下している者らに対して怒っているばかりで、あわれむ心を持たない。主イエス・キリストは彼らに神のあわれみを説明するときに、放蕩息子の譬え話をされた(ルカの福音書15章)。あれほどに子供が悪くなって放蕩に走っても、その子供が悔い改めて帰ってくるなら、手を広げて喜んで迎えて抱きしめるのである。そこに、神の愛の深さが表わされている。私たちがその箇所を読むとき、神が喜んで受け入れてくださることを確信するのである。真に悔い改めるなら、神は絶対に「ノー」とは言わない。悔い改めて、神の御前に罪の赦しを求めるなら、絶対に神は赦して、受け入れてくださる。

       他にも、兄弟の罪を何度まで赦すべきかという話の中で、主イエスは「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と弟子たちに答えている(マタイ18章22節)。なぜなら、神は私たちの罪をそれ以上に赦してくださるからだということを、主イエスは教えている。福音書の中で見れば、あわれみの心を持つように教えている箇所は特に兄弟に対するものが多い。あわれみを持たなければならないのは、「お互い」である。つまり、お互いの罪を赦し合わなければならないのである。互いに対して怒ってはならない。互いを憎み合ってはならない。神が私たちの大きな罪咎を赦してくださったのだから、私たちもまた互いの罪を赦し合うべきである。神のあわれみを知っているなら、その心はまず兄弟を赦すところに表われてくるものである。神のあわれみを悟った者は、感謝に満ちて神に応え、感謝の心を持って生活を送るはずである。神が罪人をあわれんでくださったように、私たちも罪人をあわれむ心を持って歩まなければならない。

       そこには不思議な一面もあると思う。つまり、あわれみを受ける者は、あわれみを与える者よりも立場が低いのだ。そして、それは正しいことなのである。助けを必要とする者は、穴の中に堕ちている者に等しい。あわれみを与える者は、穴の外から手を差し伸べて助けを与える者である。そして、「クリスチャンではない人々をあわれみなさい」と命じるとき、何が命じられているのかというと、その命令には「自分がどれほど大きなあわれみを受けているのかを悟りなさい」という意味が含まれているのだ。自分がまずその底なしの穴から救い出されたという喜び、確信、そして感謝の心を持つときに、他の人を見て「穴に堕ちているこの愚か者めが」と言って見下せる筈はない。「私も神のあわれみのゆえに救い出されて、今、私は穴の外に立っている。今、私は自分が受けたあわれみを他の人にも与えることができる立場に置かれている。この立場は、神のあわれみのゆえに、与えられたものである」という認識を持っていなければならない。

       恵みのゆえに神から与えられたものなのだから、高ぶったり、傲慢になったりするのではく、感謝の心、主の前にへりくだった心をもって、他の人々をあわれむべきである。神のあわれみ、神の愛、神の御恵みをよく覚えて生きる。それがクリスチャンの倫理の基本である。表面的に何かを行なえばよいのではなく、心が要求されているのだ。神の御恵みを悟り、感謝の心をもって歩むことが要求されるのである。それが倫理の中心である。そうすると、神が私たちに要求するのは何かというと、「すべて」である。それ以下の要求はしておられないのである。

     

    いけにえと礼拝

    私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

       からだが強調されていることにも意味はある。ギリシャ的な考え方では、からだはあまり関係なく、霊のことだけが大切だと考える。からだは関係ないので、禁欲主義的になる人もいれば、正反対に欲に走る者もいる。からだの行為自体に善し悪しはないと思えば、心さえよければそれでよいと考えられるからである。しかし、パウロは感謝の心を要求し、その感謝の心をもって何をするかというと、「実際に自分のからだを神にささげなさい」と言うのである。これは、「毎日の生活における行ないをもすべて神にささげなさい」という意味が含まれるし、「からだをもって行なうすべてのことを神に、聖い供え物としてささげなさい」と要求しているのである。

       「供え物としてささげなさい」という言い方は、明らかに旧約聖書のいけにえ制度を比喩にして私たちに教えているのである。「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」とパウロは言う。ここは、「それこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」と訳すこともできる。「霊的な礼拝」と読んで、「じゃ、からだのことはどうでもいいのか」と考えるのは大変な間違いである。また、「理に適った礼拝」と訳すときも、ただ論理的に要求されているというだけの意味に取るのも間違いである。これは、その二つの意味とも含まれる言葉である。「理に適った霊的な礼拝」と理解した方がよいのではないかと思うが、このパウロの命令を「それこそ、・・・礼拝です」と訳すのは正しい。神に自分のからだをささげるのは、まず礼拝において行なわれるのでなければならない。そして、次に実際の生活においてそれを守るのでなければならない。

       パウロはここで「礼拝」の意味について教えているのである。それなのに、これらのパウロの教えを日曜日の礼拝と関連づけて説明してくれる聖書注解書がほとんどないのには驚く。いったい毎週の礼拝は何なのか。パウロはここで「理に適った礼拝」或いは「霊的な礼拝」と言っているが、それでは、クリスチャンの毎週の礼拝と、ここでパウロが命じている「自分のからだを神に受け入れられる聖い生きた供え物としてささげる」ということに、どんな関係があるのだろうか。勿論、パウロがここで日曜礼拝のみについて述べているわけではないが、クリスチャンは礼拝において何をしているのか。そのことに一言でも触れるような注解書が見当たらないのである。この箇所の注解では礼拝のことがほとんど説明されていない。しかし、日曜日の礼拝というものは、まさにこのことを行なう時なのである。即ち、神に自分を100%ささげる時である。

       「日曜日の数時間の時間は神にささげる時間で、他の人生は私のものです」ということではない。或いは、表面的に礼拝を守っていれば他のことはどうでもよいということでもない。日曜礼拝では、私たちは、自分自身を最良の状態に整えて神の御前に出る。そして、私たちが真に神を認めて、感謝をもって理に適った霊的な礼拝を神にささげようとするとき、私たちにできるたった一つの応答は、私たち自身を余すところなく全て神にささげ尽くすことなのである。だから、神と御自分の民との関係は夫婦の関係に譬えられているし、親子の関係にも譬えられている。それは愛の関係である。私たちは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛するように命じられている。

       そのことを主イエス・キリストが説明するとき、驚くべきことに「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」と言っておられるのだ(ルカの福音書14章26節)。それは、「父や母や妻子を憎みなさい」と言っているのではなく、神に対する愛と比べるなら、人の間の愛は憎悪ほどのレベルでしかないと言っているのである。そこまで、ある意味で100%以上の愛をキリストは要求しておられるのである。神を神として認めるなら、それは当然のものとしてささげるべき愛であり、心である。百点満点であっても、それはまだまだあまりにも足りないものなのだ。「神への愛と比べるなら、父、母、妻、子、兄弟姉妹に対する愛は、そして自分のいのちを愛する愛でさえ、それは憎しみのレベルでしかない」という意味である。

       そのように、本当に神の御恵みの深さを悟った者は、自分の全てをささげるのである。それは一人残らず、すべてのクリスチャンに要求されていることである。子供だからまだいいとか、弱い者だからささげなくてもいいとかいうものではない。子供でも、毎日、自分を神にささげる心をもって生活を送るべきである。それはどういう意味なのかというと、毎日、神を覚えて、神を喜ばせようとして生活を送ることなのだ。父と母を敬い、その命令に従うこともそれに含まれるのは明白である。父母や神の代理であって、罪の命令でないかぎりは、子供は父母の命令に従わなければならない。それは神の御心であり、喜んで父と母に従い、敬い、神を喜ばせたいという心をもって歩むのである。そのように生きるなら、自分のすべてを神にささげているのである。

       子供だから神の御国のためには何もできないのではない。真剣に神の御国を、子供も求めることはできる。そして、それはその力に応じて要求されていることなのである。2〜3歳の子供たちは、今私が話していることがわからないだろうし、6歳でもまだわからないかも知れないが、10歳とか12歳や14歳であれば、そして17〜18歳の子供たちなら、わかる筈である。毎日の生活において、本当に自分を神にささげることこそ、クリスチャンとして生きることである。私たちのからだを神にささげることは、私たちの生活のす全てをささげることも含まれる。父親たちも、母親たちも、会社で働くときも、家にいるときも、神に自分を100%ささげていなければならない。「今日、この一日は、神のものである」という心をもって毎日の生活を送る。それがクリスチャンとして生きることである。勿論、表面的な義務というものもないわけではないが、それだけでは駄目なのであって、必ず心も要求される。そのことを覚えて、自分の全てをささげる生活を送らなければならない。

       さて、私たちは神に自分のからだをささげるのである。単に気持ちや霊をささげるというものではない。なぜなら、霊は私たちのからだの内にあり、生活は全てからだの営みだからである。更に言うならば、私たちは自分を「生きた」「聖い」「神に受け入れられる」いけにえとしてささげるのである。礼拝において私たちはそのいけにえの部分をささげている。「生きた供え物」は、旧約聖書で要求されるような供え物ではない。これは、既に話したように「毎日の生活のすべてを神にささげる」という意味である。

       「生きた」は、日常生活の全てがいけにえに含まれることを示す言葉である。そして、「聖い」という言葉は、神のいけにえが他のものと区別されることを意味する。供え物を神にささげるときに、それは聖別されなければならない。私たち自身を神の所有物としてささげるのである。それは神のものとなる。これには道徳的な聖さという概念も含まれる。「神に受け入れられる」というパウロの言い方は、いけにえが完全なものでなければならないことを想起させるものだ。前に、全焼のいけにえについて学んだとき、汚れた物、かすめたもの、足なえのもの、損傷のあるもの、病気のものを神にささげても、神は受け入れてはくださらないということを見た(マラキ書1章)。マラキの時代、民らは、良いものを先に自分のために取って、残りものを神にささげるような心を持っていた。絶対にそうであってはならない。

       神にささげるのは「聖い」完全な供え物でなくてはならない。本当に初物、そしてベストを神にささげるのである。不誠実であったり、真剣さに欠けたり、不完全だったりするささげ物は、神に受け入れられない。「神に受け入れられる供え物」というのは、神が喜んでくださる供え物である。私たちは、自分と自分のすべてを完全なものとして真心をもって神にささげるのでなければならない。実は毎週の礼拝の中で、神との契約を新たにするたびに、私たちは繰り返し自分自身を神にささげている。このような観点でローマ人への手紙12章1節を読むならば、それが新約聖書の中でもクリスチャンの礼拝にとって最も基本的な事柄を教える個所の一つであることがわかるのである。

       それ故、罪の悔い改めと、自分を神にささげることは、一緒になっている筈である。自分の罪を悔い改めていなければ、結局自分を神にささげることはできない。いつも同じ譬えで申し訳ないが、ハムレットの劇の中で、クローディアスがひざまづいて悔い改めの祈りをささげようとするときに、クローディアスは自分がカインのような罪を犯したことを認め、自分がどんなに汚れた者なのかを深く感じていた。そのクローディアスが悔い改めの祈りをささげようとするときに、どうしても祈れなかった。なぜ出来ないかをクローディアス自身が告白している。それは、盗んだものを手放したくないからである。

       悔い改めれば、神の赦しを受ける前に、人を殺して奪ったことを認めなければならない。奪った妻、奪った地位などを、譲らなければならない。それをデンマークに返さなければならない。自分は王座から下りなければならない。それはいやだ。でも、神の赦しが欲しい。心を変えてくださるように求めてはいるが、罪を犯して奪い取ったものはどうしても手放したくない。だから、「私には悔い改めることはできない」という言葉を、クローディアスは結論として吐くのである。そして、その時からクローディアスは、はっきりと悪の道を大胆に歩むことになってしまうのである。

       悔い改めないなら、神に自分をささげることはできない。だから、日曜日に礼拝に集まるとき、私たちはまず神の御前で罪の悔い改めをしなければならない。聖餐式のときにも私たちは自分を吟味してからパンとぶどう酒を受けるのである。自分の罪を悔い改めるというところが実に重大なことなのだ。罪を悔い改めさえすればそれで終わりなのではない。罪を悔い改めてから、自分を100%神にささげるのである。その二つが一緒でなければ、本当の礼拝とは言えないのである。そして、罪の悔い改めの土台も、自分を神にささげる土台も、ただ神御自身のあわれみと愛にあることを覚えよう。神が私たちを愛して、主イエス・キリストを世に遣わしてくださった。主イエス・キリストは私たちを愛して、十字架上で私たちの罪のために死んでくださったのである。

       私たちは愚かで、罪を犯してしまう。七回だけ倒れてそこから起き上がるならよいのだが、私たちの場合、その七回倒れて起き上がるのはたった一日の出来事に過ぎないのではないか。或いは、一時間の中での話かも知れない。何百回も何千回も倒れては立ち上がらなければならない者であるということを認めない者は誰もいないのではないだろうか。しかし、神のあわれみと神の御恵み大きさを悟るなら、感謝せずにはおれない筈である。倒れるときに、クローディアスのように「仕方がない。もう私は悪者になるしかない。悔い改めることはもうできない」というような思いを持つ筈はない。神の愛と御恵みに対して感謝の心をもって、罪を悔い改めて、自分を神にささげることしかできない。

       それだから、神の愛と御恵みとを本当に知ることが何よりも大切な出発点なのである。そのことをパウロは1章から11章までのところで私たちに深く教えている。「感謝のゆえに神に自分をささげなさい」という神の命令は、クリスチャンの倫理の本質である。感謝をもって神の御恵みに応えるのである。クリスチャンの人生は、神の偉大な愛とあわれみを知ることから始まる。そしてその土台に立つものである。私たちは神により頼み、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する。なぜなら、神がはじめに私たちを愛してくださったからである。礼拝と毎日の生活の倫理とは、このようにして一つに結び合わされている。礼拝の中心も生活の中心も、神に私たち自身の全てをささげることなのだ。

       毎週の聖餐式も、私たちにそのことを思い起こさせてくれるものとして、神は私たちとの契約を新たにしてくださる。パンを出し、ぶどう酒を出すとき、パンとぶどう酒が別になっているのは死を表わしている。つまり、からだと血が分離されているが、これは旧約聖書のいけにえ制度の中で先ず血が流された後に身体がささげられることを表わしている。血と身体とが別になっているのは、いけにえの状態を指している。主イエス・キリストの御身体をあらわすパンを受け、血をあらわすぶどう酒を受けるとき、私たちは主イエス・キリスト御自身を受けるのである。父なる神が私たちを愛して、御自分の御子を私たちに与えてくださるのである。私たちは御子を受け入れるのである。そのように私たちは毎週聖餐式を行なっている。

       その意味で、神は、毎週々々どんなに大きな御恵みと愛を私たちに注いでくださっているかを私たちに覚えさせ、その事をますます深く理解するように導いて教えてくださっているのである。聖餐式を行なうとき、いつも強調しているように、聖餐式は感謝の儀式であることをも覚えて、神の御恵みを悟り、これを喜び、感謝に溢れて聖餐式を一緒に受けたいと思う。

     

    ――2001年10月21日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙11章33〜36節

    ローマ人への手紙12章2節

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