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    ローマ人への手紙6章1〜3節


    6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

    6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

    6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

    2000.01.16. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    キリストとの一致

    6章1〜11節

       5章12節からのところでパウロは「義と認められる」ことについて教えているが、その最後のところで、彼はアダムとキリストというふたりの“契約のかしら”を通して「義と認められる」ことを説明している。その箇所でパウロは、アダムとキリストというふたりのかしらを通して、神の契約における救いの根本的なところを説明した。6章から、ローマ人への手紙は新しい部分に入る。

       1章18節から3章20節まででパウロは、なぜ私たちには救いが必要なのかを説明した。すなわち、人間は罪人であること、そして、罪人の意味は何なのかを説明した。3章21節から5章の終りまで、パウロは義と認められることをずっと説明してきたわけである。6章から8章の終りまでは、簡単で広い表現で言い表わせば、“聖化論”についての説明である。つまり、クリスチャンとして毎日の生活を神の御名のために生きることについて説明している。だから、罪の問題は1章18節から3章20節まで、義と認められることを3章21節から5章の終りまで、そして聖化論は6章から8章の三つの章で説明している。

       今日からこの6章に入るが、6章から8章までのところでパウロは聖化論について話すときに、まず6章では契約のかしらである主イエス・キリストとの関係にあって生きることについて説明し、7章で律法のことについて教え、8章では御霊について教えている。これは非常におおざっぱな言い方であるが、キリスト、律法、御霊という順序でパウロは説明するわけである。それで、6章から8章までの段落で、パウロはその三つの大きなテーマを取り扱っていることを覚えていただきたい。それぞれの部分に義認や聖化というテーマが織り込まれ、それらに関わる題材が含まれているので、パウロの教えは、単純に義認 (3章21節〜5章21節) と聖化 (6章1節〜8章39節) に関する箇所に分けられると考えるべきものではない。しかし、大きな流れは明らかに義認から聖化へと向かっている。

       この展開は福音の論理を解き明かすものである。全く御自身の御恵みの行為により、神はまず一番初めに私たちを罪から法的に救い、御座の前で私たちを「義しい」と宣言してくださる。その後にはじめて、私たちを内面的にキリストに似た者となるように御霊によって内側で働いてくださるのだ。自由な御恵みによる救いとは、聖化が義認に根ざしていなければならないことを意味している。法的な罪からの解放は、私たちの業ではなく、全くキリストの御業が根拠でなければならない。これらのすべての部分を一緒にして考えなければならないわけである。

       このローマ書は手紙として書かれたものである。受け取ったなら、最初から最後まで一気に読み通すものとして書かれている。一週間もかけて1節か2節を考えてから、次の週にまた1節を深く考えたりして、何年間もかけて読むようには書かれていない。それ故、6章のことは、7章をも読んで一緒に考えなければ誤解してしまうし、8章も一緒にして考えなければ誤解を生むことになる。本来そのようなものであることを忘れないでいただきたい。

       パウロは、キリストについて私たちに教えている。キリストとの関係について教えるときに、パウロは律法のこと、そして罪との戦いのこと、御霊の働きのこと、それらを一緒にして聖化論という大きなテーマの中でキリストを考えるように導いている。その全体的な枠組みをよく覚えつつ、6章を学ぼうと思う。

     

    反無律法主義

       しかしながら、自由な御恵みによる救いは悪用され得る。「救いが御恵みによるものであり、罪が増し加わるところに神の御恵みの現われも増し加わるのであれば、神の御恵みがさらに多く現わされるように我々は続けて罪を犯すべきだ」と論じる者たちがパウロの時代には明らかにいたようである。それでパウロは、6章の初めにまず質問から始めている。

    それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

       この問いかけによってパウロは、クリスチャンの生き方についての話を始めるのである。罪のゆえに死ぬべきであった私たちが、罪赦されて、主イエス・キリストの恵みによって義と認められたである。そしてパウロは、アダムとキリストというその“契約のかしら”の話をするとき、5章20節の最後のところでこのように言っている。

    律法がはいってきたのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

       つまり、律法がはいってきたことによって人間の罪が一層明白なものとなり(そういう意味で“増し加わった”けれども)、それによって神の御恵みの大きさはもっと明らかにされるのである。しかし、「人間の罪が増し加わるとき、恵みはそれ以上に満ちあふれるということが原則であるなら、私たちは毎日の生活において罪のことをあまり心配しなくてもよいのではないか。もっと罪を犯してもよいのではないか。恵みはそれ以上なのだから。クリスチャンはもっと気楽に生きたらよい。もっと神の恵みに甘えよう」と考える人たちが出て来る。「義と認められる」という教えを悪用するときに、「恵みに対して甘えてもよい」という無律法主義的な考え方が出て来る。そのことをパウロは取り扱っていると思われる。

       パウロはここで律法主義者がどのような異議をとなえるかよりも、むしろ、無律法主義者はどのように5章の教えを悪く利用できるかということを取り扱っている。律法主義者について言うならば、例えば、現代のキリスト教の中で考えた場合、「義と認められることは、キリストを信じるときに賜物として与えられる。信じるだけで救われる」と言えば、ローマン・カトリックは「それならば、信じた人たちはみな悪くなるではないか。永遠のいのちが与えられ、救いが与えられたことを確信すればもう律法を守る必要もなくなるということになるのではないか」と言って反論し、「だから、律法を守ることによって救われることを教えなければ、みんな悪くなってしまうではないか」と考える。

       「律法によるのではなく、恵みによって、賜物として救いは与えられる」という聖書の教えに対して彼らは、律法主義的な観点から反対するわけである。つまり、律法主義者 (人間の行ないを義認の根拠とする者) は、「もし救いが御恵みのみによるのなら、人は悪の生活を送るようになる」と非難するわけである。それで、ある人たちは、「この箇所は律法主義者たちによるオブジェクションなのだ」と考える。賜物として救いが与えられるというなら、「もう、どう生きてもいい。好きに生きればいいのだ」と皆が言うようになる、と思って律法主義者たちはこれに反対する。

       しかし、パウロはここでそのように心配する人たちに反対しているとは思えない。むしろ、実際にそのように言っている人間に対して反対しているのだ。つまり、パウロは理論上の反対ではなく、クリスチャンの日常生活の中の罪について甘くなるように導くおそれのある事柄を指しているのである。それは罪人を怠惰の中で慰め、悔い改めて生活を変えるよう追い立てる良心の痛みを和らげる。無律法主義者らは心の中の罪との戦争――いかなる戦場よりも困難な戦い――から自らを免除させるのである。それゆえ、パウロは彼らの反対に強く訴えるのである。

       昔の教会には実際にそのような無律法主義者たちが存在したということは、コリント教会を見ても察しがつく。聖餐式に集まるときに酔っぱらったり、教会の中にひどい罪があるのに取り扱わなかったりしていた。黙示録2章と3章を見てもそのような事があるのはよくわかる。教会の倫理的なレベルはかなり低いものであった。コリント教会では、教会員が金銭のことで喧嘩してお互いを裁判に訴えたりしていた。実に多くの問題があって、その倫理的レベルは実に低かった。もともと異邦人たちの倫理は低いものであったのは事実であるし、それをユダヤ人が見下していたのも事実であった。ローマの教会も小アジアの教会も、異邦人の多い教会であった。倫理的には低かった異邦人たちが福音を聞いて恵みによってキリストを信じてクリスチャンとなった。だから、倫理的には低いところから始まっていた。

       罪人だから怠け者なのも事実だし、自分の罪を悔い改めて罪と戦って成長することも容易なことではない。倫理的なレベルが低ければ低いほど、自分の罪のために口実を設けようとする。罪人は皆そうである。そのような無律法主義的な傾向を、実際にコリントの教会の中に見ることができるし、テサロニケの教会にも見られる。黙示録の2章と3章の教会にもみられる。倫理的なレベルが低いので、実際に恵みに対して甘えてしまいやすい傾向があったのは確かである。実際に「罪を犯しても心配しなくてもよい。恵みはあなたの罪よりもっと豊かだから」というふうに教える人がいたかもしれない。罪人は自然とそのように考えてしまいがちなものだという問題も確かにある。この考え方そのものが非難すべきものであり、義憤をもって拒まれなければならないものである。

       それ故、はっきりと「キリストによって、救いは全く恵みのみによって与えられる。しかし、それは、生活はどうでもよいということには決してならないのだ」と、強調をもって説明する必要があったのだ。クリスチャンなのに、正しく生きることについて深く考えもせず、あまり求めもせず、怠けてばかりいて、自分の罪のために口実をもうけたりして、クリスチャンとして真剣に生きようとはしない人がいる。そのような罪人の自然な傾向に対してパウロは反対しているのである。

       最初にそのことを明確にしておくべきだと思うが、実は、私たちにも同じような傾向があるのではないかということも考えるべきだと思う。他人事ではなく、私たちは一人ひとりが自分について吟味する必要がある。誰でも自分の心の罪を見るときに、実に寛大になれるものである。「これこれの理由があったから、だからつまずいてしまったのです」と、もっともな理由をいろいろと探し出してくるのに長けている。自分の罪に対しては、あまり深く見ようとせず、いつのまにか弁護にまわってしまう。しかし、他人の罪に対しては厳しく裁いたり、根に持って決して忘れようとはしない、ということになってしまいやすいのではないか。

       まず自分のことを、神の御前で真剣に考え、真剣に吟味し、真剣に取り扱うようにと、私たちはここで励まされているのではないか。神の御恵みに対して悪い意味で甘えたりしてはならない。恵みが与えられたのは、勝手な生き方をするためではなく、神を真剣に求める者となるためである。そのことを覚えてローマ人への手紙の6章から8章までを学びたいと思う。そこからパウロの話は始まっているのだ。そのような勝手な生き方がクリスチャンに許されているというような間違った考え方を決して持ってはならない。そのような勝手な生き方は絶対にクリスチャンには許されてはいない。それが2節の最初のポイントである。なぜそれがそれほどに歪んだ概念であるのかをパウロは説明している。

    罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

       言い換えれば、義認の意味はまさに「罪から救われた」ということなのである。もし罪から救われたのであれば、義と認められたその人は如何にして続けて罪の中に留まることができようか。それは、火の中から助け出されたと思われた人が、まだ燃える建物の真ん中に立っているようなものである。ここでパウロは5章の話の続きをしている。アダムとキリストというふたりの契約のかしらがいる。私たちは、主イエス・キリストを信じたので、主イエス・キリストが私たちのかしらであり、私たちはキリストとともに死に、義と認められて、永遠のいのちが与えられた。救いはただ恵みによって与えられたのである。

       では、「救いは恵みによって与えられた」ということを考えるとき、「だからもう甘えてもいい」という結論を持つのではない。「私はキリストとともに死に、キリストとともに甦ったのだから、新しい生き方をしなければならない」というのが本当の結論である。簡単に言えば、それが1節から11節までのポイントである。この箇所を読むときに、もう一度アダムとキリストというふたりの契約のかしらの対比について考えることによって、6章に入る前のところでその広い意味をもう一度考えたいと思う。

       というのは、ここでパウロは、「バプテスマによって私たちはキリストとともに死に、バプテスマによってキリストとよみがえった」と言っているからである。そのバプテスマの話と5章の話の関係を考えなければならない。また、6章は、「バプテスマを受けたので日々の生活においてこうしなさい」というような話になっている。そこで、これらを総合して一緒に考える必要があると思うのである。パウロはキリストとの契約的結合という教理をさらに深く説明することによって、「罪に対して死ぬ」意味について詳しく述べる。そうすることで、聖化の教理を義認の教理と同じ土台の上にうち建てているのである。

     

    キリストの死にあずかるバプテスマ

       主イエス・キリストが十字架上で死に、そしてよみがえったとき、主イエス・キリストが代表する者もみなキリストとともに死に、キリストとともによみがえったのである。それはパウロが5章で説明しているのと同じことである。その死と復活におけるキリストとの合一は、義認と聖化の両方の土台である。それは実に、私たちの救いの意味におけるまさに本質部分なのである。注解書記者のクランフィールド (C. E. B. Cranfield) は、「私たちがキリストの死と復活にあずかる」ということの四つの意味を正確に略述している。しかし、同時に理解しなければならないのは、それらが罪人アダムとの合一と並行している点、そして全体の要点が契約の代表にあるという点である。

       即ち、代表であるアダムがエデンの園で罪を犯したために、私たちもアダムと一緒にエデンの園にいて一緒に罪を犯してしまったものと見做されるのだ。「私はまだ生まれてもいないのに、アダムと一緒に罪を犯したというのか」と抗議するかもしれないが、そのとおりなのである。契約のかしらが行なったことは、彼が代表しているすべての者に転嫁されるのである。アダムを契約のかしらとして持つ私たちはみな、アダムと一緒にエデンの園にいて罪を犯したようなものである。それはちょうど、キリストが十字架上で死んで、そしてよみがえったときに、私たちもキリストとともに死んで、キリストとともによみがえったのと同じことなのだ。そのことをパウロは5章で説明しているが、これが第一の意味である。

       即ち、キリストが死なれた時、私たちはその死と復活においてキリストと合一された。神は単に確定していない多数の罪や罪人に対する御怒りを注がれたということではなく、私たちの罪のための罰をイエスの上に注がれたからである。イエスは特別に御自身の花嫁である私たちを救うために死なれた。選ばれた者たちは法的にその救いの御業にあずかってキリストにある者とみなされたのである。このことは、私たちがある意味で、園でアダムと共にいたと見做された事実に並行する。アダムの罪は彼が代表していたすべての者の罪となった。あたかも彼らがアダムと共にその場にいたかのように取り扱われるのだ。法的に言えば、私たちは彼と共にいたのである。

       パウロがこのローマ書6章で指しているバプテスマを私たちが受ける時、その時、私たちはキリストの死と復活において合一される。パウロの時代のクリスチャンにとって、バプテスマは信仰告白から切り離されたものではなかった。そこで、「人が救われるのは信じた時なのか、それともバプテスマを受けた時なのか」を問うことなど彼らには思いもよらなかったであろう。この二つは本質的に一つであった。また、バプテスマは契約の誓いであった。バプテスマを受けることによってクリスチャンが行なったことは、主観的に神に信頼するだけのことにとどまらない。その信仰はバプテスマという契約の誓いによって客観的なものとされた。

       慣習や様々な理由――全部が全部ふさわしいものではない――のために、今日の教会では、バプテスマは信仰告白から切り離されてしまった。そのために私たちはこれらを基本的に別な二つの行為として考えてしまいがちである。しかし、パウロの意味を理解するには、そのような類の考えを捨てて、パウロがバプテスマについて述べているのは信じた時の最初の信仰告白を含むものとして読まねばならないのである。バプテスマの儀式においていつも思い起こさなければならないことだが、使徒行伝で明らかに記されているように、キリストを信じることとバプテスマを受けることとは必ず一緒になっている。

       例えば、使徒行伝16章の箇所は一番わかりやすいが、真夜中にパウロは牢獄の看守に福音を伝えたところ、看守とその家族が信じたので、パウロはその場ですぐに看守の家族全員にバプテスマを授けたのである。信じて、バプテスマを受ける。その二つのことは数分しか離れていない。否、ほとんど一緒になっているのだ。それで、パウロがバプテスマについて話すとき、例えば、信じたあと一年経ってから、クリスチャンになるとはどういう意味なのかについてもっと学ばせたりして、教会員になるとはどういうことなのかについてもまた数ヶ月間学んでから、それからやっと日曜日にバプテスマを受けるということではなかった。それは今日の教会のやり方とはずいぶん違う。

       教会によっては、信仰告白してから三年間待たないとバプテスマが受けられないところもある。三週間だけ勉強すれば受けられる教会もある。「信じます」と告白したら、その場でバプテスマを授ける教会もある。通常は、信じた者に対してかなり長い訓練の時間が与えられるのが今日のやり方である。「去年信じたから、来年バプテスマを受けます」というようなことにもなったりする。そのように、信じた時とバプテスマを受ける時とを分けて考えることになってしまいがちである。今日では、クリスチャンになった時とバプテスマを受けた時とは、二つの別なものとして考えてしまうのが普通である。

       パウロの時代はそうではなかったのだ。キリストを信じた時、すぐその場でバプテスマを受けたのである。使徒行伝2章でも、人々がキリストを信じると、その場で使徒たちは彼らにバプテスマを授けている。8章では、ピリポが馬車の中でエチオピアの宦官に福音を説明してキリストについて説明していたとき、彼が信じたので、その場で馬車を止めさせて彼にバプテスマを受けさせた。そのように、“信じること=バプテスマ”であったのだ。それで、私たちは信じたとき、「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえった」という言い方にもなるわけである。

       バプテスマを受けた時、それはキリストを信じた時、即ちクリスチャンになった時のことを指すのである。人がバプテスマを受ける時、キリストの法的御業がその罪人に適用される。その時、彼は自らの人生の中でキリストと合一されるのである。バプテスマを受ける以前の彼はキリストの外にいたのだが、バプテスマを受けた時から、彼はキリストに属する者となり、キリストの義が彼に転嫁されている。つまり、そこには罪人の人生における御怒りから御恵みへの本質的変化があるのだ。

       クリスチャンになった時に、キリストとともに死んでキリストとともによみがえった。換言すれば、それは主イエス・キリストが十字架上で死に、そしてよみがえった時、キリストが契約の代表として行なった救いの御業は、御霊によって、その時に私たちに適用されたのである。だから、2000年前にキリストが死んでよみがえった時の歴史的事実と、それによって代表されるものは皆、キリストとともに死んで、キリストとともによみがえったのである。御霊は、信じる者一人ひとりにその救いを適用してくださる。即ち、あなたがキリストを信じてバプテスマを受ける時に、御霊は救いをあなたに適用してくださり、その時あなたは、死んで、よみがえったのである。信じることとバプテスマを受けることとは一緒に考えるべきものであり、バプテスマを受ける時、それは新しく生まれかわる時なのである。それは救いの適用の時である。

       人がバプテスマを受ける時、キリストの法的御業がその罪人に適用される。その時、彼は自らの人生の中でキリストと合一されるのである。これはちょうど、世が創造されるときにエデンの園で私たちの代表であるアダムが罪を犯したが、その罪の適用は私が生まれるまでは私に適用されないのと同じである。つまり、まだ生まれていない私は、まだ存在していないので、まだ適用されないわけである。しかし、母の胎の中で人間となったその時、厳密に言えば受精したその瞬間に、原罪は経験的に我々のものとなる。その時、アダムの罪は私に転嫁され、私は罪人として生まれてくる。アダムの罪は我々が存在するようになるまで、実際には転嫁されないのである。

       それと同じように、バプテスマによって新しく生まれ変わる時、キリストの義が私たちに転嫁され、私たちは新しいものとなる。それがバプテスマである。キリストを信じるとき、これらは基本的に一緒に考えるものである。その時に、キリストが十字架上で成就したことが私に適用される。これが第二の意味である。

       次に、バプテスマを受けたとき、「死んで、よみがえった」という事実は私たちの毎日の生活に適用しなければならない。つまり、クリスチャンは、毎日「死んで、よみがえる」ということを生活に適用していくような生き方をするものなのである。それだから、パウロはここで、「自分はキリストとともに死んで、キリストとともによみがえったものであり、キリストとともに生きるものだというふうに自分のことを考えなさい」ということを言うわけである。もしその救いが本当の意味を持つものであれば、イエスが死なれた時に法的に私たちにとって真実であったものと、救いの時に私たちに転嫁されたものとは、私たちの日常生活の中心となっていなければならない。聖化の本質とは、キリストの死と復活を信者の日常生活に適用することなのである。

       コロサイ人への手紙を見ると、2章20節でパウロは、「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように.....」と言っている。キリストとともに死んでいるのであれば、この世の生き方をするはずはないのである。「バプテスマを受けたあなたがたは、キリストとともに死んだ者、また、よみがえった者のような生き方をしなければならない」と、パウロは励ましているのである。

       そして、同じ3章5節では、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい」と言っている。つまり、「アダムにある自分を殺してしまいなさい」と言っているのだ。「それを十字架につけてしまいなさい」と言っているようなものである。あなたはキリストとともに死んだ者であるから、アダムである自分の部分を殺してしまいなさい。聖化は、「地上のからだの諸部分」を「殺してしまう」ことだと述べられているのだ。

       そして、1節のところでパウロは「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい」と命じている。「」とは、キリストが神の右の座についておられる所である。つまり毎日が、罪を殺して、よみがえった者として歩む生活でなければならない。そういう意味で、バプテスマのときに、主イエス・キリストの十字架と復活は私たちに転嫁された。それを私たちは毎日の生活において熱心に適用し、十字架と復活の生き方をしなければならない。

       それとは反対に罪人はみな、エデンの園でアダムと一緒に罪を犯し、生まれる時にそれは自分に転嫁され、毎日の生活においてそのアダムにある罪の生活を送る者になっている。毎日の生活において罪を犯し、アダムの真似をして神に逆らう生き方をしている。アダムの子は、幼い頃からいかなる努力もなしに日常生活においてアダムの罪に倣って生きている。彼らにも神が形作られた良心があるので、ある種の戦いはあるが、キリスト者の心の中で進行中のものと比較することはできない。しかし、その二つは並行している。

       そういうわけで、聖化の過程とは、罪に対するキリストの死と神へのそのよみがえりとにおいて、私たちが法的に決定的にキリストと合一されているという事実に自らを適合させるための日々の継続的奮闘なのである。主の晩餐(聖餐式)はこの日々の戦いの中で私たちを助けるために神から与えられている。私たちは余りに容易くこの戦場から迷い出てしまうからだ。毎週私たちはキリストの死と復活の場所に連れ戻され、それを自分自身に適用するよう導かれているのである。これが第三の意味である。

       そして、四番目の意味は将来的なものである。いつか私は死ぬ。死ぬときに、私は肉体において死に、肉体は土に返る。けれども、終りの日によみがえって、復活された身体をもって、永遠に主イエス・キリストとともに生きる者となる。そのように、キリストの死と復活においてキリストと合一されるという将来的な意味がある。「私たちの身体の復活とキリストの身体の復活を一緒にして一つのこととして考えなさい」と、パウロはコリント人への第一の手紙の15章で言っている。アダムにあって人はみな死ななければならない。しかし、キリストにある者はみな、身体においてよみがえって、永遠に神とともに生きる者となる。

       未来におけるキリストにあずかる私たちの復活は、私たちに対するキリストの復活の最終的な適用である。私たちのからだはよみがえらされ、キリストの栄光に満ちた御身体と同じかたちにされるのだ。それだから、「死んで、よみがえる」ということには、実際にこの身体において永遠のいのちが与えられるという将来的な意味もあるのだ。キリストとともに死んでよみがえることの最終的な適用は、復活した身体をもって永遠に神の祝福を受けて生きるところにある。罪人にとっても、アダムとの合一は将来的な意味を持っている。それは罪のゆえの永遠の死である。この永遠の死からの救いはないし、あり得ないことである。

       だから、以上の四つの意味において「ともに死んで、ともによみがえる」ということを考えることができる。毎日の生活においてアダムのように歩む者は、死んで、永遠の地獄に入る。そのような者には、いのちの復活はない。四つの意味は並行しているものである。キリストとともに十字架上で死に、そしてよみがえった。そのことは、新しく生まれるときに転嫁されて、毎日の生活においてそれを適用しなければならない。クリスチャンとして成長を求め、真剣にクリスチャンらしく生きるのである。そして最終的に、この身体が死に、そして復活の永遠のいのちの身体が与えられるという終末論的な意味もある。その広い意味を覚えてこのローマ人への手紙のところを考えなければならない。これは契約のかしらであるアダムと、契約のかしらであるキリストとの対比のことである。

       そのことは、6章の意味においても続いていると考えてよいと思う。つまり、「5章で説明された対比を覚えて6章を読まなければならない」ということである。契約のかしらは、私たちにとって包括的かつ総合的なものである。生まれる以前の自分はどのようなものになるのかという定義においても出てくるし、生まれたときに自分は何者なのかという定義にも出てくるし、自分の毎日の生活の本質的な意味においても出てくるし、自分の未来のことでもある。「キリストのものか。それともアダムのものか。どっちなのか」ということをパウロはローマの人たちに説明しているわけである。

       キリストとともに死んで、キリストとともによみがえったということは、ただ救いが与えられたというような話ではない。「キリストを信じて、救いが与えられた。おしまい」ということではなく、それは自分のすべてを決めることなのだ。自分の存在の意味、生き方、考え方、過去も未来も全部を決めるものなのである。それだから、すべてにおいて、キリストとともに死んでキリストとともによみがえった者として考えて生活を送らなければならない。そのことを6章でパウロは説明している。

       もう一つの広いポイントを説明しておきたい。福音を伝えることは、人々の世界観を変えることにつながるということである。このアダムとキリストの対比の話は、歴史全体の話なのだ。当時のローマの人々は、「アダムからすべて始まった」というふうに自然に考えていたわけではない。「アダムにあってあなたは罪を犯した」と言われるとき、当時のギリシャ人はすぐに納得するような反応はしない。「それはユダヤ教の神話にすぎない。何を言っているのか」と思ったかもしれない。皆がそれを当然なことと考えたわけではない。ローマの人々、ギリシャの人々、当時の異邦人たちは、すぐには理解しなかったであろう。ユダヤ人でさえも、どこまでそのことを信じていたかはわからない。

       基本的にユダヤ人はアダムのことを信じるが、異邦人はそうではなかった。ローマの教会の人々に、「神がすべてを創造し、アダムにおいて人類の歴史は始まった。アダムが罪を犯したときにあなたも人類の一員としてアダムとともに罪を犯した」と説明するとき、それは「歴史全体についての考え方を変えなければなりませんよ」という話になる。福音を信じるということは、歴史の始まりについての考え方を根底から変えるということなのだ。「人間は何者なのかについての考え方も変えなさい」ということになる。だから、アダムから人類が始まったことに加えて、契約的な考え方を持たなければならない。アダムと自分のつながりは契約的なつながりだからである。確かに遺伝子的なつながりもあるが、パウロはここで遺伝について語ってはいない。契約のつながりは、法的なつながりでもあり、神の御座の前での裁きの話でもあるのだ。

       代表者が行なったことが自分に転嫁され、自分も同じことを行なったものとして裁判の御座の前で裁かれるのである。そのようなことについての考え方をことごとく変えなければならないのである。歴史観と世界観のすべてが変わらなければならないのだ。そして、主イエス・キリストがこの世にお生まれになったということは、アダムからキリストまでの全歴史の目的のようなことであった。人々は、約束の救世主を待ちわびていた。その約束の救い主、メサイアが生まれた。そのメサイアは神であり、また人間でもあった。この主イエス・キリストがこの世に生まれたことは、歴史全体の中の最も大きな出来事であり、天地創造と同じほどの大きな出来事であった。そこまで重大な話なのである。

       主イエス・キリストは神であられ、また完全な人間であった。そのお方が預言のとおりに十字架の上で死に、そして復活されたとき、それは全歴史の意味を変える出来事であった。アダムにある歴史は根本的に、そして決定的に変えられたのである。それ以降の歴史はキリストが中心となられたのだ。だから、キリスト以前とキリスト以降に歴史は分けられ、カレンダーも変えられた。キリスト御自身が歴史の中心である。キリスト以前の歴史はアダムにあるものであったが、キリスト以降の歴史はキリストにある歴史である。二人の契約の代表によって歴史全体を見るわけである。だから、それは歴史観と世界観のすべてを変えるものなのである。そのことが福音のメッセージの中に含まれている。

       それだから、私たちは主イエス・キリストにあるものとして自分のことについても考えなければならない。そして、主イエス・キリストにある者らしい生き方をしなければならない。そのことをパウロは6章から8章で説明している。そのために律法のことについて話したり、私たちの心の中にある罪との戦いのことについても話したりしている。そして、御霊の力によるのでなければ勝てないということも8章のところで説明している。そこまでのことをも覚えつつ、「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえる」ことについて考えなければならないわけである。それほどに広い意味があるということを深く覚えてこの6章の箇所を学ばなければならないと思うのである。これで6章の導入部分が終わり、3節からの説明に入りたいと思う。

    それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 

       「バプテスマによってキリストとともに死に、キリストとともによみがえる」ことについて話すときに、パウロはバプテスマを行なう意味について説明している。つまり、「バプテスマ」という儀式には契約的な意味があるので、バプテスマを行なうとき、神は御自分の代表である牧師や長老たちを通してバプテスマを私たちに与えてくださる。バプテスマを受けた者にはその契約のしるしが与えられ、主イエス・キリストとともに死に、主イエス・キリストとともによみがえった者として正式に見做されるのである。

       いつも同じ例を使うのは心苦しいが、これは結婚式のようなものである。結婚の式をあげる前には、その二人は未婚なのである。愛し合っていると言っても、また、結婚の約束をしていると言っても、お互いを信じているにしても、まだ結婚はしていないのである。その儀式を行なうことによって、契約的に二人は結ばれて夫婦となるのである。その二人は誓って一心同体となるのである。二人は、神の御前に立ち、公けな誓いをもって一つとなるのである。

       同じようにバプテスマは、クリスチャンになる誓いの儀式なのである。その儀式は魔法的な力を持つものではない。バプテスマを受けるとき、何かの神秘的で形而上学的な、言葉で説明できないような変化が急に起こってしまったわけではない。その水に何か特別な力が潜んでいるわけではない。牧師が水の上に手を置いて祈るとき、その水は何か神秘的なものに変わり、それを頭に注がれると特別な事が起こるわけではない。ローマン・カトリックのバプテスマに対する考え方はそれに近いようなものになってしまいがちであるが、決してそのようなことではない。しかし、同時に、その水には何も意味がなくて、ただの水でしかなくて、ただ水を注いだということでもないのだ。

       バプテスマは単なる儀式ではなく、契約の儀式である。「契約の儀式である」ということは、神御自身が契約の当事者とともにおられて、祝福してくださり、神御自身がその契約のしるしを見て、それを覚えてくださって、私たちの中で働いてくださるということである。そして、バプテスマを受ける者も、契約の誓いの儀式なので、大人の場合は自分で誓っているようなものとなる。そのバプテスマの行為自体が誓いの行為であり、信仰告白と同じようにそれは誓いの儀式である。「私は誓う」と宣言しするものである。結婚式と同じように誓うのである。

       子どもの場合は代表者が代わりに誓いをする。その子どもは、代表者による誓いによってその契約に入り、正式に契約の子どもとなっている。それは、旧約聖書の割礼と同じものである。その契約の儀式を行なったとき、正式にキリストとともに死に、キリストとともによみがえった者となる。神の教会に正式に加えられ、正式にクリスチャンになったのである。

       なぜ「正式なクリスチャン」という言い方をするのかというと、次のことを覚える必要があるからである。聖書の中にこのような表現はない。聖書では「聖徒となった」という言い方になる。それでは、バプテスマを受けた者ならみな最終的に永遠のいのちに至るのかというと、そうではない。キリストから離れていってしまう者もいる。イスカリオテ・ユダはキリストを裏切り、そして離れていった。使徒行伝8章では、バプテスマを受けたシモンという人が、ペテロの所に来て、聖霊を与える賜物を金銭で買おうとしたとき、追い出されてしまったというようなことが記されている。パウロの手紙にも、信仰から離れてしまった人たちがいたことが記されているし、ヨハネの手紙にもそのような話が出て来る。正式にその人たちはみなクリスチャンになったのであるが、離れてしまったのである。確かにそういうことも有り得る。

       そういう意味で、敢えて「正式に」という言い方をしているわけである。「その人たちはクリスチャンになってはいなかった」ということは、ある意味では言える。「彼らは最初から本当の信仰は持っていなかった」と言うことができる。けれども、キリストを信じる信仰告白をしなかったのと全く同じなのかというと、そうではない。教会に入り、キリストにあずかる者となったのに、その信仰を裏切る者となったのである。これは実に大変な話である。そのことをペテロは手紙の中で話しているし、イスカリオテ・ユダについても聖書は語っている。まったく完全に信仰を持たなかった者と、信仰を告白してバプテスマを受けた者や子どもの時にバプテスマを受けた者とは、実に大きな違いがあるのだ。聖書は、バプテスマを受けなかった者と受けた者との違いは大きいと教えている。

       信仰を裏切った者の罪は非常に重大なものであることを聖書は教えているので、バプテスマを受けることには、あくまでも客観的な意味がある。そして、それに従って正しく適用するなら祝福となるが、それに逆らって信仰を捨てるならば、それは非常に恐ろしい大変な話になる。だから、バプテスマを受けたことには客観的な意味があることを忘れてはならない。

       「教会全体はキリストの花嫁である」という言い方が聖書にあるが、比喩的な言い方ではあるが、バプテスマを受けたとき、その者はキリストと結婚したような関係となったのである。その結婚を裏切るかどうかは別として、結婚の誓いそのものは客観的なものとして成り立つものである。代表者が誓いをしたと言っても、その誓いは客観的なものとして成り立つのである。

       それ故、主イエス・キリストにつくバプテスマを受けた私たちはみな、キリストの死にあずかるバプテスマを受けたのである。キリストとともに死んで、キリストとともによみがえったのである。バプテスマを受けたとき、キリストの死と復活は契約的に私たちに適用された。そういう意味で、正式に死んで、よみがえって、正式に新しく生まれた者となったのである。そのようにバプテスマについて言うことができる。神はそのように御霊の力によって私たちの心を変えてくださるが、儀式を通しても私たちの中で働いて変えてくださる。それは聖書の中でも非常に重要なこととして記されている。

       ストイック的な信仰を持つ者は、御霊の働きを認めても、儀式はいらないと考えてしまう。無教会主義のように、教会もいらない、バプテスマもいらない、聖餐式もいらない、地域教会という組織もいらない、教会の権威とか長老会などの組織もいらないと考えてしまう。個人と神と信仰さえあれば、それで十分だという考え方になってしまう。日本にもそのような考え方はある。しかし、それは聖書とはまるで違う考えであることは、聖書を読めば明らかである。バプテスマは非常に大切な儀式であるし、聖餐式も毎週の礼拝の中心として考えるべきものである。毎週というよりも、使徒行伝を読めばわかるように、毎日集まって聖餐式を行なっていたのである。そこまでバプテスマと聖餐式は聖書においては重大なものなのだ。神が命じてくださった儀式は重大なものであり、それを行なうことにはとても重大な意味があるのだ。

       地域教会という組織もまた重大なものである。個人(自分)の信仰と神がいればそれでいいという考えは聖書の中にはない。では、どうしてそうなのかというと、時間がないので一つだけ言うが、私たちは地域教会として一緒に集ってバプテスマと聖餐式を行なうとき、実際に神はそこに一緒にいてくださる、というのが主イエス・キリストの約束である。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と主イエス・キリストは言っておられる(マタイの福音書18章20節)。

       そして、私たちは実際に肉体を持つものであるので、実際に物質的なものを通して教えられることは大切なことなのだ。実際にパンを取り、感謝をささげてからそれを食べ、葡萄酒も感謝して飲む。その行為によって契約を新たにするということは、肉体を持つ者にとってはいろいろな意味において大切なことなのである。神の御霊は、その極めて簡単な儀式を通して私たちの心の内に働いてくださり、契約の祝福を与えてくださる。

       聖餐式はバプテスマの誓いを新たにする儀式である。バプテスマを受けた時に、キリストとともに死んでキリストとともによみがえったことが適用されて、毎日の生活に対しても罪に対して死んでキリストにあって生きるという心を新たにし、その新たなる誓いの心を持って歩まなければならないものである。問題は、私たちは罪人であるので、そのあるべき生き方から簡単に離れてしまい、罪に落ちてしまいやすいものである。「私はもうキリストとともに死んだ」ということを生活において忘れてしまいがちである。そのことを深く思わず、それを生活や思いに適用せず、罪の生活に走ってしまいやすい。そのような傾向が私たちの中にあるので、神は私たちを引き戻し、呼び集めてくださり、私たちが何者なのかを聖餐式の時に特別に私たちに知らせ、思い起こさせてくださる。「あなたは、キリストにあって死んで、そしてよみがえった者である」と諭してくださる。

       聖餐式の時に私たちはその誓いを新たにするものである。即ち、「私は、死んでよみがえった者である。キリストとともに歩む者である」ということを主イエス・キリストの十字架を中心にして認めるのである。しかし、復活の主イエス・キリストに目を留めて感謝しつつ、聖餐式を行なうのである。その意味で、聖餐式を行なうとき、キリストの死を常に覚えるのだが、「私は死んだ。罪に対しては死んだ者である。しかし、よみがえって天に昇り、すべてを支配しておられる主イエス・キリストに感謝を捧げてキリストとともに生きる者である。キリストにあって私はよみがえった者である」ということを認識を新たにして聖餐式を行なうのだ。主の御前に来て、「キリストとともに死んで、キリストとともによみがえった者として、この世に生きている。神の御恵みによって...」という思いをもう一度新たに持つように導かれているのだ。

       ローマ人への手紙6章11節で、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」と、パウロは言っている。このような言い方をしているのは、ローマの教会の人たちも私たちも、このことを忘れてしまいがちなものだからである。私たちは、自分が何者なのか、何のためにこの世に生きているのかを忘れてしまって、自分の罪を十分に取り扱うこともしないで生活を送ってしまう傾向がある。それで、主の聖日に、言わば強制的に神の御前に集められるのである。つまり、「神は招いているけど、今週はゴルフに行かなければならないから、だめです」というような答えは許されないのである。

       御前に集まって聖餐式を行なうときに、キリストの十字架と復活を覚えると同時に、自分もキリストとともに死んでよみがえった者であることを再認識しなければならない。自分の歩みがどうなのかを吟味しなければならない。そして、「私は、自分の罪を捨てて、あなたの御栄光のために生きます」という誓いを新たにするのである。そのことを真剣に思わなければならないのである。外から与えられている神の“しつけ”に対して素直でなければならない。私たちは神の子どもであり、道から外れてしまいやすい愚かな私たちを、神はこのように私たちを御前に導いて助けてくださり、祝福を与えようとしておられるのである。私たちがそれを必要としているからである。

       そういう意味で、バプテスマの誓いの意味を思い起こしてその誓いを新たにする儀式が礼拝の中心として私たちに与えられている。キリストとともに死んで、キリストとともによみがえった者としての生き方がしっかりできるように、神は私たちにこの励ましを与えてくださった。励ましだけでなく、御霊は実際に私たちの中にあって働いてくださる。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年1月16日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章18〜21節

    ローマ人への手紙6章3〜5節

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