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    ローマ人への手紙10章9〜13節


    10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

    10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

    10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

    10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

    10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

    2001.06.03. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    心から

    10章9〜13節

       10章でパウロは、当時のユダヤ人の不信仰について説明している。この説明は9章30節から始まっているが、「ユダヤ人は律法の義を求めたが、まるで律法の行ないによるかのように求めて、信仰によって義を求めることをしなかった」と説明している。そして、モーセ五書に戻って、「律法を行なう者が義と認められる」と思われてしまうようなレビ記18章5節の箇所をを引用する。「パリサイ人たちの解釈をすればそういう意味になる」ということでその箇所を引用したのである。実際にその箇所をレビ記全体の前後関係から見るなら、そこは決して「律法の行ないによって義と認められる」ということを教えていないのは明白である。パリサイ人たちがそのような箇所をそのように解釈している、ということでそれを引用した後すぐに、パウロは、その間違った律法の解釈に反論するために正しい解釈を申命記30章から引用して説明するのである。それが6節からのところである。

       「信仰による義」は心の中で、「誰が天に上るか。誰が地の深いところに行くか」ということは言わない。「信仰による義においては、御言葉はその者の近くにあり、心にあり、口にある。それこそ私たちが宣べ伝えている信仰の言葉である」とパウロは言う。つまり、「モーセの律法も同じように、信仰によって義と認められることが教えられている」と言うのである。

       イスラエルは、モーセの律法を正しく見てはいなかった。モーセの律法もパウロの福音と同じように、「唯一の救いは信仰による」と教えているのである。そのパウロの説明について先週一緒に見た。律法の基本的な告白と、最も有名な命題は申命記6章4節に由来する。「聞け、イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」。これは神がどのような御方であるかについての信仰告白であることに注目してほしい。「これは私たちの宣べ伝えている信仰の言葉のことです」と、パウロはモーセの律法を引用し、9節からその説明を初めている。

     

    口と心

    なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

       ここでパウロはクリスチャンの信仰告白はモーセの福音と同じであると言っている。ここのパウロの語順は興味深いものだ。申命記30章では、「」のことがあって「」のことがあるという順番であることに注目してほしい。パウロは9節で申命記30章と同じ順番で「」と「」の話をしている。つまり、口で告白し、心で信ずると言っている。しかし、この語順とは逆の順序で理解してしまうのが常であり、普通なら私たちは「心の中で信じてから口で告白する」という話になるだろう。心理学的にはその方が正しいが、9節では、パウロは申命記30章に合わせてているので、まず「」のことを語ってから「」について語るという順番で書いている。そして、10節を見ると、その順序が逆になっているのである。

    人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

       10節では「」が先にあってから「」のことを話している。心に信じることが先にあり、口で告白することが後になっている。8節では「」が先で「」が後になっており、9節もそうである。それが10節では逆になっている。なぜパウロはこのような書き方をするのか。実は、語順を変えた二つの言い方が一つの文脈の中で使われているということは、私たちの信仰告白において心と口が一体であることを示しているのだ。「口の告白と心の信仰は一体ですよ」と言いたいのである。

       主イエスの教えを見ても、これは基本的にすべてのことについて言えることだということがわかる。マタイの福音書15章のところで主イエス・キリストはユダヤ人に、「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」と言っている。そして、その意味を尋ねた弟子たちに、「口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです」と説明している。口から出る物が人間を駄目にするのであって、口から入る物が人間を駄目にするのではないと教えている。口から出る言葉は心から出て来て人を駄目にするのである。

       心に汚れた物があれば、それは口から出て来る。心がきよければ口からも良い言葉が出て来る。心にあるものが口から出て来るのだ。それ故、主イエスは、自分の心を洗ってきれいにしなければ、口がきよくなることはないとユダヤ人に教えている。「問題は心であって、口ではない」と、主イエスはパリサイ人たちに話している。パリサイ人たちは、何が口に入るかばかりを考えていた。つまり、儀式律法の食べ物のことや洗いについてのことを行ないとして厳しく解釈していたが、心にある罪については気にしていないのである。その人たちに対して主イエスは「問題は心だ」と教えた。そして、「結局、心にあるものが口から出て来る」と教えた。神に対する信仰の告白もそのように心と口は一つであって、心で信じて口で告白する。ということは、その二つは一つのものとして考えなければならないのである。心で信じる者は、その信仰を口で告白する者である。

       このことには狭い意味もあるし、広い意味もある。狭い意味で言うならば、このことは私たちが毎週集まって主イエスに対する信仰を告白することを想起させる。毎週日曜日の朝の礼拝のときに私たちは集まって信仰告白をしている。毎週礼拝に集まるとき、「私はあなたを信じます」という信仰を神に告白している。私たちが礼拝の一部として告白している使徒信条はまさにそのようなものである。それは、私たちが神の家族として、また地域教会として、神の御前に出ることを意味している。毎週私たちは信仰を告白し、神に救いを求めているのである。クリスチャンならば、心において真実と信じていることを告白するはずである。そして使徒信条は、創造のときから始まって歴史の終りまでを歴史に従って私たちの信仰を告白するものである。同時にそれは、三位一体なる神に対する信仰を告白している。

       御父が天地万物を創造し、御子なるキリストはこの世に来られて私たちの罪のために死んでくださり、死人の中から復活し、天に昇って万物を支配し、やがて再臨したもうこと、そして、御霊の働きによる救い、御霊にある聖徒の交わり、御霊にある教会の働きと勝利を信じて告白している。使徒信条を告白するとき、私たちは三位一体なる神への信仰を告白しており、また創造の時からキリストの再臨と審判の時までの全歴史を神が支配しておられるという信仰を告白している。それは心からの信仰告白として、毎週礼拝の中で一緒に告白するものである。

       考えもせずに使徒信条を口から吐き出しているのではない。絶対にそうであってはならない。告白する内容を考えもせずに単純に言葉を習慣的に繰り返すだけなら、それは礼拝の意味を損なうことであって本当に気を付けなければならない。当然それは、私たちの心からの信仰の告白でなければならない。心から告白することが非常に大切である。それだから、信仰告白の中では何度も「我は信じる」という言葉を繰り返し告白するのだ。このように繰り返し告白するのは、深くなるためであって、軽くなるためではない。そのことをしっかりと心に刻んでほしいと思う。

       主の祈りについても同じことが言える。それは毎週繰り返し私たちの一致した祈りとしてささげられている。私たちは毎週同じ信仰告白をし、毎週同じ祈りをささげているが、暗記してしまうと私たちは軽率になり、無感覚になり、ただ形だけを繰り返すだけになってしまいやすいからである。しかし「暗唱すれば必ずそうなる」というわけでもない。暗唱すればそうなると主張して、主の祈りと信仰告白の暗唱に対して批判する人たちがいるし、そうなりやすい一面があるのも事実である。しかし、そういうものをぜんぜん使わない教会に行ってみると、逆にまとまりがないという問題があるのもまた事実である。

       もし、私たちが毎週、使徒信条や信仰告白の一つ一つの言葉の意味をしっかり覚えて告白するならば、その告白の深さに共鳴しながら告白できるはずである。それは頭の中に深く入り、心に深く刻まれ、はっきりと自分の告白になっており、「あなたは何を信じてるんですか」と聞かれたときには、その信条の言葉を瞑想することによって正しい答えができるようにもなるはずである。「これがクリスチャンの基本的な信仰です」と、信仰告白の内容を発展させることで説明してあげることもできるはずだ。同じことを毎週繰り返し告白するということは、深く深く心に刻まれるためである。そして、よくまとまって整理された真理をそのように用いるのは、深い学びをするためでもある。本当は、もしこれを歌うことができるならぜひ歌いたいと、思うものである。

       私は子どもの頃、ルーテル派の教会に行っていた。すべてのルーテル教会が聖書を信じないということではないが、私が行っていた教会の教団はとてもリベラルな教会であった。それでも、その教会には主の祈りと信仰告白と幾つかの決まった祈りというものが昔からあった。毎週詩篇から歌い、毎週主の祈りを歌い、毎週信仰告白をしていた。私が本当にクリスチャンになった時はちょうどベトナム戦争の時だったので、私は徴兵されて夜中に門番させられたりした。睡魔に襲われたりもするし、誰も来ない。とにかく軍で門番しているとき、私は夜通しそれらを繰り返し口ずさんだりした。小さいときに同じものを告白し、同じものを歌ったりしていたので、それは深く心に入っていた。それで門番しながら歌ってその意味を瞑想することができた。それが自分の祈りとなって神にささげることができたのである。

       そういう意味で、主イエス御自身が私たちに教えてくださったその非常によくまとまった主の祈りを、そしてよくまとまった信仰告白を毎週告白するのは、心にある信仰の告白として行なっているのであり、その信仰告白も主の祈りも、深く私たちの心に入っていくためである。私たちが、どのように祈ったらよいのかがわからない時、何を言ったらよいのかわからなくて困っている時に、他に何も言えないならば、主の祈りを心から祈りとしてささげればよいのである。「何を信じているの」と聞かれてどう答えていいのかわからない時に、使徒信条に沿って簡単に説明することができるはずである。その告白の一つ一つを簡単に説明してあげることができるはずである。心と口は一緒であるはずなのだ。ただ形だけの“口”では、本当の礼拝ではなくなる。心の中で信じて、口から告白する。それは一体であるべきなのだ、ということをこの箇所から見ることができると思う。

     

    イエスを主と告白する

       ここでパウロは、昔の教会の信仰告白のことをそのまま話している。恐らくこれはバプテスマを授ける時の信仰告白ではなかったかと言われている。「イエスは私の主です」と告白する。それはバプテスマを受ける時の信仰告白であったに違いない。ここで非常に興味深いことは、「心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」という告白で私たちの信仰を短くまとめていることである。「イエスは主である」という信仰の告白は、正しく理解するならば、実に深いことを表わしているのだ。主イエスは、その時代に、歴史の中に実際にお生まれになり、人として育ち、そして十字架につけられた人間である。パウロはここで「キリストは主」と言わずに「イエスは主です」と言うのである。そして、「」というギリシャ語は「キュリオス」という言葉である。これは日本語の「主」と同じような意味の言葉である。

       日本語で「主」と言うときにも「主人」という意味を表わしていて、普通の人間についても使うことの出来る言葉である。ギリシャ語の「キュリオス」もそうである。主人と奴隷の話をするときにこの「キュリオス」という言葉を使うことができる。同時に、ローマ帝国の皇帝も自分を「キュリオス」と呼んでいた。ローマ皇帝はまた「救世主」とも呼ばれていた。しかし、ここでパウロが「イエスはキュリオスである」と言うとき、ローマ帝国の皇帝のことを考えたりこの世の諸々の“主人”のことを考えたりしているのではない。このギリシャ語の「キュリオス」は、旧約聖書の中で6000回以上も出て来る一つの言葉の訳語として使われているのである。「バアル」という言葉も、もともとはただの「主」という意味の言葉であったのがカナン人の神の名前になってしまったものである。

       「キュリオス」は旧約聖書のある語の訳語として6000回以上も出て来るが、その語とは「ウェ」である。即ち「エホバ」である。パウロの時代では、ギリシャ語聖書をいつも読んでいたヘブル人も多かったし、当然異邦人もギリシャ語に訳された聖書を読んでいた。「エホバ」という原語は本来発音できない言葉であり、より正しく発音しようとすれば「ウェ」である。彼らが旧約聖書の中の「ウェ」という言葉を見るたびに、それは「キュリオス」「キュリオス」「キュリオス」ということになる。つまりこれは、「イエスはヤウェである」という信仰告白なのである。人間となってくださった神を信じる信仰を告白しているのである。このローマ人への手紙10章の同じ箇所の中で、12節と13節にこう書いてある。

    12同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。 

       この「」がキリストを指しているのは明らかである。13節に「主の御名を呼び求める者」とあるが、旧約聖書の中では「ウェの御名を呼び求める者」と書いてある。だから、イエスをヤウェとして告白しているのである。それは、主イエス・キリストが創造主であり、絶対者であり、唯一の神であるということを告白することである。「それが私たちの信仰告白である」と、パウロは話しているのだ。「イエスはヤウェである」と言うなら、ユダヤ人の観点から見れば、これこそ神への冒涜という話になる。イエスはナザレの貧しい大工であった。私たちと同じ人間に過ぎない。しかも、ローマ帝国によって死刑にされた人間なのだ。たとえ偉い教師であり、また預言者であるとしても、「この御方はヤウェです」とは、ユダヤ人にはとてもとても考えられないことなのだ。しかし私たちは、ナザレの大工であり、マリアとヨセフの息子であり人であるイエスは、イスラエルの唯一まことの神であると告白する。「それが福音の真理の基本である」とパウロは教えているのである。

       バプテスマを受ける者は、主イエスをまことの人間として信じると同時に、絶対なる永遠なる創造主なる神であることを信じると告白する者なのだ。イエスを「ウェ」「キュリオス」として信じるという告白をするのである。そして、「心の中で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」という言い方について考えるとき、今の時代の教会にとって顕著なことがある。ここではキリストの死については強調をもって語られていないが、復活のことが強調されているのだ。現代の福音派の多くの人は、福音を伝えるときに、キリストの死については多くを語るけれども、キリストの復活についてはあまり語らないようである。いろいろ語ってから、「そして、復活された」という程度の話が多いように思う。それとは対照的にパウロは、明らかに復活の方を強調している。

       勿論、復活について強調しているということは「死についてはあまり語らなくてもよい」と言うことではなく、死と復活は一緒に一つのこととして考えるべきだということである。「神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださった」と告白することは、イエスの十字架の死が、世界の罪のための完全な犠牲として神に受け入れられたことを告白することになるのである。それは、罪がキリストの死によって完全に取り除かれ、死はもはやキリストをとらえることができなくなったことを意味している。それ故、十字架の上で私たちの罪のために死んでくださったということだけしか強調されないなら、それは福音にはならないのである。キリストは完全な勝利を得てくださったということが「良い知らせ (Good News) 」なのだ。

       罪に対して、死に対して、主イエス・キリストは完全な勝利を得て、よみがえって天に昇り、父なる神の右に座して「キュリオス」として支配しておられる。それが良い知らせである。イエスはヤウエである。それが福音なのだ。「復活」は、死と罪に対するキリストの勝利の宣言である。それ故、使徒行伝を読むときに「復活」が非常に強調されている。言葉の数からすれば「贖い」は「復活」ほど強調されていない。「贖い」は「復活」の中に含まれているのは確かである。「復活」の意味は何なのかを話すときには「贖い」のことも説明されなければ無意味だからである。しかし、「復活」が強調されているのは、「罪に対して、死に対して、勝利を得て、いのちをもって天に昇られた」ということを強調しているのだ。

       そして、キリストの復活は歴史の中で最初の復活である。ラザロは復活させられたが、もう一度死ななければならない。決してキリストはラザロとその家族のために軽い意味で喜ばしいことをしてあげたわけではない。葬式を二回しなければならないし、死を二回経験しなければならなかったので、ある意味でもっと大変だったと言わなければならない。同時に、死から戻ってきたことを家族は皆で喜んだのは事実である。しかし、それは本当の意味での復活ではなかった。ラザロはまた死ななければならないので、ラザロにおいて死に対する勝利はない。死の力はまだラザロの上にあった。主イエス・キリストの復活は本当の意味での「復活」であった。人類で初めての復活である。キリストは初穂である。

       どうしてキリストは復活した後に再び死ぬことがないのかというと、死に対して完全に勝利したからである。「死に対する勝利」とは何か。それは「罪に対して完全に勝利した」ということである。「死の力は罪にある」とパウロがコリント人への第一の手紙15章で説明しているとおりである。罪がなければ死はない。エデンの園のところに戻って考えればはっきりする。「」がどうして人類に与えられたかというと、アダムとエバが罪を犯したからである。罪によって死は人類の中に入った。アダムとエバに全く罪がなければ、人類に死はなかったのである。この認識は人類にとって非常に重大なのだ。人間はどうして死ななければならないのかというと、人間は罪人だからだということなのだ。

       十字架の贖いのわざによってキリストは死と罪に対して完全に勝利を得てくださったので、神はキリストをよみがえらせてくださった。主イエスのよみがえりは、いのちの勝利、神の御恵みの勝利を完全に宣言するものであった。それだから、キリストの復活を告白することには十字架の贖いの意味が含まれているのである。贖いだけを告白して、それで成功したのかというと、そうではない。復活がなければ成功にはならないのである。贖いの意味は復活の勝利の中に含まれている。だから、復活の勝利が強調されなければならないのだ。復活がなければ贖いの完成はないのである。旧約聖書の中でも、生贄としてささげられたすべての羊において贖いの意味は表わされていた。犠牲の羊の死は贖いの死を意味していた。

       しかし、それも本当の贖いではないので、捧げても捧げても、また次の羊は死ななければならなかった。雄牛が捧げられても、また次の雄牛が捧げられて死ななければならなかった。だから、たとえキリストの死に贖いの意味があるとしても、復活がなければ、またほかの贖いが必要ということになるのだ。それは単に歴史の中の一つの出来事でしかないことになる。そうではなく、「復活した」というのは「贖いの完成」であり「成就」である。最後にして完全な贖いが主イエス・キリストによって行われたのである。そのことを私たちはキリストの復活を告白するときに告白している。復活はイエスの義を公然と証明することになり、イエスの贖いの御業が神に承認されたことを宣言するものである。

       しかし、もっと大きな意味がある。パウロにとって、復活はキリストの御業の終りではなく、キリストの御国の始まりなのである。イエスは、御父のもとに昇り、神の右に座したもうために復活されたのだ。復活は主イエスの御支配の始まりである。それゆえ、クリスチャンの信仰告白の中心はイエスの勝利でなければならない。福音の勝利でなければならない。その勝利は私たちの生活のすべてを圧倒するものでなければならない。イエスがヤウエなる主であることは、単に形而上学的な神だという意味ではない。それは、今実際に、キリストが天の王座に着いておられることを意味しており、万物を支配し統べ治めておられることを意味しているのである。

       それ故、「イエスは主です」というこの短い告白は実に重大な告白なのである。そして、「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださった」と告白するとき、どんなに大きくて深い信仰を告白しているかを知るのである。言葉はとても簡単で短い。幼い子どもにもわかるレベルの言葉である。そのように実に明白な言葉でパウロは、御霊による私たちの広い深い信仰を告白している。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とパウロは言う。心の中で信じたことを口で告白しなければならない。まことに信じているのなら、それは必ず口から溢れ出て来る。礼拝において繰り返し繰り返しいつも同じ信仰を心から告白して、神に対する信仰を歌い、祈りをささげるなら、それは私たちの生活全体の告白となるのだ。

       いろいろな時に「私はキリストを信じる者です。私はクリスチャンです」ということを告白する機会が私たちに与えられている。それをいろいろな時に言わなければならないであろう。心で信じていることは口から出なければならない。或いは自然に出ることになるかも知れない。この告白は私たちの全生活においてあらゆる場面で繰り返し自然に出てくるものである。誰かが「これをしなさい」と信仰に反することを求められるときに、「私はクリスチャンですので、私はそういう事はできません」と言わなければならない時もあるだろう。何を信じるのかを聞かれて答える時もあるだろう。困っている人と話すとき、「私はクリスチャンです。あなたのために祈りたい」という事もあるだろう。そういう意味で、信仰告白は日曜日の礼拝で告白されているが、これは私たちの生活で常に心と口から出てくる告白であるということも言わなくてはならないのである。

       「イエスは主です」という告白について、もう一つ考えておくべきことがある。「主」という概念は現代の人々にはあまりない概念だと言ってよい。日本社会には一応の上下関係というものがあるが、アメリカでは上下関係がかなり希薄である。「主」という概念はアメリカにはあまりない。ここでイエス・キリストを私たちの主と告白するときに「ウェ」として告白しているが、「ウェ」として告白するとき、私たちは、この御方を創造主として、また歴史を支配する御方として信じるだけでなく、「イエスは私の持ち主である」と告白しているのである。「私は主イエスのしもべであり、キリストの所有である。私は主イエスの財産である。キリストは持ち主であり、私はキリストのものである」と告白しているのだ。絶対者の所有物として自分を位置付けるのである。「それが私です」と告白しているのだ。

       「イエスは主です」と言うとき、「私はそのしもべです」という意味が含まれているのだ。パウロは何度も自分を「ドゥロス」という言葉で表現している。ローマ人への手紙1章でもそう自分を紹介している。「ドゥロス」というギリシャ語は「奴隷」という意味の言葉である。奴隷制度のない社会でこの「奴隷」という言葉が持つ意味の重さはあまり伝わらないかも知れないが、「私はキリストの奴隷です」とパウロが言うとき、当時のローマでは十分に通じたはずだ。「キリストは所有者であり、私はキリストのものである。キリストが何を命じるにしても、何を要求するにしても、たとえいのちをささげることになるとしても、私はキリストのものである」ということをパウロはここで告白しているわけである。それがクリスチャンの告白なのだ。コリント人への第一の手紙7章20〜22節のところでパウロは、実際に奴隷の人もいる教会に対して、次のように言っている。 

    おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。 

       「奴隷は自由であり、自由人は奴隷である」とパウロが話すとき、「イエスは主です」という告白の具体的な状態の適用を説明しているのだ。奴隷は、「私はキリストにあって自由である」ということを覚えなくてはならない。つまり、「今、この世の中でこの状態にあることは神の摂理の導きによるのであって、私はそのすべてにおいて最終的には神に仕える者である」ということを覚えるのである。そうであれば、この世の主人に仕える時にも「ああ、私はみじめな奴隷なのだ」と思うのではなく、「私はキリストのものである」ということを覚えるのである。また自分を自由人だと考える者が「私は自由だ。私はあの奴隷どものような人間ではない」と思うなら、その思いは間違っている。「あなたはキリストの奴隷であるという認識を持ちなさい」とパウロは教えるのである。私たちがイエス・キリストを「主」と告白するとき、「私はキリストの僕である。キリストの奴隷である。私は、私の主であるキリストの御心を行なうことのみを求める」という認識をしっかりと持つ必要がある。

       私たちは自分のものではない。主のものである。どこで生まれるのか、どのように自分の人生を送るのか、どのような人生が与えられるのか、それらはすべて主なる神が導いてくださることである。奴隷にはそれを選んだり要求したりする権利は何もない。権利は主イエス・キリストのみにある。私たちは、私たちの主であるキリストの命令に喜んで従う。それが良いしもべであり、良い奴隷である。だから、「イエスは私の主です」と告白するとき、「イエスはヤウェである」と告白しているが、実生活において考えるなら、「私たちはキリストの奴隷です」ということを告白しているのである。キリストのしもべ或いは奴隷として、私たちは主イエスの御意志と御国のために生きる者である。そして、しもべであれば、命令を受ける立場にあるのは明白である。詩篇の記者はこのことをよく認識しており、神の命令が足のともしび、道の光であることを述べている(詩篇119篇105節)。黙示録22章にも同じ言葉が出て来る。23節を見てほしい。

    もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、その奴隷たちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。

       この「奴隷」という言葉も原語では同じ「ドゥロス」である。「しもべ」と訳しても問題はないが、これは決して軽い言葉でないことだけはよく知っておいていただきたい。この世にあってもイエスは私たちの主であり、私たちはキリストに属する者である。そして、私たちは永遠にキリストに仕える者である。「イエスは主です」と告白するとき、「イエスはヤハウェである」と告白しているだけではなく、自分が何者なのかをも告白しているのだ。「私はこの御方に属している。この御方の奴隷である」ということを告白している。これもその広い意味での信仰告白の実践的な面のことである。実生活でどう生きるべきか、基本的にどのような生活を送るべきか、その道を神が命令をもって与えてくださった。そういう意味でその道は、はっきりしている。「このように生きなさい」という基本的な教えが聖書の中ではっきりと与えられているからである。パウロは、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と説明してから、11節で次のように言う。

    聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

       これは9章33節の引用と同じものであり、イザヤ書28章16節の引用である。ここでパウロはもう一度そのイザヤ書に戻って話を整理している。ユダヤ人たちはキリストにつまずき、「イエス・キリストはヤハウェである」と告白せず、心の中で「信仰によって義と認められる」ということを求めようとはしない。しかし、聖書は、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と言っているのである。キリストに信頼し、キリストを「主」と告白する者は、裏切られたり見捨てられたりすることは絶対にない。キリストは最後まで御自分に属する者を保って助けて祝福してくださる。

       その聖書の御言葉の励ましと慰めを与えたあとでパウロは12節で、「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません」と言う。つまり、キリストは誰もが信頼できる御方である。そこで特別にユダヤ人だけという話はないし、異邦人だけという話もない。「主に信頼する者は、失望させられることはない」とパウロは言う。イザヤも「ユダヤ人であれ異邦人であれ、どうぞ」という言い方はしていないが、イザヤの言い方は「誰でも主に信頼する者は」というものなので、ユダヤ人とギリシャ人の区別がないのであれば、ユダヤ人でもギリシャ人でも誰でも許されることになる。だから、そのポイントをパウロは指摘するのである。

       ローマ人への手紙4章のところで、「なぜアブラハムは選ばれたのか」ということについてパウロは話しているが、そこではパウロは創世記の12章の箇所に遡って説明している。アブラハムが選ばれた目的は、アブラハムによって全世界が祝福されるためであったとパウロは指摘する。アブラハムは神の祭司の民の「父」として選ばれ、そこからイスラエルは全世界の救いと祝福のために働く民として神の特別な民とされたのである。イスラエル以外の者は皆地獄に行くためにイスラエルが選ばれたのではないのである。イスラエルが祭司としての働きをすることによって全世界が救われる。その働きのために神は特別な祝福をイスラエルに与えてくださったのだ。

       その説明としてパウロはイザヤ書28章を引用しているが、例えばイザヤ書2章では、イスラエルが祝福されることによって全世界に福音は広まって全世界が神の都に来て神を礼拝するようになることが書かれているのだ。他にもイザヤ書には異邦人が救われることを教える個所は沢山ある。ヨハネの福音書4章のサマリヤの女の話もその一つである。イスラエル人たちが神に祝福されて、福音は全世界に広まるということはイザヤや他の預言者も話している神の御国の話になるのである。そういう意味で、同じ主イエス・キリストに信頼する者は、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、皆同じように救われるのである。 

    同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 

       「同じ主」とは、主イエスのことである。「恵み深く」という言い方で問題ないが、これは"rich"ということなので「恵み豊か」という言い方の方が訳として適切かも知れない。主の恵みの豊かさが強調されているのである。新約聖書の多くの箇所に神の「知恵の富」「恵みの富」「栄光の富」のことが書かれている。それは私たちに与えられ、そして私たちを通して表わされる。「神の富」「神の豊かさ」ということは、私たちの想像を完全に越える神の無限な富と豊かさの話である。それを実に豊かに神は私たちに与えてくださる。その恵み豊かなる神、御恵みに富んでおられる神が、御自分の恵みの富を永遠に私たちに与えてくださるのである。

       「主を呼び求めるすべての人に対して」、神は御恵みを、豊かに豊かに与えてくださる。そのような深い恵みに富む神に私たちは信頼しているのである。これが福音において実に重大なポイントであることは、説明しなくてもわかることだと思う。私たちは罪人であり、実に鈍くて愚かなので、恵み深い神でなければ、実に恵み豊かな神でなければ、私たちには望みはないのである。そういう意味で考えるなら、ここで神の裁きの厳しさを強調する必要もあるように思う。場合によっては、特に罪が軽視されている今の時代にあっては、神が罪を憎む御方であることを強調しなければいけないのは勿論のことである。しかし、神の御恵みの豊かさも強調しなければならない。罪人ががっかりして、「私は、神に近づくことはできない。神は恐ろしい御方だ。私のような罪人は教会に行くことはできない」などと思うべきではないのである。

       放蕩息子の譬え話は、そのような考え方に反対するためにあったと言えなくもない。罪人は、自分がどんなに愚かで救いようがない人間であっても、どんなに大きな失敗があったとしても、御父の御恵みとその愛と豊かな憐れみを信じて、御父の所に走っていけばよいのである。アダムとエバのように、隠れて逃げるようであってはならない。イスカリオテ・ユダのように自殺したりしないで、ペテロのように涙を流してキリストの所に戻らなければならない。いくら鈍くてわからないとしても、いくら失敗しても、私たちの行く所は一つしかない。それは、御父の所である。罪を犯し、愚かなことをしたりしてばかりいるので、ある意味で私たちは父の所に行くのが恥ずかしいし、恐ろしいだろう。神の御前に立つのは罪人にとっては恥ずかしいことだ。

       「私は、ここまで愚かで、ここまで鈍くて、ここまで罪深くて、神の御前にどうして立つことができようか」と思ってもおかしくはない。しかし、あの放蕩息子ほどにどうしようもない息子が立ち上がって戻って来るときに、父は外に出て待っているのである。放蕩息子が帰る時に、その息子に帰る心があったということは、悔い改めの証しである。息子が帰って来たときに、父は、長いリストを出してきて、どこまで本当に反省しているのかを説明させたりはしていない。戻る行為だけで父には十分にわかっているのである。

       では、その放蕩息子は戻った後でもう何も失敗をしなかったかというと、そんなことはないだろう。皆さんは、失敗は一回以上、あるいは二回以上、いや、三回以上あるのではないだろうか。失敗したり愚かなことをしてしまう時に、あなたはどこに行くのか。どうすればよいと言うのか。御父があなたを待っておられることを思い出して、御父が喜んで豊かな御恵みをもって受け入れてくれることを思い出して、御父の所に行きなさい。悔い改めたあなたを腕に抱いて、すべての恥を覆ってくださるであろう。自分の罪を恥ずかしいと思ってもかまわない。「私は駄目な者だ」と思ってもかまわない。その時にどうするかが問題なのだ。隠れるのか。逃げるのか。自殺するのか。いいや。御父の所に戻るのである。そして、「このような、どうしようもない恥ずかしい罪人である私を、御父は愛して受け入れてくださる」ということを信じるなら、それこそ福音を信じることなのだ。

       「主を呼び求めるほとんどの人に対して、恵み深い神です」というのではない。「主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられる」のである。誰であれ、心から呼び求めるなら、御父は待っておられて、豊かな御恵みをもって受け入れてくださる。私たちが毎週の礼拝で主の祈りを神にささげて信仰告白を告白するのは、神を呼び求め、御恵みを求めることなのである。13節で更にパウロは言う。

    「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

       このパウロがイザヤとヨエルから引用した節は、「だれにでも」提供されている約束であることに注目してほしい。イザヤとヨエルの両方において使われている「だれにでも」という言葉をパウロが引用した意図は、異邦人もユダヤ人も等しく受け入れられるということにある。「」はただひとりである。そして神は、だれでも神を呼び求める者に対して救いの御恵みの無限の富を喜んでお与えになるのだ。それなら、一度だけ呼び求めたらそれで終りなのかというと、そうではない。私たちは罪人であり、絶えず主に信頼し、主の救いの恵みを求める必要があるのだ。私たちは一度だけ完全な意味で洗いきよめられたが、繰り返し罪を洗いきよめる必要がある。日々新たにされなければならないのである。

       主イエス・キリストが弟子たちの足を洗った話を思い起こそう。順次洗ってペテロのところに来ると、ペテロは「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。決して私の足をお洗いにならないでください」と言って拒んだ。その時キリストは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とお答えになると、ペテロは「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言った。それも必要ないことであった。キリストは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」と弟子たちに教えたのである。一度洗いきよめられた者も、足だけ洗う必要があるのだ。繰り返し繰り返し足を洗わなければだめなのも明らかであるし、基本的な洗いがなければだめなのも明らかである。

       私たちは、バプテスマを受けるときに、正式に神の御前で罪を洗いきよめていただきました。何度も説明していることだが、聖書の中では、「私はイエスが主であると信じます」と告白するなら、例えば使徒行伝16章で、ローマの牢獄の看守の全家族がパウロとシラスから御言葉を聞いて信仰を告白したとき、真夜中であったが、その場ですぐにパウロはその家族全員にバプテスマを授けたのである。だから、信じることとバプテスマは一緒であって時間的なズレはないものなのだ。エチオピアの宦官も、ピリポからキリストについての御言葉の解き明かしを聞いてキリストを信じた。水のある所に来た時にその宦官は「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか」と尋ねると、ピリポは直ちに一緒に水の中に降りて行って宦官にバプテスマを授けた。そこでも、信じた瞬間とバプテスマを受けた時はほとんど同時であった。場所も特に選んではいない。

       バプテスマを受けることが即ち信じることであり、信じることが即ち救いを受けることなのである。これは新約聖書にある信じることとバプテスマの関係である。バプテスマは、水によって何かを自動的に得るというものではない。同時に、バプテスマはただの儀式でもない。これは結婚の誓いと同じようなことである。正式には、誓いをした瞬間、本当の意味で結婚したということになる。それだから、結婚の誓いを終えた瞬間に、二人は夫婦であることを宣言するのである。それと同じように、バプテスマは誓いの儀式である。

       「誓いの儀式」と言うとき、その誓いには二人以上の人が列席しているのが普通だが、教会の長老たちが神の代表として信仰告白をした人に水をふりかけて、神から御霊の祝福が与えられる約束をその行動において表わすのである。信仰を告白する者は神の御前で誓いをするのである。「私は、イエス・キリストを私の主として信じます」と言うとき、「私はキリストの奴隷です。キリストは私の主人です。キリストは私の救い主、神であられます」と告白しているのだ。それ故、バプテスマは誓いの儀式であって、誓いの行為である。バプテスマそのものに誓いの意味があるのだ。

       キリストを信じた瞬間に救われているのは事実である。その信仰を告白してバプテスマを受ける時、正式に誓いをし、正式に、明白に、そして公然とクリスチャンとなったのである。今日、聖餐式の前にバプテスマを行なうが、私たちがこのようにバプテスマを行なうとき、「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」という神の豊かな御恵みを覚えてこれを行なうものである。この時、バプテスマを受ける者は主の御名を呼び求めることを正式に行なっているわけである。

       聖餐式も同じである。今説明したように、私たちはただ一度だけ主の御名を呼び求めて、それで終りということではない。バプテスマの洗いきよめ無しには、私たちは神に属することはできない。しかし、聖餐式を通して絶えず足を洗うことが無ければ、神の御前でそれもまた正しいことではない(ヨハネの福音書13章1〜10節)。従って、信仰を告白することと、主に救いを求めることは、私たちの人生の中で一回限りの事ではないのである。私たちは、「どうか、神さま。私を救ってください。私の罪をどうか赦してください。どうか神様、私を憐れんでください」という呼び求めを、繰り返し繰り返し行なうものである。

       伝道集会などに行くと、「まだキリストを信じていない人は前に出て来てください」という招きがある。それは普通一度だけ招きに応えて前に出るものだが、アルミニアンの信仰の場合には救いを何度も失ったりして、何度も何度も前に出ることになる。昔の知りあいの中には「毎週救われた」と言っている人がいたが、その人は、毎週罪を犯してしまって自分の救いを失ってしまうから、毎週もう一度前に出て救いを求めることをしていた。そうではない。聖餐式は、毎週皆さんに前に出てもらって、「神さま。どうか救ってください」と言わしめるものではない。長老たちは神の代表として毎週主イエス・キリストのからだを表わすパンと、主イエス・キリストの血を表わす葡萄酒を与えるが、救いは神から与えられるものである。

       パンと葡萄酒を受けるとき、主イエス・キリストを表わすものを神から受けるのである。神がそれを与えてくださる。私たちはそれを受けるだけである。完全に受身的なことである。「神の一方的な御恵みが、今週も与えられた」ということなのだ。ある意味で私の知人のように、「実は、今週も私は罪を犯した。今週も私は本当に愚か者であった。今週も、私は罪の洗いきよめを必要とする」と思うのもまるっきりおかしなことだとは言えない。アルミニアンの場合、毎週ペテロのように「全部洗ってください」という話になるので、それはおかしい。しかし、繰り返し繰り返し足を洗っていただく必要はあるのだ。それが聖餐式である。

       聖餐式において、聖餐式を受けるすべての人は、「どうか私を救ってください。私を洗いきよめてください。私を助けてください」と、主を呼び求めることを繰り返し行なうのである。バプテスマは契約に入る誓いの儀式であり、聖餐式は契約を新たにする儀式である。入る時の心と契約を新たにする時の心はまったく同じ心でなければならない。「私は罪人です。どうか、神様。私を憐れんで、私の罪を赦し、私を救ってください」という、主を呼び求める心は常に一つである。聖餐式を受けるとき、そのことを是非覚えていただきたい。

      

    ――2001年6月3日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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