HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙5章18〜21節


    5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

    5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

    5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

    5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

    99.11.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    多くの人の救い

    5章18〜21節

       何度も繰り返し説明したように、パウロは12節で言わんとすることを半分だけ話したところで中断し、13〜17節の挿入部で「もしそうならば...」というところを説明してから、18節で12節のポイントに戻っている。「アダムにあって全人類が罪を犯したように、主イエス・キリストにあって人類は救われる」ということをパウロは12節で言おうとしているが、「アダムにあって全人類が罪を犯した」とはどういうことなのかを13節と14節で説明し、15〜17節ではキリストのひな型の関係について更に説明を加えている。

       その挿入された説明によって、読者はアダムとキリストの関係についてもっと理解できるようになり、アダムにあって皆が死ぬべきものとなったことを理解してから、18節で12節のポイントに戻るわけである。17節で12節の条件節を修飾し終えたとき、単に帰結部を続けるには話がそこから離れ過ぎているので、パウロは18節でもう一度条件節を言い直すところから始め、それからアダムとキリストとの比較の後半を説明して、言わんとしていたことを語り終えている。パウロは18節で次のように言っている。

    こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

    並行

       アダムとキリストがどんなに違うのかをパウロは既に説明したので、ここではただ単に並行したものとして比較しているのではないということを読者は理解している筈である。そして、主イエス・キリストの恵みの偉大さについても既にわかっている筈である。ここで「アダム」「罪」「さばき」「死」と、「イエス・キリスト」「義しさ」「義認」「いのち」というような発展で対比がなされている。アダムが罪を犯したために、全人類に罪がはいり、さばきを受けて、全人類は死ななければならないものとなった。その反対に、主イエス・キリストが義を行なったために、私たちは義と認められて、いのちが私たちに与えられる。その二つの対比をもってパウロは説明している。

       ここで特筆すべきことは、神は私たちを具体的に二人の契約の代表(かしら)によって取り扱われるのであって、何かの法の抽象的な原則によって取り扱うのではないということである。18節における「賜物」というパウロの表現は、17節の「義の賜物」と同じことを指している。神の御恵みにより、律法の前で必要な義の立場が私たちに与えられている。義はキリストにあって私たちに転嫁されるが、それは私たちが義と認められていのちを得ることができるためである。

       もう一つ重要なことは、義や義認はいのちに先行するということ、それはいのちの条件だということである。論理的には、義認が救いの他の祝福に先行するのである。罪の問題が取り除かれ、キリストにあって義と見做されないかぎり、祝福を相続することはないからである。時系列的には一つの立場からもう一つの立場への進行というものはない。キリストとの一致はすべてに瞬時に栄光を与えるものだからである。

     

    転嫁

       13〜17節は18節を理解するための土台である。アダムの違反によって、アダムの罪は私たちに転嫁された。アダムは契約の代表なので、代表制度においてアダムの下にある者はすべて罪の転嫁を受けている。そして、アダムから生まれた者は一人残らずアダムの代表制度の中に含まれている。私たちは皆アダムから生まれてきた者なので、私たちはアダムの罪の転嫁を生れながらにして持っており、罪人としてこの世に生まれてくる。それはその転嫁の結果である。転嫁されるとは、代表のしたことが私たちのものとなったという話である。

       この契約的な代表制度は法的なことであって、聖書の中の「救いの教え」を考えるときには不可欠なことであって、救いを考えるときに「法」を前提にしなければならない。救いは、契約関係(covenantal relationship)を前提としなければならないものなのである。ただ単に心情的なものとか心理的なものではない。またただ単に「私たちには問題があって、その問題を神が解決してくれる」というような話ではない。永遠の王なる神の法を破った者たちは、死を要求するその罪の裁きからどのようにして赦され得るのかという問題なのであって、これは極めて法的な問題であり、契約的な問題なのである。その法的、契約的問題を取り扱わなければ、救いはないのである。それが私たち罪人にとっての根本的な問題なのである。

       アダムとキリスト、そしてそれぞれが代表するグル−プについてパウロが語っていることを理解するためには、パウロがアブラハムの信仰について語る中で紹介したこの「転嫁」という概念を念頭に置かなければならない(4章3節以下を参照)。割礼を受けた人が律法を破るなら無割礼と考えられるのに対して、割礼を受けていない人が律法を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けた者と「見做される」とパウロは説明している(2章26節)。そこでパウロは、「転嫁」と訳すことのできるギリシャ語を使って説明しているのである。パウロは「割礼がその人に転嫁される」という言い方を厳密にはしてはいないが、その無割礼を割礼と「見做す」という概念はここで私たちの言わんとする要点に近い。

       アブラハムの場合、「彼の信仰が義と見做された」とパウロは言う(4章3節以下参照)。神の御前では、アブラハムは義と見做されたが、それは彼の信仰が義なる行ないであったからではなく、信仰によって義がアブラハムに転嫁されたからである。アブラハムの信仰とその義認との関係についての説明は、それぞれが代表する人類に対するアダムの罪とキリストの義の関係を説明するものである。その説明によってはじめて明らかになるものなのだ。信仰によってキリストに結び合わされるがゆえに、アブラハムの信仰、そして私たちの信仰は義と見做される。

       私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されるのである。神は、キリストを信じる者たちがあたかも義しいかのように彼らを受け入れるために、あたかも世の罪において有罪であるかのようにキリストを取り扱われたのである。実に、キリストの義が彼らに転嫁されることを通して、彼らは義しい者とされるのである。というのは、代表者が為すことは、その人が代表している人々全員の行為と見做されるからである。その人の行為が彼らに転嫁されるのである。そのように、律法によれば、私たちはアダムにあって罪を犯し、また、神の御恵みによれば、私たちはキリストにあって義しい者なのである。

     

    ひとりの人

       この18節の「こういうわけで」という言葉は12節の「そういうわけで」という始まり文句と重複するかんじになっている。新改訳では「一つの違反.....、一つの義の行為」と訳されているが、そこは「ひとりの違反.....、ひとりの義の行為」と訳した方がよいと思われる。現代の翻訳の多くは「一つ」という言葉を「違反」と「行為」という言葉を修飾しているものだと理解している。意味においてはあまり変わりはないが、これは、キリストの義しさとアダムの罪のことを対比させているのである。

       アダムは人類にとって神に任命された契約のかしらであったので、アダムの為したことは個人としてではなく、代表として為されたのである。同様に、キリストも契約のかしらであられ、新しい人類のための神に任命された代表として振る舞われた。イエスの為されたことは、個人としてのものではなく、代表される者すべてのものと見做されるのである。どちらの場合も、彼らが代表した人々に裁き或いは義認をもたらしたのが“ひとりの人”の行為であったという事実に、18節の要点は見出される。

       アダムの罪が転嫁された者を救うためには、義しい契約の代表者がいなければならない。それで、主イエス・キリストは肉ある者となって来てくださり、私たちの代表となってくださった。肉となられたキリストはアダムから生まれた者となったという面もあるが、同時に御霊によって処女マリアから生まれたキリストは、聖なる者としてこの世に来られたのである。それ故キリストは、単にアダムの子孫というわけではないが、私たちの代表となるためにアダムの子孫となってくださった。そして、新しい契約の代表としてこの世にお生まれになった。

       そのキリストの「ひとりの義の行為」とは、どういう義の行為を指しているのだろうか。広い意味で言うならば、主イエス・キリストの全生涯を含む言い方であると言わなければならない。契約の代表者としてキリストは、生まれた時から十字架上で死ぬ日まで、神の律法を完全に守り通してくださった。その人生のただの一点においても、罪を犯したならば、その契約制度は崩れ去ってしまうのである。「一つの行為」とも訳されるこの言葉は単数形で書かれている。狭い意味で言うなら、その「一つの義の行為」を考えるとき、それは十字架の話になる。十字架上で主イエス・キリストは神に従うか従わないのかを最大限に試され、最もへりくだった者となられた。そのことはピリピ人への手紙2章6節からのところで明らかに記されている。

    キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

       「仕える者の姿をとり」とは、栄光を捨てて人間となられたということである。「仕える者の姿をとり、私たちと同じようになられた」のである。永遠なる、義なる、そして栄光なる神が、仕える者となってくださった。つまり、人間となってくださったのだ。人間は神に仕える者だからである。私たちと同じように人間になられたとき、キリストは神の栄光を捨てて御自分を低くされたのである。

    キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

       主イエス・キリストは、「仕える者」となって神に従った。「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」とパウロは言う。十字架の死は神への服従のすべてを含む行為であった。十字架は、キリストの忠実さと従順と義しさの総まとめであり頂点である。そういう意味で十字架を「一つの義の行為」として指すとき、それは他のすべての行為が含まれていないのではない。十字架はキリストの人生のすべてが含まれた行為なのだ。しかし、特に十字架の上でキリストは試され、そして従ったのである。主イエス・キリストが父なる神に従ったということは新約聖書の至るところで強調をもって記されている。その完全な従順によって私たちを贖い、私たちを救ってくださった。

       「義しさの本質は従うことにある」ということはアダムにもわかっていた筈であるが、アダムは従う道を選ばずに、逆らう道を選んだ。主イエス・キリストは罪人ではない。全く潔白で聖く、御自分の栄光を本来持っておられた。その栄光を置いて、自分を卑しくし、低くしてこの世に来てくださった。実際にこの世でキリストは何も栄光を持たなかった。枕する所もなく、与えられた場所で寝て、着ている服以外には服を持たず、金銀もなく、与えられた物以外に食べ物も持たなかった。三年間、神の御言葉を人々に教え、この世の栄光は何もなかった。本当にへりくだった仕える者となって、人々に仕え、私たちの救いを求めてくださった。

       主イエス・キリストは、最後まで従順の模範を私たちに示し、従うとはどういうことなのかを教えてくださった。それがキリストの義しさであった。それが私たちに転嫁されるのである。神の御前でのその義しさが私たちに転嫁されることによって私たちは義と認められ、義しい者と見做されるのである。そういう意味で、「ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられる」のである。義と認められていない者には、いのちは与えられない。19節ではその同じポイントを少し違う言い方で説明している。

     

    すべての人、多くの人

    すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

       パウロは、「すべての人」について18節で語り、「多くの人」について19節で語る。キリストを信じる者は、キリストによって義しい者とされる。ここでパウロは法的で契約的なことについて話していることは明らかである。契約的な考え方は難しいとか抽象的だとか分かりにくいとかいうようなことは、本当ならば無い筈である。あるとすれば、問題は私たちの側にあるのだ。国家のことにおいても、国家の権威あるリーダーたちが決定したことに私たちも止むを得ずに従わなければならないものである。そのことを私たちは毎日の生活において分かっている。同じように、神が絶対なる王であって神の御国には御国の法があるのは当然であるし、私たちはそれによって裁かれ、それに従って生活しなければならないのは当然のことである。だから、本当は何も難解で抽象的だというようなことではない。

       他の人が行なったことが私たちに転嫁されるということも、毎日の生活の中にあることであって、驚くようなことではない。アメリカ軍が放送しているラジオ番組を聞くと、軍人にいろいろなことを教えるプログラムがある。軍人たちは一箇所でアパートのような住宅に住んでいる。指令があれば数ヶ月間も船等でどこかに出て行くような任務が頻繁にあるので、自分が留守の間に他の者にアパートを貸したりする。その場合は法的な手続きをしなければならない。法的な手続きには基本的に二種類ある。一つは、一旦署名すればその相手は100%自分の代表として自由に何でもすることが許される。もう一つは、限られた権利しか相手に与えないというものである。

       気を付けずに、よく考えもしないで相手にすべての権威を与えてしまう協定書とかに署名したら、戻ってみると、家は売却されていて家財も全部売られてすべてを失ってしまうような事件が起きたりする。そのような事件をラジオ放送で説明していた。「そのような書類にサインすれば、法的には、相手が何をしてもあなた自身がやったことになるのだ。そのような書類にサインするな」とアドバイスしていた。そのように、私たちの生活の中にもいろいろな法的な代表制度が実際にある。すべてにおいて代表権を認めるような契約をした場合、その人が行なったことは私たちが行なったのと同じことになるのだ。これは極く普通の法律の制度の中にもある。代表されている人々が「私の知らないことだ」と言っても言い逃れにはならないことがある。アダムと私たちの関係はそのような関係なのである。キリストと私たちとの関係もそのような関係である。

       「私はアダムを選んでなんかいない」と言いたいかもしれない。しかし、自分の父や母を選んで生まれて来た人はいない。それと同じように私たちは、創造主なる神が定めた世界の中に生きている存在なのだ。自分が何でもかんでも選ぶことができるわけではない。しかし、ある意味で、キリストを自分の代表として選ぶことはできる。即ち、聖書の最後に書いてあるように、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」と書いてあるとおりである(黙示録22章17節)。そのように、神は私たちを、新しいエルサレムに入るように招いておられるのだ。「誰でも来なさい。誰でも、救いを求める者は、それを受けなさい」と、私たちを招いておられる。

       そういう意味で、限られた意味においてではあるが、「キリストを選ぶことができる」という言い方はできなくはない。その招きは完全にオープンで、門が開かれている。「求める者は、どうぞ来てください」と主は招いておられる。「天国の門は小さくて狭くて鍵がかかっている」というようなことをキリストはマタイの福音書7章で教えようとしているのではない。天国の門はある意味で完全に開かれている。その門は大きく広く、「誰でも求める者は、来なさい」という招きがその門に書いてある。ただ、誰もその門から入ろうとはしないので、それは“狭い”のだ。それで、神が天から力ある御手を差し伸べて私たちの足を捕まえて引っ張ってくださらなければ、私たちはその門に入ろうとはしない。そこに、「罪人は神から逃げる」という問題がある。神が私たちを招いてくださらなければ、私たちはそこから入ろうとはしない。そこから逃げようとする。しかし、神は御霊の働きをもって私たちを招いてくださる。

       そういう意味で、「私たちは自分たちの先祖を選ぶことはできないが、契約の代表者を選ぶことができる」という言い方もできるわけである。主イエス・キリストが行なった義しさも、アダムの罪の転嫁と同様に、キリストを信じる者に転嫁される。そのことをパウロは18節と19節で説明している。即ち、「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされた」のである。神が私たちを見るとき、私たちを契約の代表者とともに見てくださる。契約の代表者を通して見てくださるので、私たちは神の法廷の前で義しい者と見做される。私たちは代表者とともに神の御前に立ち、神は代表者を見て私たちをさばくのである。

       旧約聖書のゼカリヤ書の中に、義と認められることを表わしているような言い方がある。そのために書かれているのかどうかは別として、そのためによく引用されている箇所である。そこにヨシュアの話が記されている。これはヨシュア記のヨシュアではなく、大祭司であったヨシュアの話である。その大祭司ヨシュアが主の前に立っており、サタンはその隣に立ってヨシュアを責めている。ゼカリヤ書3章3〜5節を見てほしい。

    ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」 そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」 すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。

       義と認められることを比喩として考えるときに、これと同じこととして考えてよいと思う。私たちはアダムにあって、汚れた服を着て神の御前に立つ者であった。そして、その罪の汚れは、アダムから転嫁された罪の汚れと、私たち自身の毎日の生活の中で犯した罪、私たちの心から出て来る罪、それらが一緒になっている。それは三つの異なるものとして考える必要があることは前にも説明したと思う。まず、アダムの罪が転嫁される。それによって私たちはみな罪人として生まれてくるものである。心の中において人間は根本的に創造主である神を無視し、神を憎み、神に逆らう者として生きている。その心を持っているので、こんどは毎日の生活においても罪を犯してしまう者なのである。それは、自分の罪である。

       そういうわけで私たちはアダムにあって、神の御前に汚れた者として立っていた。神は御恵みをもって私たちの罪を赦してくださった。即ち、その汚れた服を取り除いて、私たちを洗いきよめてくださったのである。しかし、その段階で救われたことにはならない。義の賜物をもって神の御前に立たなければ、救いはない。その私たちのために、主イエス・キリストは神の律法を完全に守ってくださり、キリストが備えてくださった義の衣を私たちに与えてくださった。その義の衣を、神は御恵みをもって私たちに着せてくださるのである。それで、いま私たちはキリストにあって神の御前にきよい服を着ている者として立つのである。しかし、思い違いをしてはならない。その服は、与えられたものであり、賜物なのである。自分が作ったものではなく、自分の力で得たものでもない。それは、「恵みと義の賜物」なのである。

       それ故、義と認められることについて考えるとき、神との法的且つ契約的な関係について話すのである。そこに私たちの心にあることもすべて含まれるけれども、私たちは王なる神のさばきの御座の前に立つところから「救い」のことを考えるのである。18節と19節でパウロはそのことを説明しているが、18節のところでパウロは、「すべての人が罪に定められたのと同様に、すべての人が義と認められる」と言っている。また、19節で、「多くの人が罪人とされたのと同様に、多くの人が義人とされるのだ」と言っている。これを私たちは「アダムにあるすべて」と「キリストにあるすべて」として読むべきだと思う。

       アダムにある者はアダムから生まれてくる者である。それは文字通りすべての人間のことである。契約の代表者としていかにアダムを嫌うとしても、その先祖を変えることはできない。アダムを先祖のリストから取り除くことはできない。アダムが人類の父であるという事実は変えられない。生まれてくるすべての人間はアダムの子孫なので、アダムにあって死ぬベき者となった。しかし、すべての人間がキリストを契約の代表者として持っているのではない。それだから、「キリストにあるすべて」「アダムにあるすべて」と読まなければならない。

       そして、「多くの人が罪人とされた」と19節にあるが、「ある人は罪人にならなかった」というわけではない。「アダムにあって罪人となった人類の数は多い」と言っているのであり、「多くの者がアダムの罪の影響を受けたのと同様に、多くの者が主イエス・キリストの恵みを受ける」と言っているのである。数が同じくらいだと言っているのではない。18節と19節のパウロの言い方を見て、アダムにある人類とキリストにある人類の数は非常に違っているのであって、アダムにあって罪に定められたグループは何千億人で、キリストにある者が数百万人というようなことはあり得ない。「アダムにあって多くの者が駄目になったのと同じように、キリストにあって多くの者が救われた」という言い方には「世界の救い」という意味があると考えるべきだと思う。その言い方をもってパウロは「人類の救いはキリストにある」ということを指していると言ってよい。

    しかしそれは、すべての個人が救われるということではない。このポイントについて考える前に覚えなければならない幾つかのことがある。人類の歴史は約6000年くらいしかないことを聖書は教えている。そして、人類の増加を逆計算していけば、最初の夫婦から今までだいたい何人がこの世に生まれてきたかを推測することができる。現在の人口は約60億人であるから、生まれてきた人類の約半分の者が今現在生きているという計算になる。アダムから生まれてきた子孫の約半分は、今この世に生きているのである。これは認識しておかなければならない大切なポイントの一つである。

       そうであれば、私たちがこの世で福音を宣べ伝えて主イエス・キリストのことを人々に話すことがどれほど大切なことなのかがよくわかると思うのである。世界人口がまだ50億人だった時に、一人あたり1226坪(1エ−カ−)を与えたとすれば以前のソビエト連邦に納まると言われていた。つまり、ソ連邦の領土は50億エーカーであったのだ。土地はまだまだ十分にあるのだ。一家族に40〜50坪の土地を与えて全人類を一つの場所に集めるならば、アメリカのテキサス州に容易に納まるのである。それで、カリフォルニア州を農業用地とするだけで、食料も十分に供給できて、それ以外の全世界は空となるのだ。

       なにも皆でテキサスに移住しようと言っているのではない。今現在生きている人類の数はまだまだ少ないということなのだ。これから生まれてくる人間はまだまだ多いのである。そして、まだキリスト教の時代には成っていないのだ。諸教会は、まだ赤ちゃんの時代を生きていると言っても過言ではないのである。「福音伝道の成長は非常に遅いものだ」と嘆く人もいるかもしれないが、5年、10年、30年というような短い単位で考えるよりも、もっと大きなレベルで成長のことを考えなければならない。

       前にも話したが、百年前のアフリカのクリスチャン人口は約5%であった。その5%は、プロテスタントもローマン・カトリックも、リベラルでも何でもすべて含まれた数値であった。それが今では50%近くにもなっている。韓国のクリスチャン人口は30%と言われているし、中国のクリスチャン人口は今や全日本の人口よりも多くなっていると言われるようになった。百年前ではとても考えられないことである。共産主義のプレッシャーの中で教会は急速に成長している。福音がどんどん広まっているのは事実であり、御言葉の影響は広まっている。

       南アメリカでプロテスタントがあまりにも急速に増えているために、先月ローマン・カトリックは会議を開いて如何にしてそのプロテスタントの成長を食い止めることができるかを検討したという。そういうわけで、世界の人口はまだまだ増えている段階にあり、世界が主イエス・キリストを信じる時代はまだまだ先にある。私たちはそのために祈り、そのために働く者である。日本で私たちは開拓伝道の働きを続けるが、日本の開拓伝道は非常に時間がかかっている。そこにはいろいろな問題があるが、特に福音の勝利を信じる信仰が強められなければならないと思う。私たちは、全世界における福音の勝利を確信し、その信仰をもって大胆に熱心にキリストの福音を伝えて神の御国を求めるべきである。

       パウロがここで説明していることはそのことと関係がある。主イエス・キリストの贖いによって「多くの者が義と認められる」のである。それは、「アダムによって多くの者が罪に定められた」のと同じである。そのパウロの言葉は、「最終的にほとんどの人間がクリスチャンになる」ということを暗示していると思われる。アダムの場合の「多くの人」とは大勢という意味で、キリストの場合の「多くの人」は僅かな人でしかないという意味ではあり得ない。

       18節における「すべての人」は19節では「多くの人」で説明されているのを、ある人たちは、「これは、ちょうどアダムにあって全人類が罪に定められたのと同じように、キリストにあって全人類が救われることだ」と解釈する。確かにパウロの言葉にはそのような解釈もできないことはないが、パウロがこのテ−マについて書いたのはローマ人への手紙の5章だけではないし、聖書の他の書については言うまでもない。パウロの言葉を普遍的な意味として解釈することは文法的には可能だが、そうするならば彼の教えを甚だしく歪曲することになる。

       それでは、なぜパウロはこのような言い方を用いたのだろうか。第一に、ちょうど二人の“アダム”がいるように、二つの人類があるという事実を述べるためである。ユダヤ人たちは「アブラハムにある」ことについて感心を抱いていたが、アブラハム自身はキリストにあることによってのみ救われたことをパウロは明らかにしている。新しい人類とは、いかなる人種や部族にも限定されることなく、またいかなる家系も特別に優先することも意味してはいない。

       従って、新しい人類という言い方をする一つの理由は、ユダヤ人と異邦人という文脈において福音の意味を明らかにするためなのである。そして、この言い方をするもう一つの理由は、キリストがもたらす救いの完全さを強調するためである。アダムの罪は彼が代表したすべての人々に転嫁された。同様に、キリストの義はキリストが代表するすべての人々に転嫁されたのである。

       しかし、アダムは「多くの人」の代表であった。では、キリストについてはどうなのだろうか。イエス・キリストにある新しい人類は、神殿から離れた僅かなユダヤ人と取るに足らない数の異邦人、そしてローマ人がユダヤ教の一宗派と考えるほどに小さなグループ以上の何ものでもないのだろうか。僅かな一握りの人達のことなのだろうか。断じてそうではない。キリストは「多くの人」のために救いを勝ち取られたのである。その恵みはアダムの違反の場合よりも遥かに豊かなものだということをパウロは既に強調している。二つのグループは全く同じということではないのだ。ここでのパウロの対比は、歴史の終りに人類の大多数がイエスと友にこの世を裁くために立つことを意味しているのだと思われる。

     

    なぜ律法か

       キリストとアダムのひな型関係を18節と19節ではっきり説明した後、パウロは律法の話に戻っている。アダムとキリストの関係を話すとき、途中でモーセとモーセの律法のことを話している。律法の働きはいったい何なのかを説明する。5章でそのことに触れているのは、当然ユダヤ人を意識して言っているのは明らかである。ユダヤ人と異邦人の問題がパウロの念頭にあるので、13節でもパウロは律法について話したが、20節で再び律法の話に戻っている。

    律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

       パウロの答えはユダヤ人が考えているようなものではなかった。他の箇所でパウロは神が律法を与えた他の目的について説明しているが、ここでは律法は違反が増し加わるために入ってきたと言っている。なぜ律法が与えられたのかというと、それは、罪をはっきりさせるためであった。「増し加わる」とは、はっきりしなかったものがはっきりさせられることを意味している。

       ユダヤ人は、自分たちを最も義しい民として考え、律法を持っていることは彼らの誇りであった。しかし、パウロは、律法というより大きな啓示はより大きな責任と罪や義についてのより大きな知識をもたらすため、彼らが他の国々よりも罪深いことを示唆しているのである。モーセの律法以前の時代でも、人間は善と悪について何も知らなかったわけではない。すべての人間は神の似姿に造られ、神の御性質が彼らの内に刻まれているからである。しかし、罪人はその知識を拒み阻んでいる。

       カインは自分の兄弟を殺したとき、自分が罪を犯したことを十分に認識していた。アダムとエバも、罪を犯したとき、命令に対して明らかに逆らっていたので、罪を自覚していた。ノアの洪水の後、ノアはきよい動物から選んでいけにえをささげたが、ノアの時代でもきよい動物と汚れた動物の区別はあったのだ。恐らく、アダムとエバの時代にまで遡って、神がアダムとエバにどのような動物をささげるべきかを教えたのであろう。それはアダムとエバに動物の皮を衣として与えたところに遡ると思われる。

       アブラハムの時代に、アブラハムはレビ記に従って鳩、羊などをささげていた。アブラハムは神の声に聞き従い、神の戒めと命令とおきてと教えを守ったとあるが(創世記26章5節)、どの戒めを守ったというのか。どのおきて、どの命令を守ったというのか。私たちには細かいことはわからないが、ある程度まで聖書に記されている。ヤコブの息子たちは、兄が死んだらその弟が兄の妻と結婚して兄のために子孫を求めなければならないという定めがあった。その定めは数百年後にモーセの律法によって与えられたが、創世記の時代から既にその定めはあったのだ。

       だから、創世記の時代には誰も律法がわからなかったわけではない。しかし、モーセの律法が与えられたとき、罪は非常に明白なものとなった。律法は600以上の詳細な命令から成っており、罪の定義は非常にはっきりしたものとなり、深いものとなった。そういう意味で、「罪は増し加わった」のである。モーセの律法はすべてのことを明るみに引き出すのである。神を愛し隣人を愛するという義務は律法の中であまりに具体的かつ全く詳細に説明されているため、誰ひとりとして自分がどれほど罪深いのかに気付かずに律法を読むことはできないものである。それに加え、律法が定める犠牲は、罪人に対するさばきとその罪に対する神の御怒りを宣言しているのである。

       例えば、「盗んではならない」という命令は、どんな文化にあっても知らない人はいない。「国が税金を取り過ぎるのは盗む行為になる」という概念を今のアメリカは持っていない。勿論スェーデンにもそのような概念はない。日本も持っていないようである。先日、日本のラジオ番組で、「日本人は自分の土地などは自分の財産だと思い込んでいる。それは間違いだ。土地は国の財産なのだ」と言っているのを聞いて愕然とさせられた。実際にそのような考え方があるのだ。人々が働いて得た金銭は究極的には国家のものであって、国はある程度まで私たちが自由にそれを使うことを許しているだけなのだという考えである。最終的には全部取り上げられてもおかしくないのだと考えているようである。

       聖書の命令はそうではない。国が盗むということは有り得ることなのだ。第一列王記を見れば、これはソロモン王が犯した罪の一つであったことがわかる。また、隣人のロバが囲いから出て私の庭に入ってきたとする。誰のロバなのか分からない。聞いてもロバは答えてくれない。そのような場合、どうすべきなのか。その見解について、国によって或いは地域やグループによってその考え方はまちまちである。しかし、聖書の定めは非常に明白である。まず、餌を与えて食べさせなければならない。世話をしなければならない。その持ち主が現われたときに、ただちにその持ち主に返さなければならない。もちろん持ち主が誰なのかが分からないということが前提となっている。知っていれば、返さなければならない。そうしなければ、それは盗むことになる。そのように聖書は、盗むことについて非常に細かく定めている。

       日本の法律にもそれはある意味で表わされている。一万円を拾ったなら、日本の法律ではそれを警察に届けなければならないことが定められている。届けなければ、それは盗むことになる。「私が見つけたのだから、私のものだ」という考え方ではないのだ。そして、そのように定める法律は正しい。厳密に言えば、たとえ100円であっても、拾ったら自分の物だと考えてはならないのである。律法が与えられたときに、正しさについての考え方は詳細に啓示されるのである。

       殺人の罪についても細かく定められている。その命令の適用として、隣人のいのちを積極的に守ることを考えなければならない。家を建てるとき、昔のイスラエルでは屋上で客人を招いたりしていた。それで、屋上にはしっかりしたフェンスを取り付けなければならなかった。フェンスがないために人がそこから落ちたなら、その家の持ち主の責任となる。自分の牛に凶暴性があるのを知っているなら、その牛が他人に害を与えることがないような取り扱いを施さなければならない。他人に怪我させれば、牛の持ち主の責任となる。そこまで、隣人のいのちについて気を配らなければならないのである。

       自分の責任について深く考えさせられるような命令が律法の中には沢山ある。そこまで細かく正しさを定義すると、私たちの罪がどんなに深いのかがどんどん表わされてしまう。モーセの律法が与えられたのは、そのように罪を明確に定義するためである。「そのためだけだ」とは、パウロは言っていない。他の箇所を読めば、パウロはモーセ律法が与えられた他の目的についても語っている。しかし、ローマ人への手紙5章の「アダムの罪が全人類に転嫁され、キリストの義によって救われる」という話の中では、律法の目的は罪を明白にするためのものであると言っている。「罪が増し加わる」とはそういう意味を説明する言い方なのである。

       イスラエルの人たちこそ、自分たちの罪について深い認識を持っていた筈である。イスラエルがその律法に従い、その律法を正しく異邦人に伝えるならば、一つの国が自分の罪を深く理解することによって全世界に影響を与えることになるのである。律法の制度はそのような制度であったのだ。ユダヤ人が神の律法を理解していたなら、彼らはキリストの御恵みを受ける最初の者となるはずであった。なぜなら、律法があるところに罪は支配するからである。

       モーセの律法の中で「罪が増し加わる」ということを最もよく表わすところはその犠牲制度だと言ってよいと思う。毎日の犠牲の繰り返しが宣言しているように、律法は人間を日々死に定めるのである。「あなたは汚れている。あなたは死ぬべき者である」ということを毎日毎日はっきりと教えられていた。毎日言われるなら、いつかそのポイントは心に入る筈である。神は御自分の子どもたちに教育を与えてくださり、それを具体的に表わし、繰り返し語ってくださり、イスラエルに罪が分かるように父なる神は教育してくださった。

       罪が増し加わるために律法は与えられた。私自身も含めて、ある意味で私たちはクリスチャンの文化の中で育ったと言えなくもない。幼少の頃からモーセの律法を教えられたわけではない。大人になってからモーセの律法を読んで、「そうか。このように罪について考えるべきなのか」と思わされる箇所は沢山あった。私たちはイスラエルのようには育っていないので、本当なら大人になった私たちはもっと繰り返しモーセの律法を読み、その罪と正しさについてもっと深く考えるべきであるのは事実である。私たちはもっと罪の認識を深めるべきである。そして、子どもたちにもっとモーセの律法を熱心に教えるべきである。

       モーセの律法が「違反が増し加わるため」に与えられたということは、最終的に罪の認識を深く持って「自分は汚れている、滅ぶべきものだ」ということを結論として考えるためではない。パウロは、「罪が増し加わるところには、恵みはもっと豊かに満ちあふれた」と言って、恵みが勝利することを20節で説明している。20節のポイントを違う言い方で言うなら、「罪のことが十分に分からなければ、恵みの意味は何も分からない」ということである。何から解放されているのか。その罪の意味は何なのか。それが分からなければ、恵みの意味も理解はできないのである。

       昔の帝政ロシアで、皇帝が国家反逆罪だと判断するような罪を犯せば、死刑の罰に処せられるであろう。勿論、皇帝はその者を赦すこともできる。ドストエフスキーは、一旦死刑を宣告されたが、減刑を受けてシベリアに流刑された。何もせずにただ「赦す」と言われるよりも、死刑台に立たされて、まさに死刑が執行されるのを待っているところで「赦す」と宣告された者の思いはどんなであろうか。赦されたことの重さが身にしみてわかる。赦されたことの意味が通じるわけである。

       赦されたことの意味を深く理解するためには、罪そのものが何なのか、その罪に対する神の怒りがどのようなものなのかを理解しなければだめなのだ。律法は、その理解を深めるために与えられたのである。律法は、罪の深さ、神の怒りなどを私たちに教えるために与えられた。それで、神が「あなたを赦す」と宣告するとき、その恵みの偉大さがわかるのである。21節でパウロは次のように説明を結んでいる。

    それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

    これを読むとき、「罪が死によって支配したように、義しさがいのちによって支配する」という単純な対比ではないということに気付くはずだと思う。罪の支配の反対は、恵みの支配である。それも、「主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配」するのである。私たちに義しさが賜物として与えられなければ、いのちの支配、恵みの支配は有り得ないのである。

       恵みが支配するには、まず私たちに義の賜物が与えられなければならない。即ち、義が私たちに転嫁されなければならない。キリストの義が私たちに転嫁されることが「義の賜物」なのだ。賜物として、キリストの義が与えられたのである。キリストによってその義の賜物が私たちに与えられることによって恵みが支配する。恵みが勝利する。それで私たちに永遠のいのちを与えてくださるのである。そのところでこの5章の説明が終わる。ただキリストにあってのみ、ユダヤ人も異邦人も救われ得るのである。

       5章でパウロは、救いについて、キリストとアダムのことについて話すとき、私たちに多くの大切なことを教えてくれている。その中で忘れないで欲しいことの一つは、本当に「主イエス・キリストに目を留めること」である。私たちは、キリストを信じたために救われるのではない。このニュアンスは、英語では"because of"という表現だと理解しやすいが、日本語で「...のために」という表現ではやや理解に苦しむように思われる。とにかく、「信じることによって救われる」のであって、「信じたために救われる」のではない。

       つまり、私たちの救いの土台は“信仰”という行為にあるのではない。信仰は手段であって、救いを得るための行ないではない。信仰は単に救いを受ける手段に過ぎない。それ故、キリストを信じた人は“信仰”を誇るのではない。贖ってくださった御方を誇るのである。救いを与えるのはキリストである。救いの土台はキリストの十字架の働きにある。「何故に救われたのか」というと、主イエス・キリストが代表者として私たちの罪を贖ってくださり、死と罪に対して完全なる勝利を得て、天に昇り、御父の右に座したが故に、私たちは救われたのである。

       このポイントは非常に重大なものである。パウロは救いについて話すとき、「信仰によって救われる」ということについては4章で十分に説明している。「行ないによるのではなく、信仰による」と、パウロは言っている。つまり、救いは受けるものであり、受身的なことなのだ。「何をしたか」という話ではなく、「何を受けたか」という話なのだ。何を与えられたのか。神が与えてくださるその賜物を、ただ信仰の心を持って受けるのである。どこに目を留めるのかを考えるとき、自分は何をやっているのか、十分にやっているのかどうか、自分はこのことにおいて十分なのか、あのことにおいて足りているのかなどを考えるのではない。主イエス・キリストに目を留めて、キリストの恵みを覚え、キリストが私たちのために何をしてくださったかに目を留めるのである。

       本当にそれが出来たとき、感謝の心が溢れでるようになる。感謝の心が生まれてくるときにはじめて本当の礼拝ができる。そして、はじめて本当の意味で罪に対して戦うことができるようになるのである。だからパウロはローマ人への手紙の1章で、異邦人は感謝の心がないために偶像礼拝に走ってしまうということを説明している。神を神として礼拝しない。感謝がないからだ。感謝のない心はすべての罪を生み出してしまう心である。

       では、感謝の心はどこから生まれるというのか。一生懸命自分に「感謝しなさい。感謝しなさい。感謝するんだ。感謝しなくてはだめだ」と言い聞かせて、鏡を見て「私は感謝しているんだ」というような心理学的な方法で感謝の心が生じるわけではない。キリストに目を留めることによる他に真の感謝の心は生まれないのである。主イエス・キリストに目を留めることによってのみ、本当の感謝の心を持つことができるのだ。

       私たちは、どうしてもキリストから目が離れてしまいがちなので、神は私たちを教会に招いてくださる。今私たちは招かれてここに来ている。その認識が私たち一人ひとりにある筈である。天の御父に招かれてここに集まっている。そして神は、私たちが主イエス・キリストに目を留めるようにと、御言葉を与え、聖餐式を与えてくださる。神が私たちに聖餐式を与えてくださるとき、それこそ主イエス・キリストに目を留めるように命じておられるのだ。

       聖餐式のパンを食べ、葡萄酒を飲むとき、私たちはキリストの御身体と血を受けている。文字通りには、それは主イエス・キリスト御自身を私たちの中に入れることである。主イエス・キリストを象徴するパンと葡萄酒を食べて飲むことによって、主イエス・キリストを受けることを象徴において表わしている。キリストに目を留めなさい。自分の食べることに目を留めるのではない。飲むことに目を留めるのではない。主イエス・キリストに目を留めて天の父にその契約の印であるパンと葡萄酒を見せるのである。そして「どうか神さま、私たちを祝福してください」と訴えるのである。神に対して、私たちは主イエス・キリストのみを見せているのである。

       パンと葡萄酒の他に私たちの信仰を表わす別のものがあるわけではない。パンと葡萄酒しかない。キリストを表わす象徴のみを神に見せてそれを受けるのである。その象徴の中に私たちの行ない、私たちの知恵、私たちの善、私たち自身に依る信仰などは何一つない。あるのはキリストのみである。キリストが中心である。このローマ人への手紙5章で、「アダムか、キリストか」を説明するとき、私たちの救いはただキリストの行ない、キリストの服従、キリストの御恵みのみによって与えられるということをもう一度教えられたと思う。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1999年11月21日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章13〜17節

    ローマ人への手紙6章1〜11

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.