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    ローマ人への手紙12章9節


    12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

    2001.11.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    本物の愛

    12章9〜13節

    9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。10兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。11勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。13聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

       ローマ人への手紙12章1〜2節でパウロは私たちに、「自分を神に生きた供え物としてささげなさい」と命令している。ローマ人への手紙1章から12章までに書かれている神の御恵みのことを本当に理解しているならば、当然な反応として、心からの感謝をもって自分を神にささげるほかない。神がこれほどまでに私たちを愛してくださり、これほどの無限な御恵みを与えてくださったことを知るなら、どのようにそれに応えるべきだろうか。感謝をもって自分自身を神にささげる以外はないのである。

       神が先に、私たちに、御自身を与えてくださったのである。つまり、主イエス・キリストを私たちにお与えになり、私たちを罪から贖うために十字架にかかってくださったのである。神が、御自分を私たちに与えてくださったので、自分を神にささげるという反応は私たちにとってまったく当然のことなのだ。

       12章1節と2節は、そのことを私たちに思い起こさせている。そして、ローマ書のこれ以降の部分は、神への献身者として生きることの実践的な意味を詳しく説き明かしている。3節から8節までは「自分を神にささげる」とはどういう意味なのかを具体的に考えさせている。一人一人に神から異なる賜物が与えられている。この世での時間は短く、この世は天国ではない。この世は働く場であり、働きが終わってから安息がある。キリストに属する者は、天の御国で永遠の安息に入る。この世は安息の地ではなく、汗を流して働く場なのだ。それでも、休みは必要であり、私たちは週に一日は休むように命じられている。しかし、この世に生きている間は働く時である。そのために神は私たちにいろいろな賜物を与えてくださった。

       「私は神の御国のために何ができるか。何のためにこの世に生まれ、何のために生きているのか」を、一人一人が真剣に考える必要がある。そして、朽ちない実を結ぶように熱心に働くはずなのだ。人は、はっきりした使命のために生きるべきである。3節から8節で賜物について話すとき、パウロはそのことについて話しているのだ。これは私たちの人生の実に大きな問題であり、一番深い問いであると思う。「何のために生きているのか。神の御国のためにどういう働きができるのか」を自問するのである。

       それを考えもせずに、20歳になったり、30歳になったり、40歳になったり、50歳になったりする人もいる。それ故、3節から8節までは、私たち一人一人が御国のために実を結ぶ働きをする者なのだということをパウロは教えている。まず、自分に与えられた御霊の賜物をキリストの御身体の祝福とすべく熱心に用いる義務が、私たち一人一人にあると教えている。私たちが厳密に何をすべきかは神の御前における各々の召命によって異なるが、各人が御前で自分に与えられた固有の働きを熱心に求めて働くならば、御からだ全体が発展するのである。

     

    一つの要点

       そこで、9節からは、すべてのクリスチャンが例外なしに求めなければならないことについて話している。これは個々人の別々な働きや能力や賜物のことではなく、クリスチャンであれば誰もが求めるべきことである。ギリシャ語では、9節からずっと21節までが一つの文章になっているものもあるが、私が持っているギリシャ語聖書では、9節から13節までが一つの段落になっており、14節から21節が別の段落になっている。この9節〜21節でパウロは、すべてのクリスチャンが倫理の義務として求め、そして行なわなければならない事柄を取り扱っている。それは即ち、「兄弟を愛する義務」である。この義務においては、私たちの賜物と召命がどれほど異なっていようと、私たちの根本的で倫理的な義務はまったく変わらないのである。この9〜13節は、文法的につながった一つの文章になっている。日本語の場合、文語訳聖書では原語に従って次のような一つの文章になっている。

    9愛には虚偽(いつわり)あらざれ、悪はにくみ、善はしたしみ、10兄弟の愛をもて互(たがい)に愛(いつく)しみ、礼儀をもて相譲り、11勤めて怠らず、心を熱くし、主につかへ、12望みて喜び、患難(なやみ)にたへ、祈りを恒(つね)にし、13聖徒の欠乏(とぼしき)を賑(にぎわ)し、旅人を懇(ねんご)ろに待(もてな)せ。

       このようにつながった一つの文章なので、命令形は最後に一つあるだけである。新改訳聖書では一つの文章になっていないために、その原語の文法的なつながりによって伝えようとするニュアンスを失ってしまう可能性がある。このギリシャ語の聖書を見たときに非常に興味深い意味がそこにあるので、それを少しだけ説明しておきたい。この文法上の構造を見ればパウロの言わんとしている要点の理解に役立つと思う。

       まず、「愛に偽りがあってはなりません」という短い命令がある。このギリシャ語を見ると、9節の前半は「愛、偽りなし」という言い方で、動詞がない。そして、9節の後半の「悪は憎み、善は親しみ」は従属的動詞ともいうべき二つの分詞句が使われている。つまり、「これをしながら、これをし・・・」という言い方になっていて、悪を憎むことも、善に親しむことも、「愛には偽りなし」に従属しているのである。そして、次のところはそれを解き明かす内容になっている。「愛は偽りなし」ということは、つまり、「悪を憎んで愛を持つこと」であり、また「善に親んで愛を持つこと」なのである。

       10節から13節までのところでは、すべての文節の最初に関係代名詞がある。すべての文節が、関係代名詞として使われる定冠詞で始まっているのである。だからこの文章は、「兄弟愛をもって・・・、尊敬をもって・・・、勤勉で・・・、霊を熱くして・・・」というふうに、全部が文法的に9節の最初の命令に結びついているのである。従って、9節から13節の段落全体が「愛には偽りがあってはならない」という一つの要点に焦点をあてた一つの文章なのだ。そういう意味で、一つの文章にしているという点では昔の文語訳の方が良いように思う。動詞がなく定冠詞"the"がついた「」につながっている。「この愛、偽りなし」と言ってから、続けてその偽りのない愛とはどういうものなのかを13節の最後までで説明している。

       まず二つの分詞があり、それから関係代名詞から始まる短い文節がずっと続くのである。文法的にはそのような形になっているので、これはすべて「偽りのない愛」について説明する段落なのである。そのことはギリシャ語の文法において極めて明白に見ることができる。日本語訳ではなかなか見ることができないので、その点をまず頭に入れておいて読んでいただきたいと思う。これはギリシャ語においては目立つほどにはっきりしていることなのである。その「偽りのない愛」とはどういうものなのかを、パウロはその書き方(文法の構造)によっても私たちにはっきり教えようとしているのである。

       日本語訳では、「愛には偽りがあってはなりません」という命令から始まっている点はそれで良いと思う。そして、英語も日本語も、これを命令形の動詞で訳しているが、それも正しい訳し方だと思う。しかし、ギリシャ語では、「その、愛、非偽善的」という三つの言葉しかない。その意味は命令的で、簡潔さがとても強調されている。そのように助詞もなしで「その愛、偽りなし」と言うとき、これは命令の形よりも強い言い方になっているように思うのである。愛は、偽りや偽善を絶対に許容できないものなのである。本物でないなら、それは決して愛とは呼べないのである。

     

    偽りなし

       「愛には偽りがあってはならない」とパウロは言う。この「偽りがあってはならない」という意味の言葉は新約聖書に何回か出て来る。愛は本物でなければならないことについてパウロはコリント人への第二の手紙6章6節でも話しており、ヤコブ書3章17節には「知恵に偽りはない」という意味で、偽りのない真の知恵について教えている。テモテへの第一の手紙1章5節では「信仰に偽りなし」という意味で、本物の信仰がクリスチャンの目標であると教えている。そしてテモテへの第二の手紙1章5節では、テモテの母親と祖母の本物の信仰について述べている。またペテロの第一の手紙1章22節で、ペテロはパウロに似た言葉遣いでクリスチャンに「偽りのない兄弟愛」を教えている。

       ローマ人への手紙12章9節でパウロが使っている「」という言葉は、「兄弟愛」ではなく、「アガペー」である。「アガペーには偽りがあってはならない」と言っているわけである。そういう意味で、「知恵」「信仰」「」、これらに「偽りがあってはならない」と新約聖書は教えている。この言葉は新約聖書で六回しか使われていない。これは英語の "hypocrite"(偽善者)の語源になる言葉に否定の接頭語が付いた形になって"anahypocrite"(非偽善的)というような言葉になっている。文字通りには「非偽善」という言葉である。つまり、「偽善的であってはならない」という意味である。愛は偽善的であってはならないと、パウロは言う。

       パウロはローマ人への手紙の中で今まで何度も「アガペー」について話していたが、今までは神の愛について話していた。「アガペー」という言葉を皆さんもよく聞いていると思うが、これは普通のギリシャ語ではあまり使われていない言葉である。新約聖書を書いたパウロたちは、「アガペー」という、あまりギリシャ語では使われていない言葉を、「神の愛」を表わす言葉として使った。この言葉は、神の愛だけに限定されて使われるわけではないが、弟子たちは、神が御自分の独り子を私たちに与えてくださったその愛を表わす言葉としてこの言葉を使っていた。

       事実、「」という言葉は、昔の日本でもあまり使われてはいない言葉であった。今ではスーパーに流れる流行歌などにやたらと出て来るが、古い時代では頻繁に使われる言葉ではなかったのだ。パウロたちの時代もそれと似ていたのではなかったかと思う。パウロはローマ人への手紙でずっと神の愛について話している。私たちが互いに愛し合えるのは、神に愛されていると知っているからである。それは神の愛への応答なのだ。神が愛しておられる人を、私たちも愛するのである。それはヨハネの福音書で強調されていることである。愛は偽善的なものであってはならない。愛は本物でなければならない。そのことをパウロがここで教えるとき、「神の愛」が基準なのである。神が私たちを愛してくださる愛を見て、「これが愛だ」と知るのである。

       もっと遡って考えるなら、三位一体であられる御父、御子、御霊なる神の互いを愛する愛が基準なのである。御父が私たちを愛してくださるのは、御子が私たちのために死んでくださり、御霊が私たちの内におられるからである。御霊は私たちの内にあって働いてくださって、神の愛を私たちに豊かに注いでくださっておられる。御子がなぜ私たちを愛してくださるのかというと、御父が私たちを愛することを、世界が創造される前にそう定めたからである。私たちに対する神の愛は、三位一体なる神御自身のうちにある交わりの愛だと言うことができる。

       そのように、互いを絶対なる三位一体の神に愛されている者であると認めて尊ぶなら、偽善的な愛を許すことができるはずはないのである。神の愛を喜び、神の愛に対して感謝に満ちている心をもって歩む者は、偽善的な愛を持つはずはない。そのような愛はいらないのである。これは、一人一人が自分について言うことである。私たち一人一人は、自分の心の中にある愛が偽善的なものなのか、本物の愛なのか、自己吟味しなくてはならない。そのようにパウロは私たちに話しかけている。

       「愛には偽りがあってはならない」とパウロは言う。しかし、どのようにして私たちは本物の愛を持つことができるのか。それを考えるとき、ヨハネの手紙に書いてあるように、神が先に私たちを愛してくださったので、私たちは本当の愛を持つことができるのだ。つまり、神に目を留め、神の愛を覚え、神の愛に応答するときに、私たちは互いに愛し合うことができるのだ。罪人である私たちは、自分の中から本物の愛を引き出すことはできない。愛は神からの賜物である。神の愛をいただいた者として、感謝をもってその愛を喜び、神への応答として愛を持つのである。そうでなければ、パウロが言っている愛を私たちは持つことはできない。その本物の愛とはどのようなものかを、パウロは13節までの一つの文章をもって説明している。

       「偽善的ではない愛」について、パウロは「悪は憎み」「善は親しむ」という二つの分詞をもって説明する。この「親しむ」という言葉は、申命記に出て来る「すがる」とか「堅く握る」という意味の言葉である。これは夫婦関係についても使われる言葉である。悪を憎んで、善にすがる。それが本当の愛である。悪を憎まなければ、本当の愛にはならない。悪と妥協したりすれば、その愛は駄目になる。悪との妥協は、愛を破壊してしまう。そのように言うとき、外の悪と妥協してはならないのは勿論のことだが、問題は自分の中の状態なのだ。

       「あの人には悪があるから、それを取り消さなければ私はあの人を愛することはできない」という話ではない。「周りの人間がどこまで罪深いのかが気になって仕方がない。その人たちの悪を全部取り消してから愛してあげる」という話ではないのだ。「悪を憎む」というのは、自分の中にある悪をまず憎むという話なのだ。真に悪を憎むなら本物の愛に成り得るという話なのである。隣人の悪を憎むことは実に簡単である。それで自分の愛が豊かで素晴らしいものになるというわけではない。当然ながら、悪は何であれ、どこにあるとしても、それを憎まなければならないのは事実である。この世の悪を憎み、世界の悪を憎み、人間の悪を憎むのは有る意味で当然である。

       「他の人の目からちりを取り除く前に、まず自分の目から梁を取り除きなさい」と主イエスは言われた(マタイの福音書7章3〜5節)。「隣人の目にちりがあるのに気付いてはいけない」とは言っていない。気が付いたら、追い払うようにも言っていない。「ちりがあるなら取り除いてあげるように」と言っているのである。しかし、その前にしなければならないもっと大きな仕事があるのだ。「自分の目にある大きな梁を先ず取り除けなさい」というのである。それで、自分もよく見えるようになり、隣人の目にあるちりをも取り除くことができる。

       愛を持つためには悪を憎む。これが愛の出発点である。悪を憎まないならば、本当の愛を持つことはできない。子どもが危険な行為をするとき、両親は平気でそれを見ている筈はない。愛しているから気になるし、子どもを正したり懲らしめたりするのである。悪と妥協できないのである。子どもを愛しているので、子どもの悪を見ると、それと戦わずにおれないのだ。パウロのいろいろな手紙の中で、愛は悪とは妥協できないものだと教えている。今の時代の人々は、「」という大義名分をもって何でも許す。「愛さえあれば、あとはどうでもよい」という話になる。そうではない。本当に愛があるなら、悪を憎むはずである。愛があって、その上で知恵があれば、どのように悪を取り扱うべきかがわかる、というのはまた別の話である。愛は、悪を憎むものである。

       しかし、カルヴァンもその注解書の中で「ほとんどすべての人が、本当は持っていない愛を偽り装うことにかけてどんなに巧妙であるかは、容易に語ることができないほどである。なぜなら、かれらは、これをもって単に他の人をあざむくだけでなく、自分自身をもあざむいて・・・」と言っているが、自分には本当の愛があると思って自分を騙すことは実に簡単なことなのである。パウロもこのことに気付いていたのは疑いの余地がない。すなわち、私たちには、自分自身を騙して、実際はそこから遠くかけ離れているにも関わらず、自分が本物の愛を持っていると考えてしまうことはいとも容易だということなのだ。だから、愛においては、自分の偽善に気付いてそれに対して戦うことが要求される。「私の愛は本物だ」と主張することは簡単だが、自分の心や思いにある悪を憎んで、それと真剣に戦うのでなければ、決して本当の愛を持つことはできない。9節の短い命令に続く二つの分詞句と幾つもの関係節は、自己吟味を私たちに挑み、本当の愛についての解説をしてくれている。

     

    善と悪

       その解説の最初の要点であり、位置および文法的構造の両方から最も強調されている要点は9節の後半に見出される。その二つの短い分詞句は、本物の愛がどのように善と悪に関わっているのかを定義する。最初にパウロは、愛は悪を憎むことだと述べる。彼の使っていることばの語勢は強く、憎悪の意が含まれており、強く忌み嫌って避ける意味を含む。神は愛であり、神は聖く、いつくしみ深く、義しく、純粋であられる故に、神の属性のどれか一つにでも反対する者は、これら全てに反対していることになるのである。愛は悪であるものを許容できない。悪は愛を破壊するからである。

       主イエス・キリストは悪を憎む心を十分に持っておられたが、弟子たちの行ないや言葉などにある悪に対して、朝から晩まで何から何まで「偽善者ではないか。愚かではないか」と指摘することはなさらなかった。彼らの悪に気が付かなかったのだろうか。そうではない。取り扱うべき時には、主イエスは非常に適切に知恵をもって取り扱っておられる。主イエスは愛弟子のペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をする者だ」と言って厳しく叱責した(マタイの福音書16章23節)。取り扱うべき時には深く取り扱うのである。

       主イエスは悪を徹底的に憎んでおられる。しかし、それで弟子たちは自分たちが憎まれているという気持ちになっていたわけではない。神は私たちの悪を憎むけれども、私たちを愛しておられる。私たちは、神に愛されていることを確信すべきである。神に愛されていることを確信して喜ぶのである。その喜びがなければ、私たちはその愛に応えることはできないし、本当の愛を求めることさえできない。そして、本当の意味で悪を憎むこともできないのである。なぜ悪を憎むのか。自分の中にある悪であっても、世の中にある悪であっても、なぜそれを憎むのか。それは、神を愛しているからである。悪は何であれすべて神に敵対するものだからである。だから、神に対する心が第一でなければならない。神に愛されている者として、神の愛を何物にもまして尊いと考えるので、愛をもって神に応えるのである。

       その心があるなら当然、神に敵対するものを憎む筈である。それがどういうものなのか。どこにあるのか。それは他でもない自分の心の中にあるのだ。そのことは自分が一番よく知っている筈である。自分の心の中の悪に対して戦い、本格的に神の愛を求めるようにと、パウロは私たちに勧めている。だから、「悪を憎む」というのは、まず自分の心から始めなければならないことなのだ。「神に愛されているので、私は悪を憎む」という心でなければならない。「神に愛されるために私は悪を憎む」という話ではない。愛されていることを知り、その愛を確信したときに、始めて本当に悪を憎むことができる。神との親しい愛の交わりがあるので、悪を憎むのである。

       人間関係においてさえ、これは当たり前に出来ることであって、何も難しい話ではないと思う。子どもが母親と一緒にいるときに、その子どもを思いっきり蹴飛ばしてみよ。それを見た母親はあなたを憎むであろう。「何をするんですか。やめてください」と言って、あなたと戦うであろう。子どもをいじめれば、父と母は必ずその子を守るだろう。また、ニューヨークの同時テロ発生以来、アフガニスタンのことがニュースによく出てくるけれども、人々が互いに殺し合い、とんでもない事をしている。とてもやるせない深い悲しみがそこにある。

       目の前で自分の母親がタリバンに銃で撃たれて殺されたり、家族がレイプされたり、子どもが平気で殺されたりしている。それを現場で目撃するなら、反応しない筈はない。一生忘れないであろう。なのに私たちは、神に敵対するのを見ても、何も感じないのだろうか。何とも思わないのか。何とも思わないでいられるなら、それは神との親しい関係が無いからなのだ。自分の愛する子を攻撃して傷つける者がいたら、親は激怒しない筈がない。赦せない気持ちになるだろう。しかし、神にいくら敵対しても気にもせず、気が付きもしない。その悪を憎むという反応がないのである。

       それは、神との親しみがないからである。神との愛の交わりを持っていないからである。神を本当に喜んではいない。真に感謝もしていない。そうであれば、神に敵対する者がいても、或は神の栄光を傷つけているのを見ても、私たちはまるで無感覚のようなのだ。心の深いところからの反応というものが何もないのではないか。神の愛を確信し、神に愛されていることを真に喜んでいるなら、無感覚でいられる筈はないのである。反応しないでいられる筈はないのだ。神を愛しているなら、悪を憎む筈である。そして、私たちは罪人なので、何よりも先ず自分の心の中にある偽善、自分の心にある悪、自分の愚かさと罪を憎まなければならない。

       「悪を憎み、善に親しむ」ように、パウロは命じている。善を握って、それが自分から離れないように必死にすがるのである。善に親しみ、善に近づき、善を心から慕い求めるのである。真剣に悪と戦って善を求めるのである。それこそ「偽善的ではない愛」を持つことの意味である。善を求めないで悪と妥協しながら生活を送り、自分の心の中にある悪い思いなどを許すような生活を送ったりするなら、あなたは偽善的な愛しか持てない者になってしまう。ピリピ人への手紙4章8節と9節を見てほしい。

    最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

       真剣に正しさと清さを求めて、パウロが命じていることを実行しなさい。そうすれば、心の中に神が与えてくださる真の平和をもって歩むことができる。「善に親しみなさい」というのは、すべての正しいこと、真実なこと、きよいこと、すべての誉れあることを真剣に求めることでなのだ。そのことをパウロはここで私たちに教えている。「悪を憎み、善に親しむ」、それは偽りのない愛を持つための絶対不可欠な条件なのだ。パウロがそのように命じるとき、このような愛が絶対的なものとして要求されているということを認識しなければならない。これは、私たちにとっては生きるか死ぬかというほどに重大なことなのだ。

       この「親しむ」と訳されているギリシャ語は、結婚の契約関係に使われているものである(マタイの福音書19章5節)。また、七十人訳の申命記10章20節にあるように、私たちの神との関係を述べるのに使われている言葉である。私たちは神に「すがる(親しむ)」べきなのである。悪は何であれ、それを避け、善は何であれ、それに親しんで堅く保つべきなのである。「アラーは愛である」というような言い方はイスラム教にはない。愛を説くイスラム教のリーダーも中にはいるが、それは完全にキリスト教から取ったものである。コーランを読んでみればわかるが、そこには「神は愛」という教えはどこにもない。ユダヤ教であっても、「神は愛である」という考え方があるとすれば、それはキリスト教から借りてるものに過ぎないのだ。少なくとも、愛という言葉はイスラム教やユダヤ教では強調されているものではない。

       パウロが命じている愛は、慈悲とか慈愛というようなものではない。イスラム教には「憐れみの神」という慈愛の考えがよく出てくるが、それも後に聖書から取った教えである。イスラム教もユダヤ教も仏教も、愛を要求する宗教ではない。また、ヒューマニズムは「愛を要求する」という言い方を使ったりはするけれども、それも完全にキリスト教から借りたものに過ぎない。愛を中心にする考えは聖書の神を信じるところから出たものであり、三位一体なる神を信じ、主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じるところから、すべて愛の話は始まった。如何なる意味においても、聖書が教えている愛において妥協するならば、私たちはすべてを駄目にしてしまうことになる。クリスチャンと自称しながらその点で妥協するなら、それは三位一体の神を捨て、キリストの十字架と復活をも捨てているのである。そして、御霊が与えられているということも捨てることになるのだ。

       妥協を許さない真の愛の純粋さを要求する聖書の概念は、「」と言えばどんなものでも許容するという現代的概念に真っ向から対峙している。しかし、パウロが主に語っているのは、「他者において私たちが何を許容しないか」ということではなく、「私たちが自分自身において何を許容してはならないか」ということである。「偽りない愛を持つ」ということには、「愛する人の内にある悪を許容してはならない」という意味も確かにあるけれども、本物の愛を脅かす真の危険は他でもない私たち自身の内に横たわっているのだ。私たちの愛が本物でなくなるのは、私たちが自分自身の心の中の悪を許すときなのである。

       私たちはみな罪人なので、本当の愛を持つための戦いは死ぬ日まで続くのは事実である。しかし、このことにおいて戦わなければならない。この戦いは、自分の心の中の戦いである。「自分の心に偽善的な愛を持ってはならない。それを許してはならない」と命じられているのである。悪との妥協を許してはならない。常にその点において自分自信を吟味し、心を新たにして、真の愛を求めることが私たち全員に要求されている。それこそ真の神を信じる心であり、キリストの十字架と復活を信じることである。神が私たちを愛して、永遠の昔から私たちを選んでくださったことを信じる者は、そのように生きる筈である。

       本物の愛を要求する命令は、「神に倣う者になりなさい」という命令なのである。なぜなら、ローマ人への手紙では繰り返し私たちに対する神の愛が強調されているからである。私たちの救いの土台は神の「アガペー」なのである。だから、軽い気持ちで自分を騙して簡単に「私には愛がある」と言うなら、真の愛を求めてもいないことになる。また、自分の弱さ、自分の偽善的なところ、自分の罪などを認めるとき、それに疲れてしまって「これは止むを得ないことなのだ」と思って諦めてしまうなら、それも駄目なのだ。ではどうしたらよいのか。何度も言うように、神に目を向けるのである。「神が永遠の愛をもって私たちを愛しておられる」という事実に目を留めて、その神の愛に心から感謝するのである。そのためにも、礼拝の中心として聖餐式が与えられていると思うのである。

       聖餐式のとき、私たちは常にその所に戻っているのだ。聖餐式のときに、神は私たちに主イエス・キリストを、パンと葡萄酒を通して与えてくださる。パンと葡萄酒を受けるとき、主イエス・キリストを表わすものをいただいているのである。聖餐式を受けるとき、神がキリストを私たちに与えてくださったことを覚えて、そのパンと葡萄酒をいただくのである。しかし、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったことを覚えるとき、その神を愛さずにはおれないのである。実に聖い、実に正しい愛をもって、神は私たちを愛してくださった。

       神の愛には偽りはない。少しも偽善的なところはない。だからそれを喜ぶことができるのだ。神の愛が本物なので、私たちはそれに全く信頼することができる。神の愛が永遠のものなので、私たちは神の愛に寄り頼んで心を休らうことができる。本当に神の愛を喜ぶなら、毎日の生活は感謝に満たされている筈である。感謝に立って歩む筈なのだ。感謝の心から離れてしまうなら、神の愛を忘れてしまい、聖書が私たちに要求している真の愛を私たちは求めることも持つこともできなくなる。愛は、神の愛に対する感謝から出て来るのでなければ、決して出ては来ないものなのである。そういう意味でも、私たちは日曜日に集まって礼拝をささげるとき、神が私たちを愛して、御自分の御子である主イエス・キリストを惜しまずに私たちに与えてくださったことを感謝するのである。それが礼拝の中心である。

       そのことを覚えるなら、自分の心にある偽善と戦うことができる。自分の心にある悪に対して戦うことができる。自分の思いの悪いところに対して戦うことができる。本当の意味で悪を憎むことができるのである。真剣に悪と戦うならば、必ず成長する。真剣に悪と戦うならば、神を求め、愛を求めて歩み続けることができる。そして、安息のときが来る。罪との戦いから解放されて真の安息をもって神の御前を生きるときが来る。そして、全き正しい清い心をもって神の愛を喜び、その心をもって兄弟を愛し合うときが来る。

       しかし、この世にある間、私たちには悪との戦いがある。私たちクリスチャの戦いの最も深い本質的なところは、この偽善のない本当の愛を求めるところにあるのではないかと思うのである。そのことを覚えて、神の愛を表わすこの聖餐式を、感謝の心をもって一緒に受けたいと思う。

     

    ――2001年11月18日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章6〜8節

    ローマ人への手紙12章10節

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