HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙8章29〜30節


    8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

    8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

    2001.02.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    金の鎖

    8章29〜30節

       ローマ人への手紙8章の29節と30節は、私たちの永遠の救いを、神御自身が行うところの五つの連鎖した働きとして描いている。ここに五つのリンクがある。それは次から次へと連なっているので、あたかも五つの輪から成る金の鎖のように描かれている。即ち、「あらかじめ知っておられる人々を」「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めた」「その定めた人々を神は召し」「召された人々は義と認められ」「義と認められた人々には栄光が与えられた」となっているわけである。この五つのリンクは一つの連鎖となって神の救いの働きを表わしている。この五つの働きの主語はみな神御自身である。神が知り、神が定め、神が召し、神が義と認め、神が栄光を与える。救いの働きは永遠の昔から永遠の未来まで、100%神御自身の働きなのだということを、パウロはこの言い方をもって説明している。

       そして、29節と30節でパウロは、「永遠の昔から永遠の未来において神のみが与える救い、それが28節の確信の土台である」ということを伝えているのである。すべてのことが益となるように働くということをどうして知ることができるのかというと、神が永遠の昔から私たちを御自分の子どもとして選んでくださったからである。そして、その永遠の初めの選びは、永遠の未来への目的をもってなされたということをパウロは説明している。私たちの現在は、永遠の昔の土台と永遠の未来のビジョンとの間のプロセスの途中にあるのだ。私たちの最終的に行き着く所は、神の御恵みによって定められている。すべてのことは、必ずそこに向かって動いている。そのところに行く過程の中にある。決して止まって動かなくなったり、そこから離れて違うところに行ったりするようなことはない。永遠の昔に神が始められたことを、神は最終的に絶対に成就してくださるからである。

       それ故、今日私たちに起こり来る出来事や試練は、その永遠の昔から私たちを愛して私たちを御自分の子どもにしようと選んでくださった神の御計画のうちにあるものなのである。すべてがそうである。私たちの愚かな失敗も、私たちの罪も、私たちの祝福も、喜びも、悲しみや憂いも、すべて神の永遠の御計画のうちにあって私たちを祝福するものである。

     

    あらかじめ知っている

       この金の鎖の最初のリンクは「神は、あらかじめ知っておられる人々を」という句において見られる。この句は「機会があれば信じるということを神があらかじめ予知した人々」という意味に誤解されている。その結果、救いの鎖全体にわたって、それは神の測り知れない御恵みのみにではなくて、人間の選択の自由につながってしまうのである。その見方だと、自由自体が何にも根差していないことになる。そして、この世のすべての究極的背景は単なる偶然ということになってしまうのである。このアルミニアン主義の見方は、神がこの世のすべてを主権的に支配しておられるという概念を恐れる人々を慰めはするけれども、それは神学的に誤りであり、哲学的にも混乱したものである。

     

    神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

       この文脈において「あらかじめ知っている」という言葉は、「知る」というへブル語の言葉が旧約聖書の中でどのように使われているかによって理解される必要がある。この言葉は言うまでもなく、私たちがデータを所有するときのその知識について話すのと同じ意味でも使われている。だが、この言葉にはさらに豊かな意味があるのだ。そして、この言葉は、「神がある人を知っている」というときに概してよく使われているのである。「私はジョンを知っています」とか「私はジョンに会ったことはあるが、本当の意味では彼のことをよく知らない」というような場合でも、「知る」という言葉をより深い意味を持つものとして使っているのである。しかし、へブル語聖書では、この言葉は契約的関係を表わす言葉なのである。詩篇1篇6節は、その最もよく知られている例である。「主は、正しい者の道を知っておられる」とある。「神は私たちを知っている」と聖書が言うとき、私たちに関する知識について神がデータを持っているというような意味ではないのである。

       神が私たちを愛して、御自分の子どもとなるように選んでくださったことについて先週も一緒に考えたが、そのことをよく表わす箇所が旧約聖書のアモス書3章2節にある。新改訳聖書では、「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」という訳になっているが、正確には脚注にある「彼を知った」という訳す方が正しい。「選び出した」と訳されている言葉の原語は「知る」という言葉なのだ。「地上のすべての部族の中から、神はイスラエルだけを知った」と言っているのである。それは、神が他の部族については何も知らないという話ではない。イスラエルだけを選び出したのである。

       それ故、日本語の「選び出した」という意訳は悪いとは思わないけれども、「選び出す」ということだけではなくて、イスラエルだけを御自分との契約関係に取り入れてくださったということなのである。イスラエルだけを、契約の愛をもって選んだということを、アモス書のところで神は言っておられるのだ。創世記18章19節にも同じ言葉があるが、新改訳では「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである」と訳されている。アモス書と同じように「彼を選び出した」と訳されているが、この言葉のへブル語は「知る」である。

       他の多くの聖書句においても同様であるが、この両方の場合において、「知る」という動詞の意味は、むしろ「愛の対象として選ぶ」ことに近いのである。神がイスラエルを「知る」ということは、彼らの上に御自身の契約の愛を賜わることなのである。この「知る」という言葉は、そういう意味で契約の愛を表わす言葉なのである。それで、このローマ人への手紙8章29節の「神は、あらかじめ知っておられる人々」とは「神が選び出した人々」のことだということがわかるのである。神が愛をもって御自分の子どもにするために、愛をもって選び出してくださったという事実を指してパウロは言っているのである。神は、御自身の契約の愛を私たちの上に賜わることを地の基が据えられる前から決定しておられたという意味において、私たちを「あらかじめ知っておられた」のである。

     

    あらかじめ定められた

       金の鎖の最初のリンクは「神は、あらかじめ知った人々を」で、それは神が御自身の愛の対象となる特定の人々を選ばれたということである。金の鎖の第二のリンクは、永遠の昔から永遠の未来へと話を進める。すなわち神は、御自分の愛をもって選んだその人々を、こんどは「御子キリストのかたちと同じ姿になるように定められた」と、パウロは言っている。これが第二のリンクである。この「かたち」とは最終的なかたちの話である。愛をもって選び出したのは最初のことで、それに、その選んだ人々をどのようなものにするかの定めの話が続くわけである。永遠の昔に、私たちの永遠の未来が定められている。そして、歴史の中の過程はその永遠の御計画が成就されていくプロセスなのである。

       最終的にキリストに似た者となるように定められた。それが彼らの永遠の遺産なのである。そういう意味で、歴史の見方としてR.J.ラッシュドゥ−ニ−はある本の中でこう言っている。「進化論の考え方に立つなら、最初にビッグバンによって宇宙が生まれ、進化してきた。それ故、現在あるものはすべて過去に基づいていると考える。しかし、クリスチャンの歴史観はそれと全く異なるものである。すべては永遠の昔の神の御計画に基づいているのは確かであるが、その御計画は未来を決めてくださった御計画なのだ。進化論では、過去が現在を通して未来に向かっていくというように考えるが、クリスチャンの考えでは、未来は現在を走り抜けて過去になっていくようなものである」と説明している。

       「未来は、歴史が始まる前に始まっている。その未来が現在を通ってだんだんと成就されていく」というのが聖書的な考え方である。そう言われても、よくわからない人もいるかも知れないが、ポイントはこうである。今日私たちに襲ってくる試練や機会や問題などはみな、過去を見て理解できるものではない。今日与えられる事柄は未来のためにある。いつも過去ばかりを見て、今の根拠を過去に求めてばかりいて、「過去がこうだったから今日こうなったのだ」というような見方だけではだめなのである。神が与えてくださる機会や試練のすべては、過去との関連があるにせよ、それは未来との関係において見なければならないものなのだ。今日与えられている事は、五年後のためにある。10年先のためである。或いは50年先のためにあるのかも知れない。過去ばかり見て、過去にばかり縛られて、過去のことを絶対的な基準みたいにして事柄を解釈してしまうなら、大変大きな誤解をしてしまうことになる。

       「過去は関係ない」と言っているのではない。「未来に目を留めることを忘れてはならない」と言っているのである。神が私たちに与えた機会も試練も祝福もすべて、未来のために与えてくださっているのである。そして、キリストにある未来は、私たちがキリストに似た者となっていくようにと、神が初めに定めてくださったものである。その最終的な未来が今日の理由である。今日の原因は未来にあるのだ。「今日のいろいろな出来事の原因はみな過去にある」のではない。そういう意味では「過去は二次的なもの」と言っても言い過ぎではないのである。

       私の日本語では言葉足らずでこのポイントは十分に伝わっていないかも知れないが、結局のところ「永遠の望みを持って生きよ」ということなのである。クリスチャンではない人々は、過去に失敗があったり、過去に大変な問題があったりすると、「今この事が起こったのはあの過去のためだ」と考えてしまい、「私は死ぬ日までこの重荷を負って生きなければならない」と考えたりする。本当にそうならば、解放はなく、その過去はただただ重くなっていく一方ということになるだろう。毎日々々、過去は増えていく。やがて50歳になり、60歳になり、70歳になると、暗くなってしまう人が実に多いのである。

       過去の失敗ばかりが事あるごとに脳裏をかすめ、「あの事があった。この事があった。あれが無かった。これが無かった。ああすれば良かった」と言って、過去の悔いばかりに縛られて、過去がどんどん重くのし掛かってくるので、それに耐えられずに早く死にたくなる人もいる。そうであってはならないのである。もし私たちが本当に聖書的な信仰を持って歩むならば、常に未来に目を留め、未来を求め、未来に対する希望を持って歩むべきである。それは、ただ浅くて鈍い心をもって「何とかなるでしょう」と言うようなものではない。キリストに似た者となるように、神は個人においてもすべてのことを導いておられるし、神の教会においてもすべてを導いておられるのである。今、どうにもならない状態にあるとしても、前にある望みを持って生きるのである。

       真に望みを持って歩むなら、死の谷を通るとしても、感謝をもって歩むことができるのである。望みがないなら、死の谷に入ったら倒れて死ぬしかない。この世での死の谷は終りでないことを私たちは知っている。その向こうに確かな希望があることを、私たちは知っている。神が私たちに試練を与えて私たちを導くのは、その最終的な目的のためなのだ。すべてはそこに向かっている。そういう意味で、聖餐式に集まるとき、私たちは過去の後片づけをするのである。

       過去をただ単に忘れ去るのではない。過去から学ばなければならないし、過去から知恵を得ることができる。しかし、過去がどんどん重くなって、過去に殺されてしまうほどになるはずはないのである。神が私たちの罪を赦してくださるので、私たちは隣人の罪をも赦すことができるし、赦さなければならない。神に赦されたことを知って、互いを赦し合うならば、過去の重荷によってつぶされたり殺されたりする筈はないのである。過去の重荷から解放されて、喜びと感謝を持って未来に向かって歩いていく確信と勇気を持つことができるはずである。永遠の昔から神が私たちを愛してくださり、選んでくださり、そして私たちの未来を決めてくださった。私たちは今、その未来に向かって行く過程にあるのだ。それが私たちの現在である。

       「神が私たちの未来を決めてくださった」ということをパウロは言うが、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めたからです」という言い方をしている。これは非常に意味深い表現である。「イエスさまと同じになる」という意味ではない。「御子のかたち」と言っているのである。これは、神が全人類を創造した目的の話なのである。人類を創造された目的は、人類が三位一体なる神の愛の契約の交わりに入ることができるためであった。そして、「私たちが御子のかたちになる」というのは形而上学的な話ではないのは明白である。存在論的に人類が何かもっと高い特別な存在になるというような話ではない。

       最近のインターネットを見ると、進化論者の科学者たちは、「DNAの研究によって、あと十年もすればこの事が出来るようになるであろう。20年後にはこれが出来るようになる。30年後にはこれができるようになるであろう。これからの人類は自分たちで自分たちの進化を決めて人類以上のものになっていくべきだ」と言っているのを見たが、心配するに及ばない。人類が人類以上のものになることはない。人類はあくまでも人類であって、人類以上とか、人類以外とかになることはない。“変な人類”になることはあるかも知れないが・・・。病気を癒したり、健康のためにもっと優れた学問が確立されていく筈であるし、人間がもっと長生きするようになって二百年以上生きるようになることがあってもおかしいとは思わない。これからの医学の発展によっていろいろ人類のために良いことができるようになるのは勿論のことだと思う。

       しかし、人類以上のものになることは絶対にない。自分の進化を決めることになるということも、決してないのである。人類は、三位一体なる神の契約の愛の交わりに入るものとして神によって創造された存在である。パウロが言っている「御子のかたちに似たものになる」というのは倫理の話であり、そして、復活のからだの話なのである。神の御子、三位一体なる神の第二位格が、人間となって私たちと同じようなからだを持ってくださった。そのようにして神は、人類と三位一体なる神との永遠の交わりの親しさを定めてくださったのである。パウロが考えているのは、キリストとの倫理的一致なのである。

       そして、この二番目の鎖のリンクは、私たちを永遠に祝福するという神の目的よりもさらに深い事柄に根差しているのだ。というのは、神がキリストに似た者となるように私たちをあらかじめ定められたのは、「御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」とパウロが述べているからである。私たちと神が一つの契約の社会のようなものとなるのだ。形而上学的に言うならば、「三位一体なる神は一つの別の社会である」というのは変わらぬ事実である。しかし、神御自身が人類と一つの社会を営むようなものとなってくださる。三位一体なる神の第二位格の御子、イエス・キリストが、私たちの中で長子となってくださるのである。

       キリストは、新しい人類のかしらとなられたのである。その関係において新しい人類は、神との親しい交わりを持って神とともに永遠に住まうのである。永遠に神の愛を喜び、その祝福に満たされるのである。「神とともに歩み、神とともに交わりを持つ」ということには様々な意味があると思う。その約束は確かであるが、今の段階でその具体的なことのすべてを私たちは理解することはできない。

       そういうわけで、「御子のかたちに似たものにする」というのは、クリスチャン一人ひとりがみな主イエス・キリストに似た者となることである。即ち、復活のからだをいただくことと、倫理の完全性において“似た者”になるという話なのである。それは、個人一人ひとりの人格が失われてしまうというようなことではない。私がクリスチャンになったばかりのときに「聖書を読んで皆が一つになる」と聞くと、自分の個人としてのアイデンティティーが消えるのかと思っていた。「個性がなくなるのではないか」と思った。「天国に行ったら、皆が一つになるということは、個人としては存在しなくなるのかな」と思ったりした。

       先日、ある日本人のリベラルの神学者が書いた論文で、新約聖書全体を仏教の形而上学に立って解釈したものを読んだが、その人はそういう解釈をしていた。つまり、皆が個人としては消えてしまうと言うのである。輪廻を信じる仏教の場合は、個人の魂はないし、死んでから輪廻を繰り返されて別の存在となるのだから、究極的なアイデンティティーを持つ個人の存在はないのである。結論として個人の意味はなくなって消えてしまうものと考えている。そのリベラルの神学者は、「キリストの似姿になる」とか「神と一つになる」とかの聖書の言葉を全部そのようなものとして解釈しているのだ。とんでもない話である。

       聖書の教えでは、例えば数万年後か数百万年後に天国でカルヴァンに会えば、その人がジャン・カルヴァンであることがわかるのである。ルターに会えば、その人がマルティン・ルターだということがわかるのだ。個人はユニークな個人として存在し続けるし、天国では松田さんの性格と佐野さんの性格が違うというのも今と同じである。確かにいろいろ成長するし変化もあるが、生まれながらにして神が与えた一人ひとりの役割と意味や性格は決して消えない。それらはユニークで尊いものとして与えられている。一人ひとりの個性や性格の違いは尊いものなのだ。

       そこに、私たちの罪の一面として考えなければならない問題がある。それは、一人ひとりに与えられている性格の中には弱さも足りなさもあるけれども、互いにそのところを許容し合ってそのところにおいて成長することを求めないという罪である。「これが私なんだから仕方ないでしょ」と簡単に思ったり開き直ったりする。同時に個々人には自分の強いところもある。他の人が懸命に頑張ってもできないことを、ある人は頑張らなくても出来てしまう。

       「キリストのかたちと似たものになる」と言うとき、かなり人格的にはバランスが取れて成熟してくることをも意味するが、それでも性格の違いがあってある人は明るくて快活だがある人は物静かであったりする。ある人はこの能力において長けていて、他の人は別の賜物において長けている。それは変わらないのである。だから、「キリストのかたちと似たものになる」というのは、何よりも倫理の話なのである。神を愛し、隣人を愛し、義を喜び、正しく生きる者になることなのである。

       そういうわけで、キリストにある者たちは「御子のかたちと同じ姿」になって、御子がその中で「長子」となられるのである。「長子」というのは地位の話であって、何時生まれたのかというような話ではない。コロサイ人への手紙を学んだ時にそのことを一緒に見たけれども、キリストは人類の中で長子である。コロサイ人への手紙1章15節に「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です」とあり、また18節には「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です」と記されている。

       「最初に生まれた方」と言うときに、「それならキリストには始めがあるのではないか。キリストは神ではなく、最初に神に創造されたものである」とエホバの証人は解釈する。そうではない。「長子」とは地位のことであり、立場の話であり、第一の地位にあるということである。御子が人間となってくださったのも、人間として最初の者ではなかった。しかし、キリストはアダムの代わりなのである。聖書の中ではキリストを「第二のアダム」と呼んでいる。アダムは長子である。アダムは神に逆らって堕落し、人類全体はアダムにあって罪あるものとなり、神の裁きを受けなければならないものとなった。それと同じように、神は私たちに「新しい契約の代表」を与えてくださった。

       その新しい契約の代表である主イエス・キリストは、アダムの代わりに「長子」となられた。それ故に、キリストにある私たちは皆兄弟である。「私たちは兄弟である」と言うとき、最終的な観点から見れば、年老いたクリスチャンの婦人はキリストの兄弟なのである。つまり、全部が男性的な言い方なのである。兄弟であれば、皆が相続人なのだ。そして、キリストにある私たちは皆、互いに兄弟であり、キリストがその長子である。天国には娶ったり嫁いだりすることはないと書いてある。一つの家族となるのである。御父がいて、御子が私たちの長子となり、私たちは互いに兄弟となるのである。

       別な観点から言えば、主イエス・キリストは夫であり、教会全体は花嫁であり妻であるから、女性的な言い方もあるのだ。そういう意味では、相続人としてはすべての者に対して男性的な言い方になるが、キリストの花嫁としてはすべての者に対して女性的な面もある。「それでは、天国に行って復活のからだをいただくとき、男女の違いはあるのか。女性の心理的な一面などは無くなってしまうのだろうか」と聞かれることがあるが、恐らくそれは続くのではないかと私は思う。但し、結婚関係などはなく、一番大切な関係は皆が兄弟なのである。それが永遠の未来の関係である。キリストは兄であり長子であり、教会に対しては夫である。そのようにパウロは教えているので、この世の中にあっても地域教会は大家族ということになる。

       だから、私たちは、互いの関係を「永遠の兄弟である」という認識のもとに持つべきである。「兄弟」として互いに交わりを持ち、励ましあって一緒に歩まなければならないものである。このことはクリスチャン全体に対しても適用されなければならないが、今アフリカにいる兄弟と一緒に交わりを持ったり礼拝を守るような機会はほとんどない。互いのために祈ることは出来ても、実際に交わりを持つことは困難である。それ故、実際に神の家族として交わりを持つのは同じ地域教会の会員が基本となるわけである。そういう意味で互いを「兄弟」として覚えて、「兄弟」の思いと心を持って一緒に歩まなければならない。永遠の未来の交わりがそのようなものだからである。その心を持って、今を歩むのである。

       子供たち同士の人間関係においても、まず第一に兄弟であることを子供たちも覚えるべきである。幼い時から互いの徳を高めあう関係でなければならない。それは大人たちも子どもたちも同様である。私たちは、神が定めた永遠の未来の目的を覚えて歩むのである。永遠の昔から、神は御自分の愛を私たちの上に注ぎ、私たちが神との契約の交わりに入れられるようにと、単に御自身の被造物であるだけでなく、キリストの受肉を通して、神の家族、その最愛の子ども、受肉された御子の兄弟となるように定められたのである。

       「それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」という言い方を見るとき、私たちがキリストの似姿になるように神が定めてくださった目的はキリストにあることを覚えなければならない。私たちに永遠のいのちと救いの御恵みが与えられたのは、御父なる神が私たちを御子への祝福として与えるためであったのだ。「私たちはキリストのかたちと同じようになる」という神の定めは、主イエス・キリストが長子となられるためなのである。だから、神の御計画の最終的な目的は、主イエス・キリストを祝福することなのである。これは私たちにとって実に大切な真理であって、私たちの確信の土台である。

       御子の十字架の働きが祝福されて、その働きが実を結ぶことによって、神は御自分の栄光を表わし給うのである。それは私たちにおいての神の最終的な目的である。ヨハネの福音書17章のところで主イエス・キリストは私たちのために執成しの祈りをしておられる。そこでキリストはクリスチャンのことを繰り返し御父に祈って「あなたからいただいたすべての者」と言っていることに注目しよう(17章2節、6節、7節、9節、24節)。神が、永遠の昔に御自分の民を選び出して御自分の愛を注ぐことを決められたのは、その人々を主イエス・キリストに与えるためなのである。

       イザヤ書53章にも同じような意味のところがある。即ち、メサイアについて、「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」と11節にあるが、12節では「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」と神は言う。これはメサイアについての預言である。ヨハネの福音書17章を見れば、神がキリストの働きを祝福してくださることがわかる。だから、私たちはキリストのために選ばれ、キリストのために祝福され、キリストのために導かれて、だんだんとキリストに似た者にされていくのである。それは、神が主イエス・キリストの働きを喜ばれて、キリストを祝福するからなのである。私たちの未来の確実性は、神がどれほど私たちを愛しておられるかということだけでなく、それよりも、御父がどれほど御子を愛してくださるかに基づいているのである。

       御子に対する御父の愛こそ、私たちの祝福の真の保証なのである。御子を愛し、御子の働きを祝福し、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるために、神は私たちを選んで御子のかたちと似た者にすることを永遠の初めに定めてくださったのである。神が、私たちのためにではなく、御子キリストのために私たちをキリストに似た者となるようにあらかじめ定められたがゆえに、私たちは、私たちに対する神の不変の愛を確信できるのである。御父の御子に対する愛は絶対に失敗することはない。そこには複雑さもあるし、私たちの理解を越えることが出て来るのは事実であるが、私たちの救いの土台は、御父なる神の御子なる神に対する愛なのである。

       この事実を知ることは私たちにとっては実に大切なことなのだ。そして、キリストは長子となってくださり、私たちはキリストにあってみな兄弟なのである。これは奥義である。聖書の中でこれよりも素晴らしい奥義はない。この測り知れない神の契約の愛こそ、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ことの揺るがされることのない私たちの確信の土台なのである。

       御父が御子を愛しておられる。そして私たちを愛してくださって、御子をこの世に遣わしてくださった。御子は、この世では貧しい家に生まれ、幼い時から貧しさに耐え、ナザレという悪い所に住まわれた。ナザレは貧しくて異邦人が多く、道徳的にもかなりレベルの低い地域であったので、ナタナエルも「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言っている(ヨハネの福音書1章46節)。キリストはそこで育ち、預言の通りに「ナザレ人」と呼ばれた。それだけでも大変なことであったが、若い時に父親を失い、父親の役割を果たさなければならなかった。30歳までそこで大工として働いた。

       30歳からの公けな人生もまた大変なものであった。服は一着しかなく、食べ物は明日のものを神が与えてくださることを信じて歩まれた。弟子たちは互いに争ったりしたし、パリサイ人たちによる迫害もあり、最終的に最も残酷で恥ずべき十字架で死ななければならなかった。すべてのことを働かせて益としてくださる神は、御自分の御子にもそれほどの厳しい道を歩むように導かれたのである。キリストの人生を見るときに、「すべては楽しい。毎日、朝から晩まで安らかだ。生まれた日から死ぬ日まで、楽しみ以外は何も経験しない。だから、神が彼を愛していることがわかる」という話でないのは明白である。主イエス・キリストは、その生まれた日から死ぬ日まで試練の連続であった。

       しかし、その試練の連続の最後の最も大変な時、十字架にかかられる数日前にキリストは弟子たちに教えて、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と言っているのである(ヨハネの福音書15章11節)。弟子たちがキリストと同じように喜びに満たされるということは、契約の祝福の一つのことである。喜びを持って歩むことができる。社会の指導者たちに憎まれ、権威に立つ者たちにいつも反対され、何をしても誰かがそれに逆らって反対のことを言い出す。指導者たちは機会を見つけては彼を殺そうとしている。そのような立場というものは実にプレッシャーがかかるものであることは、大人ならわかると思う。

       人間の場合は、政治家などは一度変な発言をすると、いつまでもその事がマスコミや社会の笑いものになるものだ。キリストは一度も失敗したことはないし、失言もしたことはない。しかし、そのプレッシャーを感じないわけではない。ストレスがないわけではない。肉親たちにも憎まれたりするような悲しみも味わわれた。パリサイ人たちは常につけ狙ってキリストを潰し、殺そうとする。イスラエルの民はキリストが奇跡を行なってくれれば喜んだが、心からキリストを受け入れてはいなかった。

       それ故、キリストはヨハネの福音書6章26節で、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言っている。パンが欲しいからついて来るのである。そのようにキリストは言うけれども、それを言う時にその人たちを軽蔑して見下しているのではなくて、キリストはその人たちを愛して祝福しようとしているのである。だから、本当のことを彼らにパンを与え、厳しいことも言って教えているのである。その愛に群集は真心をもって応えてはくれない。キリストに愛されているのに、パリサイ人たちはキリストを憎む。そのような人生をキリストが送らなければならないように、神は定めたのである。しかし、その中で、悲しみが常にあると同時に常に喜びをもって神の御心を行なって歩まれたのである。

       神がそのように御自分の御子の人生を計画してくださったのであれば、私たちの人生がそれと似たものとなるとしても少しもおかしくはないのである。大切なことは、「永遠の目的がそこにある」ということである。永遠の意味がそこにある。いろいろな試練や失敗があったり、「どうしてこうなのか」と思うことがあるとしても、その事にも神の御計画の意味があることを私たちは覚えよう。その意味は、過去にあるだけでは駄目なのである。たとえ、私が昨日失敗して、それが今日の問題を引き起こすことになって、問題を取扱わなければならなくなったとしても、その過去の観点からだけで問題を見るのではだめなのである。ペテロの失敗を許す未来の御計画があった。だから、取扱うべき問題があれば取扱うけれども、クリスチャンは常に未来に向かって望みを持って大胆に勇気を持って歩むものである。私たちに対する神の目的は、主イエス・キリストに対する愛を表わすものだからである。そのように神は、永遠の御計画をもって私たちを選んでくださって、私たちを主イエス・キリストのものにしてくださった。

     

    召され、義と認められ、栄光が与えられる

       金の鎖の残りの三つのリンクは、話を歴史へと導く。世界の土台が据えられる以前から神によって選び出された者たちを神は歴史の中で召し給うのだ。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し」とパウロは言う。「召し」とは、つまり、その永遠の御計画が歴史の中に入ってくるわけである。神の「召し」は「有効」なものである。神が私たちを招いて、召してくださる。これは御霊の働きの話である。私たちが信仰を持って神に応えるように、神が私たちを召してくださる。

       聖書の中の「神が召してくださる」という言い方には二つの使い方がある。一つには、「神は福音を聞くすべての人に御自身のところへ来るように招かれる」という広い意味の使い方がある。誰であれ、聖書を読んだり福音を聞いたりする人は、神に招かれている。「どうぞ。来てください。私のところに来て、永遠のいのちの水を飲んでください」と招いておられる。永遠の祝福を、すべての人に向けて語って救いに招いておられる。問題は、罪人はそれを聞きたがらないところにある。罪人の心は神から逃げたいのである。それが問題なのだ。

       しかし、この箇所の「召す」という言葉は、その広い意味ではなく、もっと狭い意味において使われているのだ。この箇所の「召し」には、招くだけではなくて、「捕らえてくださる」という意味がある。召された人々は皆、義と認められ、義と認められた人は皆、栄光を与えられているからである。「召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」とパウロは言っている。この箇所の「召し」は、拒むことのできないものなのである。それは信仰を生み出す、神に選ばれた者たちの心のうちにある御霊の働きなのである。この「召し」を受けた者は皆、義と認められており、神の御座の前で義と宣告されている。彼らの罪は赦され、主イエス・キリストの義の衣を着せられたのである。

       実は、「キリストに似た者となる」とは、栄光を受けることなのである。そして「栄光を与える」というのは救いの完成を意味している。しかし、パウロが「キリストに似た者となる」そして「キリストとともに栄光を受ける」と言うとき、そこにはクリスチャンが成長していく聖化論の話が含まれていないように見えるが、恐らく「栄光を与えてくださる」という表現の中に聖化論のことを考えてもよいのではないかと思う。「栄光を与えてくださった」ということは、「最終的な結論はもう決まっている」ということなのだ。義と認められた時から最終的にキリストとともに復活の栄光を受けてキリストのかたちと同じ姿になるまでの過程があるが、その歴史のすべては「栄光を受ける」というプロセスの中のこととして考えられるべきである。

       それだから、「栄光をお与えになった」と言うだけで十分なのである。神が御自分の栄光を私たちに与えてくださる。それは救いの完成である。この箇所の「栄光が与えられる」は過去形になっている。それは、彼らの未来の栄光が確実であるからである。私たちは今まだこの箇所で語られている栄光を持ってはいないけれども、それは「キリストと、栄光をともに受ける」という8章17節で語っている時に私たちに授けられる。17節で語ったのはこの栄光の望みなのである。その栄光は、既に与えられたものとしてパウロが語るほどに確かなものとして私たちに与えられている。

       それで、鎖の最後のリンクは「さらに栄光をお与えになった」というものである。注目したいのは、救いの頂点が私たちに栄光が与えられるということにある。これは何と驚くべきことであろうか。人間の最終的な目的は何なのか。人間は、究極的な目的として何のために生きているのか。そのことはウェストミンスター大教理問答の中で取扱われている。答えは、「神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶためである」となっている。神の栄光を求め、神の栄光を表わす。それが私たちの究極的な目的である。だから、「飲むにしても食べるにしても、神の栄光を求めてそれをしなさい」とパウロも言っている。「何をするにしても、感謝の心をもって神の栄光を求める」というのが聖書の教えである。それは神に対する愛の現われである。

       神が私たちを愛して、私たちに栄光を与えてくださるのである。神が歴史を通して、あなたの栄光を求めておられるのだ。自分の栄光を求めて生きるなら、それは自分を神にすることである。神の栄光よりも自分の栄光を最終目的にしているからである。それが罪人の罪の本質的なところである(詩篇115篇参照)。「神を憎む」というのは否定的に罪の本質を指す言い方であるが、肯定的に言うなら、それは「自分の栄光を求める」ということに他ならない。つまり、自分を神にして生きている。すべてのことを自分で決める。それを自分で決めるだけでなく、「自分のために決める」のである。「何のためにそれをするのか」と聞かれると、「私がしたいからするのだ。他に理由なんかあるものか」と言うようなら、自分を神としているのである。自分が基準で、自分が中心なのだ。

       それは私たちの生きる姿ではない。何のために起きて、何のために寝て、何のためにそれを食べ、何のために行なうのか。そのすべては神の栄光を求めて神を喜ぶためにあるのだ。しかし、それで神は栄光を受けて「そうだ。そうだ」と腕組んで言っているわけではない。神は、御自身の栄光を求める私たちの栄光を求めてくださるのである。御父、御子、御霊の契約の愛は、互いの栄光を求めあう愛であるが、私たちはその神の契約の愛の交わりに入れられるのである。神が私たちの栄光を求めてくださり、私たちは神の栄光を求めるものとなる。ヨハネの福音書5章で主イエス・キリストがパリサイ人を叱ったときに、こう言っている。

     

    互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。

       日本語では「栄誉」と訳されているが、ギリシャ語原語では同じ「栄光」という言葉が使われている。「栄光」という言葉の使い方が少し特殊なので「栄誉」と訳したのであろう。パリサイ人たちは自分の栄光を求め、また互いの栄光を求めている。つまり、人間の栄光以外には何も求めず、人間に認められようとする以外には何も考えていないのだ。そのような者は、神が与える栄光を求めたりはしない。それだから、御子キリストを信じることはできないのだ。

       ここで前提となっていることは、「神が私たちに栄光を与えてくださる」ということなのである。実に不思議なことだとは思わないか。神が、全歴史の御計画において、永遠の昔から私たちを愛して、御子のかたちに似たものとなるように私たちを定めてくださり、救いの過程の最終的な目的が「神からの栄光が私たちに与えられる」ということなのである。ローマ人への手紙8章の17節を思い出してほしい。

     

    もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

       キリストが相続するものを、私たちも共に相続するのである。すべてを相続するのである。この世での生活には苦しみもあれば汗もある。そんな時、私たちは、神の愛する御子に与えられた道を見るがよい。私たちは、その御子に従って歩む者である。キリストと苦難を共にする者は栄光をも共に受けることになる。それ故、神から与えられる栄光を求めなさい。どうか誤解しないでほしい。「栄光を求めてはならない」と言っているのではない。「神が与えてくださる栄光を求めなさい」と言っているのである。

       あなたはどうするのか。神を愛し、兄弟姉妹を愛し、神に従って正しく歩むのか。もし、神の栄光を求めるなら、神がその人に栄光を与えてくださる。しかし神を利用して自分の栄光を求めているなら、神の栄光を求めてもいなければ正しく生きてもいないことになる。神の御栄光を何にも増して求める者が神御自身から栄光を受けることは救いの本質に含まれることである。栄光を求めることは一方通行ではないのだ。神を愛し、神の御栄光を求めるとき、私たちが見出すのは、神が御自身の愛を私たちの栄光を求めることによって示してくださるということなのだ。

     

    だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

       パウロが言っていることは、このマタイの福音書6章33節と同じ話なのだ。これはキリストの約束である。「私は、あれが欲しい。あの人の地位が欲しい。会社のあのポジションが欲しい」と思って、「そのために私は御国とその義を求める」と言うなら、それは全く神の御国を求めることではない。それは御国を第一に求めるふりをして、自分の欲しい物を手に入れようとしているだけなのだ。神はあなどられるような御方ではない。人の心を見極める御方である。神を騙すことはできない。本当に神の御国とその義を第一に求める心を持って歩むなら、神はその人に栄光を与えてくださる。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」とキリストが言っているとおりである(ルカの福音書9章24節)。

       永遠のことにおいてそうであるが、この世でもそうなのである。自分のいのちを愛する者は、ますます欲が深くなるばかりで満足はなく、喜びも感謝も失われていき、どんどんいのちを失うことになるのだ。いのちの最も高く最も偉大な祝福は、それを直接つかむことで手に入るものではない。神の御国とその義を第一にまず求めるときに、はじめて他のすべての祝福は、いわば間接的に私たちのものとなるのである。そういうわけで、パウロは、「神が栄光を与えてくださる」ということを私たちに教えている。

       神は御子を愛して、御子のために、すべてを働かせて神を愛する者のために益としてくださる。その土台がどんなに堅固ですばらしいものであるのか、どんなに確実なことなのかを、私たちに教えている。ここに私たちは立つのである。その立つことができる土台は永遠の昔から与えられている。三位一体なる神御自身に基礎を置くものなのである。三位一体なる神のうちにある愛が、私たちの毎日の生活における望みの土台なのである。

       罪人は、このすばらしい神の約束とその教えをまたたく間に忘れてしまうものだ。すぐに心があちこちに揺れ動くものである。そのために神は私たちに礼拝を与えてくださり、その礼拝の中で私たちは神のみに栄光を帰する。そして神は私たちに御自分の愛を無限に注いでくださる。聖餐式のパンはキリストの御身体を表わし、聖餐式の葡萄酒はキリストの血を表わしている。神が、御自分の御子を私たちに与えてくださるのである。それほどに私たちを愛してくださるのだ。その神の愛を毎日覚えて歩むことができるように、毎週聖餐式は与えられている。その神の愛と恵みを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2001年2月11日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙8章28〜29節

    ローマ人への手紙8章31〜32節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.