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    ローマ人への手紙12章11〜13節


    12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

    12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

    12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

    2001.12.02. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    愛の特質

    12章11〜13節

    11勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。13聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

       ローマ人への手紙12章9節から13節までは、一つの段落であり、一つのポイントについて説明しているということを話してきたが、ここでパウロは最初に「愛には偽りがあってはならない」と強く命じている。続いて、偽りのない愛とはどういうものかを説明している。9節の後半にある「悪を憎み、善にすがりなさい」という命令は、偽りのない愛の一番広い原則である。偽りのない愛は悪を憎む愛であって、善にすがり、善に親しみ、善を求める愛でなければならない。つまり、愛にははっきりした倫理があるのだ。義の上にしっかりと立って離れないというのでなければ、本物の愛ではないのである。そのことがまず原則として示されている。

       そして10節から13節のところでは、少し違う文法構造を用いているが、そのすべての命令の言葉は文法的に統合されて9節の最初の命令に従属するものになっているということは既に十分説明したと思う。先週は10節を一緒に見た。そこでは兄弟愛についての二つの命令が与えられている。「兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい」という命令と、「相手を自分よりも大切だと思いなさい」という命令である。同じように11節、12節、13節においても、本物の愛とはどのようなものなのかをパウロは細かく教えている。

       このローマ人への手紙が書かれた時の聖書には、章や節はなかった。章と節は、ずいぶん後になって、勉強するときに聖書の場所などを把握しやすくするために付けられたものである。それで、この11節と12節の分け方については神学者の間では意見が違っている。というのは、11節の「勤勉で怠らず、霊に燃える」は一つの対語になっており、次に「主に仕え、望みを抱いて喜べ」というのも対語として考えることができる。そして、「患難に耐え、絶えず祈りに励め」というのも対になっている。13節の「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」も対語とみてよい。

       つまり、9節で「愛には偽りがあっていけません」という命令の後に、まず対語で「善と悪」が広い原則として与えられてから、10節〜13節でも命令の言葉が対語(ペア)で与えている。そのように全部の命令が対語で与えられていると見るなら、この箇所の11節と12節の分け方はちょっとおかしいということになるわけである。現代の一部の学者の中には、「確かに10節の命令はペアになっているが、11節と12節の命令はペアではなくて三つずつの組になっており、13節がまたペア(対)になっている」という解釈もある。

       文法的に特別に区別がはっきりしている書き方ではないので、対語として捉えても、三つを一組として捉えても、別に構わないと思う。それで解釈に特別な影響があるわけではないからである。ただ、その分け方によって、何をどこまで強調するかが多少違ってくるだけである。二つの異なる観点から見ても、何ら意味において失われるものはないと思う。これらの命令が対をなしていると見るのは適切な考え方だと私は思う。そういうわけで、11節の最後の命令と12節の最初の命令は対をなしているものであり、一続きの対語となっていると考えてよいと私は思う。

     

    熱心

       では、11節の最初のところを見よう。「勤勉で怠らず、霊に燃えなさい」という対語でパウロは命令を与えている。この最初の対は「熱心でありなさい」ということだと思う。「勤勉」について言えば、「怠け者になるな」ということである。つまり、「自分に与えられた働きを熱心に一生懸命にやりなさい」と言っているのである。もちろんこれも9節の愛の命令の中で考えることである。文法的にもそのことは明らかである。本当に愛をもって神に仕え、兄弟愛をもって互いに仕えあうなら、怠け者にならずに勤勉に働くのは当然である。勤勉でなく、怠けたりしているなら、それは愛に問題があるということになる。

       怠けることには習慣的な部分もあろう。幼少の時から怠け者だったために、怠ける習慣が身に付いてしまった人がいる。仕事を怠ける道があれば、すぐにそっちに行ってしまう。それが習慣になり、性格的なことになる人は実際にいる。しかし、どうしても怠けてしまう傾向のある人がその罪を乗り越えたいと思うとき、どこから力が来るのか。それは、本物の愛を、神に対して、また兄弟に対して持つところから来るものなのだ。その愛を持つとき、人は勤勉に働くようになる。愛なしに、ただ「勤勉にならなければいけない」と思っても、本当の意味で勤勉になることはまずないと思う。本物の愛を持つなら、たとい怠ける癖や習慣が身に付いてしまった人であっても、勤勉に働くことにおいて成長する筈である。

       クリスチャンになったその瞬時に、その悪癖や悪い習慣が一気に消えてくれれば嬉しい限りなのだが、そう簡単にはいかない。クリスチャンになってから、私たちは自分の中にあるいろいろな罪に気付かされ、それと戦い、日々成長を求めなければならない。自分の罪に気が付いてそれと戦うときに、ただ「こうしなければ」という思いを持ってがんばるだけでは成長しないし、罪に対する勝利も得ることができないと思う。ここでパウロは本物の愛について話している。その愛は勤勉であり、怠けることをしない。

       次の言葉は、「霊に燃える」という翻訳になっているが、この「」という言葉は「御霊」と同じギリシャ語が使われている。それで、「霊に燃える」という翻訳もできるが、「御霊において燃える」という翻訳も可能である。「聖霊」と書けばはっきりするが、このギリシャ語の「」という言葉は、御霊についても人の霊についても言える言葉なので、両方の翻訳があるわけである。「霊に燃える」と言うと、「心の中において熱心であれ」という意味になる。しかし、パウロはむしろ御霊の力そのものに言及しているのであって、神の御霊が与えてくださる熱心さを持つように命じていると思われる。それ故ここは「御霊において燃える」という訳の方が正しいと私は思う。つまり、「御霊の力をもって熱心になりなさい」と言っているのである。

       「燃える」という言葉も、文字通りには「燃える」とは少し意味が違うけれども、この場合は文字通りの訳よりも「燃える」と訳す方がよいように思う。だから、「燃えなさい」とは、「御霊の力によってクリスチャンとして熱心な心を持って生活を送りなさい」という命令なのだ。熱心さは、本当の愛において当然のものである。それが11節の最初の一対の命令においてパウロが私たちに教えていることである。偽善的でない、偽りのない愛の心は、真剣且つ熱心であって、御霊の力において燃え、神に仕え、互いに仕えあい、御国を求めるものである。熱心さと真剣さに欠けているなら、それは間違いなく愛に問題がある。怠惰を治すには、単なる自己鍛錬ではなく、真の愛こそ必要なのである。

     

    主に仕え、望みを抱いて喜ぶ

       次の一対の命令は、「主に仕え、望みを抱いて喜びなさい」である。この一対の命令は旧約聖書と密接な関係があるが、現代の多くのクリスチャンはその関係を見落としている。この言い方を二十一世紀に生きる私たちが読むと、これが日常生活の一般的な命令のように考えてしまいやすい。それで非常に広い捉え方をしてしまう。つまり「主に仕える」というのは、神のために何かの奉仕をするとか、何かの働きをするということであって、正しい心で生活を送っているならば、どんな事であれ、それは主に仕えることになるのだと思ってしまうわけである。

       そして、「望みを抱いて喜びなさい」というのも、「毎日の生活を楽しく過ごしなさいという意味だ」と思ってしまうのである。一般的にそのような考え方をしてしまうものだ。それが全く間違いだと言うわけではない。しかし、ここにはもっと重要な意味がある。今朝交読した詩編にもあったが、詩篇を読めば「喜び歌いなさい」という言い方がよく出て来ることに誰もが気付くと思う。心からの喜びをもって主への賛美を歌い、主の御前で喜ぶようにと、詩篇は私たちに繰り返し命じている。だから「喜びなさい」という言葉は、旧約聖書の中では第一に礼拝のことを指す言葉なのだ。

       申命記の中でも、イスラエルは年に三度エルサレムに集まって基本的な三大巡礼祭を守ることが命じられている。過越しの祭り(種を入れないパンの祭り)、七週の祭り(ペンテコステ)、仮庵の祭りである。それらの祭りについてモーセが教えるとき、「神が選ぶ場所で、喜びなさい」と命じている。喜ぶためにその祭りがあることが強調されているのである(レビ記23章40節、 申命記12章7節, 12節, 18節; 14章26節; 16章11節, 14節, 15節; 26章11節; 27章7節)。

       同じように「主に仕えなさい」という命令も、旧約聖書を見ればこれは礼拝につながる言葉なのだ。モーセの十戒の二番目の戒めは偶像礼拝を禁じる命令であるが、そこでは「偶像に仕えてはならない」と命じられている(出エジプト記20章5節)。仕えることは、礼拝につながることなのだ。「主に仕える」ことには広い意味があるのは事実だが、何よりも重要な第一義は礼拝にある。「礼拝のことだと言うなら、それは生活の話ではないということなのか」と尋ねるなら、勿論そうではない。パウロが日常生活を無視して礼拝だけに言及していると思ってはならない。むしろ、「礼拝が中心である」と言えば、それは生活のすべてにおいて適用されると考えるべきである。

       ローマ人への手紙を受けたローマの教会の人たちが毎週教会で読んだり学んだりしていた聖書は、創世記からマラキ書で終わっているものであった。新約聖書の書簡の一つか二つくらいは既に書かれてあったかも知れないが、新約聖書はまだ書かれておらず、基本的には旧約聖書しかなかったのである。それで「主に仕える」という言い方を彼らが旧約聖書から見るとき、申命記や詩篇などを通してその言い方を解釈していたのは明らかである。これは礼拝の話なのである。「喜びなさい」も、ともに礼拝に集まって神の御名を賛美する話なのである。クリスチャンにとって、礼拝は生活全体の中心である。

       日曜日の朝に教会に来て、喜んで神の御名を讃めたたえたあと、家に帰るやいなやすぐにブツブツ文句を言い始めて、心が暗くなり、次の日曜日まで神の御名を一度も口にせず、考えもしないで、クリスチャンではない人たちと変わらない生活を送り、日曜日になるとまた明るい気持ちになって神を賛美しに来る筈はないと思う。礼拝は私たちの生活のすべての中心である。だから、私たちはここで主に仕え、心から喜んでいる。その心が、生活のすべてを支配する筈である。そして、クリスチャンとして成長するということは、「礼拝の心がだんだんと生活全体を支配するものになる」ということに他ならない。

       12章1〜2節で見たように、礼拝において私たちは自分を生きた供え物として神にささげているのだ。ここで私たちは神との契約を新たにしている。そして、毎日の生活において主に仕え、喜んで神を讃美しながら生活を送るのである。家庭でも、職場でも、私たちは神に仕え、神を喜ぶのである。礼拝と生活を、二つの違うものとして考えてはならない。礼拝は、自分の人生の最も本質的なところであることは何度も説明した。そこから毎日の適用というものが出て来る。そういう意味で、「常に喜びなさい。常に主に仕えなさい」とパウロは命じている。礼拝においてそれは当然であるが、その同じ心がクリスチャンの生活全体を支配するのでなければならない。

       なぜこのことを執拗に強調するのかというと、現代の私たちが「主に仕え、喜びなさい」という表現を読むとき、特別に言われなければ、その礼拝とのつながりに気付きもせず、考えもしない危険性があるからである。初代のローマの教会の人たちがその表現を読むとき、礼拝のことをまず考えた。そして礼拝の適用として生活したのである。旧約聖書は明らかにそのように教えているからである。

       もう一つ、「望みを抱いて」という強調がなされていることにも目を留めなければならない。パウロはローマ人への手紙の中でローマの教会に対して、繰り返し「望み」について教えている。「望み」をもって「喜ぶ」のである。パウロが「望み」について話してきた理由の一つは、現にローマの教会は試練に直面しており、これから更に激しい試練に入ろうとしていたからである。試練にぶつかっている者は、望みを抱いて喜ぶのでなければ、喜びはないのだ。コリント人への第一の手紙15章でもパウロは「復活はない」と言っている人たちに対して、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」と言っている。つまり、死者の復活がないのなら、クリスチャンは誰よりも哀れな者なのである。

       この世の中に生きている間は、天国ではない。天国ではないということに気付いたとき、驚いてはならない。いろいろ不満がある筈だ。「これが足りない、あれが足りない、これが欲しい、あれが欲しい。どうしてこうなのか」とか、思う筈なのだ。この世は天国ではないからである。ここは戦う場であり、戦場なのだ。戦場には戦いがある。これはあまりに当然過ぎることだが・・・。いろいろな問題にぶつかり、いろいろな問題に気付かされる。しかし、すべての中にあって、「望みを抱いて喜びなさい」とパウロは命じるのである。今楽しい状況にあるから喜べと言っているのではない。主の御霊の熱心をもって、心から神を愛し、隣人を愛し、戦って行くなら、望みがある。そこから喜びの力も与えられるのだ。望みを捨てたらおしまいなのだ。

       この「望み」は、今週頑張ったら来週は良くなるというような話ではない。そのレベルのものもあるかも知れないが、パウロはそんな話をしているわけではない。そして、私たちには歴史の中の確固たる望みもある。福音を伝え、地域教会として正しく生活するなら、神が祝福してくださり、成長させてくださる。いつの日か、日本全国が主イエス・キリストを礼拝する国になる。そのことを私たちは望むのである。昔の西欧の野蛮人たちはクリスチャンになった。昔のフランス、ドイツ、イギリス等はみな野蛮人であったが、福音によって変えられたのだ。だから、「日本がクリスチャンになることは有り得ない」と言ってはならないのである。スウェーデンのような野蛮人の中の野蛮人たちでさえクリスチャンになったのだ。

       日本は野蛮人ではないが、それが却ってクリスチャンになる妨げになっているのかも知れない。それでも私たちは、「望みを抱いて」福音を伝えるのである。そのような歴史の中にある望みもある。私たちは、この世からの祝福を受けている時でも、永遠の祝福とキリストの永遠の栄光とを求めつつ喜ぶ。イザヤが言うように、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」のを私たちは望んでいる(イザヤ書11章9節後半)。私たちは確かな望みを抱いてこの世にあって神の福音を宣べ伝え、神の御国を求めるものである。それも私たちの力であり、私たちの望みであるけれども、真の望みはこの世にではなく、永遠の神の御恵みにこそあるのだ。

       それ故、どんなに望みを持っても、どんなに戦っても、このような大きな意味ある戦いは、一つの世代では終わるものではないことを覚えよう。これは何百年も何千年もかかるような戦いである。主イエス・キリストは「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という大宣教命令を教会に与えてくださったが、二千年経った今日でもまだその命令の成就は見えていない。しかし、昔の弟子たちと同じように、私たちも今その同じ命令を受けて、全世界がクリスチャンとなることを願って、望みをもって救いの福音を伝えているのである。

       大きな使命やビジョンはどんなものであれ、一つの世代だけでは完成しないものである。一人一人が持つ望みは、その大きな使命の中の一部としてある。しかし、人によって差があるが、ある人はあと十年、或いは二十年、或いは三十年、或いは四十年、或いは五十年、或いは六十年、この世の戦いを卒業して天に召されるのだ。私たちのこの世での人生はそれほど長いものではない。この世の中で戦い、そして働くが、主イエス・キリストにお会いする時が間もなく訪れる。「望みを抱いて喜ぶ」ことの中には、主イエス・キリストの御前で、自分に与えられた働きと使命を果たし、そして主イエス・キリストの御前に立って裁きを受け、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と主イエス・キリストが言ってくださるのを望むことが含まれている。

       望みを抱いて戦うのは、この戦いには終わりがあることを知っているからなのだ。この戦いは、神の勝利に終わることを私たちは知っている。罪の勝利ではない。死の勝利でもない。この罪に対する大きな戦いの中にあって、私たち一人一人に与えられている働きはとても小さいけれども、その戦いに参加できるだけでも光栄だと思うべきである。神の絶対的な勝利を望んで私たちは喜ぶ。最終的な救い、永遠の勝利が、そろそろ訪れる。主イエス・キリストが再臨して、全人類を墓から呼び出して義をもって全世界を裁き、すべての罪を取り除き、御自分を信じた人々を永遠の神の御国に迎え入れてくださると知っているからである。この世にある私たちの喜びの全ては、その中に永遠の喜びを見出すことができなければ、その喜びは空しいものであり、いずれ失われる。

       あるクリスチャンたちはそのことがピンと来ないと言っているが、それは聖書の歴史観を持っていないからなのだ。学校では「永遠のむかし」という言い方では教えられなかった。けれども、それに近い途方もない大昔(150億年前)に何かの偶然で大爆発が起こって宇宙は始まったと教えられている。いわゆる進化論である。その爆発はビッグバンと呼ばれ、大爆発によって生まれた宇宙は超高密度,超高温で単調な素粒子から成っていた。それが急速に膨張冷却し、熱核反応により陽子と電子のプラズマ状態になり、更に電子と陽子が結合して中性の水素原子を形成し、いろいろな原子ができたのだと教えられている。

       なぜか、進化論者にとっては、その時点では熱力学の第二法則は効いていなかったようである。熱力学の第二法則によって崩れるどころか、反対に、偶然に原子結合などが成されたりして成長が進み、数十億年とかいう気が遠くなるほどの年月をかけて銀河が生まれたりして、今のような宇宙になったのだと教えている。「すべては偶然の産物なのだ」と言うのである。そしてこの宇宙は、いつの日か、遠い遠い将来に、太陽が消滅してこの銀河系は失われるであろうと考えて、「その時には人類は別の惑星に引っ越すだろう」というようなことを真剣に話したりしている。

       断じてそうではないのである。歴史には確かな「初め」があって、神が知恵をもって宇宙万物を創造されたのである。そして、創造主なる神は、全歴史を放置しておられるのではなく、すべてを導いておられる。そして、歴史には確かな「終わり」がある。私たちから見れば、その終わりは遠い将来のことであるが、それは、太陽が消滅して人類は他の惑星に引っ越すというような話ではない。創造主なる神が目的をもってすべてを支配して導いておられるのだ。それ故、神が啓示してくださった聖書の御言葉に立った歴史観を、私たちはしっかり持つ必要がある。この世の偶然から出た歴史観に翻弄されるなら、何一つピンと来ないのは当たり前のことなのだ。

       この世の歴史観に立つなら、何一つ確かなことはないのだ。私たちは、主イエス・キリストの再臨を使徒信条において告白しているが、主イエス・キリストが再臨して、歴史の終わりが来る。その歴史の終わりに裁きがある。全人類は義なる裁きの御座の前で、一人一人が裁きを受けるのである。その時に、永遠の歴史が始まる。永遠のいのちを頂いた人々による罪のない歴史が始まるのである。

       黙示録の最後のところでヨハネは「新しいエルサレム」の幻を見た。それは幻の中の話であって、実際の写真や映像を見たわけではないので、誤解してはならない。その幻は未来の大都市を象徴的に表わすものであった。永遠の神の御国、新しいエルサレムをヨハネは見た。その永遠の都、新エルサレムの祝福は、今の歴史につながっているものなのだ。今ある歴史が終わって新しい次元に入ると、今まであったもの全部が関係ないものになるのではない。歴史の中で、神の御霊の力により、そして人類を通して神が与えてくださったもの、築かれたもの、その詳細は分からないけれども、それらは更に進歩発展して永遠の都エルサレムに最終的につながるものなのである。それ故、この歴史の中の働きには永遠の意味がある。神の永遠の御国において、現在私たちが行なっていることのすべては、何かの意味でつながっている。

       その永遠の御国の望みについても、パウロは8章で主イエス・キリストの栄光について話しているところで「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と言っているのを思い起こそう。最終的にクリスチャンは永遠の栄光の祝福を受けると、パウロは教えている。その永遠の望みには、主イエス・キリストにあって私たちはその時に言わば「完成品」となるという望みも含まれている。「完成品になる」と言うのは、今この世で、私たちは倫理的にもまだ主イエス・キリストに似た者には十分になっていないし、自分に与えられた能力も何一つ十分に発揮したり実現させたりできていないことを意味している。

       歴史の終わりに、私たちには復活のからだが与えられ、主イエス・キリストとともに栄光を受けるが、その時に、私たちは自分に与えられたすべての能力と賜物と祝福を続けて持って、それを神の栄光を表わすために続けて実現させることになるのだ。神の永遠の御国に対する望み、救いの完成に対する望みは、そういう意味で実に大きく、実に素晴らしい。それを知っている私たちは、この世に置かれている今、望みを抱いて喜んで戦っていくことができるはずである。礼拝をささげる時も、私たちは神の勝利を望んで喜び、神をほめたたえるのである。

       今日交読した詩篇72篇もメサイアの勝利を讚えているが、最後のところでは、メサイアがアブラハムの契約を成就するものであることを喜んでいる。メサイアの勝利を望んで私たちは喜ぶのである。「望みを抱いて喜びなさい」と言うとき、主イエス・キリストがその中心におられるのだ。永遠の栄光、永遠の都、私たちに与えられる永遠の祝福もすべて、主イエス・キリスト御自身につながっている。それ故キリストを信じる者は、望みを持って喜ぶのである。これは礼拝の中心でもあるし、毎日の生活の活力でもある。

     

    患難に耐え、絶えず祈りに励む

       次の二つの命令も対になっていて、一緒に考えるべきものだと思う。「患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とパウロは命じている。「耐える」という訳は少し足りないように思う。前にも言ったと思うが、「耐える」とか「耐え忍ぶ」と言うと、何か受身的な感じになるのではないか。このギリシャ語の言葉にはもっと積極的な意味がある。ただ我慢するとか「耐えてます」というような話ではない。消極的な“我慢”よりずっと意味が深く、「患難に耐える」とも訳される言葉である。そして「患難に耐える」という訳の方が、単に嵐の過ぎ去るのを待つだけの受身的な忍耐を指しているのではないことがわかる。

       ウェストミンスター信仰告白の中に「堅忍」という言葉があるが、どちらかというとそれに近い意味の言葉として考えるとよいと思う。この言葉は受身的なものではなく、極めて積極的なものなのだ。「どんな困難があろうとも、神の御国のために積極的に続けて戦っていく」という意味が込められている。患難の中でただ我慢して耐えているものではない。しかし、私たちの場合、「我慢する」というだけでもまだまだ十分にやっているとは言えないので、そこも誤解しないで聞いてほしい。耐えるだけでも私たちはいとも簡単に失敗している。しかし、ここで命じられていることはそれ以上のことなのだ。気を強く持って頑張って戦っていくというものなのだ。

       試練の中にあってがっかりしたり、「なぜ私がこのような試練に遭わなければならないの」と言ったりするなと、パウロは教えている。エジプトを出たイスラエルはその点で大きな失敗をした。しかし、私たちはどうなのか。私たちがあれほどの試練に遭ったなら、同じような失敗をしてしまうのではないか。エジプトを出て、二百万以上もの人々が一緒に荒野を行くのである。乳児も子どもも年寄りも一緒で、家畜までも一緒に旅をする。振り返ると、当時の世界で最強の国家エジプトの軍隊が戦車にのって追撃して来ているではないか。前には海があって進めない。横には険しい山があり、全くの八方塞がりであった。そのような状況に導かれたなら、どうだろうか。どう見ても皆殺しになるしかない状態であった。

       それを見たイスラエルは、何よりも「神さま。助けてください」とは言わずに、「どうしてここに連れて来たのか。ここで私たちを殺すためなのか」とモーセに怒りをぶつけたのである。それは耐えることの反対の心である。そこでモーセが「では、皆さん。ここで耐えましょうね」という説教をしたらどうだろうか。ただただ耐えるのではない。主に信頼して、主の救いを求め、神がどのように救ってくださるかを教えて励ますのである。そのような強い信仰の心をもって正しく試練に向かうことがクリスチャンには求められているのだ。そのような心を持つようにパウロはここで私たちに話している。

       ここでパウロは、「絶えず祈りに励みなさい」と命じている。祈りにおいてがっかりしたり、祈りを止めたりすることがないようにと、主イエス・キリストも福音書の中で繰り返し教えている。ルカの福音書11章では、「あくまでも頼み続けるなら・・・必要な物を与えるでしょう」という譬え話をされたし、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と教え、「子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう」と言って、祈り求めるように教えている。

       福音書の中で主イエスは繰り返し私たちに「絶えず祈りなさい」と教えて励ましている。患難に耐えることと、絶えず祈ることとは、一緒に考えるものである。だから、イスラエルの出エジプトの時の事を考えればそのポイントがよくわかると思う。イスラエルは、試練に遭った時に祈らずに、まずブツブツ言う。そして人間的な解決を考えてしまう。神に信頼し、神に祈り求め、神にすがることをせず、神に感謝もささげない。ブツブツ言って、人間的な解決を一生懸命になって考えたりやったりする。

       私たちもみな同じような傾向があるのではないだろうか。「絶えず祈りなさい」というのは、日常生活の中で実に大切なことなのだ。毎日の生活の中で困難や試練にぶつかったりするときに、祈りの心をもって神に求める。大きな事でも小さな事でも、神に信頼して神に求めるのである。特に患難と試練の中にある時、霊的な健全さと力を保つために祈りよりも重要なものはない。困難に際しての祈りは、神に従い続けるための力を得る唯一の方法である。

       あまりいい例えではないと思うけど、「屋根の上のヴァイオリン弾き」という映画があるが、その中で主人公のユダヤ人が農牧を営んでいたが、牛の足が悪くなったときに彼は牛と一緒に歩きながら神に祈っているシーンがある。変なことを言ったり、ユダヤ的なユーモアもあったりするが、そのように親しく神に祈ることは良いことなのだ。それがクリスチャンの毎日の生活の中に自然とある姿ではないかと思う。一人で駅に向って歩くときにも、自然と神に祈る筈である。電車に乗ったり、車に乗っているときも、自然と祈る筈である。周りにいる数えきれないほどの人々を見るときに、「主よ。どうかこの人々を憐れんでください。救ってください。主の御名によって、アーメン」と、祈れる筈である。本当に神と親しい関係にあるなら、毎日の生活においてそれは当然のことなのだ。

       どんな時であっても、その場で、一言であってもいいから祈れる筈だ。自然とそのような心になる筈だと思う。突然に電話が来て、大変な問題が起こったと知らされたときにも、心の中ですぐに神に助けを求めて、祈る筈である。何か祝福が与えられたときにも、それが小さな祝福であっても「感謝します」と自然に神に祈る筈である。祝福が与えられたときの感謝の祈りも「絶えず祈りなさい」という考えの中に含まれるが、試練の時こそ常に祈らなければならない。その祈りはただ「助けてください。助けてください」の繰り返しだけである筈はない。祈らないよりは良いけれども、試練の中にあるときには知恵を求めずにはおれないし、神がすべてを支配して導いておられることを覚えるし、その時こそ、感謝の祈りをささげる筈である。

       祈りは、何かをおねだりしたりお願いしたりするだけのものではない。感謝をささげ、神の御恵みを覚えて、神の御名を讃めたたえるものである。詩篇にあるように、悲しいときの哀しみを祈りにおいて表わし、助けが必要なときには主に呼ばわって助けを求めるのである。祈りは、神を喜び、信仰を告白し、試練の中にあって望みを抱くための方法である。ダビデはいろいろな異なる状況の中でいろいろな祈りをささげている。しかし、感謝と讃美の祈りはどんなときの祈りにも含まれている。そのような祈りは詩篇に溢れている。狭い意味で、「これをください。あれをください。これを与えてください。アーメン」というような祈りは聖書のどこにもない。

       試練の中にあるときこそ、祈りは単なる願いに留まらず、神を讃美し、神に感謝をささげるものとなる。信仰をもって神に祈るなら、試練に対して正しく耐える力が与えられ、積極的な意味で頑張ることができると思う。それは私たちに注がれる神の愛と慈しみのゆえである。試練を乗り越えるための知恵を求める際に、祈りは欠くことのできないものである。ヤコブの手紙1章2〜5節にこう書いてあるとおりである。

    私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

     

    寛大さともてなし

       13節の命令もまた一つの対になっている。「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」と命じている。この最後の二つの命令のポイントは、「寛大でありなさい」ということである。パウロは、兄弟の必要を満たす慈善の行ないをするように勧めている。「聖徒の入用に協力しなさい」という言い方だが、これは「経済的な必要のある貧しい兄弟を助けなさい」という命令である。貧しさだけではない。互いに欠けているところがあるのだから、兄弟は互いに助け合う必要がある。それ故、互いの足りないところにおいて協力するように命じている。これは寛大さの適用として考えるべきものだと思う。私たちは、貧困に陥っている兄弟も同じ神の民だという事実をしっかり覚えなければならない。ナオミとルツが貧困に陥ったのは、ナオミに個人的な過ちがあったからではなかった(ルツ記1章)。そのナオミに対して、私たちは自分に出来ることはしてあげなければならないのである。

       続いて、「旅人をもてなしなさい」とあるが、これも似たような意味である。「旅人をもてなしなさい」という言い方は、手紙を受け取った人たちにホテルや旅館を作りなさいと勧めているのではない。この「旅人」とはクリスチャンのことである。そして、ここで二種類の人々を思い浮かべることができる。第一にこれは、いろいろな所に行って福音を伝えている巡回牧会者のことである。第二には、迫害のために自分の家や町から追われて出て行かなければならない人たちを指している。

       ヘブル人への手紙の中にユダヤ人の話が出て来るが、クリスチャンになってバプテスマを受けた者が自分の家から追出されたり、場合によっては自分の町からも追出される。ユダヤ人の中の一つの家族がクリスチャンになると、家族ごと町から追出されることも珍しいことではなかった。故郷を追われ、自分の家を失い、仕事を失い、財産全部を失ったりした信徒たちが大勢いた。彼らはその迫害から逃れて別の所に行くほかなかった。その試練の中で、新しい人生のスタートをしなければならない。クリスチャンになったばかりの彼らは、他の信徒からの助けを必要としていた。そのような兄弟が教会にいたらどうするのか。ヤコブの手紙2章14〜17節を見てみよう。

    私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

       助けが必要な兄弟がいるのに、具体的に助けることをしないで、「祝福がありますように」と口先だけで言うなら、どこに愛があるのか、どこに信仰があるのかと、ヤコブは言っている。そのような人が初代教会にはたくさんいた。だから、「旅人をもてなしなさい」と、はっきり教会に命じる必要があった。他の新約聖書の箇所にもそのようなことが出て来るわけである。

       もう一つのポイントだが、それはヨハネの第二の手紙に出て来る話である。ヨハネはいろいろな教会に伝道者を送っていた。ガラテヤの教会の最初はそうだったと思うし、クレテの教会もそうであったが、パウロたちはどの町に行ってもまず教会を設立した。教会が始まると、パウロたちは次の町に行って福音を伝えた。その町を離れるとき、場合によってはその教会にはまだ牧師がいなかったりしたので、信徒たちが集まって礼拝を守るとき、はっきりした教会の形はまだ出来ていない状態であった。

       テトスへの手紙を見るとわかるが、パウロはテトスをクレテに送り、まだ形成されていない教会に牧師や長老や監督たちを任命するように命じている。それによってクレテの教会が正しい信仰をもって働くことができるようにしたのである。ヨハネの手紙の中にもいろいろな教会が出て来るが、結局どこも牧会者が足りなかった。ヨハネの第三の手紙5〜8節を見よう。

    愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。

       ヨハネの第三の手紙が書かれたのはもう紀元七十年が近づいている時だったと思うが、教会は急速にローマ帝国の中に広まっており、牧会者があまりにも足りないために、一人の牧会者がいろいろな教会に行って御言葉の解き明かしなどをしていた。教会から教会へと巡り歩き、キリストのために労し、神の民を牧していた。教会は彼らを「旅人」と呼んでいた。初代教会では、誰かがこの役目を果たす必要があった。「旅人をもてなす」というのは、その説教者とも宣教師とも呼ばれる人たちをもてなすことであった。それは福音の働きに参加することであり、その働きを助けることである。

       そういうわけで、信仰のゆえに迫害を受け、住まいもなく、食べるにも着るにも困っている人たちを助け、牧会と宣教の働きをしている旅人を助けるということが命じられているのである。この二つの命令を一緒に考えて、寛大な心を持って、人を助ける機会があれば心から喜んで助けるべきである。「聖徒」も「旅人」もクリスチャン同士の話である。しかし、当然クリスチャンではない人を助ける機会があれば助けるべきである。それもテモテへの第一の手紙の中で教えられているとおりである。

       しかし、そこには明らかな順番というものがある。父親はまず自分の妻や子どもたちを食べさせなければならない。しかし、他のクリスチャンの兄弟に助けが必要な時には、助けなければならない。クリスチャンではない人であっても、助けを必要としているなら、その力が与えられているなら助けるべきである。自分の家族が飢えて食べる物もないなら、まず自分の子どもたちに食べさせる義務が父親にはある。責任はそこから始まると、パウロは教えている。自分の家族を食べさせ、主にある兄弟たちを助け、世界全体を助けるという、自然な順番というものがあると思う。

       私が言いたいポイントは、「クリスチャンだけに止まる話ではない」ということである。パウロはここで兄弟に対する愛の適用について話しているが、兄弟たちが皆食べることができたら、もう周りの人たちを助ける義務から免れたということではないのである。

       以上の慈善についての二つの命令は、霊と愛とをもって惜しみなく与え、兄弟を親切にもてなすことを命じている。この愛は、神御自身がそのひとり子を私たちにお与えになることによって示してくださったものだ。神のひとり子は私たちのために死なれ、私たちをお救いになった。キリストが十字架によって御自分をお捨てになり、御自分を私たちにお与えになった。それは全ての面においてキリスト者の愛の基準なのである。

       9節で「愛に偽りがあってはいけません」とパウロは言っている。「愛に偽善があってはならない」と教えている。そしてずっと13節まで、地域教会の中で本当の愛とはどういうものなのかを教えている。それをざっと見たところだが、地域教会の中で本物の愛を実現させるように、私たちは真剣に求めなければならない。それがなぜ大切なのか、どうしてそれが強調されるのか。最初に話したと思うが、もう一度そこに戻って強調したいと思う。それは、神が三位一体なる神であられて、御父と御子と御霊なる神は永遠に互いを愛し合う御方だからである。神は愛なので、神は御自分の民を救ってくださって、御自分に似る者となるように恵みをもって導いてくださる。

       私たち一人一人には神から個人的に与えられた祝福があり、神の教会としての祝福もある。地域教会の兄弟の関係において三位一体なる神の愛を求め、その愛を表わす責任が私たちにある。その責任について具体的に考えるとき、まず善と悪の区別をはっきりさせ、悪に対して戦い、善にすがるのである。この原則を忘れてはならない。そして互いに家族としての親しみをもって交わり、怠けずに熱心に働き、神に対する喜びの心と望みをもって正しい礼拝を神にささげるのである。試練の中で積極的に耐えて、いつも祈りをもって頑張るのである。そして、寛大な心をもって互いに協力し合い、助け合うのである。そのような原則がここで教えられている。

       「兄弟愛をもって本物の愛を表わすようにしなさい」と、パウロは私たちに命じている。これが、自分を生きた供え物として神にささげることの具体的な適用の原則の一つである。私たちは常にこの基準に戻って、自分の罪を悔い改めて本当の意味での愛を求めるのである。妥協したり「偽物の愛でもいい」などと思わないで、真の愛を求めるところに常に戻らなければだめなのだ。義においても、親切さにおいても、知恵においても、その他どんなことにおいても、私たちは足りない者だというのは事実である。しかし聖書には、「足りない欠けた自分を認めたなら、もう諦めなさい」というような教えはない。足りない事が分かるなら、もっと熱心に求めるのでなければならない。心からそれを求めるように、聖書は私たちに教えている。そのことを心に刻んで一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2001年12月2日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章10節

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