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    ローマ人への手紙16章17〜20節


    16:17 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。

    16:18 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。

    16:19 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

    16:20 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

    2002.08.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    彼らを避けなさい

    16章17〜20節

     

       ローマ人への手紙の最後の部分に入るが、16章17節からのところでパウロは、最後の教えというよりは警告の言葉を与えている。17節から20節までが一つの段落になっており、この箇所でパウロはサタンとの戦いについて教えている。教えにそむいて分裂を引き起こす人たちを警戒するようにパウロは強く勧める。パウロの書簡には分離への言及が数多くあり、私たちはそれらの意味を注意深くとらえて区別する必要がある。なぜなら、それらはみな同じ種類の問題に焦点を当てているわけでもなければ、みな同じ種類の解決を提案しているのでもないからである。分離について語っている箇所を注意深く見れば、少なくとも四つの異る種類がある。

       第一に、偽りの教える者、すなわち、キリストおよび使徒たちの教えと矛盾することを教える人々を避け、彼らから遠ざかるように勧める箇所である。第二は、キリストを信じる信仰を告白しながら、不敬虔で不道徳な行ないを悔い改めずに続けて罪の生活を送っている人々との交わりを拒絶するように教えている個所である。第三に、もっと真剣にクリスチャンとして生活を送るようにならなければならない人々が恥じ入るために、彼らとの交わりを避けよと命じる箇所である。第四に、心に留めておかなければならないもう一種類の箇所として、分裂と分派を罪深いこととして教える個所である。このように、状況によっては兄弟を避けることが最も義なることもあれば、最も不義なることもあるので、気を付けて分離について考えなければならない。

    17兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。18そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。19あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。20平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

     

    分離と教え

       この手紙の最後の言葉は、この手紙の最初の警告の言葉と同じものである。「神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる」とパウロは言う。神は、教会の働きによって教会の中でサタンをさばくこと、そして悪い教師を避けることを命じている。その二つのことがここで一緒になっている。そして、「あなたがたの従順」とは、教会がパウロの教え、すなわち御言葉の教えに従うことを意味している。クリスチャンは、神の御言葉に従うことによってサタンに対して勝利するものである。それがこの段落全体のまとめである。

       今日は特にその最初のところについて考えたい。「あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい」とパウロは警告している。「あなたがたの学んだ教え」とは、パウロと使徒たちの教え、そして主イエス・キリスト御自身の教え、更に旧約聖書のモーセや預言者たちが書いたものすべてを指している。それは聖書全体を指している表現である。パウロたちは、自分たちがモーセやダビデたちと同じく神のしもべだという認識を十分に持っていた。パウロは、自分の教えが単に自分の個人的な意見でないことを十分に知っていた。だから、このように権威をもって語ることができるのである。

       預言者でもない普通の人間がここまで自分の教えを語ることはとてもできない。しかし、神の御言葉について言うなら、その教えは永遠に変わらないものである。キリストの使徒であるパウロたちの教え、そして預言者たちの教えは、神の御言葉そのものであるということがパウロの教えの前提となっている。「その教えにそむく者がいるなら、その者は神御自身に対してそむいているのだ」と、パウロは言う。パウロたちが書いた書簡などは神の御言葉そのものである。それは神の啓示そのものである。まことの著者は御霊なる神である。そのことをこの箇所からもはっきり見ることができると思う。

       「神にそむき、分裂とつまずきを引き起こす者たちを警戒し、彼らから遠ざかりなさい」と、パウロは教えている。これと似た警告の言葉は他のパウロの書簡にもたくさんある。ここで「分裂」と言っているが、「彼らから遠ざかりなさい」という命令も、ある意味では「この人たちから分裂して離れなさい」と言っているような話である。ローマ人への手紙16章17節は、分離についての第一の種類に属するものである。新約聖書が教えている最も深刻な分離は、教えに関わるものである。「教えにそむいて違うことを教えている人たちは、サタンのしもべである」と聖書は教えているが、この箇所はそのカテゴリーに入る。

       パウロは、「この人たちに対して警戒し、彼らから遠ざかれ」と命じる。そうすることによって神はサタンをさばくからである。この人たちは神のしもべではなく、自分の欲の奴隷に過ぎない。だから、「このような教師はサタンのために働いている者だ」と、パウロは教える。教師が福音の真理を曲げるとき、神の真理に対して最も攻撃的かつ潜在的に危険な戦いをしかけているのである。サタンは何よりもまず偽り者であり、人殺しである。そして、サタンが人を殺すのは常に偽りを通してであった。新約聖書は、偽教師が常に危険な存在であることを警告し、あらゆる形態の偽りに対する戦いに絶えず備えているように命じている。

       新約聖書の中で、神のしもべとサタンのしもべとの分裂が最初に出て来るのはどこかというと、それは主イエス・キリストとの関係において出て来ている。パリサイ人たちがサタンのしもべであることをキリストは暴露しておられる。パリサイ人たちは自分の欲に従って教え、語り、要求している。自分たちは神から出た者だと主張しながら、神の御子が現われると、その御子を憎んで殺そうとするのである。あらゆる方法でキリストに反対し、逆らい、最終的にキリストを殺すのである。主イエスは彼らを「サタンのしもべ」と呼んでいる。マタイの福音書23章で主イエスは神殿の中に立って厳しくパリサイ人と律法学者たちを断罪し、彼らが神のしもべではなく、本当はサタンのしもべであることを暴露している。

       ヨハネの福音書8章でも、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」とはっきり言っておられる。この世の中にはサタンと神の御国との戦いがある。その戦いの最も激しいところはどこかというと、真理についての戦いなのだ。ルターが言ったことだが、「サタンは最初に善と悪の知識の木の中に潜んで、アダムとエバを誘惑した。その時以来、歴史を通してサタンは一貫して知識をもって誘惑を与えている」と、ルターは強調している。まさにその通りである。真理を曲げることによってサタンは最も効果的に神の民に対して誘惑を与えようとするのである。それによって人々を欺き、だめにするのである。真理から離れてしまうなら、たとい道徳的に高いように見える人間であっても、親切で、思いやりがあって、すべての点で優れた人物に見えるとしても、その人はサタンのしもべに他ならないのだ。

       実際にキリスト教の歴史の中で最悪と思われる者たちの多くは教会の中で育っており、その中には牧師の子たちさえいるのを見るのである。教会の中で育ったために、ある意味で真理の言葉についてはよく知っている。クリスチャンとしての訓練も受けているので、道徳的に良い人を装うことには慣れている。見た目には誰もが尊敬できるような人物であっても、彼らは真理を捨てて神に逆らう者として生きていくのである。そのような人物がたくさんいる。哲学者カントもその一人である。カントの親は真剣なクリスチャンであった。カント自身も生活面においては非常なしっかり者であり、紳士であった。しかし、彼は神に逆らって真理を曲げ、何を言っているのか分からないような表現で真理を巧みに曲げて人々に影響を与えた。分かる人には分かるのだが、分からない人たちは混乱して、「いろいろ言っているけれども、結局、彼もクリスチャンなのだ」という印象を持ったりしてしまうのである。

       歴史の中の優れた政治家たちの多くも、クリスチャンの家で育ったのに、神を捨てて真理から離れてしまい、結局神の御国に対して反旗を掲げるような人生を送るのである。しかし、教会で受けた聖書の教えの影響により、表面的に見れば彼らの姿はすばらしい者に見えてしまう。それ故、まず第一に気を付けなければならないのは、「教え」である。「教え」において間違ってはならないのである。その人たちを、彼らの性格や格好の良さ、親切さや家系の良し悪しなどによって見てはならない。神の真理に対して忠実であるかどうかが、まず第一に警戒しなければならないところである。「真理に対して忠実でなければ、避けなさい」と、パウロは教えているのである。

       パウロの時代には、例えば、福音を否定し、義と認められるための条件として旧約聖書の律法に服従することを付加する人たちがいた。パリサイ派の律法学者たちは、義認の条件として信仰に割礼を加えることによって神の御恵みによる救いを否定したのである。これは実に、根本的に福音を覆すものであるゆえ、パウロはこのような偽りの教えを信じる者は誰でも救われることはないと宣言している。ガラテヤ人への手紙1章6〜9節からのところで、パウロはこの問題を取り扱っている。

    私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

       パウロは、福音に反することを教える者について、「その者は呪われるべきである」と繰り返して断言するのである。福音の真理から離れてしまう者に対して、パウロは神の呪いをその者に対して求めるのである。また、ヨハネも同じように偽りの教師について教会に警告を発して「反キリストが来た」と宣言している。ヨハネの第一の手紙4章1〜3節を見てほしい。

    愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

       他にも、パウロの手紙の中に、悪い教師が出て来ることについて警告している。テモテへの第二の手紙3章のところでも話しているし、エペソの教会で説教したときにも、「あなたがたの中から悪い者が出て来る」と言っている。パウロが救いの教理における問題を強調する一方で、ヨハネは、神の第二位格であられるイエス・キリスト、特にその神性と受肉を否定する者たちについて警告している。ヨハネの第二の手紙のところで、主イエス・キリストを正しく教えない者が大勢出てきて人々を惑わそうとするが、そのような者に対しては、「その人を家に受け入れてはなりません。その人に挨拶のことばをかけてもいけません」と命じている(7節〜11節)。ヨハネはキリストの人性と神性の両方を強調している。他にも多くの箇所で強調をもって教えられているが、「真理のための戦いがある」ということを私たちは常に肝に銘じなければならない。

       教師の立場に就きながら信仰の基本を否定したり曲げたりする者は、旧約聖書の偽預言者と基本的に同じ部類に属している。そして、旧約聖書のイスラエルでは、偽預言者に対する罰は死刑であった。そのことは申命記13章と18章に書いてある。申命記13章の教えはその事について特に厳しいものである。そこをまず見てほしい。1〜3節を読もう。

    あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

       ここで、偽物の預言者は別の神々を礼拝するように教えたり励ましたりして、イスラエルの神ではない他の神々に従うように導くために奇跡を行なって見せ、その奇跡が成就する場合について話している。その人が、実際に奇跡を行なって実現するのを見たなら、どう考えるべきなのか。勿論、それが実現することを許したのは神であるが、「どのように考えるべきなのか」と、昔のイスラエルの人たちは思って困惑したかも知れない。しかし、神は、はっきりと教えている。「彼らがしるしを行なうことを許す」と神は言うのである。「それは、あなたがたが本当にわたしを愛するかどうかを試すためである」と神は言っておられる。イスラエルが忠実に神に従うかどうかを神は試しておられるのだ。

       神は、私たちを試し給う御方である。神は私たちの愛を試されるが、私たちが神の愛を試すことはできない。神は神であられ、私たちは神ではないのである。神は聖なる御方、義なる完全な御方であり、私たちは罪人である。私たちの愛と忠実は、試されることによって成長するものである。しかし、ただ無意味に“試験”を与えて合格するかどうかだけを見るために試みるのではない。試されることによって私たちの悪いところが取り除かれ、愛が深められるのである。私たちの心の中に残っている罪の残骸を取り除くために、私たちは試され、錬られなければならないのだ。試練に遭わなければならないのだ。神が私たちを試されるのは、私たちを祝福するためである。私たちを成長させてくださるためなのである。呪いを与える機会を求めるためではない。確かに神は、私たちを試みておられる。そのために、偽り者の預言者のしるしであっても、成就することは有り得るのだ。だから、「奇跡だけで誰が本当の神なのかを決めるようなことはするな」と、聖書は教えている。同13章の4節を見よう。

    あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。

       「主にすがる」とは、主を愛して、主から決して離れないということである。どんなプレッシャーがあろうと、どんなに苦しいことがあろうと、絶対に神から離れることなく、むしろ試練に遭えば遭うほど、試練が激しければ激しいほど、神を求め、神に近づき、神を掴んで離さないのである。まことの信仰とはそのようなものである。それが本当に神を愛することである。「もう大変だ。もう私は辛くて耐えられない」と思うとき、その時こそ、神を求めなければならない。試練は神から来ているのだ。どんな試練であっても、どんなに大変な事であっても、それは神から来ていることを覚えよう。

       自分にとっては辛くて苦しいと思う事に出会うとき、小さな事であっても大きな事であっても、「これは神から与えられた試練である」ということを覚えて、主に従い、主を求め、主にすがらなければならない。このの広い原則の中で、神はかなり極端なケースを示して教えている。つまり、誰が本当の神なのかについて試されるようなことがあっても、もっと神を求め、神にすがるのでなければならないのである。そして5節に、恐るべきことが命じられている。「その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない」と神は命じておられるのである。6〜11節からのところはもっと厳しくなる。

    あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。

       恐るべき命令である。偽預言者への罰は死刑なのである。イスラエルの子らは、それがたとえ自分の家族であっても、偽預言者かどうかを暴くように命じられているのだ。そして、その後の12節からを読むと、人間だけでなく、町についても同じことが命じられているのを見るである。一つの町が偽りの教師たちの惑わしによって町の住民が神から離れて他の神々を礼拝するようになったなら、イスラエル全体はその町に対して戦わなければならないのである。そして、15節からのところで、「あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい」と命じている。その町をカナンの町々のように取り扱わなければならないのである。完全に滅ぼさなければならない。16〜18節を見てほしい。

    そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。

       これほどにはっきりした教えが申命記の中にあるのだ。パウロたちの手紙の中でも、「真理の戦いにおいて絶対に妥協してはならない。真理の側にはっきり立たなければならない」と教えている。これは分裂や離散についてパウロがその手紙の中で教えていることである。「真理にそむく者から離れなさい。真理に逆らう者を認めるな」と命じているのだ。これらの律法は直接私たちの時代に適用されるわけではないが、偽りの教えという罪に対する神の義なる御怒りを明確に示すものである。新しい契約において地域教会が死刑を行なったりすることはしない。しかし、キリスト教の国家が確立された場合に、国家として偽預言者のような者を死刑にすべきかどうかについてはいろいろな意見がある。その事については、私は早急に何か結論を出そうとは思わない。ただ聖書が命じていることの主旨を明確に理解しなければならないことを強調しておきたい。

       パウロのポイントは、「神はそれほどに偽預言者を憎みたもう御方であることを覚えなさい。歪曲された悪い教理に対する戦いがそれほどに大きな戦いであることを覚えて、悪い教理を教える者たちを教会から追い出しなさい」ということである。そして、パウロのように教会は呪いを求める祈りを神にささげるのである。偽りの教えに対する罪は、ガラテヤの偽教師たちに対するパウロの呪いの言葉に示唆されているやり方で、教会が取り扱わなければならない。教会が偽りの教えのゆえに人に呪いを宣告するとき、それは死刑よりも厳しいさばきを求めることになるのだ。そのことをパウロは私たちに教えている。真理にそむく者が呪われるように祈り求めることは、この世で最高のさばきを求めることである。

       実際にその人を見るときに、何も呪われてはいないかのように見えるかも知れないが、そうではない。実際に神の教会が神に対する忠実な心をもってそのように祈って呪いをかけるとき、その者は、この世では何よりも厳しい罰を受けたことにとなるし、実際に神はその祈りに答えてくださるのだ。その罰は軽いものではなく、死刑よりも重い罰を適用しているのである。それ故、そのような罰の適用においては細心の注意を払われなければならない。正しくささげられた祈りであれば、神はその祈りを聞いてくださる。いつ、どのように神がその人を取り扱うかは神が決めることであり、私たちはそのことについて心配する必要はない。さばきを裁き主に委ねるのである。パウロやヨハネが語っている類いの偽りの教えとは、逸脱が完全に信仰を台無しにしてしまうほどに基本的な教理に関わるものである。従って「異端」という語は通常、そのように深刻な真理からの逸脱のためにある。

     

    分離と重い罪

       「離れなさい」という教えはコリント人への第一の手紙5章のところにもある。その箇所は教理のことではなく、不道徳の問題を扱っている。コリント人への第一の手紙5章にある問題は皆さんも覚えていると思うが、これは姦淫の問題である。しかも、異邦人の中でもめったにないような姦淫のケースであった。教会員が、自分の父の妻(恐らく再婚の妻かそばめであったと思われる)と姦淫していた。その事を知っていても、教会は何も取り扱わないでいた。パウロの言い方からすれば、二人は同棲していたと思われる。教会はそのことを見て見ぬふりをして、そのような行ないをしている者を教会から取り除こうとしてはいなかった。それでパウロは、「このような罪を無視してはならない」と教えるのである。「それを許してはならない。その罪を取り扱わなければならない」と言っている。重い罪は、クリスチャンたちが分裂するもう一つの理由となる。コリント人への第一の手紙5章の問題はその具体例である。5章9〜13節でパウロは、その問題を取り扱って次のように言っている。

    私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

       ここでパウロは、「その道徳的に罪を犯している不品行な者を教会から追い出しなさい」と勧告している。この「悪い者」とは、「罪を犯しても悔い改めない者」のことである。しかし、コリント人への第二の手紙2章のところでも、パウロはこのような人物について話しているが、「悔い改めるなら受け入れなければならない」と教えている(コリント人への第二の手紙2章5〜11節)。コリントの教会から追放された若者の場合、追放されたことによって自分の罪の重さを知らされ、悔い改めて戻ろうとしていたが、教会は彼を受け入れるのをためらっていた。「悔い改めるなら、もう一度受け入れることができる」と、パウロは教えている。

       それ故、パウロがここで「不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者」と言っているのは、生活の中でそのような罪を犯し続けており、悔い改めようとしない者たちを指していることになる。つまずいて罪を犯してしまったが、その後で悔い改めた人について話しているのではない。ここで話しているのは、その罪の生活をやめずに、続けてその罪に留まり、悔い改めもしない人たちのことなのだ。自分の不道徳を罪と思ってもいないような人たちを指しているのだ。

       具体的な例えを言えば(少し危ない例かも知れないが)、教会員が家族のお葬式に行き、そのプレッシャーの中でつまずき、してはならない偶像礼拝をしてしまったときに、自分の罪に責められて長老たちのところに来て、「私は偶像礼拝の罪を犯してしまいました」と告白するとき、「それはひどい罪だ。教会から追い出そう。そして呪いを求める祈りをしよう」という話にはならないのである。長老たちは、それがどれほどひどい罪なのかを説明しなければならないし、はっきりした罪としてそれを行なったのであれば、どのようにそれを取り扱うべきかをも考えなければならない。悔い改めの証しとして、その人は家族に手紙を書くなどして、「私は偶像礼拝の罪を犯しました。私は、私の主イエス・キリストに対して、大きな罪を犯しました」ということを、その罪を見た人たちに説明しなければならないかも知れない。いろいろなケースもあるが、どのように取り扱うべきかを長老たちと一緒に考えなければならないことかも知れない。

       しかし、悔い改めている人を赦すことができないということはないのだ。偶像礼拝は大変な罪であることは確かである。聖書の中では、不道徳の罪よりも重い罪として取り扱われている。罪を犯した人が悔い改めるなら、赦されるのだ。しかし、例えば、クリスチャンではない両親と同居していて、毎日偶像にささげ物をささげ、毎日偶像礼拝に加わっているのに、それを罪とも思わず、悔い改めることもしないで、「まあ。この程度の妥協は止むを得ないことだ」と、あたかもその行為が自分の立場であるかのように受け入れているなら、その人は毎日偶像礼拝していることになるのだ。そこには悔い改めの心は全くない。長老からその罪を指摘されても、「あの場合は仕様がないですよ」という答えになるなら、それは、偶像礼拝に留まることになり、教会はそれを罪として取り扱わなければならないし、いくら説明を受けても、悔い改めるように励まされても、従おうとしないなら、教会から追い出さなければならないことになる。そこまでその問題は厳しく取り扱わなければならないのである。

       パウロはここで、「このような者をこのように取り扱いなさい」と命じるとき、それは今話したような、毎日習慣的に罪を犯しているのに悔い改めず、それを自分の主義のように思っているような者について言っているのだ。コリント人への第一の手紙5章に出て来る男性は、たまたま女の人に誘惑されて罪に陥ったけれども、その罪を悔い改めて、長老たちの所に行って「私は罪を犯しました。私はこの罪を悔い改めます。もうこの罪は犯しません。どうぞ私のために祈ってください」と話して、どのようにその罪は取り扱われなければならないのかを一緒に話し合い、戻って自分のすべき事をするような人ではない。続けて自分の罪の中に留まる人間なのだ。悔い改めるように勧められても、絶対に悔い改めない。主義のように自分の罪に留まるのである。そのような者とは一緒に食事も会話もすべきではない。このような重い罪を容認してはならないのである。

       もう一つの重い罪の例が、驚く人もいるかも知れないが、テモテへの第一の手紙5章でパウロがテモテに対する牧会的な指導をしている中に見出される。5章8節で「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」と、パウロは言っている。これは現代のクリスチャンのほとんどが考えもしないことであろう。パウロがこのように私たちに告げない限り、誰も考えもしないでいるが、これは重い罪の中に含まれることとして考えられなければならない。家族を顧みない罪は、実に重い罪なのである。しかし、重い罪のゆえに、或いは異端の罪のゆえに、教会から除籍されても、それが必ずしも永遠の審きを意味するとは限らない。悔い改めるなら、赦さなければならない。悔い改めが赦しと復帰を導くのである。やはり、コリント人への第二の手紙2章5〜11を読みたいと思う。

    もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度――というのは言い過ぎにならないためですが、――あなたがた全部を悲しませたのです。その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

       現代では、アルコール中毒は病気のカテゴリーの中に入ると思われているが、本当は病気ではない。それは悪い習慣であり、罪の習慣に囚われているのである。アルコール中毒の人が福音を聞いてクリスチャンになったとき、その人はアルコールに依存する(つまり、飲みすぎること)を止めてクリスチャンとして真剣に歩み始めるが、しかし、ときどきまたその罪に落ちてしまうこともあるかも知れない。その罪にまた落ちたとき、はっきり悔い改めて、長老たちとも話したりして助けを求めるべきである。そのような人は罪と戦っているのである。罪と戦っているので、どのように成長できるかという話し合いは自然にあるし、互いに教え、互いに戒め、互いに赦し合って、成長を求めるはずなのだ。自分のメンツを守ることよりも、互いを助け合い、励まし合って、罪に対して戦うのである。

       そのアルコール中毒の人は、何度も倒れては起き上がることを繰り返すであろう。しかし、クリスチャンなら、とにかく悔い改めて神のところに戻るのである。ペテロが主イエスに、「兄弟が罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と質問したとき、主イエスは「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と言いたもうたのである。つまり、「兄弟が悔い改めるなら、無限に赦さなければならない」と言うことである。それは神御自身がどのように私たちの罪を赦してくださったかを表わしている。

       コリント人への第一の手紙5章の箇所は、「罪を犯す者を教会から追い出しなさい」という話ではなく、「罪に留まる者を追い出しなさい」という話なのだ。これは二番目のケースであり、不道徳の生活に留まることを主義のようにして守る者たちについての教えである。そのような者は、教会から追い出さなければならない。だからガラテヤ人への手紙5章のところで、肉の行ないと御霊の実の区別について教えているところで、パウロは次のように明確に教えている。19〜21節のところを見てほしい。

    肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

       「こんなことをしている者たちが」という言い方は、生活の中でその罪の中に留まっている人たちのことである。その者たちは、「神の国を相続することはありません」とパウロは言い切っている。地域教会もその立場に立って、そのような者を教会から追い出さなければならない。この罪のリストにあるような重い罪の生活をしており、そこに留まっているなら、その者を追い出さなければならないのである。教会はそれらの罪を真剣に取り扱わなければならない。そのことをパウロは教会に教えている。

     

    分離と軽い罪

       テサロニケ人への第二の手紙3章を見てほしい。そこでパウロはテサロニケの教会の言わば文化的な問題を取り扱っていると言ってよいと思う。「文化」とは、ギリシャ文化とかエジプト文化という意味での文化ではなく、地域教会の教会員の実生活の問題を指すものである。3章6〜15節を読んでほしい。

    兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。

       ここでパウロは、「教会から追い出しなさい」と言ってはいない。むしろ、「兄弟として戒めなさい」と命じているのである。つまり、兄弟として認めることを止めるわけではないのだ。言い方が巧くないかも知れないが、先のガラテヤの教会の罪は重い罪で、ここにあるのは軽い罪だと言ってもよいと思う。すべての罪が同じレベルだということはないし、確かに罪には重い罪と軽い罪とがある。ここに書かれていることが罪であることに違いはないが、この人たちについては「私はこの罪に留まる。悔い改めはしない」という思いは指摘されてはいない。この人たちの罪は、怠けているという罪である。なかなか成長せず、学ぶことをしない。怠けていて、自分の生活をクリスチャンらしいものにする努力を怠っている。それはまさしく罪である。

       パウロがテサロニケの教会に行ったとき、言わば文化的に低い人たちに御言葉を教えているようなものであった。テサロニケの教会は悪い人ばかりだというような記述は、テサロニケへの手紙の中にはない。この人たちは偶像礼拝するところから真の神を礼拝する者に改宗し、キリストのために迫害も受けたりしている立派なクリスチャンだということを、パウロは他の箇所で話している。しかし、パウロがテサロニケの教会が訪れたとき、彼はフルタイムの仕事をしなければならなかった。それは、福音の働き人として教会から支援を受ける権利がなかったからではなく、テサロニケの人々が本当に働くことの意味を理解するほどに成長していなかったので、彼らに教えるために、彼らからの支援を受けることを敢えてしなかったからである。

       彼らは肉体労働を奴隷がすることだと思って見下していた。クリスチャンだけれども、まだギリシャ的な文化的背景からの影響を強く受けていた。皮肉なことに、自分たちの文化的な優越性のゆえに、肉体労働を自分たちの下にあるものと見做した人々は、実は文化的に劣った人たちであった。彼らは肉体労働を軽蔑したが、自分たちは怠けたり陰口をする傾向があった(テサロニケ人への第二の手紙3章11節)。よく働きもせずに、他の人のパンを食べることに甘んじている。自分の手で働くことを程度の低いことだと思っていた。そのようなギリシャ的な変な考え方の影響があったために、この人たちの中には、すべき事をせずに怠けた生活を送っている人たちがいた。そのような怠け者の生活をしている者に対しては、「戒めなさい」とパウロは教えるのである。「あなたの生活はよくない」ということを教えなければならない。場合によっては叱責も必要となる。すべきことをしないで、遊んでばかりいて、他の人の働きによって食べている。彼らについてそのようにパウロは言っているが、その状態は、あたかも福祉を受けて生きているようなものである。

       アメリカの住民の場合、仕事したくなければ、役所に行けばフード・スタンプ(食券)のような物を受けることができる。それをスーパー等に持っていけば、食べ物をただでもらえるシステムになっている。それは国家の福祉制度の中で定められていることである。ホームレス等のように住まいがなければ、役所に言えば泊まる場所も与えてくれる。大都市によって条件は異なるかも知れないが、寝る場所を提供してもらえる。衣服も与えてくれる。だから、仕事したくない人は、何も働かなくても生きていくことができるのだ。そのような福祉制度がアメリカやオーストラリアなどの国で設けられている。それは非聖書的な福祉制度であって、決してよい制度ではない。

       「働きたくない者は食べるな」とパウロは命じている(テサロニケ人への第二の手紙3章10節)。厳しく言えば、それは怠け者に対する一種の死刑宣告のようなものかも知れない。つまり、人は食べなければ死ぬしかないのである。聖書の制度に従った場合、実際にどうなるかというと、働かない者には誰も与えないようにすれば、怠け者たちはいやでも働かざるを得ない状況に置かれることになるのだ。食べられない状況に置かれたら、ほとんどの人間は働くようになるのである。その状況に置かれても働こうとしないなら、死んでもよい。怠ける罪に対しては、そこまで厳しい取り扱いでなければならないのである。

       旧約聖書の福祉制度を見ると、施しを受ける者たちは、自分で畑などに出て行って、そこに残された者を集めなくてはならない。つまり、収穫の働きを自分でしなければ糧は得られないのである。年老いたやもめの場合は、働きたくても働くことができないのだから、また話は別である。しかし、本当なら自分で働く力があるはずなのに、働くことをせずに、あちらこちらで施しを受けて生きている怠け者たちがテサロニケの教会の中にいた。「その者たちを叱り、食べ物を与えるな。助けるな」とパウロは言うのである。「その人たちから離れなさい。彼らと交際するな」と言う。これが、「離れるように」とクリスチャンに勧める第三の状態である。

       パウロは自らの模範をテサロニケの人々に思い起こさせて、自分の勤勉の模範に従わない人々とは交わりを持たないように勧めている(3章14節)。しかし、この状態とそれに伴う“分裂”は、先の二つの種類とはその性質において異なるものである。「交際するな」と言っているのは「一緒に礼拝するな」という意味でないことは、最後の言葉によって明らかである。即ち、彼らを「兄弟として戒める」と言うのである。

       「兄弟として戒める」という言い方は、その怠惰な人がクリスチャンであることを認め、福音の敵として取り扱うことをしないということを意味しており、彼らが礼拝に来るとき一緒に礼拝をささげ、一緒に聖餐式を受けてもよいということである。同時に、そのままでいいと思わせてはならない。牧師や長老たちは、その人をまるで成長したクリスチャンであるかのようにして取り扱ったりしてはならない。彼らに必要なのは叱責と戒めである。「あなたは自分の生活を変えないとだめですよ」と、教会員は兄弟としてその人を叱ってあげなくてはならないのである。

       それ故、彼らにとって選択肢は二つしかないことになる。一つは、「もう聞きたくない。教会員にはもう会いたくない。いろいろ言われるから、もう教会にも行きたくない」と言って、叱責を拒み、彼との交際を拒む教会員から遠ざかって神の道から離れていくか、それとも悔い改めて生活を変えるか、二つに一つしか選択の余地はないのである。道は二つしかない。しかし、この場合、教会がその人を追い出す話にはならない。あくまでも兄弟として受け入れて、一緒に礼拝もするが、その人が変わるように導いたり叱ったりするのである。

       人は救われたばかりのときには、何が罪なのか、何が罪でないのかがよくわかっていない人がたくさんいるのは事実である。最初に会った日から、「これはあなたが改めなければならない事のリストです。来週までにこのリストにある事を改めなさい」というような態度でその人と交わりをするように勧めているのではない。兄弟として戒めるように勧めているのである。今週忠告したのに、来週になっても改めないからと言って、叫んだりしてどんどんプレッシャーをかけるようであってはならない。背景を考えれば、変わるのに時間がかかることを理解すべきである。しかし、取り扱わなければならないことに変わりはない。怠けてばかりでふざけているような生活を送っている兄弟がいれば、その人の問題を取り扱わなければならない。見て見ぬふりをしてはならない。

       「その人と交際しない」と言っているのは、その人の生活のあり方を認めて一緒になったりしてはならないという意味である。むしろ、その人が変わるように戒めたり励ましたりしなければならない。「兄弟として」そうしてあげるのである。パウロの要点は、罪の生活の中に留まったままでいるような人々を助けるのは間違いだということである。クリスチャンの福祉は、本当の意味で神に仕えることができる人々に限定されるのが基本である。その怠け者が自分の生活を変えるのみならず、本当に福祉を必要とする人々をも養うほどの者となるように熱心に働き、聖徒の交わりを喜び楽しむことができるように助けるのである。そういうわけで、重い罪の取り扱い方と、軽い罪の取り扱い方には、大きな違いがあるということを理解しなければならない。そのようにパウロは手紙の中で教えている。

     

    罪である分裂

       「離れなさい」とか「避けなさい」或いは「分裂」などについての四番目のことは先の三つの種類とかなり違っている。それはコリント人への第一の手紙にある。1章10〜13節の箇所と、12章24〜25節を見てほしい。

    10さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。11実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、12あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。13キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。(1章10〜13節)

    24かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。(12章24〜25節)

       この最後の箇所では、分裂自体が罪であるケースについて教えている。1章10節でパウロは、分裂してはならない事柄について分裂するコリントの人々を叱責している。教理において真理にそむいている者に対しては「離れなさい」と命じており、不道徳を行なう者から「離れなさい」と命じている。兄弟が生活の中で軽い罪を続けて犯しているのを見たなら、交際しないで、戒めなければならない。しかし、この四番目のカテゴリーでは、「離れてはならない」「分裂するな」と言っているのである。

       ここで「スキズム」というギリシャの言葉が使われているが、これはガラテヤ人への手紙5章のところで「肉の行ない」というカテゴリーの中で使われている言葉である。つまり、「分裂」とか「分派」と訳されている言葉である。私たちが他から分離したり、自称兄弟である者を追放しなければならない状況があるという事実について考えるとき、すぐに争ったり分裂したりしてもよいという意味に取られるべきではない。パウロは知的な罪や肉の行ないをさばくようには勧めているが、「分裂」を求める心をも肉の行ないの一つとして禁じているのである。悪いと思われる者から一切離れさえすればよいというわけではないのだ。

       真理の戦いにおいて、何が分離すべき事なのか、その兄弟をどう取り扱うべきなのかについて、真剣に考えなければならない。分裂してはならないところで分裂するなら、それこそ大変な罪になるのだ。分裂すべきときに分裂しなければ、それも罪になる。離れなければならないときもある。また、離れるのではなく、むしろ励ますべきときもあるのだ。コリントの場合は、その罪を犯した人を追い出した後で、その追い出された人が悔い改めて戻ってくるが、コリントの教会はその人を受け入れなかった。パウロはその間違いを指摘している。悔い改めたならば、その人を受け入れるべきである。

       教理的な問題についても同じことが言える。教理を曲げて教えたために追放された人であっても、自分の罪に気が付いて悔い改めて戻ることも有り得るのだ。地域教会は、基本的に一致を保つべきであるが、どのような時に罪を犯した者から離れるべきなのかを真剣に考えなければならない。教会の歴史を見れば昔から明確な基準があることがわかる。基本的にはヨハネの手紙を基にしているが、主イエス・キリストについて、また神についての教えが違っているならば、離れなければならない。つまり、三位一体を否定したり、キリストの神性を否定したり、キリストの人性を否定したり、換言すれば、「ニカイア信条やカルケドン信条において告白されているような真理にそむいた者から離れなさい。彼らを避けなさい」ということなのだ。もう一つは、パウロのガラテヤ人への手紙で教えられている「信仰によって救われる」という教えを否定する者から離れなさいということである。

       私たちの地域教会の教会員となるために告白しなければならないことは、基本的に三つである。1)三位一体なる神を信じる。2)主イエス・キリストを信じる信仰のみによる救われることを信じる。3)聖書が神の御言葉であることを信じる。この三つのことを信じて告白する者を、私たちは喜んで兄弟として受け入れ、一緒に聖餐式にもあずかることができる。たとえ、救いについてのいろいろな教理において理解が足りないとしても、考えが足りなかったり間違っていたりしていても、私たちはその人を兄弟として受け入れなければならない。「あなたはの終末論は間違っている」と言って、兄弟として認めないとか、一緒に聖餐式にあずかることができないことはない。バプテスト派の信仰を持っているからと言って、兄弟として認めないということはない。

       私たちの地域教会としてのこれらの原則については皆さんもよくわかっていると思うが、実は、その原則は現代ではあまり普通ではないのである。バプテスト派の教会に転会しようとすれば、もう一度その教会でバプテスマを受けなければならないのが普通なのだ。この地域教会が行なっているバプテスマを相手の教会では認めないのが普通なのだ。それ故、私たちが授けているバプテスマは彼らにとってはバプテスマではないということになるので、厳密に言えば、私たちはクリスチャンとしては認められていないという話になるのである。私たちが行なっている聖餐式も正式なものとして認めてはくれない。聖餐式はバプテスマの後に来るものだからである。

       しかし、聖書の教えに立つなら、クリスチャンは、口でキリストを「」と告白し、復活したキリストを信じてバプテスマを受けるならば、その時点から聖徒として共に神を礼拝することができるはずである。異端の教会でなければ、どこの教会でバプテスマを受けたかは問題ではないはずである。なのに、自分たちの教会でバプテスマを受けなければ認めないと言うのである。もしそのやり方に従って厳密に考えるならば、バプテスト派の教会のクリスチャンが私たちの教会に来て一緒に私たちと聖餐式を受けたいはずはないということになるのだ。拒絶するはずである。あからさまに拒絶しなくても、厳密に彼らの考え方に従って考えるならば、そういうことになるのだ。そこまでバプテスト派の教会は、彼らのバプテスマについての考え方を基準にしている。その考え方は完全に間違っていると言わなければならない。

       しかし、すべてのバプテスト派の教会がそうだと言うわけではないことも、言っておくべきだろう。改革派バプテスト教会の中には私たちのバプテスマを認めて、一緒に聖餐式を受けることを認める教会もある。改革派バプテスト教会ではないバプテスト教会の中にも、私たちを認める教会がある。それ故、すべてのバプテスト派の教会が総じてそうだと言っているのではないが、そのような教会が圧倒的に多いのは事実である。また、教会員に成りたいなら、試験を受けてパスしなければ教会員にはなれないし、教会員にならなければ聖餐式を受けることも許されない、という教会もある。それはどういう事になるのかというと、「聖餐式が受けられない」ということは、「兄弟としてはまだ正式に認められない」という話になるのだ。彼らに尋ねると、「そんなことはない。兄弟として認めてますよ」と言うかも知れない。そして、それは実際に彼らの心からの答えなのである。しかし、バプテスマと聖餐式の考え方においては、兄弟であることを否定してしまうのである。

       なぜそのような矛盾した考え方になるのかというと、契約的に考えていないからである。契約的に考えていないために、「聖餐式は、主にある兄弟が一緒に神の御前で契約を新たにするものだ」という理解がないのである。彼らのバプテスマも聖餐式も、兄弟であるかどうかということにはつながっていない。しかし、聖書の中では、それは契約的に一緒のものなのである。だから、私たちは、兄弟と思うべき者、即ち主イエス・キリストが受け入れてくださる者なら誰でも、受け入れて一緒に聖餐式にあずからせるのである。

       私たちの聖餐に他教会からのクリスチャンの兄弟姉妹を受け入れ、彼らにバプテスマを再度施すことなく教会員として受け入れることによって、私たちは神の教会が小さな集団に限定されていないことを告白し、また、神の御恵みにより、聖徒の一致を尊い祝福として保とうとしていることを告白するのである。たとえ多くの教会があり、それらの教会が持つべき一致を持っていないとしても、神の教会は一つであることを私たちは信じている。「兄弟です」と思うべき者に対して戦ったり、その人が真理から離れているかのような扱いをしたくはない。その人が真理にそむいているというような言い方もしたくないのである。

       勿論、終末論について間違っていると思うなら、「あなたの終末論に従って考えるならば、結果としてこのようなことになるのではないですか」と、反対するし、はっきり聖書から説明してあげるであろう。しかし、だからと言ってその人を兄弟として認めないとか、聖餐式を一緒に受けることはできないというようことはないのである。そのような区別がちゃんとできなければだめなのだ。兄弟として愛し合い、一緒に真理について話し合ったりすることができる者と、真理にそむいて神に逆らっている者との区別をしっかりとしなければならない。エホバの証人は私たちの兄弟ではないので、彼らと一緒に聖餐式を受けることはできない。エホバの証人と一緒に座って、一緒に交わったりはしないのである。エホバの証人もモルモン教も自分はクリスチャンだと言うが、彼らは兄弟ではない。「私はクリスチャンです」と言いながら、キリストについての聖書の教えを否定する者だからである。

       私たちは、以上のような理解を地域教会として持ち、一緒に福音の働きをしようとしている。それ故、真理にそむいている者との関係と、兄弟として認めるべき者との関係において、聖書の契約の教えに従ってはっきり区別しなければならない。真理のために戦い、罪に対して戦うとき、決して分裂・分派の罪と混同してはならない。その関係は使徒信条の中においても告白されているものである。「我は、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と私たちは毎週告白している。神の教会は一つであり、私たちは毎週、「私はそれを信じる」と告白している。信じるなら、それに相応しい教会生活をしなければならない。その信仰に相応しい教会関係を求めなくてはならない。その信仰に相応しくないことがあれば、どんどん改革していかなくてはならない。そのようにパウロから教えられていると思う。

       「真理から外れているから、もう分裂だ」というような話ではない。神を否定し、キリストを否定し、福音を否定するような教えをする者がいるなら、その時は必ず厳しく取り扱わなければならない。その場合も、聖書に書いてある方法に従って取り扱わなければならないのである。意見が違う、解釈が違う、教理についての信仰が違うというなら、互いに聖書に従おうとする心をもって真剣に討論して良いのである。しかし、兄弟として戒めたり、教え合ったりするのでなければならない。兄弟を契約の外に置くようなことがあってはならない。兄弟として認めて愛するという心も同時に持っていなければならない。そうしないなら、私たちは、毎週自分の口で告白している信仰告白にそむいているのだ。そうであれば、悪いのは私たちの方だということになる。

       パウロは、「また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい」とテトスに命じて、そのように会衆を導くように教え(テトスへの手紙3章2節)、テモテに対しては、「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう」と指導している(テモテへの第二の手紙2章24〜26節)。党派心というものは、パウロがこのように言わなければならないほどに許容できないものなのだ。

       テトスへの手紙3章10〜11節では、パウロは、「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです」と命じている。真理のために戦っているという思いがあるとき、最も危険なことは、愛を失うことである。それは、黙示録2章に書いてある通りである。黙示録2章の最初でキリストはエペソ教会に対して次のように警告している。

    わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

       エペソの教会は、使徒と自称している者たちをよく試して、偽りの教師たちの偽りを見抜いて教会から追い出したりしていた。キリストはまず真理に対する忠実さと熱心さに対してエペソ教会を褒めている。そのすぐ後で、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と言うのである。真理のために戦っているのは良いが、主イエス・キリスト御自身に対する愛が冷めている。そのことをキリストは非難している。主イエス・キリストに対する愛が冷めているので、兄弟愛も冷めている。そのことをキリストは許し給わないのである。悔い改めて初めの愛に戻らないなら、彼らの地域教会としての働きを取り除いてしまわれると、警告している。

       一致を壊すことは、決して小さな罪ではない。このことを、ローマ人への手紙16章17節を読むときに忘れてはならない。聖餐式のとき、私たちは地域教会として、一つの心を持って、一つの思いを持って、主イエス・キリストに感謝をささげるものである。このところで私たちは、神が与えてくださるものを一緒に受けるのである。これは教会の一致の土台である。共に感謝をもって、互いを赦しあい、愛し合い、心を一つにして一緒に聖餐式を受けることは、教会の一致の土台である。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2002年8月11日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙16章1〜16節

    ローマ人への手紙16章17〜20節 (2)

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