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    ローマ人への手紙12章10節


    12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

    2001.11.25. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    家族の愛

    12章10節

    9愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。10兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

       先週は9節のところを一緒に見た。この9節には全体を表わす包括的な教えがある。10節も9節の後半も、「愛には偽りがあってはなりません」という9節の始めの命令を説明しているものであることは既に説明したとおりである。9節後半からパウロはずっと偽りのない愛について教えている。真の愛は悪を憎むものでなければならない。同時に、それは善にすがり、善に親しむものでなければならない。愛は、善と悪との区別をはっきりさせ、善を熱心に求め、悪を心底憎むのでなければならない。そうでないなら、その愛は偽善的なものである。悪を許す愛は偽善的なものになる。真の愛は相手の祝福を求めることに徹している筈なので、当然のこととして偽善を憎んで善にしがみつくものだ。

       そこまで一緒に見たが、10節のところも続けて偽善的ではない本物の愛についてパウロは私たちに教えている。そして、9節から13節までで愛について教えるとき、パウロは「新しい社会である神の教会はこうでなければならない」ということを私たちに教えており、13節では細かい点に言及している。そのことも先週見たところである。

       今日は10節のところを一緒に考えたい。新改訳では、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と訳されている。9節の最初の「」という言葉は「アガペー」というギリシャ語が使われていることは既に説明した。「アガペー」という言葉はギリシャ語社会ではそれほど普通には使われてはいない言葉であるが、新約聖書でこの言葉はたくさん使われている。新約聖書の中で「アガペー」という言葉は、私たちに対する神の愛として使われており、その神の一方的な御恵みの愛を知った私たちが、その愛を確信して、自分たちも教会の中でその愛を互いに表わして愛しあうようにならなければならないと教えられている。

       その意味で、「アガペー」という言葉はクリスチャンにとって特別な言葉であり、愛の概念を非常に強調しているものなのだ。これと同じ概念は昔のギリシャの世界にはなかったし、昔のヒンドゥー教や仏教にもなかったし、ずっとあとに出来たイスラム教の中でもこの概念は強調されてはいないものであった。キリスト教がインドに影響を与えた後にヒンドゥー教でもはじめて使われるようになったものである。仏教が慈悲について語るようになったのも、キリスト教が東洋に来てからのことであった。「愛」という概念は、そういう意味で聖書によって特別に強調されて教えられた概念なのである。

       今の時代ではこの言葉は広く使われるようになったが、それがどこから来たのか、なぜ「愛」という言葉があるのかについてはほとんどの人は考えもせずに、当然あるもののように思ってしまいがちである。しかし、本当はそうではなかったのだ。昔の世界を見るなら、聖書が命じている「」は、他と違って全くユニークで目立つものだったのだ。そのことを先ず覚えておいていただきたい。

       12章の1節と2節で私たちは、「自分を神に生きた供え物としてささげなければならない」というところから始まったが、ここから神への感謝の教えがずっとローマ人への手紙の最後まで続くのである。3〜8節では、どのように教会生活を送るべきかを教え、一人一人が神から与えられた賜物を正しく活かしなさいと命じている。9節からパウロは教会の愛について教えている。愛について教えるとき、これはクリスチャンの倫理の話であるとパウロは説明する。教会の中ではなぜ愛が強調されなければならないのかというと、そこには二つのポイントがあると私は思う。

       12章でパウロは、その書き方によって最初のポイントをはっきりさせていると思う。即ち、1章18節から1章の終わりまでのところでパウロは「クリスチャンではない偶像礼拝の社会はどうなってしまうか」を説明しているが、それに対して12章から14章(そして16章)では、それとは完全に異なる別の社会の建設のことを話しているのを見るのである。その文脈をしっかり覚えつつ12章から14章までを読まなければならないものだと思う。特に「愛に偽りがあってはならない」「兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさい」というパウロの命令は、1章とは際立った対比となっている。1章18節からの箇所を一言で言うなら、「クリスチャンではない社会は愛を失った社会である」ということである。

       第二のポイントは直接言葉としては語られていないが、「なぜクリスチャンの社会では愛をそこまで強調すべきなのか」という問いに対して、「神は愛だからです」というのがその答えだということである。それをヨハネは非常にはっきりと言っている。三位一体なる神がもともとの基準である。何を考えるにしても、私たちを創造した神がどのような御方であるかというところまで遡って考えなければ、本当の意味での深い思考はまるでなされていないことになる。神に目を留めなければならない。あくまでも神がすべての焦点となっていなければ、真の理解はない。神がどのような御方なのかをはっきりと覚えて考えるなら、クリスチャンとはどうあるべきかがよくわかる筈である。

       人類は神の似姿に創造されたということが創世記の最初に記されている。それによって「人類とは何なのか」を教えられる。何のために人は生きるのかも教えられる。人は、偶然の産物ではなく、神に似たものとして創造されたのである。「では、神はどのような御方なのか」という問いに常に戻って考えなければならないのである。「神はこのような御方です」ということがわかったなら、私たちは自分がそれに似たものとなることを求めなくてはならない。これは存在論のことではなく、倫理のことである。倫理において私たちは神と似たものでなければならないのである。

       1章18節以降のところにある人間の罪とは、「被造物のすべてにおいて神の真理は明白に啓示されているにもかかわらず、罪人となった人類は神の明白な啓示を避け、逃げ、逆らい、拒絶する」というところにある。その真理を阻み、それに逆らう。光を見ると、すぐにそれを隠そうとする。それが人間の罪の問題なのだ。神から逃げて行くというのが罪の本質である。しかし、神は愛であり、真理である。愛なる神から逃げるなら、どうなるのか。愛なる神から逃げるなら、社会の愛は崩れてしまい、社会の秩序は保たれない。

       真理なる神から逃げるならどうなるかというと、真理も崩れ去ってしまうことになる。そのような人の心や社会に真理の居場所はなく、偽りに満ちた社会になる。愛なる、真理なる、義なる神から逃げてしまえば、社会は正しさを失い、偽りの社会となる。それがローマ人への手紙1章で話していることである。真理を啓示してくださる神から、罪人はとにかく逃げる。その逃避の結果、すべては狂い、歪められ、崩れてしまう。その状態が極端なほどに進行すれば、1章に書かれた事のすべてが実現してしまうような社会になる。

       しかし、そこまで堕落するには相当時間がかかる。そして、それは神の憐れみによる。普通、社会生活のすべてにおいてそれが実現するには数百年或いは数千年もかかったりする。その程度はそれぞれの社会のあり方によって違うと思う。というのは、ジョン・パットンの例を見ると、彼は十九世紀に南太平洋のニューヘブリデス諸島(New Hebrides)に行って福音を伝えた。ニューヘブリデス諸島は、1980年に独立した約80の島々からなるバヌアツという国である。パットンはニューヘブリデスの原語を学び、聖書をその原語に翻訳したりした。

       その時代、彼らは常に戦争状態にあった。敵を殺して食べ、敵の子どもを食べたりしていた。一夫多妻で、妻が逆らうと殺して食べたりした。一人の強い男が多くの妻を持つので、多くの男たちは結婚できなかった。そのために、社会も狂ってしまう。実に動物的な生き方をしていた。前にも話したが、南アメリカの部族の中には今でもそれに似た生活をしている所がある。宣教師たちがそこに行って福音を伝えようとするが、文化人類学者は「学問的に重要な彼らの文化を守らなければいけない」と言って、彼らに宣教することに大反対する。しかしその中で救われてクリスチャンになった一人のリーダーは、「何を言っているのですか。私たちの文化は悪霊に憑かれており、常に戦って殺し合っており、私たちは本当にみじめなものなのです。クリスチャンになってやっと生きることの喜びを知ったのです。常に戦争状態にある日々から救われたのです」と言っている。

       部族内部も戦っては分裂するので、一つの部族が大きくなることはない。憎しみから離れられない生活を送っている。そして、誰が一番悪霊の力を持っているかの競争がその社会の基本的な関心事になっている。リーダーは、悪霊の力において自分を越える者が現われるのを常に心配しなければならない。ローマ書1章に書いてあるそのままの社会は実際に存在し得るのである。

       その最悪なものがアフリカのイーク族の社会であろう。それも話したことがあると思うが、彼らは互いに話もしない。話をするとしても、それは常に嘘でしかない。朝起きると、男たちは遠方に目を向け座っている。互いに言葉も交わさない。いきなり誰かが獲物を見つけると立ち上がって走り出す。獲物の方に向かわずにまず反対方向に蛇行しながら走って仲間の目を騙しつつ獲物に近づく。他人のために獲物を獲ることもしない。獲物を獲ると家に戻り、まず自分が少し食べ、妻にも与えるが、4〜5歳以上の子どもには与えない。4歳以上になると子どもは自分で獲物を獲らなければならないので、子どもが死ぬのは珍しいことではない。

       死人を葬ることもせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのである。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在するのだ。その社会の研究を書物にして発表した文化人類学者は、「アメリカ社会もこれに向かっているのではないか」とコメントしたために、学者の世界でひどく罵倒されたりしている。とにかく、クリスチャンではない社会はローマ人への手紙1章にあるような世界になるということである。

       「それとは正反対の社会を建設しなさい」と、パウロは私たちに勧めている。しかし、それと反対の社会の基本はどこにあるのだろうか。実は、ここにその社会の基本がある。即ち、その基本は地域教会にあるのだ。クリスチャンがクリスチャンの家庭を築くべきなのは事実であるが、新しい社会の基本単位は家庭ではなく、地域教会であることを忘れてはならない。そのことを忘れて、地域教会の親しみや兄弟愛から離れたマイホーム主義に陥ってはいけない。主イエス・キリストのからだは、私たちの個々の家庭を指しているのだろうか。そうではない。一つ一つの家庭はキリストのからだと呼ばれてはいない。天国に行ったときに、スミス家とか青木家とかが続くのかというと、そうではないのである。天国には“キリスト家”しかなく、皆が兄弟であり、一つの家族なのである。

       パウロは、新しい家族、即ちキリストの教会を指して教えているのである。「兄弟である」ということは、夫婦であるとか、親子であるとか、この世での兄弟とかいうことよりも、「主イエス・キリストにある兄弟」が一番の基本だということなのだ。それがキリストを信じた者たちの間で一番深い基本的な関係となる。クリスチャンとしての真の愛には家族としての愛が含まれる。それはクリスチャンとして互いに好意を持ち、親切に接し、自己犠牲を払うことを喜ぶ愛である。それだから、この新しい社会の愛というものは、地域教会において求められ、地域教会において実現されなければならない。

       三位一体なる神の似姿である人類は、アダムの時に堕落して神に逆らうものとなっていることを1章でパウロは指摘し、それが一つのグループになっている。そこから神は、キリストにある“新しい人類”を造ってくださった。「新しい人類を造る」とは即ち、キリストの十字架と復活によって罪と死からの救いを与えて、歴史を変えていくということである。その新しい人類は、本当の意味で神の似姿として生きるものでなければならない。私たちは皆アダムの子であり、この世にあってはアダムの罪の性質を持っている者ではあるが、その悪と真剣に戦うことによって新しい人類として歩まなければならない。

       では、クリスチャンとして、何を求めているのか。また、何を求めてはいけないのか。自分はいったい何者なのか。そのことを考えるとき、「私は三位一体なる愛なる神の似姿である」ということを先ず覚えなければならない。それは新約聖書の中で強調をもってずっと教えられていることである。これは非常に重大な認識であり、また事実である。周りの社会は崩れていき、堕落していく。どこまで堕落していくか、またどれほど速く駄目になっていくかは、いろいろな影響によって差があるだろう。いずれにしても、それは堕落していく過程の途中にある。この世と調子を合わせるなら、私たちも同じような堕落の道を歩むようになってしまう。そうあってはならない。

       自分を生きた供え物として神にささげて、神を愛し、神の御言葉に従い、そして三位一体なる神を表わす者として生きることを求めていくなら、この世とは正反対の道を歩むことになるのだ。それ故、偽善的ではない愛を持たなければならないということが12章の9節から始まっており、「真の愛は悪を憎むものだ」と教えるのである。悪を憎まなければ愛を守ることはできない。悪の本質は何かというと、最終的には神を憎み、神に逆らう心なのだ。神を憎む者に心を許して、神を憎む者と妥協し、その悪を許すなら、愛からどんどん離れていくようになる。それ故、「善に親しみなさい」と命じている。もう一度言うが、「親しみなさい」の原語は「すがる」という意味の言葉である。善から離れないように強く掴んで離さず、善にすがるのである。

     

    情け深さ

       「兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさい」というのは愛の話の続きであるが、パウロは9節とは違う言葉を使って話している。このクリスチャンの本当の愛について述べた最初の文は、直訳すれば「兄弟愛において、互いに親しい」というものである。「兄弟愛」というギリシャ語は「フィラデルフィア(Philadelphia)」という言葉である。兄弟の愛を表わす「フィレオ」という言葉と「アガペー」とはどう違うのかというと、「フィレオ」がより情緒的な面を表わしているのに対して「アガペー」はもっと契約的な行ないを強調している。そういう意味で「フィレオ」の愛は「アガペー」の愛よりも少し弱いと言える。

       なぜ「フィレオ」の方が弱い言葉だと言うのかというと、ヨハネの福音書の21章で主イエスがペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねているが、主イエスは「アガペー」という言葉で聞いているのに対してペテロは「フィレオ」という言葉を使って「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えているからである。キリストが捕らわれた夜、大祭司の中庭でペテロは三回キリストを知らないと言った。それで、復活したキリストに「アガペー」という言葉で「わたしを愛しますか」と尋ねられたときに、ペテロは心を痛めて、「アガペー」という言葉では答えることができなかったのである。

       「アガペー」の愛は「フィラデルフィア(兄弟愛)」を要求するものであり、「フィラデルフィア」は親しさを要求する。ここでパウロは「フィラデルフィア」を持って心から互いに愛し合うように勧めている。この「愛し合いなさい」という言い方もまた「フィラデルフィア」とは違う言葉が使われている。パウロはギリシャ語の「ストルゴス」とフィレオ」を一緒にした言葉を使っている。「ストルゴス」というギリシャ語は、家族の愛を意味する言葉である。この「ストルゴス」という言葉はそのままの形では新約聖書のどこにも使われていない。ここでも「ストルゴス」と「フィレオ」が一つになって「家族的な親しい愛」を表わす「フィロストルゴス」という言葉になっている。だから日本語では「心から互いに愛し合いなさい」という訳になるわけである。ローマ人への手紙1章にはこれと反対の言葉が使われている。「」の反対は、29節から32節でいろいろな言い方で表現されている。

    彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

       これらすべては愛に反する思いや行為である。どれもみな愛から離れているものであり、愛を知らないものであり、愛を破壊するものである。これらは偶像を崇拝する社会の中で愛が失われている状態の描写である。31節に、「約束を破る者」とあるが、これは「契約を破る者」のことである。「情け知らずの者」は、「アストルゴス」という言葉であり、12章10節で使われているギリシャ語と同じ語根を持つ言葉である。「」は否定を表わす接頭辞であり、「アストルゴス」とは、家族の愛を持っていない者のことであり、家族的な愛と親しみを知らない者のことである。それは愛に反するこの長いリストの中の一つの要素として挙げられている。

       悪者はどのような意味においても本当の家族の愛を持つことがない。邪悪な子らは両親を愛さず、従おうともしない。殺意、虚偽、邪悪な思いや態度や行ないが彼らの家族生活の特徴となっている。アダムとエバが罪を犯した時、彼らの間の関係は破壊され、今に至るまでも破壊されたままなのだ。神御自身が人と人との間にあって祝福となられる。だから、人々が神から離れるなら、祝福であるはずの人間関係は呪いとなる。罪を犯したアダムとエバの最初の子どもカインは、自分の兄弟を憎んで殺した。その子孫らも、はっきりとその呪いを表わしている。アブシャロムは自分の父ダビデを殺そうとした。自然なはずの家族の愛や親しみは、罪人においては崩れてしまうのだ。

       しかし、世のすべての人にとって、依然として家庭は祝福の源であるということも事実である。神がそのように定められたからである。だから、パウロはこの「兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさい」という言い方によって、クリスチャンは互いに兄弟であり、家族であるということを強調している。兄弟の愛を、家族的な愛を、地域教会の中にあって持たなければならない。そのことを命令して教えている。気持ちの部分もなくはない。互いを兄弟として認め合い、兄弟として愛し合うのである。地域教会の部分である私たちは、互いに兄弟愛を保ち、兄弟愛のうちに互いに情け深さを示すべきである。

       そのことを言う時に認識しなければならないことは、三位一体なる神が基準であるということだ。このことは常に認識されなければならない。三位一体なる神の三つの位格の間にあるその完全な愛が基準であり、その愛を私たちは求めるのである。このことは、義においても、きよさにおいても、他のすべての倫理においても同じである。「正しさを求めなさい」ということを聖書が命じるとき、神の正しさが基準なのだ。

       「私は罪人なのだから、少し妥協して70%くらいにでもなれたらそれでいいではないか」と言ってはならない(とは言っても、70%までいく人はほとんどいないのだ)。「70%を求めよう。それが無理なら、50%でも十分ではないか」と言ってはならない。そのように妥協する考え方をしたらおしまいなのだ。「きよさを求めるのもいいけど、極端に神のきよさなんかを基準にしたら大変だ。他人と比べてそれほど悪くならなければそれでいいのだ」と考えることは許されない。マタイの福音書5章43節からのキリストの教えを見てほしい。

    『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。

       つまり、神が基準なのだ。神がどのような愛を持っておられるかに目を留めつつ愛について考えなければならない。神がどうなさるかを見て、私たちもどうすべきかがわかるのである。続いて次のようにキリストは教えている。

    天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

       このように、「神の愛が基準なのだ」と、主イエス・キリストは教えている。神の愛が唯一絶対の基準であるので、それを基準としてもって愛を考えなければならない。愛なる神を信じるなら、その愛を求めなければならない。その愛に対しての応答として愛を考えなければならない。「私は義なる神を信じる」と言うなら、義を求めなければならない。「神が聖であることを信じます」と言うなら、聖さを求めなければならない。

       ローマ人への手紙1章でパウロは、社会のすべてが崩れてしまう状態について話しているが、その始まりは、神のことを自分の心の中に留めたくないところから始まったのである。神を覚えたくない。神から逃れたい。神について考えたくない。神の真理を阻む。神になんか感謝をささげたくない。そして、真の神を神として礼拝せずに、神以外のものを神にし、偶像を作ってはそれを拝み、それに仕える。それらは自分たちの手で自分たちの好みに従って作られた偶像でしかない。それらの偶像は礼拝のあり方について命令したり要求したりしないので、自分たちの都合と好みと欲求に合わせてその偶像を礼拝することができる。自分たちの好む教えをそれに付加していけばよい。自分たちで全部決めることができるものなのだ。

       その偶像礼拝の社会は、自分の好む神々を自分の手で作り上げて満足し、真の神を覚えようとはしない。真理を阻んで、聞こうとしない。神のことを考えたくないので、その心はどんどん神から離れて、暗くなっていく。偶像礼拝的な社会にあっては真の正しい愛を保つことはできない。混乱があり、夫婦にふさわしい愛は失われ、不品行や同性愛等の情欲へと歪められてしまう。父なる神を知らない彼らは、本当の愛を知らず、それを求めもしない。

       私たちはその反対でなければならない。もう少しここで家庭について考えたいが、家庭は神から与えられたものだ。神はアダムとエバを夫婦として創造された。だからこそ私たちは結婚式を執り行う時に、聖書の御言葉に従って「神が一つにしたものを人が引き離してはならない」と宣言するのである。そのように、正しい結婚は、神が夫婦の創造主であることを宣言するものなのだ。子どもたちもまた神から与えられたものである。子どもがどのような人として生まれてくるかということは非常に重大な問題であるけれども、私たちはそのことについて選択することができない。

       即ち、子どもが男なのか女なのか、知能が優れているのか劣っているのか、温和なのか扱いづらいのか、などを私たちは決定できないのである。これらは全て神から来るものであって、私たちの選択権の範囲外にある。しかし神は、子どもが愛するに値するかどうかに関係なく彼らを愛するように私たちに要求しておられる。神から離れた子どもを変わらない愛をもって愛し続けることが私たちにとって難しいのは事実だ。にも関わらず、聖書は子どもを選ぶ権利を親に与えていない。

       そして、ここでは幼い子どものことを指しているのではない。また、子どもの容姿や性格が気に入らないという理由で子どもを捨てるような親のことは問題にしていない。ここでは、子どもの側が親と親の愛を拒絶する時であっても、親が変わらぬ愛を保つべきことに言及しているのである。神の家族は、神の永遠の選びによって一つに結び合わされたものである。人が他人の心の中を覗いて、選ばれているかいないかを判定することはできない。それができると考えるのは大変な罪である。私たちが知り得ることは、「その人が洗礼を受けているかどうか、キリスト者らしく生活しているかどうか、正統な信仰を告白しているかどうか」ということだけである。

       洗礼を受けて主イエス・キリストを信じる信仰を告白する全ての者を私たちは受け入れ、「兄弟」として扱うべきである。そこには兄弟愛をもって情け深く接することも含まれる。神がその人を兄弟として与えてくださったのだ。その人と付き合いたいかどうかという私たちの思いは、ここでは問題外である。私たちにはこのことについて選択権はない。神の子らを愛し、神の子らに対して親切に情け深さをもって接することは神の栄光を表わすことなのである。

       「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と主イエスは命じておられる。パウロも同じことを教えている。新しい人類の部分として地域教会の中にあって愛を保ち、愛を求め、愛のために戦うのである。それ故12章の「愛に偽善があってはならない」という命令も、「心から互いに愛し合いなさい」という命令も、気持ちや感情のことも含めた私たちの心の状態について命じているのである。

       この箇所は、他人に対する自分の感情や気持ちを制御しなければならないという命令であることに目を留めていただきたい。「人が感情を野放しにするのを制御するように命令する権限は神にはない」と教える現代の多くの人々の考えとは反対のことを、パウロは教えている。そして多くの人々は、「気持ちとか感情というものは支配できないものだ。行ないについてならまだ何とかなるけど、心の中で起こることは支配できない」と考えている。しかし、「思いや感情に対して神は命令できない」というようなことは聖書のどこにもない。むしろ「このような心を持ちなさい」「このような思いを持ちなさい」という命令が聖書の至るところにある。「心にある悪い思いや悪い感情を捨てなさい」と、神は明確に命じておられるのだ。

       その命令は決して単純なものではないのは事実だが、何を求めなければならないのか、何が基準なのかというと、「神が完全なように、あなたがたも完全であれ」と、明らかに命じられているのであって、それが基準である。神のようになるのを心から求めること、それがあくまでも最重要なポイントなのだ。そういうわけで、「兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさい」と言うとき、「地域教会がキリストのからだであって、クリスチャンは互いに永遠の兄弟である」ということを覚えて互いに愛し合わなければならないと教えているのである。

     

    栄光

       次のところは、新改訳では「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」という訳になっているが、ここでパウロはピリピ人への手紙2章3節と同じポイントについて話しているのだ。ピリピ人への手紙にも同じような翻訳の問題があるが、ピリピ人への手紙2章3節を見てほしい。

    何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

       「自分よりもすぐれた者と思いなさい」という翻訳はローマ人への手紙12章10節の翻訳と似ている。ここでパウロが言おうとしているポイントは同じものである。3節で「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と言ってから、4節では「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と言っていることに目を留めてほしい。4節と5節を見よう。

    自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

       「主イエス・キリストのうちにも見られるもの」と言っているので、主イエス・キリストが模範なのである。では、主イエス・キリストが私たちを見て、「ああ。あなたたちはわたしよりもまさってますね」と思っただろうか。それは絶対に有り得ない。「他の人は皆、私よりもまさっている」と思うこと自体おかしなことであり、真実ではない。ある人はすべての事において私たちよりも優れているだろうし、また別の人はある点では私たちよりも優れているが、別の点では私たちの方が優れていることがある。それが普通である。誰が優れているのか、誰が優れていないのかを言おうとしているのではない。それ故この箇所は、「人を自分よりも大切だと思いなさい」というのが正確な訳である。では、「人を自分よりも大切だと思いなさい」とはどういう意味なのかというと、それはピリピ人への手紙2章6節からのところで説明されている。

    キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

       キリストは、私たちのことを御自分よりも大切だと思ってくださったので、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださったのである。自分の方が大切だと思ったなら、キリストは何も天から降りて来なくてもよかったのだ。しかし、キリストは天にある御自分の栄光を惜しむことなく、喜んで捨ててくださった。私たちのことを御自分よりも大事だと思ってくださったので、この世に来られて、私たちを罪と死から救うために私たちと同じ人間となってくださった。しかも、この世では貧しい者となってくださったのである。私たちのために、神の栄光を捨てて、ナザレの町の貧しい大工となられた。

       豊かな日本に住む私たちには、本当の意味での貧しさはわかっているつもりでいても、わかってはいない。主イエス・キリストは、お生まれになった時から貧しい者となってくださり、貧しい者として生活を送られた。まだ成人する前に父のヨセフが死んだので、父の代わりに弟や妹の世話をし、母マリアを助けて家族全体の生活を支えるために働いた。そういう意味で、主イエス・キリストは家庭内の難しさを知らない御方ではなかった。マリアは息子イエスを信頼して何でも相談した。家族のすべてのことをキリストは支えていた。

       兄弟は少なくとも六人いた。男の兄弟の名が四人記されており、「姉妹たち」という言い方があるので、少なくとも二人以上の妹がいたと思われる。キリストを含めると7人兄弟ということになるが、貧しいガリラヤのナザレという町で、大工の仕事をしながら家庭を支えた。「ナザレから良いものが出るだろうか」とナタナエルが言ったほどに、ナザレは貧しくて教育もないような場所だった。そのような場所で主イエス・キリストは家族を守り、教え、働いた。主は、私たちのために、御自分を本当に卑しくして世に来てくださった。

       私たちの方がキリストよりも優れているとは、主イエス・キリストは思っていなかったし、今も思っておられないのである。しかし、私たちの方が大切だと思ってくださった。御自分のいのちをも私たちのために捨ててくださった。しかも十字架という極刑を受けることによってである。この世では蔑まれ、憎まれ、迫害され、十字架刑という屈辱の死にさえも甘んじてくださった。私たちのような罪人のために。これは実に一方的な愛にほかならない。

       相手がすべてにおいて実際に自分よりも優れている者であれば、自分のいのちを捨ててその人を生かすのも理解できなくはない。「私よりも彼の方がすべてにおいて優れているから、私よりも彼が生きて人々のために働くべきだ。自分のいのちを捨ててでも彼を生かそう」という思いは理解できるものである。その場合も「自分を犠牲にする」という言い方はできる。それは論理的には誰でも理解できる思いであろう。アインシュタインのような科学的な頭脳を持っていて、バッハのような優れた音楽の天才で、カルヴァンのような神を恐れる心と神学を持っていて、パウロのような福音の力と情熱を持つ人がいたなら、その人と自分のどちらかが死ななければならないという選択に迫られたとき、誰でも「彼を生かし、私は喜んで死のう」とするに違いない。

       キリストはすべてにおいて私たちよりも遥かに遥かに無限に優れており、キリストと比較すれば私たちは、優れていないどころか、汚れているのである。私たちは、罪深い自己中心的な愚か者なのだ。主イエス・キリストはそのような私たちを愛し、そして私たちを大切にしてくださり、私たちのために御自分を捨ててくださった。それが十字架の話であり、十字架の愛なのである。聖書では、その愛を「アガペー」という言葉を何度も使って話している。「他の人を自分よりも大切だと思いなさい」というのは十字架の愛のことであって、主イエス・キリストが私たちに対して表わしてくださった愛なのだ。教会の中ではその愛が基準でなければならないと言っているのである。

       他のクリスチャンを愛さないような思いになるのは許されない。キリストが愛してくださり、キリストがその人を愛してくださっておられる。パウロは、ローマ人への手紙14章で教会の問題を取り扱うときに、いつもそこに戻って話している。主イエス・キリストが死んでくださって贖ってくださった者を、あなたも愛し祝福しなければならない。神の御子キリストが私たちを御自分よりも大切なものとして顧みてくださるのであるから、私たちもキリストを模範として生きるべきである。そしてキリストのような愛を持って互いを愛し合うべきである。

       それ故パウロは、「愛には偽りがあってはならない。偽善的な愛になってはならない」と9節で言ってから、10節ではもっと実生活のレベルで愛について話している。「愛には偽りがあってはならない」という命令に続いて、まず「悪を憎み、善にすがる」という広い原則を与えている。そして次に「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い」「尊敬をもって互いに自分よりも大切だと思いなさい」というもっと細かい原則を与えている。パウロは他の箇所では真実な愛を教えている。それらのどの箇所を見ても、神御自身が基準となっているのを見るのである。それ故、クリスチャンは神御自身に目を留めてすべてを考え、適用し、そして神の御前で自分自身を吟味するものなのだということをパウロは教えていると思う。

       自分を吟味するとき、基準がどこにあるのかを覚えなければならない。そして、基準を低くしてはならない。眼鏡を外して、曇った鏡を使い、あかりを暗くして、それで自分の歯を見ると「白いな」と思うかも知れないが、明るくして、鏡を拭いてきれいにして、眼鏡をかけて見ると「ああ。茶色だ」ということに気が付くかも知れないのだ。吟味するための基準は唯一神御自身なのである。そのことを忘れて自分を吟味するなら、何も自分を吟味することにはならないのである。そのような吟味では、自分の罪を深く悔い改めることもできないし、罪に対する戦いも本当に浅いところで終わってしまうことになる。

       今日の交読で読んだダビデの詩篇71篇を見れば、ダビデがどれほど神中心の思いを持っていたかを深く感じさせられると思う。どんな事においても、ダビデには神御自身が中心であった。神に向かってダビデは、「私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています」と言う(8節)。「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう」とダビデは祈っている(15〜16節)。

       ダビデは王であり、一日中楽しんで踊っていたわけではない。王として十分に忙しい日々であった。息子は謀反を起こしたり、ベンジャミン族が革命を起こしたり、国の内外に多くの問題があり、その采配を振るい、多くの会議に出たり、軍に指令を出したりしなければならなかった。その忙しいダビデは、神を忘れて忙殺されていたのではない。神の御前で、神に感謝する心をもって自分の忙しい日程をこなしていた。私たちも三位一体なる神を基準として覚えつつ、キリストにあって与えられている恵みに感謝して、聖餐式を受けたいと思う。

       聖餐式において、キリストのからだである地域教会として、一緒に神を求めたいと思う。なぜならキリストにあって回復された人間性は、三位一体なる創造主と似たものとなるからである。人間はもともと神の似姿であった。回復された人間、すなわちキリストにある人間は、最初の創造の時に与えられた神の命令と目的を成就するものでなければならない。とりわけ、愛と義と聖さにおいて神に似たものとなるのは、キリストにある人間に与えられた召命であり義務である。

       愛についてのパウロの説明は、新しい社会の土台についての説明である。新しい社会の特色は愛にある。私たちが真の兄弟愛をもって愛し合い、互いを自分より大切だと思い、キリストに目を留めて歩むなら、私たちは神の栄光を表わす者として成長していくことになる。神の愛とその義と聖さを覚え、自分の罪を悔い改め、罪を捨て、神の似姿として創造された者であることを心に留めて、神が完全であるように完全なものとなることを、心から一緒に求めたいと思う。

     

    ――2001年11月25日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章9節

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