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    ローマ人への手紙16章17〜20節


    16:17 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。

    16:18 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。

    16:19 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

    16:20 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

    2002.08.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    偽教師、サタン、キリスト者の勝利

    16章17〜20節

     

       17〜20節の段落全体は、ローマの諸教会で問題を引き起こそうとしていた偽教師たちについて警告しているが、この段落の詳細は全体像から解釈することが肝要である。先週は16章17節の箇所から、正しい御言葉の教理にそむいて間違ったことを教える人たちを警戒し、彼らから離れなさいという命令について考えた。つまり、新約聖書の中で、正式に会衆の中である者を避け、離れ、あるいは教会から追放することについて考えた。また、教理(真理)を曲げることについての問題をパウロたちは非常に真剣に取り扱うということも見た。そして、教会の中の罪の問題を、パウロたちは非常にはっきりと取り扱っていることも見た。未熟さや愚かさの問題も取り扱わないわけではないが、取り扱いのレベルが違うということも、わかっていただけたと思う。そして、四番目の状況として、罪をさばくとき、悪い考えをさばくとき、罪を犯した兄弟を取り扱うとき、一致と愛を保つことを忘れてはならないということも一緒に考えた。つまり、肉の行ないとしての分裂と分派を避けるように命じられているのだ。

       離れなければならないこともあるが、離れること、避けること、分離すること自体が罪になることも有り得るのだ。先週は、広い観点からそのことを一緒に考えた。パウロが20節でサタンについて書くとき、偽教師たちやローマの諸教会が直面していた霊的な戦いを念頭に置いて書いたということは明らかであるが、同時に、これは聖書の中のメサイアに関する教理という神学的な文脈につながり、更に、一世紀の教会の歴史的文脈とその時代に直面していた特別な戦いにもつながっているのである。

     

    パウロの警告

       17節でパウロは、「分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒し、彼らから遠ざかりなさい」と話した後、18節ではそれがどのような人たちなのかについて説明する。

    そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。

       ここで、どういう人間について話しているのかというと、前のところを見ると、この人たちは「教えられた教理にそむいている」者であることがまず挙げられているが、この者たちはへつらったり、なめらかな言葉をもって、人々が正しい教理から離れるように導いている人たちなのである。そのように語った後で、パウロはサタンの話をするのである。20節で、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」と言うのである。この言い方からすると、多分これはユダヤ人のユダヤ的な教えをしている人たちを指して言っているのではないか、ということがわかる。

       ガラテヤの教会の問題もそうであったし、コロサイの教会でも、そのような人たちは、「私たちはユダヤ人でイエス・キリストを信じている者です」と言って教会に入ってくる。そして、異邦人が救われるためにはモーセの律法を守らなければならないことを主張するのである。「異邦人が救われるためには、割礼を受けなければならないし、旧約聖書の食べ物についての律法を守らなければだめだ」と彼らは教える。彼らは、自分たちの教えが受け入れられるために、なめらかな言葉やへつらいの言葉で話したりして、教会員を騙すのである。

       「純朴な人たち」という言い方は、知恵と分別をまだ得ていないが、正しく振る舞うことや学ぶことを熱心に求めている若くて未熟なクリスチャンを指している。つまり、悪い心を持っているわけではないが、まだ知恵を得ていない人たちのことである。このギリシャ語の言葉は、旧約聖書の箴言をへブル語からギリシャ語に翻訳するときによく使われており、箴言の七十人訳の中でこの同じギリシャ語は11回使われている。英語では主に "simple"と訳されている。日本語の箴言を見ると、「純朴」と訳されている箇所は一つもない。日本語の箴言では基本的に「わきまえのない者」と訳されている。

       このギリシャ語は、単に無教育で真理の道を学ぶ必要のある幼稚な人を指すことがあり(箴言1章4節、14章15節、21章11節)、また、その概念に悪い意味が含まれていないために「責められるところのない」或いは「潔白な」と訳すこともできる(箴言2章21節、13章6節、ヨブ記2章3節等)。しかしこの言葉は、「愚か者」あるいは「思慮のない者」の同義語としても使われている(箴言1章22節、8章5節)。「愚かさ」という意味も含まれるし、「識別力がない」という意味も含まれている。「素朴」と「純真」は、良い意味にも悪い意味にもなり得るのである。それ故、これはまだ分別がなく、事柄がまだよくわかっていない人のことなのだ。「純朴」という日本語には「愚かさ」の意味は殆ど含まれないと思うが、ギリシャ語にはその意味が多分にあり、少なくとも「未熟」という意味がある。

       未熟なので、人からなめらかな言葉やへつらいの言葉で語りかけられると、単純に受け入れてしまったり、影響を受けてしまうのだ。へりくだって、教えを受けるという点では、傲慢でない限りにおいて良いことであるが、どんな影響であっても受けやすいのであれば問題であり、それは未熟さの特徴の一つである。そのような人たちをまず騙すのがサタンの常套手段である。成熟していて知恵があって思慮深い人なら、へつらいの言葉をもって近づいてくる人間がいれば、まず警戒するはずなのだ。「なめらかな言葉とへつらいは危険なものであり、それに耳を貸してはならない。信頼してはならない」ということは、箴言等の中で繰り返し警告されている(ヨブ記17章5節、32章21〜22節、箴言2章16節、7章5節、20章19節、28章23節、29章5節)。識別力のある人がへつらいの言葉を聞くとき、騙されないように気を付けるはずなのだ。

       そのような分別は、通常、知識だけでは身に付かず、経験を通して身に付く知恵の一側面である。しかし、まだ御言葉の教えにおいて未熟で、聖書をあまり理解しておらず、心もまだ十分に成長していないような人の場合には、へつらう言葉で迫られると、すぐに受け入れてしまう。一旦受け入れさせることに成功すると、心のすき間にどんどん押し込むことが可能となるのだ。商売でも、へつらいの言葉を使って何とか商品を少しでも多く売り込もうとするものだが、それと同じように、この偽教師たちはへつらいの言葉を使って未熟な者たちの心を捕らえようとするのである。このユダヤ人たちはそのようなやり方で、まだあまり教理がわかっていない人たちを狙う。「純朴な人」と言うが、へつらいやなめらかな言葉が自分に影響を与えることを許してしまうのは実に愚かなことである。

       ペテロの第二の手紙の2章の中にも、悪い教師が教会の中で影響を与えようとすることについて話している箇所がある。彼らは異端的な教えをひそかに持ち込むのだ。サタンとそのしもべらは、救われたばかりでまだ未熟な人たちを狙い、彼らがまだ未熟な時に捕らえることに成功すれば、その者の成長をとめて悪い方向に引きずり込むことができ、その者の人生を実を結ぶことのできないものにすることができると考えている。未熟で識別力がない時がサタンにとっては絶好のチャンスなのだ。クリスチャンが成長して知恵を得たなら、少しくらいの影響を与えることがたとえできたとしても、それほどその人を神の道から外れさせることはできなくなる。その事をよく知っているので、悪い教師たちは教会に入り込んで熱心に未熟な者たちに影響を与えようとして狙っているのだ。ペテロの第一の手紙5章8節にあるとおりである。

    身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

    そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです」とパウロは言う。この「」という言葉は意訳であり、原語の意味は「」である。「自分の腹に仕えている」ということは、「自己中心的で、自分の利益、自分のグループのことしか考えていない」という意味だ。神に仕えているのではなく、自分を第一にして、自分に仕えているのだ。ヨハネの第三の手紙の中にデオテレペスという人間が出て来るが、彼は教会の中でかしらに成りたがって、使徒たちの言うことを聞かない。神が自分を立ててくださるのを待つのではなく、自分でリーダーに成らなければ気が済まない人間なのだ。実はそのような人間は少なくないのだ。そのような人は、神を利用して自分の権利を得ようとしたり、自分の欲を果たそうとする。パウロはこのユダヤ教的なユダヤ人たちをそのような者として見ている。

       これは福音書に出て来るパリサイ人たちに対するキリストの言い方と同じである。「彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです」と、マタイの福音書23章やマルコの福音書12章で言っている。この者たちは、やもめのお金を取ってその家を食いつぶし、見栄を飾るために公然と大声で長い祈りをしたりして、自分の栄誉を求めるのである。何としても「先生」と呼ばれたいのである。パリサイ人たちのその偽り者の姿は、福音書においてはっきりと取り扱われている。そのような雰囲気のユダヤ人の教師たちが教会の中にいた。しかも、彼らは自分たちをクリスチャンと自称していたのだ。パウロはそのような者たちのことを言っている。

       19節のところでパウロは、なぜここでローマの教会に警告を与えるのかを説明している。ローマの教会の聖徒たちの従順は当時のすべての人に知られていた。そのことを本当に喜んでいるので、パウロは彼らに警告の言葉を与えるのである。このことは、このローマ人への手紙の1章の一番最初のところにも出て来ることである。1章5節でパウロは、「自分たちがキリストによって使徒の務めという恵みを受けたのは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰から生まれる従順をもたらすためだ」と言ってから、6節で、「あなたがたも、それらの人々の中にあってイエス・キリストによって召された人々です」と言っている。「ローマの教会は、神の御言葉すなわち福音に対して従順な者である」ということを、パウロは手紙の冒頭ですでに話している。「福音に対するローマの聖徒たちの従順のことはすべてのクリスチャンの間でよく知られている」と、パウロは言っている。

       ローマの教会は、多くの教会の中にあって特別に良い教会として認められていた。実際にその証しは何世紀にもわたって続くのである(しかし、数百年という時が経つにつれて、だんだんと「ローマの教会のリーダーは他の教会のリーダーよりも地位が高い」と考えられる傾向が強くなっていき、それが悪く利用されるようになっていったのは残念なことである)。ローマの教会は、教理においてしっかりしているという点では、昔から有名であった。それがずっと歴史を貫いて続いたのは事実である。ローマの教会の従順はよく知られているので、パウロはこの警告を与えて、悪い教師に気を付けるように励ましているのである。

       つまり、今の信仰を守り抜いて、続けて御言葉に従う者として立つようにと、励ましているのだ。だから、手紙の最後のところで、パウロはこのローマの教会について「わたしはあなたがたのことを喜んでいます」と言い切ることができたのである。パウロはローマの教会をその成長のゆえに推薦している。その喜べる状態がずっと続くように、警告を与えているのである。ローマの教会の従順な人々の中にも「純朴な人」はいた。未だ未熟で、その従順も気を付けなければ間違った方向に導かれてしまうかも知れない人たちがかなりいた。幼稚さは、悪い者たちの教えを招くことにもなりかねないのである。

       だからパウロは、「しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます」と言う。日本語の訳には言葉の語呂合わせのようなところがあるが、「さとく」は聡明で知恵あることを意味し、「うとく」は鈍感のような意味の言葉である。しかし、パウロは、「悪に対して鈍感であれ」というよりは「悪から離れていて純粋が保たれるように」というような意味の言葉を使っている。本語の訳では新契約聖書の訳がパウロの言葉遣いと一致している。新契約聖書はこの節を「われ汝等の善のために智(かしこ)くして、悪のためには淡き者たらんことを欲す」と訳している。

       善に対しても、悪に対しても、「それに向かう」というような含みがあるのだ。「善へ」そして「悪へ」と説明しても良いかも知れない。というのは、「のために」もしくは「・・・へ」は目的を表わす前置詞だからである。ギリシャ語では、この前置詞は目標や目的を示す場合に多く使われ、その概念の中には方向性が含まれている。それ故、「善にはさとく、悪にはうとく」と言うとき、どちらもその計画や目的を指しているのだ。善に対しては、善を行なうことができて、善の目的を果たすことができるように、そのために教会が真の知恵をもって歩むようになることとを、パウロは望んでいる。悪に対しては、それに近づかず、それから離れて、全き純粋さを保つことができるように、パウロは望んでいる。

       善を行なうには目的というものがある。その善の目的を果たすには知恵が不可欠である。同時に、悪に向かう道から離れて、純粋に自分を保たなければならない。真に知恵ある者となることなのだ。この言い方は、主イエス・キリストがマタイの福音書の中で使った表現によく似ていると思う。マタイの福音書10章16節で主イエスは、「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」と教えている。私たちは、悪を行なうことについては分からなくてもよいのである。善の目的に向かって行なう知恵こそが大切なのだ。悪いことについて聞かれても、知らなくてもよいのだ。善と義しさについて、神について、聖書とその教えについて聞かれたときには、よく分かっていて説明したり教えたりできなければいけない。悪いことをどうやってするのか、どこでするのか、どうやったらできるのか等については、何も知らなくてよい。しかし、善のことなら知恵に満ちてそれを行なうことができる。「そのような者になってほしい」と、パウロはローマの聖徒たちに話しているのである。

       そういうわけで、この「純朴」という言葉は、「何もわかっていない」ということである。どのように目的を求め、どのように目的を果たすべきか、純朴な人間にはそれがよくわからない。まだわきまえが無く、未熟で、目的を果たすための知恵をもって戦っていくことができないないのだ。言われれば素直に従うかも知れないが、知恵をもって考え、識別力をもって目的を果たすことのできない人間なのだ。そのような者にならないで、善の目的を成し遂げるために知恵をもって戦っていける者にならなければならない。「知恵をもって戦っていける」ということには、「識別力」が含まれる。思慮とわきまえがなければならない。善と悪の区別がはっきりわかっていなければ、善の目的を成し遂げることはできないのである。

       このことを言うとき、当然、善と悪の戦いがあることが前提となっている。そして、悪との戦いにあっては偽りがその一番巧妙な手段だということも前提である。サタンは偽り者であり、悪は偽りをもって戦うものである。だから、偽りと真理との区別も出来ないならとても悪と戦うことはできない。善を行なっているつもりなのに、偽りの影響を受け、偽りの言葉に翻弄され、騙されて、利用されて、偽りのために戦ってしまうようなことにも成りかねない。それだから、善を成し遂げるために知恵をもって歩むことと、悪を避けることが一緒になっている。「悪とは何なのか。善とは何なのか。あまりよくわからないけど、私は善のために生きているつもりです」というのではだめなのである。

       ここでパウロは真理のことについて話しているが、悪魔は初めから偽り者であって、騙すことによってアダムとエバを悪へと導いた。真理における戦いは実に大きな戦いなのだ。しかし、それだけではない。罪の問題もパウロの手紙の中によく出て来るのである。それ故、「知恵をもって善を行ない、善を成し遂げることができるように、私はあなたがたのために願っている」とパウロは言うのである。そのためにパウロは、この手紙の中で深く真理を説明して、ローマの教会がこのユダヤ的でパリサイ的な間違った福音に騙されないように、十分に深く教えているのである。

     

    勝利の約束

       20節でパウロは、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」と言っている。これは約束を含む励ましのような言い方である。パウロはこのことについて確信している。神は、サタンをあなたがたの足で踏み砕いてくださる。これは注目すべき約束である。神は、あなたがたの足でサタンをさばいてくださる。「すみやかに」というのは、「直ちに」とか「たちまち」或いは「すぐに」という意味である。「神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる」という言い方は、まず創世記3章15節を指していることはすぐにわかると思う。そこは福音の一番最初の約束が与えられたところである。パウロはその最初の福音の約束を引喩している。アダムとエバが罪を犯したあと、神は、サタンに対してさばきの言葉を宣告した。神がサタンをさばかれたとき、同時に神は人間に福音を約束された。創世記3章15節を見てほしい。

    わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

       サタンとその子孫は、歴史全体を通してエバとその子孫に対して戦うのである。この戦いは女の子孫にとって不可避な現実である。ここを読めば、悪い教師たちはサタンの子孫であるということがよくわかると思う。主イエス・キリストも同じことをマタイの福音書23章とヨハネの福音書8章44節のところで、はっきりとパリサイ人に対して言っている。パリサイ人たちはサタンの子孫であり、サタンに仕えている者であると、キリストは言う。「神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる」と言うとき、創世記3章15節のところでメサイアについて使われている言い方を、パウロはここで教会について言うのである。主イエス・キリストがサタンに対して勝利を得るのだ。そのことを神は、サタンをさばく言葉を通して御自分の民に約束してくださった。

       全世界の歴史は、二つのグループの霊的な戦いなのだ。「蛇の子孫と女の子孫」、即ちサタンの子孫とエバの子孫に対して預言的な約束が与えられている。パウロの時代になってもその戦いは続いている。その時代における蛇の子孫とは誰なのかというと、ユダヤ人のリーダーたちであり、ユダヤ教的なパリサイ的な自称クリスチャンたちもその中に含まれている。その人たちは主イエス・キリストとその福音に強く反対している。パウロたちはその人たちと戦って、モーセと預言者たちの流れに従って神の御言葉を絶対的な真理として教え広めている。その蛇の子孫とエバの子孫の戦いはパウロの時代にますます激しくなっていた。

       しかし、「神は、すみやかにさばきを成したもう」と言うとき、これは明らかに紀元七十年の話だということがわかる。事実、「すみやかに」さばきがなされるのだ。その時に、パリサイ人たちとユダヤ教全体がさばかれて、新しい契約の時代が始まるのである。主イエス・キリストは最後の説教においても預言しておられた。「この時代が終る前に、そのさばきが来る。その時、神殿は完全に破壊される」ということを主イエスは教えていた。マタイの福音書24章2節で主イエスは、「ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と、弟子たちに話しておられた。その言葉は新約聖書に記録され、多くの人々がそれを聞いて知っていた。だから主イエス・キリストが十字架につけられたとき、「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と言ってキリストをののしったのだ。

       「キリストが神殿をさばく」ということは、パウロの時代ではいつも語られ、教会の中でもよく教えられていた。そして、紀元七十年に神殿が破壊されたとき、「まことの福音はどこにあるのか」ということが明白なものとなった。つまり、旧約聖書の神殿制度とそれに伴う食べ物に関する律法が最終的に終ったことを、神は神殿破壊によって明確に示してくださったのである。それはちょうど旧約聖書の時代、神が紀元前605年、597年、そして587年の三回にわたってバビロンのネブカデネザル王によってエルサレムを攻撃させ、紀元前587年に神殿を完全に破壊したときに似ている。その時の事についてエゼキエルは、「神御自身がイスラエルを離婚させた」と説明している。そのように契約のさばきが行われたことについて旧約聖書は非常に長く取り扱い、エゼキエル書、エレミヤ書等にそのことが細かく記されている。

       それと同じように主イエス・キリストは、「神は、すみやかに、この神殿をさばきます」と宣言しておられた。それは今から2000年近くも前のことであった。実際にエルサレムの神殿は完全にさばかれて、今日に至っても再建されることがない。神殿はさばかれて、それで最終的に終ったのである。神殿制度は完全に廃止されたのだ。そういう意味で、厳密に言えばユダヤ教は今の時代にはもう存在していない。存在し得ないのである。祭司制度もなくなり、誰が真の祭司なのかもわからない。誰がアロンの家族なのかもわからない。神殿制度を保つことは不可能となった。過越の祭りを神が定めたとおりに行なうことはできない。過越の祭りを行なうなら、エルサレムの神殿の中でいけにえをささげなければだめなのだ。それは不可能となった。

       毎週の安息日も、今のユダヤ人たちは行なっていないし、行なうことができない。どこにも行かず、何の仕事もしないで、それぞれの集会所に集まったりはしても、それで旧約聖書が定める安息日を守ることにはならないのだ。神殿で、旧約聖書が定めたいけにえを神殿で、安息日の朝に、定められた方法でささげなければいけないのだ。夜もまたいけにえを神殿でささげなければならない。それは安息日の特別ないけにえなのだ。それをささげなければ、安息日を守ってはいないのである。そういう意味で、約2000年前に神殿が破壊されたときに、ユダヤ教も存在しなくなったのだ。

       そして、パリサイ人的な福音も完全に無意味なものになってしまったのである。それ故パウロは、「間もなく神はサタンをさばきます。イエス・キリストの福音に反対する者たちをさばきます。そして、真の救い主であるイエス・キリストは真の預言者であり、その語られた預言のすべてが完全に成就されるのです。その時、誰が本当に神の花嫁なのかが明らかにされるのです」と、ローマの聖徒たちに説明しているのである。パウロは他の手紙の中でもこのことを話して、パウロの時代の人々に、この事がどんなに大切なことなのかを教えている。

       ローマ人への手紙の最後のところでパウロは、エルサレムに対するさばきのことと創世記3章15節の預言を一緒にして説明し、「エルサレムに対するさばき、それはサタンに対する決定的な勝利のしるしの一つである」ことを教えた。確かに、十字架と復活において主イエス・キリストは既に決定的なさばきを行なったのである。キリストは十字架にかかって死んでくださり、葬られ、三日目に復活して四十日の間弟子たちに現われて教えられた。それから天に昇って、神の右に着座された。そこからエルサレムに対するさばきが行なわれる。このすべてが一連の勝利の出来事として考えられなければならない。そういう意味で、主イエスが生まれた時から紀元七十年までの七十年間を「イエス・キリストが最初に世に来られた期間」と考えることができると思う。

       主イエス・キリストはこの世に来て贖いの働きをしてくださった。その贖いの働きには、古い契約である神殿制度を完全に終らせて廃止することも含まれていたのだ。神殿に対するさばきは、そういう意味で、大きな時代の転換期としての意味を持つ出来事であったのだ。パウロはローマのクリスチャンたちの勝利が「すみやかに」もたらされると約束した。一世紀の歴史的文脈においてこの意味は極めて明白である。イエスは御自身の死後一世紀以内にエルサレムの崩壊が来ることを預言し、その時は近づいていた。「救われるためには割礼と律法への服従が必要である」と主張していた偽預言者や偽教師たちはその職を追われようとしていた。神殿の破壊は神殿礼拝制度に対して完全にそして公けに終止符を打つことになる。神の花嫁はパリサイ的なイスラエルではなく、教会であることが明らかにされようとしていた。パウロの福音は「キリストにあって律法は成就された」と語った。単に律法の様々な様式を廃棄したのではなく、キリストがその律法の意味を完全に成就したことによって廃止されたのである。福音の証明はすみやかに来ようとしていた。

       それにしても、「あなたがたの足でさばく」とパウロは言っているが、なぜそのような言い方をするのだろうか。パウロは、「本当に主イエス・キリストを信じている人々が主イエス・キリストの言葉に忠実に従うことがその戦いにおいて大切なことだ」と言っているのだ。ローマの教会は御言葉を守り、従順である証しを持っている。ローマの教会は善意に満ち、御言葉の知恵を持っているということも、パウロは前のところで話している。この教会は神の御言葉を熱心に守る者であった。つまり、エバの子孫がしっかりしている時にこそ、神は、悪をさばいて善に勝利を与えるのである。キリストの御言葉に忠実に留まる者たちの歩みによって、勝利をもたらすのである。それ故、「あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる」と言うのである。

       しかし、「ローマの教会は神に対して従順である」「ローマの教会は御言葉を守る者である」と言うとき、それはローマの教会が主イエス・キリストに従って十字架を負って歩むという意味なのである。ローマの教会の従順、その信仰、その神に対する忠実がどのように表わされたかというと、長い長い激しい迫害の中を耐え抜いて、その信仰を貫いて勝利をもたらしたのである。神はサタンに対して勝利を得るが、キリストがそうであったように、ローマの教会も同じように創世記3章にある約束のとおりに、自分たちも害を受けて勝利を得るのである。メサイアはかかとを咬まれ、サタンは頭を砕かれるのである。サタンを打ち負かし給う救い主はその身に傷を負われるが、サタンは致命的な傷をその頭に負うのである。サタンに対する審きは死であるが、メサイアは怪我を受けて勝利するのである。ローマの教会もそうなることをパウロは教えている。

       キリストがどのようにサタンに打ち勝ったかというと、死んでよみがえって勝利したのである。十字架の死によってキリストはサタンをさばいたのである。十字架がサタンのさばかれた場所なのだ。これは福音書の中で非常に強調されていることである。ヨハネの福音書12章31〜32節でキリストはこう言っている。

    今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

       十字架の上で、この世を支配する者がさばかれたのである(ヨハネの福音書16章11節)。だからローマの教会も「死んで勝利を得る」ということをパウロは話している。偽教師に対する教会の戦いはキリストの勝利の延長であり、またその適用である。これは途方もなく重大なことなのだ。もしサタンに対する私たちの戦いがキリストの戦いの延長線上にあり、もしキリストが既に勝利を収められたのであれば、私たちの勝利も等しく保障されるのである。教会は残敵を掃討する仕事をしているのであり、決定的な勝利が既に収められた後に細かい部分を取り扱っているに過ぎない。そして、その働きは豊かに実を結ぶものなのである。歴史的にキリストの御言葉に従うことは、教会にとって事を容易にしたわけではないことを私たちは知っている。迫害は続き、戦いは続いた。しかし、迫害に耐え、イエスの十字架の苦しみにあずかることがクリスチャンの勝利の道である。

       創世記3章にあることと、ローマ人への手紙8章に書いてあることを思い起こしてよく考えれば理解できると思う。いみじくも8章でパウロが熱く語っている。パウロは、「私たちは圧倒的な勝利者となる」と言っている。それは28節から始まる長い箇所であるが、読んでみたいと思う。28節でパウロはまず「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と説明し、すべての事が私たちにとって益であり、私たちの祝福となることを宣言している。そのことを説明したあと、パウロは義と認められることについて話し、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言っている。そして35節から39節でこう言うのである。

    私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

       「患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と、パウロは言っている。いろいろな言い方を使ってパウロは、その迫害されている状態を表わしている。そしてローマの教会は実際にこれらのことのすべてを経験することになるのである。そのような状態の中にいるとき、苦しいのは当然である。苦しいので、「どうか神さま。助けてください」と祈るのだが、私たちが望むような形では救いは来ない。十字架まで導かれて、十字架の上で死ななければならない。そのようなことが、キリストに従う私たちにも定められているということである。

       「死に定められている」とパウロは言う。「ほふられる羊とみなされた」とパウロは言う。これはキリストについて言われる言葉だが、神の教会についても言えることなのだ。「ローマの教会の足でサタンがさばかれる」という言い方には、ローマの教会はキリストと同じように、死んでよみがえらなければだめだという意味がある。死を通して勝利を得なければならない。そのような意味がパウロの言葉の中に込められている。ローマの教会は、忠実に神に従い、信仰を保ち、主イエス・キリストを熱心に求めて歩むとき、迫害されるようになる。紀元六十四年に、ネロ皇帝がローマに火を着けた後で、それをキリスト教徒たちのせいにしたところから、クリスチャンに対する迫害は激しいものになっていった。ローマの教会のクリスチャンたちは大きな患難の中にあって、飢え、裸、剣などの厳しい迫害を経験しなければならなかった。しかし、その迫害の苦しみの中にあっての忠実によってこそ、自分たちの信仰が本物であることを全世界に知らしめたのである。未だに彼らの証しは生きている。未だに、迫害の中にあった昔の教会を見て「これほどまでにはっきりした信仰を持っていたのか」と、人々は感嘆するのである。

       改革時代も同じであった。プロテスタントを迫害したローマン・カトリックのリーダーの手紙を何度か皆さんに読んであげたことがあるが、「プロテスタントの信者がこれほどの喜びを持って死んでいくのを周りの人たちが見て、この人たちの信仰こそ本物だと思わずにはおれないであろう。私たちは、この迫害を直ちにやめなければならない」と書き記している。主イエス・キリストのように、自分の十字架を負って最後まで従順に徹し、喜んで神に従う者たちの証しは、勝利の力である。勝利を得る方法は、そういう意味で極めて単純なものなのだ。それを難しく思うのは、私たちが罪人だからであり、事実苦しかったりするので、その苦しみから逃げようとするからである。

       私たちは、ヨハネの福音書15章のところで主イエス・キリストが約束してくださったことを覚えなければならない。即ち、私たちはキリストの御言葉のうちに留まり、それを守り行なうことによって実を結ぶようになるのだ。その約束を信じて、善を行なうことにおいて知恵をもって、純粋な心をもって神に従えば、必ず実を結ぶことになるのである。サタンに対して勝利を得ることについて、パウロはそのようにローマの教会に励ましの言葉を与えている。ローマの教会は本当に忠実であった。それによってキリストの教会は、知られていた帝国の中で最大・最強の帝国に対して勝利を収めたのである。私たちも忠実であるなら、私たちの戦いにおいて勝利を収めるであろう。私たちが住んでいるこの日本の国とアジア全体の救いを私たちは求めているが、キリストの教会が神の御言葉に従順で忠実であるならば、この国がいつの日か主イエス・キリストを告白する時が来ることを私たちは信じている。

       その純粋で従順な心に戻るために、神は私たちに聖餐式を与えてくださった。毎週の聖餐式において私たちは、主イエス・キリストの十字架を覚え、その御恵みを覚え、「私は私の主イエス・キリストを信じます。主に従います」ということを聖餐式を受けることによって告白するものである。聖餐式を受ける私たちは、「主イエス・キリストが十字架上で死んでくださったように、私も、自分のいのちを主にささげます」という告白をしているのである。パンとぶどう酒を受けるとき、「主よ。私はあなたのものです」と、神に対して告白しているのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2002年8月18日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙16章17〜20節(1)

    ローマ人への手紙16章21〜27節

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