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    ローマ人への手紙12章2節


    12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

    2001.10.28. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    心の一新によって

    12章2節

    この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

       先週説明したように、ローマ人への手紙12章の1節と2節は、クリスチャン生活について述べられている12章から16章までの全てのことの土台である。まずパウロは、1章からずっと11章の終わりまで、神が私たちを愛し、あわれみ、このような豊かな御恵みを与えてくださったことを説明した。その福音によって私たちに与えられた一方的な御恵みに対して、全き感謝をもって応答するように勧めているのが12章の1節と2節であって、「それこそ真の礼拝」とパウロは言う。

       12章1節の「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」というのは礼拝の専門用語的な言い方である。旧約聖書の犠牲制度の用語を用いて神の御恵みへの応答のあり方を教えているのである。その用語の使い方によって、私たちの礼拝が旧約聖書の神殿制度と犠牲制度の意味を継承しているものであって、第一に神の御恵みに対する正しい応答こそ礼拝であり、それが最も重要なことだということがわかる。だから、パウロは真の礼拝の意味を私たちに教えているのだ。

       当然ながら、これは礼拝にかぎることではない。「礼拝において、自分のからだを神にささげます」と言うとき、「礼拝以外の時にはそうしません」という意味ではない。「礼拝」は私たちの生活の最も本質的で中心的な部分である。毎週礼拝で繰り返し行なわれることは、私たちの心の深い所にまで入るはずである。日曜礼拝は、自分自身を生きた供え物としてささげる場である。礼拝において、神の御恵みに対する感謝の心をもって真に自分を神にささげているのであれば、その同じ心と思いは毎日の生活の全てを支配するはずである。そういう意味で、日曜礼拝はクリスチャン生活の最も本質的なところであり、月曜から土曜までの毎日は朝から晩まで、「私は神にささげられた供え物である」という認識を持って生活するのでなければおかしいのである。

       神がどんなに自分を愛し、どんなに大きな御恵みを与えてくださったかを覚えるならば、感謝の心を持って歩むはずであり、それは本当の意味で礼拝を自分の毎日の生活に適用するということになる。それ故、パウロはここで、旧約聖書の犠牲制度の用語を使って非常に深い意味で、特に礼拝において、自分を神にささげ、その心とその意味が毎日の生活を支配するのでなければならないと教えて、「それこそ理に適った霊的な礼拝である」と確言しているのである。そして、12章2節は私たち自身をささげることの意味を更に深く説いた二つの命令を含んでいる。

     

    礼拝と生活

       先週話したように、12章1〜2節とまるで逆なことがローマ人への手紙1章18〜32節にある。もう一度そこを見たい。そこでパウロはこの世のクリスチャンではない人たちの堕落した状態について話している。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」とパウロは言っている。罪人は神の真理を阻んでいる。これが罪人の定義なのだ。罪人は、真の神を拒絶し、心において神の真理に対して逆らい、その真理の声が聞こえないようにしている。真理の光を消そうとしているのである。それが罪人(異邦人)の心の状態であるが、パウロはそのことを礼拝についても話している。1章21〜25節のところを見てほしい。

    というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。

       この堕落した状態は、真の神を拒絶し、偽りの礼拝を行なった結果なのだ。クリスチャンではない人たちの礼拝は、クリスチャンではない生活を生み出す根なのである。彼らは真の神を礼拝せず、神を愛さず、神に感謝をささげない。そのような者は、自分の心の欲望のままに、その傲慢な心に従って、とんでもない行動をとるばかりでなく、神の栄光を無視し、神の栄光を表わすはずの被造物を神に変えて、それを拝む。人の手によって作られた偽りの神々を拝み、造り主の代わりに造られた物を拝み、それに仕える。これは礼拝の話なのである。

       クリスチャンではない者の礼拝は、神に逆らう生活を生み出すのである。彼らは「神を知っていながら、その神を神としてあがめなかった」とパウロは言う。つまり、彼らは神の御名にふさわしい礼拝を神にささげることを拒否したのである。その結果、彼らの心は暗くなった。あらゆる種類の忌み嫌うべき汚れた罪、性的不道徳、暴力、社会の腐敗は、根本的に偽物の礼拝の結果として出て来たものである。

       12章でパウロはそれと全く正反対の状態について話している。1章18節から人間の罪について語り始めているが、3章から神の御恵みについて説明し、神の御恵みを説明する中でパウロは、「なぜ神に対して感謝の心を持つべきなのか」を教えている。そして、私たちが真に感謝の心を持って、自分を「生きた供え物」として神にささげるとき、1章に書かれたこととは正反対のことを行なうことになるのだ。真の神を正しく礼拝するなら、その生活も良いものへと改められるのである。神との関係が変えられることによって、その他のすべての関係も変えられるのである。

       それで、12章から始まる教えのポイントは、「毎日の生活の行ないのすべてにおいて、神の御恵みに感謝しなさい」ということになるが、そのことを教えるときに、先ず「礼拝」から始めるのである。礼拝は、クリスチャンとしてと言うよりも実際には被造物としての私たちの生活の本質なのだ。そして、偽りの礼拝は、ノンクリスチャンの生活の本質を表わしている。何れにしても、礼拝を通して表わされることが生活のその他の部分すべてを規定するという点が重要なのだ。それ故、1章との対比として12章1節と2節があると考えてよいと思う。この12章の1節と2節の教えは非常に深く、そして重大なものである。

     

    この世と調子を合わせず、自分を変える

       残念ながら、1節と2節の日本語訳には困難なところがある。先週も話したが、1節でパウロが言っているのは「供え物としてささげなさい」ではなくて、無理して訳せば「供え物としてささげるようにお願いします」というような翻訳になるが、それでもまだ訳としては足りない。むしろ「ささげるように勧めます」というような意味合いの言葉が使われている。ギリシャ語の動詞の形をそのまま日本語にするのは困難である。

       2節の翻訳のポイントについても説明しなければならない。「この世と調子を合わせてはいけません」という訳になっているが、ポイントはその通りである。しかし、「調子を合わせてはいけない」と言うとき、「私が合わせる」という意味になる。合わせるか合わせないかを決めるのは「私」になり、私が主語となる。また、最後のところも、「心の一新によって自分を変えなさい」とあるが、これも日本語訳では「私」が主語として理解されてしまう文章になる。この重大な命令の中の動詞の行為の主体が「私」になってしまう。だから、「命じられた者が主体的にそれを行なう」というような意味に理解されてしまう。しかし、ギリシャ語においては、この二つの命令は両方とも受身の動詞(受動態命令法)が使われている。それが日本語ではどうしても表現できないようである。

       原語では、「させられること」について話しているのである。「させられる」というその受動態の意味の大切さは何なのかをここで理解しておく必要がある。受動態は外部からの働きかけを受ける側に立つことを意味する。それは即ち、私たちに向かって常にこの世の影響があるということである。同時に御霊の影響もある。その両方の影響が私たちに働きかけているが、「そのどちらの影響に自分をささげてしまうのか」というのがパウロのポイントである。つまり、「どちらの影響に屈服させられるのか」ということである。必ず私たちはどちらかに影響されるのである。そのどちらでもない中間の状態は有り得ない。パウロは、「この世が私たちに対して影響を与えるとき、その影響を許してはならない。それに屈してはならない。むしろ御霊の影響に自分を委ねて心の一新によって自分が変えられるのを許しなさい」ということを言っているのである。だから、原語に忠実に訳すなら、「この世と調子を合わせさせられてはいけません」と訳す方が意味としては正しい。二番目の命令も、「心の一新によって自分を変えさせられるように」という訳の方が意味として正しい。

       そういうわけで、2節には二つの大切な命令がある。一つは、「この世の影響を受けるな」である。もう一つは、「自分の心を変えさせるようにしなさい」である。どちらの命令も、私たちはこの世からの影響を受けているということを前提にしている。そして、私たちがその影響を受けないように命じ、また、神の御霊の働きに従うように命じている。なぜこのポイントが大切なのかというと、結局、クリスチャンは誰も自分がこの世に対して調子を合わせているつもりはないからである。調子を合わせていないつもりなのに、この世の影響を受けてしまうところに問題があるのだ。事実この世は私たちに対して影響を与えているし、与えようとしている。

       クリスチャンではない人たちは皆、自分たちの“福音”を持っている。偽物の福音は世の中にいくらでもある。金持ちになるための福音もあれば、頭がよくなるための福音もある。よく研究所にビジネスの手紙やE-mailが送られてくるが、「このアドバイスの通りに株を買えば、あなたは数カ月で金持ちになる」というものを先週も受けた。「おめでとう! あなたは抽選に当選しました。ここにE-mailを送れば賞品をお送りします」というものも来るし、宝くじの類いもよく来る。イギリスからも、オーストラリアからも、なぜか世界中の詐欺師は私の住所を知っているようである。それらは一種の“福音的アプローチ”である。つまり、「お金は救い」という福音なのだ。実際に、むさぼりに明け暮れてお金ばかり求めている人間も確かにいるのだ。

       もう一つは健康に関するE-mailや郵便物もよく来る。健康に気を付けるのは良いことであるし、お金だってそれ自体は良いものである。しかし、それを“福音”にしている人たちがいる。「これを飲めば、あなたの健康問題は全部解決されて、ばら色の人生を送ることができます。これさえ飲めば、全てが良くなるのです」と告げる。まるで、すべての問題の源が健康にあるかのような見方になっている。それは偽物の福音である。勿論、エンターティメントの分野にも偽物の福音はたくさんある。映画やテレビ番組を作る人たちはある目的をもって作ることが多い。勿論、金儲けが最大の目的なのだが、その内容によって影響を与えようとしているのも事実である。製作者たちの頭の中には、「どのような影響を与えようか」という思いがあるのは否めない。

       ローマ人への手紙1章に関わる例を挙げるなら、アメリカの場合だが、国のリーダーたちは、「このような番組を作れば、このような影響を与えることができる」と実際に考えて映画等を作らせている。番組が社会的に影響を与えることをはっきりと認識して番組を作っているのだ。例えば、同性愛者をたくさんいろいろな番組に出演させる。子供たちがそれらの番組を何気なく見ていると、ここにも同性愛者がいるし、あちらにも同性愛者がいるというものになっている。自然と「同性愛者はもう社会の中で許されるべきものだ」と思うように誘導しているのである。そして、小さいときからテレビ等を見てると、すばらしいと思われる人間の中にかなりの同性愛者がいることを知るようになり、自然とそれを受け入れてしまう。そのようなやり方で影響を与えようとするのである。

       これはテレビ番組においても、映画においても、娯楽、広告、ニュース、オピニオン・リーダーたちの見解を垂れ流すメディア、その他のマスコミ等においても広く行なわれており、社会が持つあらゆる有形無形の圧力を用いてこの世は私たちに働きかけ、この世の影響に屈服するように強いるのである。この世の人たちは、あらゆる手を尽くして、自分たちの思想をもって影響を与えようとしている。当然、教育制度においても影響を与えようとしている。学校はその思想的影響を与える一つの有力な機関になっている。アメリカも日本も、ヨーロッパの国々も絡んでいるので、国のリーダーたちは、自分の国の子供たちにどのような教育を与えるかを考えたり計画したりして、自分たちが考えている教育を与えることによって未来の理想的な国民を造ろうとしている。そのような思いもあって、教育は行なわれている。

       そのように、皆が自分たちの目的と福音をもって私たちに影響を与えている。私たちは、その影響に満ちた環境の中に自分たちはいるのだということを認識する必要がある。それで、悪い意味でその影響を受けることがないように、しっかりした識別力をもって歩まなければならないことになる。しかし、一方では、被造世界そのものが私たちに証言し、常に神を指し示していることも事実である。被造物による証しは、私たちに神の偉大さを告げ、へりくだって創造主なる神を礼拝し、神に仕えるように求めている。

       「調子を合わせない」という言葉は、英語では「ファッションに影響されない」というような言い方ができる。「この世のファッションに影響されてはならない」と言うと、服装だけの話かと思われるかも知れないので、その表現は狭すぎると言ってよい。しかし、この世のインテリの思想やテレビ番組も含め、いろいろな事が実はファッションのようなものとうのも事実なのだ。いつも変わっていき、流されていく。それが強調されているポイントだとは思わないが、この世の影響とはそのようなものなのだということを認識することは大切だと思う。私たちが今来ている服を40年前とか80年前に着るなら実におかしなものかも知れない。ファッションは常に変わるものである。

       “ファッション”、今流行している思想、今流行っている事柄に流されて、何でもかんでも世に合わせて自分もやらないと格好悪いと思う人は、この世の影響を受け過ぎていると言わねばならない。その人は心の態度において、この世の影響を受け過ぎている。事実、この世は影響を与えようとしている。実際に、電車に乗っても、テレビを見たりしても、街を歩いていても、この世の影響は休む間もなく襲って来る。それに影響されるかどうかはとても重大なことである。自分がそれによって影響されることを許すかどうかということが常に問題なのである。その反対は、「心の一新によって自分が変わるようにされなさい」である。このことも1章とのつながりにおいて考えることができると思う。1章28節を見よう。

    彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

       この文章を原文に忠実に文字通り訳すと、「彼らが、神の知識を持つのを認めようとしないので」というような文章になるが、「良くない思い」の「思い」という言葉は、12章2節の「」と同じ言葉である。そして12章2節の「わきまえ知る」という言葉は、「何かを試して、そして認めて、心に入れる」というような意味であるが、1章28節では、罪人たちのわきまえは「神の知識を認めたくない」というものになっている。それが12章2節では、「神のみこころが何なのかを、認めることができるようにしなさい」という勧めになっている。それ故、1章28節は「思い」という言葉も「認める=知る」という言葉も、12章2節につながっていることがわかる。そこがポイントである。

       つまり、正反対の礼拝、正反対の思い、正反対のわきまえ、その根本的な違いが12章1〜2節と1章の21節からの箇所で対比として説明されているわけである。「心の一新によって自分が変わるようにされる」というのは、自分の心が変えられるのを許すことであり、「自分の心が変えられるように、影響を受けなさい」という意味である。これは、日本語としては変かもしれないが、「御霊の影響を受けられるようにしなさい」ということであり、これは1節の「自分を神にささげる」の具体的な適用である。毎日の生活においてもそうであるが、日曜日に礼拝に来るとき、神の御霊と御言葉の働きと真剣に求めて集まるのである。月曜から土曜まで、この世の影響をたくさん受けてきた。受けるつもりでなくとも、受けてしまう環境の中にいるのだ。だから、御霊によって自分の心がどんどん変えられるように、御言葉の影響を慕い求めて神の御前に礼拝をささげに来る。それがこの箇所の適用のポイントだと思う。自分を神に100%ささげることをしないなら、絶対にこの世の影響を受けてしまうし、御霊の働きはなかなか受けられない。

       結局、1章にある「真理を阻んでいる人たち」というのは、その影響を受けたくない人たちなのだ。神は真理の影響を与えておられるが、悪魔は偽りの真理をもって悪い影響を与えている。両方の影響が私たちの周りにある。そこで神の真理の影響を受けることができないように心において真理を阻むのが罪人の有様である。クリスチャンはその逆であるはずだ。クリスチャンは、この世の影響を阻んで、真理の影響をどんどん受けることができるように求めるはずである。そのことはまず礼拝において表わされ、続いて毎日の生活における心の態度となって表われるはずである。礼拝において神の御前に自分自身をささげるとき、私たちが求めているのは聖霊が私たちの全生活において働きかけてくださることである。「心の一新」を求めているのである。

       「心の一新によって」とパウロは言う。心を新たにするのである。心を新たにするということを、私たちは礼拝において常に行なっているはずである。日曜日の礼拝に集まり、神の御前に出て、自分の罪を悔い改め、そして自分のすべてをを神にささげて聖餐式を守るとき、私たちの心は新たにされる。その時、神の御霊の影響の祝福を私たちは受けるのである。そして、「この礼拝は、自分を完全に神にささげる場である」という認識をはっきり持つものである。何かを自分のために取っておくようなことがあってはならない。神にささげてないところは全部捨てて、自分のすべてを神にささげるのである。そのことを本格的に心から行なうなら、御言葉の影響はもっともっと深く残るものとして私たちの心に入ってくる。そして、月曜日から土曜日までの生活において、もっと自然に神の御国のために生きることができるようになるはずである。

       ところで、この言葉を「心の一心によって自分を変えなさい」というふうに訳すと、「私たちが自分の力で出来ることだ」というような誤解をしかねないと思う。私たちは自分を変えることはできない。もし出来るなら、そうするであろう。しかし、皆さんも自分に対してはもう十分に疲れているのではないだろうか。「この自分を変えたい」という思いは皆が持っていると思う(子供たちにはまだピンと来ないかも知れないが・・・)。大人になれば、年取るに連れ、自分の罪の深さは重く感じられてくる。「自分を変えたい。今すぐにこれを捨てて、二度とこれが心に入ることがないようにしたい」と思うのだけれども、それがどうしてもできないでいる。私たちは、変えられなければならないのである。しかし、神が私たちを変えてくださるのでなければ、私たちに望みはないのだ。

       そのことを私たちは真剣に求めているはずである。「どうか、神さま。この私を変えてください。私の心を変えてください。私の思いを変えてください」と私たちは祈り求めている。そのために、私たちはまず第一に自分を神にささげなければならない。「主よ。私を供え物としてあなたにささげます。どうか、私を変えてください」と、礼拝において求めているのである。その心が毎日の生活の心となるなら、私たちはもっと変えられるようになる。罪人なので失敗をするだろう。しかし、礼拝が与えられているのは、私たちが倒れた所から立ち上がって、もう一度、本当に自分を神にささげて、御霊によって変えられることをもっと真剣に求めるようになるためである。私たちは、この世のしきたりではなく、神の御霊による影響の方を求めるように召されているのである。

     

    神のみこころ

       2節の文章の原語の順番は、「この世と調子を合わせはいけない。心の一新によって自分が変えられるように、自分の内に神の御霊が働くのを許しなさい」というような順番になっており、心が変えられたなら、次のところに進むべきである。即ち、「神のみこころは何なのかを、わきまえ知りなさい」という勧めが次に来ている。自分を神にささげて、この世の影響を捨てて、御霊の影響を真剣に求めてからでなければ、神のみこころが何であるかを知ることはできないのである。自分自身の全てを神にささげ、神の御霊の働きによって変えられることを決心するとき、神のみこころを知るための備えができたと言える。この世のいくらかの部分をまだ自分のために取っておこうとしたり、神にささげることを曖昧にしたり拒んだりして、聖霊に導かれることよりもこの世に対して心を開いたりしているうちは、神が何を求めておられるかをわきまえ知ることはできないであろう。

       しかしパウロが「兄弟たち。こうしなさい」と命じるとき、クリスチャンの一人一人に神のみこころが何かをわきまえ知る責任があることを教えている。クリスチャンは誰でも神の御心を知って生活の基準にすべきであることをパウロは教えている。「私には神のみこころなんて、わからない」と言ってはならない。いろいろなレベルにおいて、すべての事において、神のみこころは求めることができるものである。「知らなかった」という口実をもうけることは許されない。神はすでに聖書の命令と教えとによって御自分のみこころを明らかにしておられるからである。自分の人生全体にいったいどんな意味があるのか。確かな意味があるのか。それはどんなものなのか。今週をどう生きるべきか。この仕事についてどう考えるべきか。それらのことを私たちは神のみこころを求めつつ考えるべきである。

       私事で言えば、あるクラスがキャンセルになったりして急に三時間が余計に与えられてしまったなら、「この三時間においての神のみこころは何なのか」を求めるのである。そのようなレベルで神のみこころを求めることもある。「神のみこころは何なのかを、わきまえ知りなさい」という命令を読むとき、「私にはその責任がある」ということを先ず知るべきである。もう一度言うが、神を信じる者はまず自分の罪を悔い改めて、自分を神にささげて、この世の影響を受けことを許さず、御霊の影響を受けるように決心するとき、はじめて神のみこころが何なのかをわきまえ知ることができるようになるのである。

       大きい事においても、小さい事においても、私たち一人一人には神のみこころを知る責任があるが、どうやって神のみこころを知るかについてパウロは細かく説明してはいない。基本的には、御言葉を読み、その御言葉の枠組みの中で、神のみこころが何なのかを求め、わきまえ知るのである。聖書の教えを正しく理解するならば、神の御心を理解しようとするときに生ずるほとんどの問題を解決することができる。神のみこころは御言葉と決して矛盾することはないからである。

       どこかの店に陳列されてある物を見て、万引きしようかしまいかというようなことで悩むことは有り得ない。神のみこころを知るなら、何をすべきかは自ずと明らかである。そのレベルでも、神の御言葉の理解をもって、「神のみこころを知りなさい」と言うべきなのだ。「むさぼってはならない」という命令を覚えて商店街を歩くなら、心は違うはずである。一番簡単な例として、まず神の命令をしっかり覚えて毎日の生活を送ること、それが神のみこころを知ることにつながるのである。変わることのない神の命令をしっかり握っているなら、何をすべきで、何をすべきでないかはわかるはずである。そしてもっと複雑な問題についても、成長して神のみこころをわきまえ知ることができるように求めるべきである。

       自分では判断できない問題については、御言葉の知恵ある兄弟に相談したり、時間かけて祈り求めることも、神のみこころをわきまえ知るためにはとても重要なことである。ポイントは、本当に真剣に神のみこころを求めることである。自分にとって何が都合よいのかを私たちは意識的に或いは無意識的に求めてしまうものだ。私たちは自分に都合のよいアドバイスをしてくれる人に相談するが、自分に不都合なことを言うような相手に相談したがらないものだ。「あの人だと、私に都合の悪いことを言うかも知れないから、別の人に聞こう」ということも巧みにやってのけてしまう。それでは神のみこころを求めることにはならない。「神のみこころは何か」を心から真剣に求めるなら、ケースによって方法はいろいろあるが、パウロはここで最も根本的なことを私たちに教えている。

       先程言うのを忘れたけれども、1章24節に「からだ」の話があったけれども、偽りの礼拝を行なう者は、「互いにそのからだをはずかしめるようになる」と書いてある。彼らの生活は、性的な罪と暴力に発展していくことになる。しかしクリスチャンは、自分のからだを神にささげるのである。そして、この世の影響を許さず、御霊の影響を求めている。どの方法で神のみこころを求めるにしても、先ずこれが基本である。人からアドバイスを求めるときも、先ず心を神にささげ、からだを神にささげていなければ、アドバイスの聞き方だって違ってしまうのだ。まず自分を神にささげていなければ、たといエレミヤが「これは神のみこころだ」と宣言しても、素直に従いはしない。これは他でもない私たち自身の話なのだ。

       だからパウロは、神のみこころを求めるときの最も根本的な大前提を私たちに教えているのである。それは私たちが毎週の礼拝において実際に行なっていることである。自分を神にささげて、「神さま。私はあなたのものです。あなたの御国のために生きます。あなたの御国を第一に求めます」という誓いを、毎週の礼拝で行なっている。それによってクリスチャンである私たちは、少しずつ神のみこころが何なのかをわきまえ知るように導かれて生長していく。そして、「神のみこころは何か」を知らされるとき、素直にそれを行なう者に変えられるのだ。パウロの書簡を読むと、「神のみこころを知る」ということが何度も出て来る。エペソ人への手紙5章10節を見よう。

    あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。

       パウロはエペソの教会に命じている。光の子どもらしく歩むためには、神のみこころが何であるかを見分けなければならない。「何が神に喜ばれることなのか」を見分けることが要求されている。若い人たちは、自分のこれからの人生はどうあるべきなのか、どうすべきかを考えている。その答えは、「真剣に神に喜ばれることを求める」である。これをすべての事に適用するのである。同5章17節にも「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」とある。神のみこころは何なのかを求めない者は確かに愚か者である。私たちは愚かな者としてこの世に生まれたが、クリスチャンの場合は幼い時から御言葉によって教えられ、御言葉の命令によって取り扱われ、父と母の教えに従うように教えられているので、それに従うなら子どもであっても、子どものレベルで知恵を持つ者となる。

       8歳の子どもには、8歳のレベルでの知恵がある。15歳の子どもにはもっと深い知恵が要求される。15歳にもなれば、自分の人生の歩みはどうあるべきか、この世の中にあって自分は何をすべきかを、少なくとも考え始めるはずである。15歳の時の私はクリスチャンではなかったが、それでも自分の人生の夢を求めていた。その夢は変わったりするけれども、その年頃の若者にはそんな思いがあるはずである。クリスチャンであれば、神のみこころが何なのかを求めなくてはならない。それを求めない者は愚か者である。30歳になり、40歳になり、50歳になっても、まだ何のために生きているのかわからない。多くの人はそのような人生を送っている。表面的に賢そうに見えても、それは「愚か」というものなのだ。しかし、神を信じていると言うなら、神のみこころが何なのかをわきまえ知りなさい。ピリピ人への手紙1章9〜10節でも、パウロはこう言っている。

    私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。

       これはピリピ人たちのためのパウロの祈りである。ピリピの教会の一人一人がそのような識別力を持つように祈っているのである。勿論、そうなる筈だということが前提である。コロサイ人への手紙1章9節を見よう。

    こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

       神のみこころに関する真の知識に、「触れるように」ではなくて、「満たされるように」と祈っている。真に知恵をもって生活を送ることができるように、ということなのだ。テサロニケ人への第一の手紙5章21〜22節では、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい」と命じている。すべてのことにおいて正しい識別力をもって、何が良いのか、何が良くないのかを、はっきり悟って理解し、良いものを選び、悪いものを捨てるのである。「すべてのことを見分ける」と言うときに、一番良いこと、二番目に良いこと、三番目に良いこと、というような違いがあることも明らかである。ピリピ書1章の「真にすぐれているものは何なのかを見分けなさい」というのもそういう話である。

       「神のみこころは何か」を本当に見分けることができるように、パウロは何度もいろいろな手紙の中でクリスチャンに対して熱心に勧めているのである。神のみこころが何なのかを見分けることができるのは、大人のクリスチャンである。神のみこころが何なのかを知らない者は、愚かな未熟者だ。場合によって、その者は悪者かも知れない。真理を阻んで自分を神にささげないのでわからない、ということにもなるからである。そのような者に、神のみこころがわかるはずはない。神のみこころを知り、それを行なうことを喜ぶことは、知恵の本質である。これこそクリスチャンとしての成熟であり、真の神の似姿としての本当の人間の意味がそこにある。真の人間であられた主イエスは次のように言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネの福音書4章34節)。

       ローマ人への手紙12章2節の「わきまえ知る」というところに戻るが、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」とある。これは、「神のみこころをわきまえ知りなさい」の後に来ている言葉である。神のみこころについて、その三つの表現において説明しているわけである。神のみこころはあくまでも「良いこと」である。そして、「神に受け入れられること」である。そして、それは「完全なこと」である。そのようにパウロは付け加えているが、注解書によれば、異邦人たちの中には倫理と神のみこころとが概念として深くつながらない人が多かったようだ。

       第一に、神のみこころはあくまでも聖書の定義に従った「良いこと」である。誰かが自分の気持ちにおいて「これは良いことだ。これはきっと神のみこころだ」と言っていても、それが聖書の善の教えや聖書の倫理の教えから離れているならば、絶対にそれは神のみこころでないことがわかるはずである。「神のみこころは何なのか」を考えるとき、聖書の教えの基準に従って「何が善(良いこと)であるか」を考えなければならない。

       第二に、「神に受け入れられる」という基準に照らして求めなければならない。ギリシャ語の原文には「神」という言葉はなく、ただ「受け入れられる」と書いてある。しかし、誰に受け入れられるのかというと、神に受け入れられることであるのは明らかなので、日本語の「神に受け入れられる」という訳はそれでよいと思う。これは「神が喜ぶこと」である。今自分がしていること、或いはしようとしていることが、本当に神がご覧になって喜んでくださることなのかを考えるのである。「善」とか「良い」を抽象的に考えるのではなく、神との人格の関係において考えるべきことであり、同じことをパウロは繰り返し違う観点から見ているのだ。「今、私がしていることを神がご覧になったら、喜ぶだろうか」という測りをもってわきまえるのである。

       そして、三番目の「完全である」というのは、「まあ、何とかなるだろう」という程度の話でないのは明らかである。「最良の、最高に熟した、最も美しい、素晴らしい、そして行なうべきことを、知恵をもって行なっているのかどうか」が問われるのだ。「あの人だってやっているし、この人もやっているから、いいんじゃないか」という態度は完全なものを求める態度ではない。「皆がやっているから、大丈夫」というような態度は、神のみこころをわきまえるようなものではない。クリスチャンの全体的な責任は、神の御国を第一に求めることである。神の御国を求めるということは、この世の流れに逆らって、その流れを変えることになる。流れに逆らって歩むのは難しいことだ。流れに身を任せる方が簡単である。そして、罪人である私たちには、流されている状態の方が気持ちよくて安心だと思えるのではないか。だが、それはクリスチャンの生き方ではない。

       ここでパウロは、私たちがこの世の流れの影響に逆らって正しく歩むように、そして、この世に対して影響を与えるように勧めている。即ち、自分の全てを神にささげて、この世の影響に対して「ノー」と宣言し、御霊の影響を真剣に求めるように勧めているのだ。そして、「神のみこころが何なのかをわきまえ知りなさい」と命じるのである。これは先ず礼拝において決定的に行なうべきことである。そしてこれは、最も明白で単純なレベルの勧めなのである。つまり、「私は自分を神にささげて、神の御国のために生きるのだ」というレベルでの心の一新、心の決心、心の誓いである。そのことを私たちは毎週の礼拝において行なっている。そして、御言葉から教えられることによって、もっと細かくその意味を考え、どのように適用すべきなのかを考えたり求めたりして、神が喜んでくださるように毎日の生活を送るのである。そのことを、この12章の1節と2節において教えられていると思う。

       日曜の礼拝において自分自身を聖い生きた供え物として神にささげる。これは今私たちがしていることである。御言葉の解き明かしを聞き、信仰告白をささげ、賛美し、祈りをささげている。これはまぎれもなく自分を神にささげることである。私たちは礼拝に集まり、自分を神にささげて、真剣に御言葉を聞き、御言葉の教えに対してへりくだった心をもって「はい。従います」と告白するときに、神が私たちを喜んで受け入れてくださる。そして、神が喜んで私たちを受け入れてくださることを表わすのが聖餐式である。

       私たちは自分たちを神にささげる。神は、罪人である私たち、実に愚かで足りない私たちを愛してくださって、喜んで受け入れてくださる。そのことを心から確信して神を喜ぶことができるために、神は御自分の御子キリストを私たちに与えてくださり、私たちに和解のいけにえを与えてくださる。聖餐式はそのことを覚えるために与えられている。そのことを覚えて、心からの感謝をもって一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2001年10月28日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章1節

    ローマ人への手紙12章3〜5節

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