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    ローマ人への手紙6章6〜10節


    6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

    6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

    6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

    6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

    6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

    2000.01.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    古い人が十字架につけられた

    6章6〜10節

       6章6節からのところを見たいが、まず7節の翻訳について見ておきたい。日本語では、新改訳も口語訳も新共同訳も文語訳もみな似たような訳になっている。新改訳では、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と訳されており、脚注に別訳として「放免されている」とある。「放免される」には「赦される」というような意味がある。文語訳は「脱るる(のがるる)なり」と訳している。実は、どれも文字通りにギリシャ語原文を訳してはいない。ギリシャ語の原文では「義と認められている」という言葉になっている。「義と認められる」という言い方をそのまま使うと理解しづらいので、「解放されている」と訳したのであろう。そして、確かに「義と認められる」という言い方を「解放される」と解釈するような箇所もローマ人への手紙以外のところにはある、と主張する人もいる。

       つまり、この訳でもいいとはっきり言っているわけではないが、この言い方の方が読む人には理解しやすいということで、英語でも同じような訳が普通に使われている。しかし、英語には"Justified from sin"(罪から義と認められた)という訳もあるし、文字通りの訳が使われているものもある。新改訳の脚注にある「放免されている」という別訳は「義と認められる」ことを何かの意味において表わそうとした訳とも思える。この6節と7節で、パウロはキリストの十字架の話をしており、「私たちはキリストと共に死んだ」ということについて少し違う観点から話している。前のところで特にバプテスマに言及して、「バプテスマの意味をよくよく考えなさい」と、ローマの教会に話している。

       「クリスチャンになったのだから、もう罪を犯しても構わないのだ。罪を犯せば神の御恵みをもっと表わすことになるのだから、真剣に罪について心配しなくてもよい」というような考えに対して、「絶対にそんなことはない」と断言している。バプテスマの意味を考えなさい。クリスチャンはキリストとともに死んでキリストとともによみがえったのだから、神の栄光によってよみがえったキリストと同じように神の御国を第一に求める生き方をすべきである。6節と7節でパウロは、それと同じことを別の観点から別の言い方で話している。ここにはじめて「十字架」という言葉が出て来ている。

       今日の私たちは、昔のローマの人々が読んで感じたようには感じないだろうと思う。私たちは十字架について考えるとき、十字の形のものを思い浮かべたりする。それが木であったり金やプラチナであったり宝石であったりする。「十字架」という言葉を、酷い悪い意味の言葉としては思わないであろう。今日の私たちにとって「十字架」は美しい言葉になっている。それはそれでよい。しかし、十字架が私たちにとって何故美しい言葉になっているのかというと、主イエス・キリストが私たちを愛して十字架上で私たちを罪から救ってくださったからである。その美しい意味が十字架に反映されているのである。

       しかし、十字架は死刑である。十字架は、最も残酷な極刑を意味する。ローマ帝国が、これ以上残酷なやり方はないということで定めた死刑の方法であった。それが「十字架」である。ローマ人への手紙を受けた人たちはローマの市民権を持っているので、基本的には十字架の刑に処せられることはなかった。例えば、パウロはローマの市民であるから、パウロが十字架につけられることはない。斬首の刑に処せられることはあっても、十字架にかけられることはない。十字架は最悪な拷問であった。

       そのことをいつも目撃していたローマの人々には、十字架がどんなに残酷なものなのかは解っていた。だから、「主イエス・キリストと共に残酷な拷問によって死刑にされた私たちは...」と言っても、私たちにはその意味を深く味わうことはできないであろう。目の前で人が十字架につけられるのを私たちは見たことがない。ローマ帝国に生きていた人たちはしょっちゅうそれを見ていた。奴隷が逆らうと、多くの奴隷が道の脇などに十字架にかけられて処刑されていた。

       私たちは、死刑の処せられる現場を実際に見たことがない。手術でさえ、実際にその現場にいたら話は違うのである。私は父の手術に立ちあったことがあるが、気分が悪くなったのを覚えている。ローマ帝国の人々は実にたくさんの死刑を見たことがあり、どんなに十字架の刑が残酷なものなのかが解っていた。だから、その言葉を読むとき、彼らにとっては実に深く味わうことができる言葉であった。しかし、私たちは別な意味でその言葉を深く味わっている。つまり私たちには「キリストの十字架」という考えしかないので、この箇所でこの言葉を読むとき、当時の意味に思いをはせながら読むことが大切だと思うのである。

       パウロは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」という言い方をしている。ここに「古い人と新しい人」のことが出て来るが、この話は5章の「アダムとキリスト」の話の続きであることを覚えていただきたい。先週も言ったように、古い契約と新しい契約、古い人と新しい人、死といのち、罪と義、それらがみなペアになっている。そして、キリストとアダムとは契約の代表者であり、古い人はアダムにある自分であり、新しい人はキリストにある自分という基本的な違いを表わしている。「古い人がキリストとともに十字架につけられた」と言うとき、「そのアダムにある自分がキリストとともに十字架上で死んだ」ということを非常に具体的に説明するものである。

       先週「葬られた」という言葉について学んだが、「キリストとともに葬られた」というのはバプテスマのやり方の話ではなく、死の意味がどれほど明白なのかを強調するものである。「古い自分がキリストとともに十字架につけられた」と言っているのは、「自分は罪に対しては既に死んだ。この時に罪の罰を受けて死んだのだ。古い人は既に死んでもう終わったのだ」ということを深く認識させるためである。最後の結論のところでパウロは「このように思いなさい」と言っているけれども、その認識を十分に深く持つために説明しているのである。

       クリスチャンの生活の中にある罪は深刻な問題であるが、パウロの時代のクリスチャンの中には、自らの罪と罪深さという重荷を軽くしたいために、「罪はそれほど深刻なことではない」と考える人たちがいた。「結局、神の御恵みが私たちの罪を赦すことにおいて現わされるというなら、私たちが罪を犯せば犯すほど、神の御恵みは更に豊かに示されることになる。それならば、罪に対してそれほど心配したり、罪と真剣に戦う必要はないのではないか」と考えてしまう。パウロはその種の考えに対して、可能なかぎりの強い語調で反論している。軽い気持ちで罪の中に留まり続けることは福音の意味そのものを拒むことだからである。

       福音とは、「キリストが私たちを罪から救い出すために世に来られた」というメッセージなのだ。罪や死の結果から救い出すためというよりは、罪そのものから救い出すために来てくださったのである。従って、罪から救われているならば、必然的に罪の結果からも救われているのである。問題は実に救いの真髄に係わるものなのだ。救いとは、神が私たちに、死から、苦しみから、そして人生の苦悩から、逃避することを提供する働きなのだろうか。それはこの世のほとんどの宗教が何かのかたちで表現している捉え方である。しかし、それは聖書の教えではない。

       聖書の教えによれば、救いとは、私たちを再創造してくださる神の御業である。神が私たちの最も深い部分を変えてくださることによって、私たちを新しい人にしてくださるのだ。私たちは単に人生の悲惨や悩みや恐れから救われるだけでなく、自分の内側にある腐敗からも救われるのである。この腐敗こそ、この世の歩みにおけるすべての悲惨の究極的原因なのであり、私たちは「新しいいのち」において神に栄光を帰することのできる「新しい人」として生まれ変わったのである。

     

    古い人

       「古い人」とはどういう者か、また、「新しい人」とはどういう者なのか。そのことを考えるとき、恐らく私の説教や週報などを見るときにその表現に一貫性がないと思えるような表現が出てくるだろうと思うので、ここでもっと正確にその意味について話しておきたい。厳密に言えば、「古い人と新しい人」という言い方は、クリスチャンになる前の自分とクリスチャンになった後の自分というような意味で話していると思われる。これは、「今、自分の中に新しい人と古い人の両方が入っている」というような考え方ではない。

       時に、「古い自分に対して戦わなければならない」というような表現を私たちもしている。その言い方が100%悪いとは思わないが、パウロはクリスチャンの内に残っている罪を指して言っているのではない。聖書の中で「古い人」と「新しい人」という表現が登場する箇所を注意深く見てみると、もっと狭い意味を持つものとして理解されるように意図されていることがわかる。そして、聖書の中で「自分と戦わなければならない」と教える箇所では、「」あるいは「」という言い方になっている。

       つまり、こういうことだと思う。「古い人」という表現はおそらくアダムへの引喩を含むものであろう。「古い自分」とは、アダムにある神を憎み神に逆らう、クリスチャンになる前の自分のことである。まさにそれは「古い自分」である。クリスチャンではない人の心の最も深い動機、その心の最も深い思いや気持ちは、神に敵対するところにある。善人のように振る舞うとしても、実は、神を憎む心を持って生きている。そのことをパウロは8章や1章で説明している。主イエス・キリストを信じる前の私たちは、根本的に神を憎む者として生きていた。神を無視し、神を信じないで、神に逆らい、神から逃げて生きており、義を求めず、悟りが無く、神を求めない。それがその人の心理の一番深いところにある動機であって、これ以上にその人にとって心理的に深い部分はないのである。それが古い自分であって、アダムにある自分である。

       「新しい自分」は、根本的に変わって、その心の一番深いところの動機と思いは神を信じ、神を愛し、神に従いたい心の自分である。だから、原則的に言うならば、古い自分は「罪」しかない。そして新しい自分は「義しさ」しかないのである。「」という言葉は、内側にまだ残っている罪、自分が戦っている罪を指しているが、「古い人」という表現の意味は、キリストを信じる以前にそうであった自分のことなのだ。

       実際の状態はもっと複雑なものである。クリスチャンになる前の状態を思い出してみればよくわかると思う。心の最も深い思いと動機が神に逆らうものであるとしても、神の一般恩寵(御恵み)によって、クリスチャンでなくても、すべての行為において神を憎む思いに従って行なうことは絶対にしないのである。クリスチャンでなくても、家庭には愛がある。人間はみな神の似姿であり、クリスチャンではない人たちであっても神と隣人に対する憎しみのすべてを表わしてしまうことを神は許したまわないのである。罪人が神の律法を破り、神を愛さず隣人を愛さない心を全部表わしてしまわないように、神は導いておられる。クリスチャンではない人たちがそこまで悪しき者となることがないように守ってくださり、恵みを与えてくださる。それが神の一般恩寵である。

       それ故、クリスチャンではなくても、毎日の生活でりっぱな生き方をする人もいる。しかし、その人の最も深い動機が暴露される裁きの日に、その一番深い思いが神に逆らうものであることが弁解の余地もないほどに明らかされるのである。それが、生まれ変わっていない自己の本質なのだ。なぜパウロがこの表現を使うのかを理解するためには、その未再生の自分の本質が何であるかを思い起こすことが大切である。それは、自分を基本的に悟りある者と思い、自分は神を求めている正しい人間だと思っている多くのクリスチャンではない人たちの自己認識とは全く違うものである。

       聖書は更に、クリスチャンではない者の心の姿勢の本質は神に対する憎しみであると述べている(ローマ人への手紙8章7節)。これは、クリスチャンではない人たちがその典型として神に対して憎しみを意識しているということではない。確かに一部にはそういう人間もいる。しかし、ほとんどの人は意識的に神を憎んでいるわけではない。パウロがここで教えていることは、いわゆる“深層心理”と呼ばれるものである。人は自分ではそれに気付かず、しばしばそれを否定するとしても、パウロはここで人間の真の姿について教えているのである。人間は、自分自身のことが本当の意味でわかってはおらず、その意識的な自己認識のうちには自己欺瞞の要素が多々含まれている。

       実際、現代心理学のあらゆる学派の中には何らかの自己欺瞞の概念が含まれている。彼ら自身、人間の自己理解の中のある重要な点でその考え方が歪んでいるか若しくは根本的に誤っている、とさえ教えているのである。パウロが提供しているのは、人間の自己に関するさらに深い分析なのだ。それは現代心理学によって及ぶレベルをはるかに超えて自己欺瞞を見透かすものである。そのレベルにおいて見るならば、人間の最も深い心理とは、事実、神への憎悪なのである。その憎悪は通常、直接的にではなく、間接的に現わされる。既に言ったように、それは神の一般恩寵によることである。というのは、直接現わされてしまえば、罪人は鋭敏にそれに気づき、その心理的ストレスはすさまじいものとなるからである。

       しかし、新しい人となり、心の最も深い動機が神を愛するものに根本的に変わった人であるのに、非常に未熟で、足りなくて、鈍くて、本当に一生懸命成長しなければどうしようもないというようなケースもあるのは事実である。19世紀のジョン・パットンの話は何度もしたが、彼はオーストラリアの北東にあるニューヘブリズ島(今のヴァヌアツ島)に行って宣教を行なった。

       そこには常に戦闘状態にある小さな部族があって、お互いを殺し合い、お互いを食べたりしていた。一夫多妻の風習を持ち、妻の言動が気に食わなければ、その妻を殺して他の妻たちと一緒に食べることさえする。文学もなく、芸術もなく、戦ばかりしていた。敵を倒して食べることは誇りであった。強い敵を倒して食べるのは、その敵の霊を自分のものにすることと考えていた。敵の子どもを食べるのは、子どもが特においしいからだという。そのような部族の所に宣教に行った宣教師は何人も殺されたり食べられたりした。

       ジョン・パットンがそこで宣教したことによって、その部族はクリスチャンになった。本当に信仰を持ったクリスチャンになったのである。その野蛮人だけど本当のクリスチャンの隣に住むか、スコットランドの偽り者のクリスチャンの隣に住むか、どちらが住みやすいかというと、日常生活の面を言うならば、勿論偽者のスコットランド人の隣に住む方が住み心地がよいのである。隣のクリスチャンは複数の妻を持っていて、ときどきぶったりしているが殺すことはやめている。それで自分はもう成長したと思っているようなレベルのクリスチャンである。教会に行くとき、不信者の妻の髪の毛をつかまえてけっ飛ばしながら引っ張って教会に連れて来るのである。それを見て、「素晴らしい。連れて来たんですね」と言って感動できるものではない。

       だから、本当の信仰を持っているからと言って、すべてにおいて成長したというわけではない。しかし、その部族の人は本当の兄弟なのである。スコットランドの偽クリスチャンたちが「そんな所に行くな。食べられちゃうかもしれないから」と言っても、ジョン・パットンはその人たちに向かって「ここに残ってあなたがたと一緒に礼拝し、死んだらウジ虫に食べられるのだ。どこが違うというのか。食べられることに変わりはないのではないか」と答えたという。彼がヴァヌアツ島の部族に福音を伝え、その人たちが本当に変わり、クリスチャンになった。

       しかし、文化や生活において変わっていくのには大変時間がかかるものであった。だから、根本的な違いと、表面的なところにいろいろな違いがあるのは事実である。その複雑なところを忘れて、単純に考えすぎるのもよくないことである。しかし、パウロはここで「その根本的なところに目を留めて、それを思いなさい」と教えているのだ。「私はもはや神を憎むような者ではない。古い私は、主イエス・キリストとともに十字架につけられた。その古い自分は、完全に、100%、永遠に過ぎ去った。もう私は全くの別人になった。ここに新しい自分がいる」ということを認識しなければならない。古い自分はキリストとともに十字架上で死んだのである。

     

    十字架につけられる

       「古い人」が、再生されていない自己を指すのであれば、パウロがここでそれについて語っていることは、「その自己が十字架につけられた」ということである。古い自分はもう死んだのだ。キリスト者になるとは、新しい人になることを意味する。パウロは、「罪のからだが滅びて」という言い方をしているが、なぜこのような言い方をするのか。多くの注解書は、「罪のからだ」とは罪そのものを物質的なものであるかのような言い方をしているだけであって、それは「罪が滅びる」という意味だと解釈している。私はそうだとは思わない。パウロが「罪のからだ」と言っているのは、コロサイ人への手紙3章5節のところにも同じ言い方で「この地上のからだの諸部分を、殺してしまいなさい」とか、他のところで「からだの行ないを殺す」と言っているようなことである。

       というのは、私たちが罪を犯すとき、このからだをもって罪を犯すのである。ギリシャ的に、「肉体は悪くて霊が良い」というような考えではない。罪の問題はすべて心から始まるとキリストは教えている。「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」(マタイの福音書15章11節と18節)。だから、聖書は一貫して教えている。実際に罪を犯すとき、私たちはこの手で罪を犯す。この口で罪を犯し、目で罪を犯し、この足で罪を犯す。このからだは罪のしもべとして使われ、その古い自分はこのからだを罪の奴隷として働かせた。だから、「罪のからだが滅びる」という言い方には、「このからだをもう罪の奴隷として従わせない」という意味が含まれる。「このからだは罪の奴隷としてもう死んだ」ということである。そして、実際に「十字架」はからだを滅ぼす死に方なのだ。十字架上で死ぬ者のからだは、残酷で非常に苦しい拷問によって滅ぼされる。

       ここで二つのことに特に注目したい。第一に、既に説明したように、「十字架につけられた」という言葉は、パウロの読者には極めて衝撃的な言葉であった。彼らはローマ人であり、人を十字架につけることの意味が彼らにはわかっていた。十字架刑は拷問として作られた死刑の一形式であり、それは思いつくかぎりの最も残酷な死に様として考案されていた。ローマ市民が十字架刑に処せられることはあり得ず、市民に対する死刑は十字架ではなく、打ち首等によって行われていた。十字架の拷問は奴隷や外国人のみに限定されていた。それほどに蔑まれた刑はローマ市民には相応しいものではなかったのだ。パウロ書簡の読者たちにとって、彼らがキリストと共に「十字架につけられた」と言われることは、私たちがそう言われても持ち得ない衝撃があっただろう。この言葉の意味を思い起こし、それが残忍な死刑形態であったことを覚えることは私たちにとって重要なことである。

       第二に、クリスチャンはキリストと共に十字架につけられた者である。「古い人」がキリストと共に「十字架につけられた」のなら、それは「古い人」が死んでしまったことを意味する。しかし、それは私たちにとってどういう意味なのだろうか。自分がもはやアダムにあった自分、生まれながらの自分ではないのなら、この私は何者なのか。私は誰なのか。聖書はこう答える。「キリストを信じる者は新しく造られた者」である。彼らは「新しく生まれて」おり、「新しい人」となったのだ。無論、その変化は形而上学的なものではない。彼らは存在論的には生まれた時と同じ人であるからだ。その変化は倫理的なものなのである。

       私たちがキリストと共に十字架につけられたのは、この「罪のからだ」が滅びるためである。実際に私たちはからだにおいて罪を犯してしまう。その罪に対する戦いは、場合によっては、あたかも自分の手を捕まえて戦っているようなものであり、自分の足を捕まえて戦い、自分のからだと戦っているような戦いになるであろう。キリストは、罪と戦うことについて教えるときに、「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい」(マタイの福音書5章29〜30節)と言っておられる。これはからだの部分の話なのだ。罪がその部分から始まるというわけではない。しかし、罪の戦いは絶対にからだの戦いでもあるのだ。

       だから、パウロは具体的な表現を使って「このからだは、罪の奴隷としてはもう死んでしまった。罪のからだはもう生きていない」と言っているのである。そしてそれは、「私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」と言っている。十字架上でその古いからだがキリストと共に死んだのは、私たちが毎日の生活において罪の奴隷ではなくなるためであることを「私たちは知っています」と言うのである。だから、もはや罪の奴隷であってはならないのである。

       厳密には、キリストの外にある人々の最も深い生きる動機とその思いは根本的に神に反対するものというのが真実であるのと同様に、神を憎んでいた人が新しく生まれ変わると、その倫理的な変化のゆえに、その人の最も深い生きる動機や思いが神の御旨と調和するようになることもまた真実なのである。神を憎んでいた者が、いまや神を愛するようになったのである。「新しい人」は心理的に単純なものではない。神と彼らの仲間に対する愛は、他の何ものも邪魔することができないほどにその新しい人の思いや生活に対して支配的ではない。しかし同時に、その根本的な変化は本物であり、その影響は確実に徐々に現わされていくのである。

       心の一番根本的なところが「」ということであれば、毎日の生活においてすべて行なっていることが表面的にはきれいであってもすべては罪に染まっていることになる。神を愛しているなら、たとえ愚かで鈍くて下手であっても、心の底から神を愛して神の御国を求めているならば、どんなに足りなくても神は受け入れてくださる。反対に、表面的には非常にきれいであっても、根本的に神を愛さない罪の心を持っている者は、神に受け入れられない。私たちの目から見れば野蛮人でしかないヴァヌアツ島の人々が神に受け入れられ、いかにもクリスチャンのような生活をしている神を信じないスコットランド人が受け入れられないのである。

       「罪の奴隷ではなくなるため」とあるのは、私たちが毎日の生活においてもはや罪に従ってはいけないということである。6章の1節で「罪を犯してもいいではないか」というところからこの話は始まっている。断じてそうではない。もう罪に従ってはならない。それを「古い人は死んだ」という言い方ではっきりと説明しているのである。「そのからだはもう死んだ。だから、もう罪の奴隷であってはいけない」のである。

       それで、「死んでしまった者は、罪から解放されている」という言い方は、広い原則を言っているように思える。「すべて信じる者は、死んでしまった者であるので、もう罪を犯すことはできない。からだも持っていないし、罪を犯すことができる領域にいないので、死んだのであれば、もう罪を犯すことはできない」という解釈もあるが、ここではずっと「キリストと共に死んだ者」という話をしているのである。ただ広くて抽象的な意味で「死んだ者はこうなんだ」という話をしているとは思えない。キリストと共に死んだ者は、「罪から義と認められた」のである。その意味の中に「解放されている」という意味もあるので、「解放されているのです」という訳が100%だめだとは思わない。しかし、文字通りの意味は「義と認められた」ということである。その意味が理解されなければ正しい理解に至っていないと言わなければならないのである。

       「罪から義と認められた」ということは、実際に罪から離れたということである。もはや罪の領域にいるのではなくて、義しくされて、神の御前で義しい者とされた。罪の奴隷ではない。罪に従わなければならない者ではない。そのために救われたのである。そのことがどうして大切なのかというと、根本的で絶対的な違いに目を留めるということなのである。表面的な問題は確かにある。しかし、その絶対的な根源に目を留めるように勧められている。これは個人一人ひとりについての話なのだ。クリスチャンとして成長するために、「根本的なところにおいて私は何者なのか」ということについてはっきりと自覚しなければならないのである。根本的で絶対的な変化というものがあったことを認識しなければならない。

       そのことを覚えるとき、私たちは罪に対して戦うように励まされ、強められ、助けられるのである。自分が何者なのかを忘れてしまえば、罪に負けてしまいやすい。自分が何者かを覚えるなら、戦うことができる。そして、御国をもっと求めるようになる。これがこの箇所の根本的なポイントであると思う。「古い自分が死んだ」ということが強調されているが、4節のところにもう一度目を留めていただきたい。4節から8節までを見ていただきたい。

    私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から義と認められているのです。し私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

       「一緒に死んで一緒によみがえる」という二つのことをパウロはずっと一緒にしている。キリストと共に生きる。キリストと共によみがえる。この「よみがえる」という言葉には将来の意味もあるし、キリストが復活したときにキリストと共に「よみがえった」という意味もあるということは既に説明した。毎日の生活において新しい歩みをするということは、復活のいのちの歩みである。バプテスマを受けたときの意味、実際に二千年前にキリストが十字架で死んでよみがえったときの意味、毎日の生活の適用、そして未来の意味、その四つの意味において「一緒に死んで一緒によみがえった」ということを覚えなくてはならないことは既に説明した。

       十字架で死んで後よみがえったということは、古い自分と新しい自分が今自分の中に共存しているという意味ではない。古い自分はもう死んでしまって存在していない。しかし、新しい自分の中にまだ罪が残っているので、罪の戦いがある。新しい自分はまだ“完成品”ではない。新しい自分は、今から成長して、本当に主イエス・キリストに似た者となるように頑張らなければならない。しかし、古い自分がもう死んで切り離されたということがはっきりと認識されなければならない。そのように考えなければならないのである。そして実際にそのように行なわなければならない。

       それで、「今、自分の中に古い自分と新しい自分の両方があって戦っている」という解釈をするときに、罪に対する戦いは、精神分裂症にならないとしても、きわめて弱いものとなるのではないか。そうではなくて、「古い自分はもう死んでしまった」と考えなければならない。そして、クリスチャンにとって、それは厳然たる事実なのである。「私は、もう新しい人になった」と考えなければならない。心は一つしかないのだ。心が二つあるわけではない。その心の一番根本的なところに、神に対する愛が決定的なものになっている。それが「新しくなった」ということである。「私はそういう者である」ということを深く自覚しなければならない。

       確かに罪の影響は周囲に蔓延しているし、自分の中にも残っている。それが故に、自分が何者なのかという自覚において混乱してはならないのである。そして、新しい人となったのは、復活の歩み、神の栄光の歩みをするためである。その復活の自分は、この世の影響によって生きるのではなくて、神の右に座しておられる主イエス・キリストに目を留めて生きるという話にもなる。コロサイ人への手紙3章でパウロが言っているように、復活して、天に昇り、神の右に座しておられる主イエス・キリストに目を留めなさい。それが復活した者の生き方である。これは、「神の御国を求めなさい。御国の王に目を留めて生きなさい。御国の王を求めなさい」という話なのである。

        それで、古い自分と新しい自分は、古い世界と新しい世界、そしてアダムの世界とキリストの世界という、大きな御国の話につながるのだ。単に自分の気持ちの話ではない。また、単に個人の話でもない。パウロはずっと「私たち」「私たち」という言い方をしている。ただ「私は」とか「あなたは」という話ではないのである。「私たちが、キリストとともに死んだ」、そして「私たちがキリストとともによみがえった」のである。「新しい、キリストにある人類」になっている。新しい世界と新しい創造の中にいる自分を自覚するのである。「それ故、その復活のいのち、復活の歩み方をしなさい」とパウロは教える。

       「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」(8節)と言っているのは、未来の話にもつながる話だと思う。つまり、今、私たちはどこに向かっているのか。今のあなたの人生はどこに向かっているのか。答えは、永遠にキリストと共に生きることなのだ。どこから来たのか。そして、どこに向かっているのか。そのことをパウロは説明しようとしている。どこから出たのかというと、アダムの町から出て、アダムの町から完全に切り離されて、アダムの町とは全く関係のない者となったのである。どこに向かっているのかというと、新しいエルサレムに向かっているのである。

       ジャン・バニヤンの「天路歴程」はその点では良いものである。しかし、その話では「私たち」というものがなくて、ただ一人で向かっているという点で、大切な部分が抜けている話だと言わねばならない。一人で歩むのではない。新しい世界、新しい社会になっている。「私たち」が、そのようになっているというのである。キリストにある兄弟姉妹が一緒に神の御国を求めて、一緒に歩んでいる。しかし、一人ひとりが皆その認識をしっかりと持って歩まなければならないのは確かである。「古い自分が死んで新しい自分は神に対して生きている」ということを私たちが覚えるとき、戦う力は増し加えられる。「古い自分」を否定し、捨てて、「新しい歩みをする」ことができる。それがここでの大切で大きなポイントであると思う。次の9節をみよう。

    キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

       パウロは、そのことを「私たちは知っています」、このことを「私たちは知っています」と言っている。「バプテスマを受けたのは、キリストとともに十字架上で死んでよみがえったことなのだということを、知っているでしょう」、「それは、古い自分が完全に死んでしまったのだということも、知っているでしょう」、「死んだ者、そしてよみがえった者は、もう死から解放されており、もはや死ぬことはないということを、知っているでしょう」と訴えて、「だから、私たちはもう絶対に罪の生き方をしてはならない。全く新しい歩みをしなければならない」ということを話しているのである。続いて10節でパウロはこのように言う。 

    なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

       主イエス・キリストは、もはや死によって支配されていない。なぜなら、ただ一度罪に対して死んだのであり、罪に対するその死は完全な死であったからである。死は、罪に対する罰である。しかし、罪人はその罰を完全に受けることはできないので、罪人はずっと死によって支配されている。それは永遠の地獄につながる話である。なぜ地獄があるかというと、そこから解放されることがないというものだからである。そこでは、罪に対して死ぬということが永遠に続くのだ。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのです」というのは、ただ一度の死によって完全に罪に対して死に、罪の罰を完全に受けられたので、よみがえることができたということである。

       死はもはや主イエス・キリストに対して何の力もない。死は罪の罰であり、主イエス・キリストはその罰を完全に受けてくださったので、死はもはやキリストを支配することはできない。そのことをパウロはここで説明している。「罪から義と認められる」ということには、私たちが罪から解放されたという概念も含んではいるが、それより以上に救いの法的側面の方が際立っている。人が罪から義と認められたのなら、その人はキリストと共に生きているのである(6章8節)。キリストの復活においてキリストに結合されることなしに、その死においてだけキリストと合一されるということは不可能である。それは、「罪から義と認められる」ということが、死がもはや我々に対して力を持っていると主張することができないという意味だからである。私たちはもはや罪のゆえに死をもたらす裁きの下にはいないのである。

       キリストにあって死んだ者は、罪から義と認められて解放されている。キリストの死が完全なものであったので、死はもはやキリストとキリストにある者を支配することはできない。7節の「死んでしまった者」という表現は、「キリストと共に死んでしまった者」という意味である。それがこの文脈全体の要点であり、そうでなければこの節はほとんど真実にはなり得ないからである。その要点とは、「罪から義と認められている」ゆえに、8節と9節が強調している通り、私たちはいのちにあって生きなければならない、ということである。

       キリスト者のいのちは、復活のいのち、新しい創造のいのち、新しい世界のいのちなのである。だから、義なる者とされた私たちは、罪の生活によって支配されてはならない。同時に、結果が死であるような生き方は私たちを支配することはできない。それが9節のポイントである。クリスチャンはいのちにあって歩むのである。死の支配、罪の支配、アダムの支配、その古い世界の支配は全部徹底的に断ち切られて、私たちは新しい者となったのだから。「死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています」とパウロは言っている。「罪に対しては死んだ者であり、神に対して生きている者である」と言っている。

       主イエス・キリストは、死んで、復活して、天に昇り、御父の右に座しており、死と罪から完全に解放されている。世におられたときは、罪と戦わねばならなかった。キリストの場合、それは心の中の戦いではなかったが、パリサイ人や律法学者たちとの戦い、弟子の罪との戦い、あらゆる世の罪と戦わなければならなかった。しかし、主イエス・キリストは十字架上で完全に罪に対する罰を受け、よみがえって天に昇り、生きておられる。キリストは「いのち」である。「いのち」という小さな言葉を思うとき、キリストを信じた私たちにいのちが与えられたのは、新しい世界のため、神の御国とその義のために生きるという実に大きな意味がその中に含まれているということを知らされるのである。この「いのち」が与えられて、私たちは「いのちの歩み」をするために召された者なのである。そのことを私たちは深く深く認識し、把握しなければならない。もはや罪とは係りを持たない者となった。罪から解放された者である。「いのちにあって義の道を歩む者」なのである。そのことを自覚するのでなければならないことを、パウロはここで教えている。

       神の御恵みの働きのゆえに、どんなに深い変化が私たちのうちに起こったのかを理解することは非常に重要なことである。特にその理解は、心の中や私たちを取り巻く世界の中にある罪との戦いに自らをさらに徹底的に献身させるように励ましてくれる。私たちは、自分が何者であるのかの自覚の足りないものである。いとも簡単にそれを忘れてしまう者である。「私たち」という言い方は、「あなたたち」という意味ではなく、他でもない「私たち」という意味である。罪人は例外なしに皆そのようなものである。

       ヤコブ書に、自分の生まれつきの顔を鏡で見ている者が、自分の姿をながめてから立ち去ると、それがどのようであったかをすぐに忘れてしまう愚か者の話がある(ヤコブの手紙1章23〜24節)。私たちも実にそのようなものである。罪人の有様はそのようなものなのだ。私たちがすぐに忘れる者であることを神は十分に御存知なので、神は聖餐式を私たちに与えてくださった。週ごとに主の聖餐にあずかるとき、「そうです。私は実にそのような者です」ということを思い出して、神の御前で心の決心を新たにするのである。「私は、神の御国を第一に求める者である。いのちの歩み方をする者である。私は罪を捨てて、義しく生きることを誓います」という心を新たにして聖餐式を受け、神の御国とその義を第一に求める心に戻るのである。このことを私たちは死ぬ日まで繰り返し行なわなければならない。

       実は、毎日、主のいのりをささげるときに、自分の罪を悔い改めて御国を第一に求めるという心を新たにすべきである。しかし、もっと正式に兄弟姉妹が一つのからだとして一緒に集まって、聖餐式を受けるとき、私たちはキリストとともに十字架にかかって死んだ者であり、今生きている私たちはもはや古い私たちではなく、新しい者となったことを共に覚えるのである。そして、一人ひとりが、新しい自分らしい生き方をするという心を新たにするのである。また、いのちを与えてくださった神の御恵みを覚えて、喜んで感謝して聖餐式を受けるのである。私たちは神の御前に出て、その御恵みによって新しい人とされた者として、神の国とその御栄光のために、新たに自らを捧げるのである。聖餐式を受けるとき、私たちは自分が何者なのかという認識を新たにするのである。それは聖餐式の一つの大切なところであると思う。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年1月30日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙6章3〜5節

    ローマ人への手紙6章11〜14節

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